3 マルネ九歳、アスガル八歳の秋。
少し昔語りをしましょう。
それは木々の葉が黄色く色づいた、過ごしやすい秋の日のこと。
マルネ九歳、義務学校二年生、アスガル八歳、義務学校一年生のある日のことです。
まだこの頃二人は出会ってもいない赤の他人です。 同じ学校にこそ通っていますが、学年も違いますので関わることもありません。
例えばマルネがもう少し大人しくて同級生に反論することの出来ない女の子であったなら、例えばアスガルがもう少し他人に興味の持てない冷たい男の子であったなら。 学年の違う二人はきっと、手を握って遠慮なく言葉を交わしあうような関係になる事などなかったのでしょう。
その言い争いは、学校の裏庭で行われていました。
「んなこと出来るわけねーだろバーカ!」
「出来ます!」
「はぁ?お前魔法使いにでもなるつもりかよ!」
「魔法ではありません!機械を使うのです!」
「は?あんな重いもん浮くわけないだろ!」
「バーカ」
大柄な男の子と小柄な男の子とそばかすの目立つ男の子が、金色の髪をした女の子に詰め寄っています。
女の子はバカにされたのが悔しいのか、フルフルと体を震わせながらも男の子達の顔を睨むと、大きな声で言いました。
「空は飛べるのです!そのための機械を、わたくしは作ってみせます!無理だと言うなら出来ない理由とその証拠をわたくしの前に持ってきてください!」
つり気味の目をさらにつり上げ不機嫌そうに眉を寄せ、腰に手をあてながらフンと鼻を鳴らします。その声の大きさと態度に少し怯んだのか、言葉を詰まらせる大柄な男の子に、小柄な男の子が声をかけました。
「ド、ドリー、もうすぐ授業始まるから行こうぜ」
「そうだな……マルネこそ空を飛べるってんならその証拠を持ってこいよバーカ!」
「フン!」
男の子たちは少し悔しそうにしながらも捨て台詞を残して去っていきました。
「マルネー!」
校舎の方から裏庭に向かって、濃茶色の髪の女の子が走ってきます。 マルネと呼ばれた金色の髪をした女の子は、そちらに体を向けました。そしてその顔に笑みを浮かべて元気に手を振るのです。
「エルゼリンデ!」
「マルネ、大丈夫?」
エルゼリンデと呼ばれた女の子は、マルネの前で立ち止まると彼女の顔を覗き込みます。
「マルネ……さっきのドリー達だよね?また何か言われた?」
「……大丈夫ですよエルゼリンデ、何でもありませんから……それよりも、ノートはありましたか?」
「うん、やっぱり教室に落としてた……ごめんね、一人で待たせちゃって」
「良いのです、わたくしが勝手に待っていたのですから、それよりも速く畑に行かないと園芸の授業に間に合いませんよ」
エルゼリンデは心配そうにマルネを見ていましたが、その言葉にハッとして頷くと、二人は裏庭を横切って校舎裏の畑に走って行くのです。
二人が走り去って行った後、誰もいないはずの裏庭の低木の陰から黒髪の小さな男の子が出てきました。 ガサガサと 低木を掻き分けて出てくると眠そうな目をこすって、そのまま校舎の方に歩いていきます。
校舎の近くまでやって来ると彼に向かって声がかけられました。
「あ、アスガルー!どこいってたんだよー」
「先生来てるよー!はやくー!」
声をかけてきた男の子たちは校舎の中から手を振っています。 アスガルと声をかけられた男の子は手を振り返し、一度だけ裏庭の向こうにある畑の方に目をやってから、彼らのところまで走って行きました。
「裏庭でお昼を食べてそのまま寝てました。そしたら近くで喧嘩が始まってしまって、ついつい聞き耳をたててたら遅刻しました。すみませんでした。」
先生の前で授業に遅れた理由と謝罪をした彼は、当然先生に怒られました。 シュンとした顔をして再度謝り、先生の許可を得て自分の席につきます。
すると、今度は隣の席の女の子に声をかけられました。
「ねぇねぇ、喧嘩って?誰が喧嘩してたの?」
好奇心に満ちた目で聞いてくる女の子に、アスガルは少し考えながら答えます。
「女子一人と男子が三人でしたね……ちゃんとは聞いてなかったので誰かわかりませんけど、機械がどうとか魔法がどうとか……あ、空は飛べるって怒鳴ってましたっけ」
「それ、たぶん二年生だよね?」
「さぁ?それは知りませんけど、何か知ってます?」
「二年生に変な人がいるって有名だよ?名前は……」
「アスガル、レティシア!授業中です、静かになさい!」
こそこそと話をしていた二人は、壇上の先生に怒られてしまいました。 当たり前です。
二人そろって先生に謝ると、 その後はきちんと授業に取り組むのでした。
それから数日後、心地よい秋晴れの昼休みのことです。
アスガルは学校で勝手に飼育している猫に餌をやるため、裏庭の低木の陰にしゃがみこんでいました。
「ブチーご飯ですよー」
すると、まだら模様の猫が彼の所にやって来て、その足にすり寄ります。
この猫の名前はブチと言います。 アスガルが学校に入学した年の初夏の頃から、裏庭に現れるようになりました。 最初は痩せぎすで今にも死んでしまいそうな体つきをしていました。
けれどアスガルが世話をして、色々なものを餌としてブチに与え続けた結果、今では少しふくよかな体型をしています。
まだら模様の見た目から、ブチと名付けて可愛がり続けた結果、最近では名前を呼べばすぐにアスガルの傍にやって来るようになりました。
家から拝借してきた父の酒のつまみをブチにあげていると、どこからともなく聞き覚えのある声が聞こえてきます。
「ドリー、本当にやるの?」
「当たり前だろ!マルネのやつ調子乗りやがって……」
アスガルはしゃがみ込んでいた低木の陰から少しだけ顔を覗かせて、声のする方に顔を向けます。
そこには先日ここで金髪の女の子と口喧嘩をしていた男の子達三人がいました。 ドリーと呼ばれた大柄な男の子が小脇に抱えている小瓶の中には、大きなミミズがウジャウジャ。
「大丈夫かなぁ?マルネ、泣いちゃわない?」
小柄な男の子がおずおずと尋ねると、ドリーはフンと鼻で笑って胸を張ります。
「これでちょっとはアイツも大人しくなるだろ、いい気味だ!いくぞ、早くしないと休み時間おわっちまう!」
「あ、待ってよ!」
少し急いだ足取りで大柄な男の子が校舎に向かうと、他の二人も彼を追いかけてその場をあとにしました。
それを一部始終聞いていたのはアスガル。 彼には、男の子達が何をしようとしているのかは分かりません。 彼らのしようとしていることに、小瓶の中のミミズが関わっているのかどうかも分かりません。
分かっているのは、彼等が裏庭をはさんで校舎の反対側にある畑の方からやって来たこと。 その畑の管理をしている園芸の授業担当のデガラ先生は、普段は温厚な人だということ。 けれど自分の畑を荒らすモノを何よりも嫌い、ミミズを畑の天使と言って憚らない奇人でもあると言うこと。 そして、彼等がマルネという人に何かをしようとしていることだけです。
アスガルは木陰から立ち上がると、ブチの頭を撫でてから食堂へ歩いて行ってしまいました。
数分後、食堂から飛び出てきた一人の男性教員が猛ダッシュで畑へと向かい、悲鳴をあげて、今度は校舎の方へと駆けて行く姿を数人の生徒が目撃していたとかいないとか。
さて、その日のお昼休みの終了間際、二年生の教室でちょっとした騒動がありました。
騒ぎの中心には、とても怒った顔をした園芸の授業担当のデガラ先生。 その正面で正座をさせられてこんこんと怒られている三人の男の子達。 そしてなぜか床に散らばっている大きなミミズを手掴みで拾い集め、ガラスの小瓶に収めているマルネの姿があります。
デガラ先生がなぜ怒っているのか。 それは正座をしている三人の男の子達が、先生が常日頃から大切にしてきた畑をほじくり返し、あまつ天使と称えていた、ご自慢の丸々太ったミミズ達をさらっていってしまったからです。
普段は温厚なことで知られているデガラ先生ですが、激怒した姿は恐ろしく、男の子たちは必死に謝って許しを乞うています。
まだまだ怒り足りない様子の先生ですが、午後の授業時間が迫っている事とマルネが拾い集めたミミズ達が元気なことを確認すると、いそいそと畑の方へと帰って行きました。 その際、先生が男の子達に残した『二度目があるとは思わないように』という台詞と笑顔は、その後十数年経っても学校の恐怖話として語り継がれているとか。
マルネがミミズを拾い上げた手をハンカチで軽く拭いていると、その姿を遠巻きにして見ていたエルゼリンデが近づいてきます。
「マルネ……大丈夫?」
「大丈夫ですよエルゼリンデ……それにしても、ミミズとはあんなに大きくなるものなんですね……少し驚きました」
「私はそれを平気で手掴みしたマルネにビックリしたわよ……」
「……別にただのミミズですよ?多少グロテスクではありましたが……」
「多少……ねぇ」
少し呆れたような顔で、エルゼリンデは教室の外でソワソワしているクラスメイト達に目を向けました。
みんな怒っているデガラ先生が怖かったと言うのもありますが、何よりも大きなミミズの散らばった教室に入りたくなかったと言うのが本音でしょう。
「みんな、もうミミズいないから入ってきて大丈夫よ!」
彼女が教室の外に向かってそう言うと、一人、二人と教室の中に入ってきます。 まだ何人かは教室の外でたむろしていましたが、午後の授業担当の先生がやって来て皆を教室の中に入らせて、二年生の午後の授業は始まりました。
それからも相変わらずマルネはいつか空を飛ぶ機械を造るのだと公言して憚らず、男の子達に出来る訳がないとからかわれては空は飛べるのだと反論し続けました。 そしてアスガルも、相変わらず昼休みには猫と戯れたり昼寝をしたりと日々を過ごしていました。
この二人にはまだ面識はありません。 けれど、たぶんこれが始まりなのでしょう。
これは二人がお互いに顔も知らない頃のお話。
ある秋の日のお話。