FPⅡ 四
興奮しているのが手に取るようにわかる。胸のどきどきがどうしても止まらなかった。
クリスタルは、軽い身のこなしで作業用踏み台からコックピットに乗り移った。キャノピィが閉じる前、クルスがゴーグルを放ってよこす。笑っていた。キャノピィがしまる。コックピットの狭さが、クリスタルにとってはとても心地よかった。
ふと、イグニッションスイッチに手をかけようとするとメモ用紙が貼り付けされていた。見慣れたクルスの殴り書きで、管制塔へのチューニングナンバーと登録機体ナンバーが書いてあった。クリスタルは、チューナーをメモどおりにあわせ、通信機のスイッチを入れる。
「こちらAY2983機体、コードネーム、クリスタル。こちらクリスタル。管制塔、無線確認を願う。繰り返す。こちらクリスタル。無線確認を願う。どうぞ」
一拍おいて、聞きなれたノイズ。
『こちら管制塔。クリスタル、無線問題ありません』
管制塔員はどうやら女性らしかった。線の細い声が、ノイズに混じってやんわりとクリスタルに伝える。
「管制塔、滑走路の指示を願う」
『こちら管制塔。二番滑走路グリーン。二番滑走路の使用を許可します』
「了解、管制塔」
クリスタルはいったん通信を切り、指をこきこきと鳴らした。真剣な表情で、スイッチを一つ一つ慎重に入れていく。
「キャノピィ閉鎖確認。イグニッション確認。スロットルグリーン」
声だし確認をしながら、だんだんとスイッチが入っていくにつれ、クリスタルの機体に命が吹き込まれる。もうすぐ、飛べる。
「高度計グリーン。GPSグリーン。燃料満タン。イグニッション作動」
最後にエンジンをかけると、機体が寝起きのようにブルブルと身体を震わせた。
クリスタルが顔を上げると、外にはまだクルスがいた。申し訳程度に手を振っている。微笑ましい。
クリスタルは、クルスのほかにカサブランカとハロウィンの姿も探した。だが、二人の姿はすでに何処にもない。興味が失せたのだろうか。立っていた場所には痕跡も無かった。ため息を一つ吐きそうになって飲み込み、クリスタルは今の状況に集中した。
操縦桿を握って、ペダルを少しずつ踏み込むと、何日も乗っていなかった機体は、事も意外にすんなりと動き出す。
そのまま、操縦桿を横に倒して指示された滑走路へ向かう。
クルスはつくづくいい奴だ、とクリスタルは実感した。殴り書きのメモは二枚あり、もう一枚は、滑走路の地図になっていた。
それに倣って、クリスタルは滑走路までの道をゆっくりと進んだ。
「こちらクリスタル。滑走路障害物無し。別飛行待機機体無し。オールグリーン。管制塔、離陸の許可を願う」
『こちら管制塔。了解クリスタル。離陸を許可します』
「クリスタル機、テイクオフ」
いつもどうりの台詞を機械的に吐いて、クリスタルはスロットルを引いてエンジンを本格始動した。機体がさらに揺れてぐんぐんスピードを上げる。
『こちら管制塔。それでは久々のフライトをどうぞお楽しみ下さい』
まるで、飛行機の乗務員か何かのように、管制塔員は嘯いて、通信を入れた。遊んでいるのか、はたまたこれがこの基地の常なのか、どちらにしても趣味のいい冗談だ。
『グッドラック、クリスタル』
クリスタルの機体が、地上から脚を離した。鳥が、飛び立った。
『こちら管制塔、こちら管制塔。クリスタル、応答せよ』
「こちらクリスタル。管制塔どうぞ」
『クルスさんに感謝しなきゃね、クリスタル。あの人、日も昇らないうちから貴方の機体のプレパーションしてたのよ』
ノイズの混じった通信から、フフフ、と上品に笑う女性の声。普段なら、管制塔からの通信なんて、答えはしない。でも今日は、何故だろうか答えたいとクリスタルは思った。
「…知っている。いつも感謝している」
結局、気の利いた答えを思いつかなかったものだから、クリスタルの声は硬くなってしまった。でも、いい答えが返せたと思う。クルスに対してだけは、感謝しているのが、本当のことだから。
『クリスタル。フライトは陸の上だけにして頂戴ね。海上は中立戦闘地帯だから、攻撃されても文句は言えないから』
「了解、管制塔」
『それじゃ、邪魔しちゃ悪いだろうからもう通信は切るわね。降りる時と、万が一何かあった時は、通信を入れて頂戴』
「了解、管制塔。通信を終了する」
その通信を最後に機内は静まり返った。
やっと自由になれた、とクリスタルは安堵する。
部屋より、風呂より、ベッドより、トイレより。ここは孤独になれるし心のそこから落ち着ける。
久しぶりの飛行の感触を味わいながらクリスタルはスパイラルした。何日かぶりのフライトだから、酔うかと思ったが、全然そんなことは無かった。むしろ、爽快だ。
操縦桿を握りなおし、大きく左に倒した。左に急旋回し、そのまま立て続けにスパイラル。そして、急上昇、急降下。
不器用なクリスタルは、感情やストレスを外に逃がすことが出来ない。その代わり、こうやって表現するのだ。
実際の時間にしたのならわずかだっただろう。だが、クリスタルは長い時間、無理矢理なアクロバットを無言で楽しんだ。
と、微かに何処からか別の機体のエンジン音がしたような気がした。クリスタルは、GPSで自分の位置を横目に見た後、レーダーに眼を移した。
二機、後ろに付かれている。
そのうちの一機が、クリスタルの横すれすれに姿を現した。
――眼に痛いショックピンクの機体。カサブランカだ。
通信機のランプが、死に際の蛍のように、掠れ掠れ点滅した。きっとカサブランカからだろう。クリスタルは切ってあった通信機のスイッチを慣れた手つきで上げた。ノイズ交じりに冷静な声が聞こえてくる。
『――こちらカサブランカ。こちらカサブランカ。クリスタル、応答を願う』
予想したとおり、その冷静な声はカサブランカだった。
「こちらクリスタル。カサブランカどうぞ」
クリスタルは、当たり障りの無い口調で、何の情報も乗せずに会話の権利をカサブランカに譲った。カサブランカにはそれが判ったのだろうか。やれやれという、呆れたような、それでいて楽しんでいるようにも取れるため息を漏らしながら、反抗もせずバトンを受け取る。
『なかなかのアクロバットだな。もっと、大人しく飛ぶのかと思ってたぜ』
クリスタルは返答に困った。どういった飛び方が大人しい飛び方なのか知らなかったせいだ。沈黙するクリスタルに、それを察したのか、カサブランカは続けた。
『どういう飛び方が大人しいか判らないってか? じゃぁ、やっぱりお前が天才って言うのは本当かもな』
「何故?」
『マニュアルどおりに飛ぶつもりははなから無いってことさ。それすら失念してる。マニュアルどおりになんか飛んだら、すぐに落とされるっていう事実を飛ぶ前から感じとってるのさ、お前は』
「褒めても何もでない」
『お、そういう人間味あふれた冗談も言えるんだな。ハハ、ちっとも【マシン】じゃない。【キラー】はどうか知らないがね』
茶化してカサブランカはクリスタルから離れていった。途中、ショックピンクの中型機は、ぐるりと回転し背面飛行をする。そしてそのまま雲の群集に消えた。
気になるのは、レーダーの同じ位置から動かない、もう一つの戦闘機。真後ろに付かれて、視界では確認できない。
ずっと同じ距離を保って付いてくる。スパイラルしても、急上昇しても、急降下しても離れなかった。気味が悪い。
しばらく無言のバトルを続けた後、その戦闘機の正体が明らかになった。
クリスタルがただ直線を飛んでいると、その戦闘機は夜明けのダークブルーの腹をくぐって、クリスタルの目の前に姿を現した。
真っ黒な機体に、【You shall die.】のマーキング。
(夢に出てきた戦闘機だ!)
クリスタルはその姿を見て、はっと夢を思い出した。起きたときは忘れていたのに、何故今になって鮮明に思い出すのだろう。あんな縁起の悪い夢を。
クリスタルは無意識のうちに構えた。今このポジションから撃てば、確実に撃墜できる。
トリガーに指がかかったその瞬間。
『クリスタル、応答せよ』
突然通信が入った。聞いたことの無い、落ち着いたハスキーヴォイスだった。
「……」
警戒して、クリスタルが答えないで居ると、通信機の向こうで微かな笑い。
『警戒してるな? 誰だかわからないから?』
「……」
図星を指されてはますます答えるわけにはいかなかった。得体の知れない恐怖が、体中を駆け巡った。
死神が、目の前に居る。
『まぁ、いいさ。そろそろ降りなきゃだしな。降りたら判るさ、残念ながら』
含むように笑って、通信機の落ち着いたハスキーヴォイスが――おそらくはあの黒い戦闘機なのだろう、黒い戦闘機が、くるっと翻して宙返りをしてクリスタルの真上を背面飛行する。すばらしい技術だ。中型機でそんな芸当が出来るパイロットなどはじめて見た、とクリスタルは素直に驚いた。
自分にはない技術にクリスタルがしばしば見とれていると、通信機からはまた別の声。
『こちら管制塔。クリスタル、応答せよ』
クリスタルは少し迷った後、管制塔からの通信に返事をする。
「こちらクリスタル。管制塔どうぞ」
『サブタンクは積んでいないからそろそろ燃料の限界のはずよ。降りたくない気持ちはわかるけど、そろそろ降りてらっしゃい』
あやすように言われて、クリスタルは顔をしかめた。自分は子供じゃない、と。
「了解、管制塔。直ちに帰還する」
真っ黒な戦闘機が、名残惜しそうにクリスタルから離れていった。




