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【03】 AM9:50

 その爆発物らしきものは、千住大橋の西側にある橋戸稲荷神社の裏手近くにあった。

 そこに着くまではマンションが立ち並ぶ現代的な街だったのに、取り残されたように、そこだけ昔っぽい、雑然とした家屋が並んでいる。

 そして10mほどの高さの堤防。

 「えっ、これが堤防?」

 堤防と言うより壁だ。ほぼ垂直に立っている。

 堤防ではなく刑務所とかの高い壁のように見える。

 3階立ての建物ほどの高さの、いかにも慌てて高くした的な、無骨なコンクリート剥き出しのその壁が続き、夏の強烈な日差しの中、短い影を落としている。


 地球温暖化については1980年代末頃から深刻な議論が交わされ始めたが、温暖化の主な要因が人為的なモノ、つまりは産業革命以降、温室効果ガスが大量に排出されるようになったことだと大筋で認められたのは21世紀に入ってからだ。欧州各国の主導の下、2009年に、京都議定書が定められた。菜穗子が4歳の時の話だ。

 しかし、世界最大の温室効果ガスの排出国であるアメリカは批准せず、発展途上だった中国やインドでもその後、大量の温室効果ガスを排出するようになり、議長国だった日本ですら、その2年後に起きた東日本大震災による原発事故でCO2削減など全く進まなく、実質『野放し』の状態になった。

 その空白の10年間に、目に見えない形で状況は悪化、そして2021年、予想を遙かに超えた急激な温暖化が進行中であることがIPPC(気候変動に関する政府間パネル)で報告された。その前々年(2019年)の時点で、20世紀初頭に比べ、地球の平均気温が明確に1℃以上、上昇し、その急上昇のカーブで行けば、京都議定書時点では21世紀末に上がると思われていた+2℃もおそらく2年後の、2023年には起こり、2027年には+3℃になるという報告だ。

 そしてこれまた予想外の海水面の急上昇。

 温暖化により、世界全体の気候は激変するが、単純に海の水が増え、海水面が急に上昇するとまでは思われていなかった。が、気候の激変とともに、陸上の氷河や氷床が溶け、2026年までの5年間で海水面は4m上昇した。

 2022年のマレ議定書(マレは今や全国土が海水面以下になってしまい、亡国の危機にあるモルディブの首都だ)で、温室効果ガスの本格的な規制が始まった結果か、とりあえず陸上からすぐに溶け出す分が一段落したからなのか、その後の海水面上昇のペースは弱まり、2030年の今現在、海水面は+5mの水準で落ち着き始めている。


 温暖化の要因については、さまざまな説があり、3℃も気温が上がってしまった今現在、2030年になっても、温暖化ガスによる人為的な原因を否定する人たちがいるし、京都議定書が定められた20年前にはもっと多かったと菜穗子は聞いている。

 確かに、菜穗子が大学で気象学の研究室にいた時に、コンピュータでのシミュレーションを何度も行ったが、長期的な気象の予測は非常に難しく、さらにそれが世界の天候に具体的にどう影響するかはモデルの作り方で全く違い、さらにいえば同じモデルでも、初期値のちょっとした違いで全然結果が変わってしまう、やっかいなモノだった。


 しかし、いかにも急造されたような、コンクリート剥き出しのその壁を見ていると、「こうなる前にもっと出来ることがあったんじゃないの」と菜穗子は思う。不確かな部分は残っていたかもしれないが、蓋然性が高いと思われていた予想に対して、結局、10年以上、ほったらかしにした結果がこの急造の壁だ。経済への悪影響とか、各国間の思惑の違いとかで、問題を先送りにしたあげく、想定以上に悪い結末(今現在が結末かどうかすら分からない。この先、もっと悪化することも大いにあり得る)を招いた。その罰として、人類は刑務所のような壁の中に閉じ込められたようにすら、菜穗子には思えた。


 その刑務所の壁のような堤防を前に、そんな事を考えていたら暗い気持ちになってきた。菜穗子は自分の気持ちを切り替えるように、誰とはなしに訊ねる。

 「隅田川の堤防って言うから、もっと裾が広がっていて、芝生とかが植えられていて、上に遊歩道なんかがあって、長髪の教師が中学生と遊んでいるようなイメージだったんですけど」

 「それ、荒川の堤防ね」

 ユカリがちょっとあきれて答える。

 「それにそれ、いつのドラマよ。坂本さん、何歳?」

 「でも、この向こう側が荒川区なんですよね」

 「悪い。その話は後にして」

 ユカリは菜穗子との話を中断して、現場の警察官や野澤たちの会話に加わる。

 そうだ、それどころじゃなかったんだ。

 『爆発物らしきもの』は、堤防沿いの道の脇に、堤防に接して置かれていた。幅3m高さ2mほどもある。

 思ったよりかなり大きい。衛星写真に写るはずだ。

 さも建設資材を置いているかのようにブルーシートが掛けられている。

 「建設関連の申請や、この場所の使用申請は出ていないようですね」

 小仲が報告する。

 「これっていつくらいから写ってる? 昨日は無くて、今朝、唐突に?」

 野澤がタンマツでアーニャと話しているようだ。

 「付近の防犯カメラの映像はどうですか?」

 大谷が現地の警官に訊く。

 「まだ確認中ですが、どうやら昨夜、作られたようです。犯行グループらしき複数の人間が、工事を装って作業している映像が残っているようです」

 「昨夜ですか・・・野澤さん、どう思われます?」

 大谷が野澤に話を振る。

 「これについては高井が判断を下すだろうけど・・・まあ、ダミーでしょ」

 「置き方が分かりやす過ぎますもんね。カモフラージュもたいしたことないし」

 野澤たちはなにやら話し込む。

 南田は、さっきの怒りからか、その輪に加わっていない。菜穗子も蚊帳の外なので、さっきユカリに答えてもらえなかった質問を改めて南田にする。

 「この向こう側が荒川区なんですよね」

 ようやく怒りが収まったのか、菜穗子のバカっぽい質問が可笑しかったからか、南田はそれまでの爽やかっぽい表情に戻った。

 「荒川区には、今で言う『荒川』は流れてないし、接してもいません。坂本さんが思い描いている『荒川』って、元は『荒川放水路』で、つまりは人工の川なわけです。大正から昭和に掛けて17年間もかかった巨大プロジェクトで開削したのが、今の『荒川』。ここまでは良いかな?」

 話しながら南田の機嫌が良くなって行く。

 「『荒川放水路』が出来て、そっちが『荒川』本流って認識されるようになるまでは、今、『隅田川』って言ってる、この堤防の向こうにある川の方が本流で、そこの千住大橋の上流、つまりこの辺りから上流を『荒川』、下流を『隅田川』って言っていた。つまり荒川区が成立した時には、ちゃんと荒川に面してたわけです。さらに言えば」

 南田さん、確か国土交通省の出身だったっけ。河川については一家言あるのかな。

 「今の『荒川』は、つまりは掘って作った川だから、その時に出た土砂も含めて計画的に立派な堤防も出来たんだけど、逆に今の『隅田川』は、どんなに大雨が降っても、上流の岩淵水門を締めれば、水は荒川の方に流れるから、たいした堤防は必要なかったんだよ」

 「温暖化が進んで、海抜が上がっちゃうまではね。海の方には水門は無いから、逆に堤防が薄くて低かった隅田川の方がリスクが高くなったという事よ」

 野澤たちとの話が一段落したのか、脇からユカリが登場して、嫌がらせのように話のオチを付けた。

 また南田の機嫌が悪くなり始める。

 話を逸らさなきゃ。

 「仕掛けられる爆発物ってかなり大きいんですね。ここにあるのはダミーだとしても、つまりホンモノもこのくらいの大きさがある、って言うことですか?」

 「荒川の堤防に比べて薄いって言ったって、鉄筋コンクリでそれなりの水圧に耐えられるように出来てるから、ちょっとやそっと、表面で爆発させたって壊れないよ。爆発物を置くだけじゃ無くて、あらかじめ堤防に穴を開けてそこに爆発物を詰め込んだり、最後に爆発物全体を鉄板で覆って、爆発時の圧力を堤防側に集中させるとかしなければ壊れない」

 南田は堤防に誇りを持っている?

 じゃあ、爆発物が見つかっても解体したりするの大変じゃないですか、と、菜穗子がさらに質問しようと思った時、タイヤを鳴らす勢いで、パトカーが何台も到着した。

 中から強面(こわもて)の男が飛び出して来る。

 そして警官たちと話している野澤のポロシャツの襟を掴まんばかりの形相で喰ってかかった。

 「なんで貴様が先にいるんだ」

 「さっき電話したじゃん。見に行くよって。オレたちの方が近かったから早く着いただけだよ。そっちは日光街道を渡るのに時間かかったんじゃない? 避難する住民でゴッタがえしてるだろうし」

 図星だったらしく強面が歪む。それでも喰ってかかるから、この人もずいぶんな人だ。

 「見てるだけだって言ったよな。何で警官と話してるんだ」

 「アンタらが来るまでの単なる時間つぶしだよ。まあ、後は存分にやってよ。オレたちはホント、見てるだけだから」

 「まさか衛星写真の件で恩を売ったとか思ってないだろうな」

 どうやらこの喰ってかかっている強面の男が一班の班長、高井らしい。

 「アンタ、恩に着るタマじゃ無いでしょ。じゃ、圏外からもうちょこっと見てから、持ち場に戻るから、気にしないで始めてよ。それじゃ3班はこっちに集合!」

 現場の警官たちが二人のやりとりを呆れて見ていた。


 集合した3班を前に、野澤は、

 「大谷と小仲はオレたちの持ち場の方のエリアに先行。この資材置き場っぽいカモフラージュを見ると、建設許可が出ている方もやっぱり怪しいから、そっちのリストも調べるように現場の人に伝えてくれ」

 大谷と小仲が去ろうとすると、

 「あ、それと、すぐにオレたちも追っかけるから、タクシー、じゃないや、パトカーを2台置いてってね。で、オレと榊原、南田と坂本、森保と本田さんの6人は、もうちょっとこの現場を見ておきましょう。雰囲気を掴むのにちょうどイイところも見つけたし」

 やっぱりパトカーはタクシーに乗るくらいの気分だったのか!

 大谷たちと分かれて少し上流の、北東側に移動すると、鉄骨で組まれた、幅の凄く狭い橋が、堤防を遙かに越えた高いところに架かっている。

 金網で囲われた入り口には「日本電力機構専用橋」と書かれている。

 「千住大橋からも見れるんだけど、あっちは避難する人優先だから。その点、この橋は普通の人が通行するには危なくて、避難経路としては使われないからオレたちが使いたい放題なわけだ。それでも避難命令が出たら、念のため出入り口の鍵は開けられるハズ」

 と、金網のドアに手を掛けると、目論見通りドアが開き、野澤が一同を振り返ってニヤッと笑って手招きする。

 「じゃ、昇るよ」

 南田は明らかに昇りたくないオーラを出しているが、菜穗子としてはヘリに乗るよりマシだし、新入りは何事も見ておかなきゃ、と思い直し、野澤に続いて昇ってゆくユカリの後にひっついて、狭くて急で窮屈な鉄板の階段を昇る。それにしても電気を流すための橋に昇って感電とかしないのかな?

 橋の上は、幅は1mほどしかなく、一応、手すりらしきモノがあるにはあるが、高さ(5階建ての建物くらいの高さ)と剥き出され感が相まって、高いところが苦手な菜穗子は、

 「私も昨日までは普通の人扱いだったのに、何の因果でこんな高いところに」

 と小声で嘆く。

 風が無いのが救いだったが、夏の強烈な日差しが鉄製の手すりを焼いて、熱くて長く持てない。

 「反対側には何も設置されてませんね」

 ビビる菜穗子を尻目に、ユカリが一同に指摘する。

 カッコイイのに、こういう所でもしっかりしてるなんてユカリさん反則!

 「両側に爆発物を仕掛ける意味はないよ」

 最後に昇ってきた南田がちょっとイヤミっぽく返す。もうこの二人、仲、悪過ぎ。

 「オレが皆に見て欲しかったのはそこじゃなくて、この堤防の感じなんだよね」

 「なるほど、きちんと整備されているところと、そうじゃない所と、かなり差がありますね」

 ユカリが野澤の意図を汲む。

 確かに、爆発物(のダミー?)らしきものが仕掛けられている場所は、高さこそ他の部分と揃っているが、連絡橋のある辺りからその上流にかけての堤防と、厚さや堤防の内側の構造がまるで違う。

 爆発物らしきものがある方は、びっくりするくらい厚みがなく、堤防と言うより本当に壁のようだ。

 水に浸かっているより上の、5mくらいは特に薄い。

 というか地表は水面よりマイナス4mくらいだ。温暖化で5m、海水面が上がっているから、もともと標高は1mくらいしかなかったんだろう。

 「堤防って、あんなに低くて薄くて大丈夫なんですか?」

 菜穗子は思わず声を出して訊いてしまう。

 「今日は満潮が9時前、干潮が14時過ぎだから、今はちょうど海抜面くらいの高さかな。最も水位が上がるのが、満潮時に台風が来て、低気圧で高潮が起きる時で、その時でも、最悪、今プラス4mくらい。だから計算上はあと1m余裕がある」

 森保らしき白衣の人物が淡々と話し出す。

 この人が喋るの始めて聞いた!ちょっと甲高いのね。

 「よって今以上に温暖化が進んで海水面が上がらなければ、高さの面だけは合格。もちろん強度は足りてないだろうけど、急激に海水面が上がりだしたのはここ10年のことだし、急いでつけ足したにしては、『気休め』よりちょっと上のレベルって感じかな」

 と、突然、菜穗子の方を見て、

 「ここは東京湾からは結構遠いから、そこまで高潮の影響とか受けないと思う。正確に計算して欲しい?」

 いえいえ、欲しくありません。

 「森保、見て欲しかったのは、堤防の高さの問題じゃなくて、堤防の内側の構造。というか構造がほとんど無いこと」

 やっぱりこの人が森保さんなのね。遅ればせながら自己紹介した方がいいのかな?

 「所々にパイルを立てて強度を出してはいますが、わざわざ爆発物しかけなくても、ちょっと大きい地震で崩壊しそうですね」

 淡々と不謹慎なことを言う。

 「ということで犯行グループに狙われるとすれば、こういう薄い箇所の可能性が高いというわけだ。ここ以外にもこういう堤防の薄い場所が何カ所も残っているから、本田さん、そういう前提で腹積もってください」

 「想像通り、状況悪いね。森保君、これって堤防にバインドできるの?」

 「ほぼできないですね。想定通り、堤防沿いに新たなパイルを立てる必要があります」

 「その準備は?」と野澤。

 「準備もしてるし、訓練もさせてる」

 「さすが本田さん、抜かりは更々ないってことですね」

 森保が敬服している。

 何を話しているのか分からない。パイルとは柱のことだから、あの薄い堤防を支えるために所々に立ててある柱のことを指しているんだろう。しかし『バインド』?何をするって言うんだろう。

 一同がそういった話をしていたが、イケメン風の南田は、野澤たちの会話に興味が無いのか、もしくは聞かなかったことにしたいのか、

 「もう見るべきものは見たんですか?じゃあ、僕は下にいます」

 と橋から降りて行った。

 すれ違う幅も満足に無い橋なので、最後に昇った順から降りてゆく。菜穗子も降りかけた時、避難住民でゴッタがえす千住大橋を見ていた野澤が榊原ユカリに話しかける。

 「ユカリ、荒川区側の避難状況は?」

 「隅田川から500m以内に避難命令が出てる。その辺、室長も抜かりないから安心して」

 えっ、今、野澤さん、『ユカリ』って下の名前で呼ばなかった?

 菜穗子はギクッとして足が止まってしまう。

 二人だけの時は、下の名前で呼んでいる?ユカリさんもタメグチ?

 菜穗子が降りかけの階段で固まってる姿を見て、榊原ユカリがシレッとからかう。

 「ホントに高いところ苦手なんだ」

 二人の会話を菜穗子に聞かれてたことに確実に気づいているハズなのにユカリは全く動じてない。とは言っても『二人はお付き合いされてるんですか』などとは聞けないし、そんな状況でも無い。

 「なるべく下を見ないようにして階段降ります」

 と誤魔化すが、そこから話を聞いた野澤に、

 「下、見なかったら階段踏み外しちゃうぞ」

 と、余りに道理なツッコミを入れられ、固まってたのはあんたたちのせい!と心の中だけでツッコミ返す菜穗子だった。

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