5 マルネ十一歳、アスガル十歳の冬。
エルゼリンデがアスガルのもとにやってき来たのは、彼が義務学校の三年生になってから迎えた、ある冬の日のこと。
ちらほらと雪が降り始めた街の中、わざわざ学校が休みの日にアスガルを訪ねて、エルゼリンデは鈴蘭までやって来たのです。
ちょうど父の手伝いをしていたアスガルは、珍しいお客に驚いていました。それと同時に彼女の神妙な面持ちに首をかしげてしまいます。
「マルネが高等学校に行くんだって」
突然そう切り出した彼女に、アスガルは淡々と答えます。
「……そうですか」
だからどうしたのだと言わんばかりの声音に、エルゼリンデは不満そうに眉間にシワを寄せました。
「昨日マルネから聞いたの」
「はぁ」
気の無い返事一つ。
興味無さげな声を出すアスガルに、エルゼリンデは先程よりも険しい顔つきをして見せるのです。
対して、アスガルはずいぶんと困惑していました。なぜなら、アスガルには分からないからです。何故、マルネがいるわけでもないのに、エルゼリンデがこの場所に居るのかが。全くもって、分からないのです。
過去、エルゼリンデがこの鈴蘭を訪れたのは、たった三回。それも必ずマルネに引きずられるようにしてやって来ていました。
久方ぶりに来訪したかと思えば険しい顔つきで睨み付けてくる友人を前に、アスガルは困惑するばかり。エルゼリンデは一体何を言いたいのかと思案しながら首をかしげていると、目の前の友人は不満げに言葉を紡ぎます。
「……アスガル、知ってたの?」
「いえ、初耳ですよ。でも、空飛ぶ機械を造るなら、進学するんだろうなぁとは思っていました」
むすっとして黙りこんだままのエルゼリンデに、どうしたらいいのかわからないアスガル。
二人のやり取りを見ていた鈴蘭店主は、立ち話などではなく家の方で話をしてくるように言います。
季節は冬。おそらく寒さのせいで赤くなってしまっているエルゼリンデの鼻先と、それとは別の理由で震えているのであろう指先。
それらを見つけたアスガルは、父にペコリと頭を下げると、エルゼリンデの手をひいて自宅の方に向かいました。
自宅にある暖炉前のソファーにエルゼリンデを座らせると、アスガルは冷えた彼女の手に温めたミルクを渡します。
礼を述べてそれを受けとるエルゼリンデを窺いつつ、自分用にいれたミルクを飲んで、アスガルは静かに彼女の言葉を待ちました。
「ごめん……お仕事の邪魔しちゃって」
眉間にシワ寄せ、眉はハの字。シュンと落ち込んでしまった様子のエルゼリンデに、アスガルは首を振って答えます。
「大丈夫ですよ。今日は寒いから、お客さんもそれほど多くはありませんでしたし、俺のやってることなんて……大したことじゃありません」
実際、彼の行っていることは仕事と呼べるほどの事ではなく、せいぜいお手伝い程度なもの。少なくとも、アスガルはそう思っていました。
手に持っていたホットミルクをもう一度口元に運び、飲み込めば、そのまま体を暖めてくれる。ホッとする味と温もりに心癒されつつ、アスガルはそばにいるエルゼリンデの方を見やりました。
震えの治まった指先と、いまだに少し赤い鼻先。
そう言えば、と、アスガルは先程のエルゼリンデの言葉を思いだし、話を切り出します。
「エルゼリンデさんは行かないんですか?」
唐突な質問に、エルゼリンデは首をかしげて質問の意味を問いました。
「どこに?」
「高等学校に」
「ああ……」
そのことか、と。
カップに揺れる白い液体を、ただじっと見つめるエルゼリンデ。彼女のとび色の瞳が揺れて、何かを思案するようにじっと考え込んだかと思うと、エルゼリンデは言いました。
「言ってなかったね……私もマルネも、孤児院に住んでるの」
その言葉に、アスガルは驚ただ少し、目元をヒクつかせます。表情こそ大きく変えることはありませんが、その深い青の目に浮かぶのは、戸惑いの色。
この街にある孤児院は、あまり大きなものではありません。その分、住んでいる孤児も少ないのですが、けして誰もいないわけでもないのです。
アスガルの同学年には一人もいませんが、他の学年に何人かいることは、彼に限らず誰もが知っています。中でも、良くも悪くも学校の有名人であるマルネが孤児院で生活していることは、校内では有名な話。
又聞きの又聞きの又聞き。
その程度の噂話であれど、アスガルも知っていました。けれどまさかエルゼリンデまでそうだとは思わなかったのです。なにせ、いつも噂になるのはマルネのことばかり。エルゼリンデは良くも悪くも彼女の影に隠れてしまっていました。
突然の告白にどう反応すべきかが分からず、アスガルはただ黙って彼女の反応を窺うしか出来ません。
一方、そんな彼の様子など視界に入れず、エルゼリンデはカップの中で揺れるミルクを見つめながら続けました。
「……マルネは頭が良いから奨学生として国から援助金が出るから進学できるけど、私は無理だわ……そんなに勉強出来ないから……」
呟くように言うと、エルゼリンデは顔を上げ、そのとび色の瞳にアスガルの顔を映します。結局、かける言葉を見つけられなかったアスガルは、ただ視線をさ迷わせて口をつぐむばかり。そんな彼の様子に、エルゼリンデは「もしかしてマルネから孤児院のこと聞いてないの?」と意外そうに尋ねます。
硬い動きで首を縦に振るアスガルに、今度はエルゼリンデの方が口をつぐみました。そして何か思案したように口元に手を当てると、カップの中身を口に入れて飲み込んでから、ふたたび口を開きます。
「私もマルネも小さい頃からずっと孤児院にお世話になってるの。何をするのも何処に行くのも一緒で……」
それは今よりもずっと幼い頃の思出話。
生まれて間もなくからずっと孤児院で育ってきたエルゼリンデと、ある日突然、一冊の本を抱えて孤児院にやってきた空色の瞳の少女。不安そうな顔で自分を見てくる彼女に手を差し伸べると、ふわりと花の綻ぶような笑顔で手を握り返してきて。二人打ち解けるのに、時間はかかりませんでした。
出会いからずっと、二人一緒に育ってきました。晴れの日は二人で日が暮れるまで遊んで、雨の日は同じ傘に二人で身を寄せて。二人でイタズラをして孤児院の先生に怒られたり、こっそり夜遅くまで起きて将来のことを語り合ったり。
本を読むのが好きなマルネと、料理や手芸が好きなエルゼリンデ。趣味は違っても馬が合うのか、互いの性格を理解し合っている二人は、いつだって一緒にいたのです。
「マルネはね、ずっと前から空を飛ぶんだって言ってた。死んじゃったお父さんたちに会いに行くんだって……きっと、孤児院の先生が『マルネのお父さんとお母さんは空にいますよ』なんて言ったせいね……」
それは、大切な人を亡くした子供に囁く、慰めの言葉。
アスガルもその昔、祖母を亡くして哀しんでいたとき、父に慰められこう言われたものです。
『おばあちゃんはね、お空の遠く、雲の上に行ったんだよ……もう会うことは出来なくても、そこからいつでも見守っててくれるから』
幼い頃はただ純粋に信じていたその話も、今では優しい嘘であったと理解できています。アスガルに理解できていることが、学校で一番の秀才であるマルネに理解できないはずもありません。
それでもマルネはいつだって、空は飛べると言い張るのです。
懐かしそうに目を細めていたエルゼリンデは、その表情を少し曇らせて言いました。
「きっと空飛ぶ機械を造るために勉強したいんだろうって、分かってるの……でも……でもね、やっぱり、心配だし、寂しい……今の義務学校でも、孤児だってことを理由に同級生に嫌がらせされたりも、したもの……」
苦しそうに眉を寄せながら、カップを持つ手を小さく震わせて。
「それに、マルネは……変に自信家で、真っ直ぐで、嘘とかつけなくて、意地っ張りで……そのくせ泣き虫だから……空飛ぶ機械が造りたいだなんて夢物語、誰にでも話しちゃうし、バカにされたら怒って言い返しちゃって、そのくせに孤児院に帰ってから『言い過ぎたかもしれない』なんて反省しながら、隅っこで丸くなってたりするし……。本当はきっと、マルネ辛いのに……あんなに真剣に語る夢を否定されたら、辛いはずなのに……『大丈夫?』って聞いても、いつも『大丈夫』って、笑うし……」
エルゼリンデの目からは、いつの間にかポロポロと涙がこぼれ落ちていました。
「今は、私が近くにいる……それに、空飛ぶ機械の話をしても笑わないで聞いてくれるアスガルもいる。でも、高等学校には私はいないし、アスガルだって……もしアスガルが高等学校に通い始めたとしても、一年先の話で、学年だって違う……そんな場所でマルネ一人なんて、大丈夫かなって、私、心配で……」
しゃくりをあげながらながら泣き出してしまったエルゼリンデに、慌ててタオルやティッシュを渡すアスガル。 ハンカチでないところが残念です。
それはともかく、エルゼリンデはタオルを受け取りしばらく泣いていました。
「姉妹みたいですね」
ポツリと呟いたアスガルの言葉にエルゼリンデはタオルに埋めていた顔をあげます。
「……え?」
「友達じゃなくて、何か、その、マルネのことばかり心配してて、お姉さんみたいというか、いや、俺は兄弟いないから分かんないですけど、昔から兄か姉が欲しいと思ってて……いや、それは関係ないんですけど、なんか、うらやましいです」
「うらやましい……?」
「はい……その、一番身近な人がそんなふうに心配してくれるの……嬉しい、と、思いますよ……俺だったら嬉しいです」
アスガルは色々考えながら、途切れ途切れに言葉を探すので、いつもよりもゆっくり喋っています。けれど、だからこそ彼が真剣にエルゼリンデを励まそうとしていることが窺えました。
「……マルネがどんな時も、誰にも怯まず、大きな声で夢を語れるのは、きっとエルゼリンデさんが近くにいてくれるからですよね……きっと、エルゼリンデさんは自分の夢を否定せずに、応援してくれてると、マルネは思っていると、思います……それだけ信頼して、甘えてると……思いますし、そんな相手がいるのが、その、ちょっとうらやましい……です」
エルゼリンデは目を真ん丸に見開いて、アスガルを見つめています。 いつの間にか涙は止まっていました。
「何か、何言ってるのか分かんなくなってきました……その、だから、えと、ちょっと……信じてあげてほしいというか、その……」
顔を真っ赤にしながら言葉につまっているアスガルを見て、エルゼリンデの口元にはいつの間にか笑みが浮かんでいます。
「ふふっ」
「……エルゼリンデさん?」
「ありがとうアスガル……そうよね、私が信じてなきゃ、よね……うん……すこし、怖かったの……私の居ないところでマルネが傷つけられて、夢なんてみなきゃよかったって、そう思ってしまうんじゃないかって」
空など飛べる訳がないと否定され、目をつり上げて反論しても、小さく震えるその拳をエルゼリンデは知っています。
いつも相手を言い負かして、でも少し寂しそうな顔をするから、つい『大丈夫?』と聞いてしまうのです。 けれどその問いかけに帰ってくる言葉はいつも一緒で…… 。
「大丈夫ですよ」
頭に浮かんだ言葉がアスガルの口から出たことに驚いて、エルゼリンデは目を丸くしました。
「……マルネは、俺の知ってるマルネは、強いです」
続く言葉には実感がこもっています。
「目標に対してぶれないとうか、めげないというか……難しい本をよく探しに来ますけど、読むための努力は惜しみませんし……解らないことがあれば、分厚い辞書や図鑑を引っ張り出してきて調べて読んでます」
エルゼリンデには、その光景が目に浮かぶようでした。本を読んで、少しでも理解できないところがあるとそれを理解するためにまた本を読む。合間にお茶を飲んで、本を読み終われば総括した感想を笑顔で話す。
数年前、孤児院の中の、自分達に与えられたわずかな場所で。図書館から借りてきたたくさんの本を目の前に、アスガルの話と同じようなことを行っていたのです。
まるで家に……院にいるときと同じ態度のマルネの話に、エルゼリンデはなんだか申し訳ない気分になって、つい、言ってしまいました。
「……なんか、ごめんね」
すまなさそうに言うエルゼリンデに、アスガルは笑いかけます。
「なんでエルゼリンデさんが謝るんですか」
「それは、そうだけど……」
でも、やっぱりごめん、と謝るエルゼリンデに、アスガルは微笑ましくなってしまいました。年上の友人である二人の関係が、きっと本人たちが思っているよりもずっと強く深く結び付いているのだと、確信を持ったからかもしれません。
「まぁ……図書館の本はあらかた読んでしまったみたいですし、うちの方が珍しい本が揃ってるみたいなんです。図書館は、需要のない本はそんなに置いてませんからね……今では、父が長いこと居座るマルネにお茶と椅子を準備してしまうくらいには常連ですよ……」
どこか遠い目をして呟くアスガルに、エルゼリンデはもう一度謝ります。
どこにいてもマルネはマルネのようです。 自分が近くにいても、そうでなくても。
これまでもこれからも。
自信家で、妥協を知らないからこそ人付き合いが上手くない、頭は良いのに残念なマルネ。
アスガルは姉妹のようだと言っていましたが、確かにそうかもしれません。いつだって心配なのです。マルネの夢を応援しながらどこか信じきれず、心配で離れることが出来ない。無理だと感じたらやめても良いんだよと言ってあげたい。そんな思いがずっとエルゼリンデにはありました。
けれどマルネを本当に信じるのなら、応援したいと思うなら、彼女の強さを信じなくてはなりません。 きっと今が、その時なのでしょう。
「アスガル……」
「なんです?」
「ありがと。これからもマルネのことよろしくね」
すっかり涙の止まったエルゼリンデは、にこりと笑って言いました。
「はい」
頷くアスガルが、にこりと笑ったように見えて、エルゼリンデは少しだけ驚きました。彼との付き合いはあまり長くありませんが、アスガルが愛想よく笑うところを、エルゼリンデは見たことがなかったのです。いつもやる気が無さそうで半分以上に開かれることのない目が弧を描いていて、開かれれば深い青の瞳を覗かせる。
「きれいな色」
何気無く、思ったことをそのまま言ったふうのエルゼリンデ。いきなりの話題転換にアスガルは頭がついていかず、ただ口を開けて「はぁ……?」と声を漏らしました。
「瞳の色。マルネと同じ青だけど、もっとずっと深くて、安心する色」
その青を、マルネはかつて海の青だと言いました。初対面の人の目を真正面からとらえて、じっと覗き込んだかと思えば手放しで褒める。あの時はただただ呆気に取られていましたが、仲良くなってからまじまじと顔を見て言われるのも照れるものです。アスガルは気恥ずかしげに礼を述べました。
「あの、ありがとうございます……」
「あら、もしかして照れてる?」
「いや、まぁ、はぁ」
「いつもすました顔してるから、そういう顔するの意外ね」
「……からかってます?」
拗ねたのか、顔を赤くしながらムスッとしているアスガルに、エルゼリンデはクスリと笑いをこぼします。先程まで自分を励まそうとしてくれていた彼はどこへやら。年相応の顔をするアスガルに、エルゼリンデはいたずら顔で笑いました。
「からかってないわ!あー、でも、そうやって表情崩してた方が可愛いわよ?あんまりやる気なさそうな顔ばっかりしてないで」
「やる気ないって……普段の顔は地顔です。失礼じゃないですか」
「ごめん、怒った?」
「怒ってはいないですけど……」
言いながら顔を背けるアスガル。そんな彼を見ながら、エルゼリンデは面白そうにまた笑います。
しばらくそんな応酬を続けて、やがてエルゼリンデは「孤児院で夕飯の手伝いがあるから」と鈴蘭をあとにし、アスガルは雪の中一人で帰すのも忍びないと思い彼女を院まで送って行きました。
その日の夕食中、そわそわしながらマルネとエルゼリンデのどちらが本命なのか聞いてくる父と、何の話だとのっかってくる母に、アスガルは苦労させられました。仲の良い二人に散々いじり倒されてしまったアスガル。
彼が翌日げっそりとした顔で登校したのも、エルゼリンデがスッキリした顔でマルネの手をひいて学校に登校してきたのも、それはそれで、別のお話です。
それは雪の降り始めた季節。
マルネ十一歳、義務学校四年生、アスガル十歳、義務学校三年生の冬の日。
もうすぐ、彼のひとつ年上の彼女達が卒業を迎える季節です。