FPⅡ 三
カーテンの隙間から忍び込んだ光が、クリスタルの頬を撫でた。
久しぶりに、心地良い眠りに出会えた気がする。何の夢を見たかは覚えてないが、清々しい気分だ。
クリスタルは欠伸を一つ噛み殺して、ベッドから起き上がった。そして、何気なく、時計に眼をやった。
午前十一時。大変だ、寝過ごしてしまった。
慌ててジャケットに袖を通した後、クリスタルははたとその事実に気が付いた。そういえば、ここは前の基地と違って周回担当日はフレックスタイム制だっけ。
気が付いた後は、全ての動きが緩慢になった。備え付けのユニットバスで顔を洗い、ほとんど目立たない薄さの髭を剃る。。
部屋に戻った後は、小さな冷蔵庫からミネラルウォータを取り出して、コップに注ぎ込む。その動作の途中、クリスタルは急に新聞が読みたくなった。ここでは新聞は取れるのだろうか。後で誰かに聞いてみよう。
クリスタルは、コップに注がれた雫を飲み干す前に、いつものように、その不思議な世界を覗き込む。
光の錯覚により湾曲したその世界は、クリスタルの心を如実に映し出してくれる。迷いも、怒りも、悲しみも、その心に在るならば何でも。
神にすがるように何かをその世界に願って、クリスタルは雫を飲み干した。
ひんやりとした液体が嚥下されるたび、クリスタルの上がりすぎた体温を逃がしてくれる。この地上での、数少ない救いだ。
しばらくそうしてぼんやりしていると、控えめに室のドアがノックされる。
「イナガミ、起きてるか?」
伺うように言ったその声は、クルスのものだった。クリスタルは手でもてあそんでいたコップをデスクの上に置くとチェーンをはずし、ドアを開けた。
「何?」
いつもどうり無表情なクリスタルを確認して、クルスは眉を寄せた。
「大丈夫か?」
その気遣いの意味がわからなくて、クリスタルも同じように眉を寄せた。
「何が?」
「七時ごろに一回来たんだけど、返事無かったし」
「そう。気が付かなかったな。寝てただけだけど?」
そう言うと、クリスタルは再び欠伸を噛み殺した。クルスはその仕草の中に何かを見出したいのか、逐一観察する。
「だから、何の用? この基地はフレックスタイム制なんだろ?」
「そうだけど…。お前、顔色悪いぞ」
どうやらクルスはそれが言いたかったらしい。たれ気味の目じりをもっと下げて、心配そうな表情を作り、クリスタルの顔を伺った。
「顔色悪い? 気分は上々だけど」
「嘘だと思うなら一度鏡見てみろ。っていうか見て来い」
「さっき顔洗ったときに見たよ。いつもと同じだ」
「いや、絶対顔色悪い」
クリスタルはこれ以上不毛な言い争いをしても無駄だと考え、深くため息を吐いている間に、次の台詞を探した。運良くか、ため息を吐き終わる前に、言い訳が見つかった。
「低血圧なんだ。そのうちいつもの顔色に戻るよ」
「本当か?」
「本当だって。煩いな」
いかにも迷惑そうな顔をクリスタルがしたからなのだろうか。クルスはそれ以上言及しなかった。同じようにため息を吐かれたけども、この話題は終わりにしてくれるらしい。いつもの少し困ったような顔に戻った。
「で、何の用なのさ」
さっさと終わらせてほしいクリスタルは、うんざりとした様子で言う。クルスはその迫力に肩を竦ませて似合わない上目遣いをした
「さっき、ハギモト指令に遭ってきたよ」
「そう」
「朝早くから格納庫に居ても大丈夫か、ってお伺い立てたら、大笑いされた」
恥ずかしそうに頬を掻くクルスの様子に、クリスタルはただ首を傾げて次の台詞を待つ。
「メカニックが格納庫に居ちゃいけない理由が何かあるのか、って言われちゃったよ」
「まぁ、そうだろうね」
クリスタルは無表情で相槌を打つ。大した内容の会話じゃない。聴いても無駄かも知れないが、クルス相手だとなんとなく大人しく聞いてしまう。
「あと、緊急のときは放送するから基地では自由だって。ハギモト指令が言ってた。外出はなるだけ5時以降にしてほしいけど、どうしてもの時は一言声掛けろってさ。テストフライトは管制塔の許可もらえばわざわざ伺い立てなくてもいいって」
なんか昨日渡し忘れたみたい、とクルスがクリスタルによこすのは、膨大な数の書類。
「どうせ変に気取ってお堅い小馬鹿なことしか書いてないから、全部読まなくていいって」
「ふーん…」
まるきり興味が無いように適当に頷いて、クリスタルは書類を受けとり、デスクの上へ運ぶ。
クルスはと言うと、その仕草を反射的に眼で追いながら、別の話題に移ろうとしていた。
「でさ、お前誘いに来たんだよ」
「何処に?」
デスクの上のコップを肘で器用にどかしながらクリスタルはクルスに問う。
「にさ。お前の彼女がやっとのことでご到着」
クルスが愛嬌のあるウインクをした。クリスタルはそれを眼の端に移しながら、目を細めた珍しくかわいげのある笑みを見せた。
昨日忍び込んだ格納庫は、一番格納庫だったらしい。クルスの話では、クリスタルの愛機が格納されているのは四番格納庫らしい。
「こんなところにも」
それは何気ない呟きのつもりだった。
クルスはクリスタルの呟きに頭を廻らして花壇を見やる。
「あぁ、あの花な。他の職員に聞いたら、マンジュシャゲっていう花らしいよ」
「マンジュシャゲ…?」
クリスタルが首を傾げる。どこかで聞いた名だ。
「別名、ヒガンバナ。日本じゃ彼岸に咲くからヒガンバナだってよ」
「ヒガンバナ…」
その花が何故こんなに沢山。
「何でも、パイロットの一人が物好きで育ててるらしい。そういえば、あそこパイロット宿舎なんだろう? 誰か遭った?」
「いや…」
「そっか」
いつも、いともたやすく二人の間には沈黙が訪れる。だけど、心地悪い沈黙でないことだけは確かだ。熱を冷ます冷水と同じように、数少ない地上での救い。
そうこうしているうちに、二人は目的地についてしまう。四番格納庫だ。隔壁が開け放たれている。そしてその中に、見慣れたシルエット。
「いつ見ても綺麗だよ、お前」
無表情の中によぎる歓喜。クリスタルは小さく誰にとも無く言うとウキウキとその戦闘機に駆け寄った。
夜明けのダークブルーのボディは磨き上げられ、艶やかな娼婦のようにクリスタルを誘う。それでいながら何も口聞かず、ただ淑やかに佇んでいる様子がなんともたまらない。クリスタルにとってはこの世で最高の女だ。
滑らかな腹をその指でなぞれば、苛々が解消される。禁断の麻薬。神から与えられた唯一無二のエクスタシィ。
戻ってきた。
「ほーぉ、これが君の戦闘機か」
「飼い主に似て地味な色だな」
フン、と鼻で笑う声。その方向を向いてみると、案の定、二人は立っていた。
「おはよぉさん、ユウ」
「遅い起床だな、ボウヤ」
隔壁のちょうど下、外と内の境目に立った二人の表情は、逆光に包まれて確認できなかった。
クリスタルは返事をせずにただその方向を見つめた。いや、睨んだ。
「そー睨むなよ。怖いじゃんか」
エヘヘ、とだらしなく笑うのは大男、ハロウィン。
「それとも睨んでるんじゃなくて眼が悪いから細めてるのか? 眼が悪いパイロットなんて致命的だな」
くつくつと喉を引くつかせて笑うのは、無感情な男、カサブランカ。
クリスタルが何も言わないで立っていると、ハロウィンもカサブランカも、許可もなしに近づいてくる。右手がピクリと動いた。戦闘機に乗っているなら、とうの昔に撃ち落している。地上なのが、少々残念。
「わざわざ陸路で運んで来たんだろ、それ。どうせ飛んだらばれるのにな。飛ぶのはしばらくぶりなんじゃないか?」
ハロウィンが眉の片端を上げた。
「何故知っている?」
緊張したおもむきで、クリスタルはハロウィンの顔色を伺った。陸路で運ばれたのはぎりぎりまで存在が周知されないようにとの配慮が理由。だがそれはいくら先輩とはいえ一介のパイロットが知っていていい話ではない。一応、機密だ。
なぜかハロウィンを前にすると緊張するし警戒したくなる。普段の自分からは、考えられない。そう、どこか心の片隅で思いながらやはりクリスタルは身構えていた。
それを知ってか知らないでかカサブランカが気取ったポーズでクリスタルを指差す。
「センパイである俺たちに感謝しな」
「何を」
「そろそろ飛びたいだろうとおもって、取ってきておいてやったぜ」
カサブランカの言っている意味がわからない。クリスタルは困惑しながら必死にそのニヤついた顔から情報を探ろうとした。
そして。次の瞬間に、全てを理解した。
「管制塔からのフライト許可だ」
驚きと、喜びと、少しの感謝がクリスタルの中を満たした。




