2 マルネ二十三歳、アスガル二十一歳の春。
それはとても心地のよい、春の日の午後。
古書店鈴蘭店主代理の彼が店番をしながらこっそり趣味に興じていたところに、彼女はやって来ました。
「アスガルさん!いらっしゃいますか!?」
薄暗い店の入り口。春の陽を背にして立つ彼女の顔は、店の中からはひどく見えづらくてなりません。ただ、背筋を伸ばして立つその姿、後光で輝く金色の綺麗な髪、何よりよく通るその声には聞き覚えがあるらしく、アスガルと呼ばれた青年は穏やかに言います。
「いますよマルネ。どうしたんですか、そんなに慌てて」
入り口から真っ直ぐ奥にあるカウンターの中が、彼の指定席。それを知っているのか、彼がマルネと呼んだ女性は少しばかり息を弾ませながら、彼の座っている所まで速足で歩いて来ました。
明るい場所から薄暗い店内へ。後光から離れた彼女を見ながら、アスガルは小さく「そのかっこ……」と呟きます。
その姿は、よくよく見れば作業着に身を包まれていて、格好だけなら工場で働く男性作業員と同じでした。継ぎ接ぎだらけの汚れたズボンに、今にも擦りきれそうな靴。首元にぶら下がった大きなゴーグルに、頬には黒い汚れまでついています。
唯一女性らしいと言えるのは、肩よりも上で切り揃えた短い髪を無理矢理ハーフアップに纏めている質素な髪飾りくらいなもの。
過ごしやすい春の日の下を出歩く格好ではありません。
けれどそんなことは微塵も気にしていない様子の彼女は、笑顔でアスガルの方へと近づいていきました。
「こんにちはアスガルさん!」
「こんにちはマルネ。頬に何か付いてますよ?」
トントン、と彼が自分の頬をひとさし指で示せば、マルネは自身の頬の同じ辺りを手で拭います。すると彼女の頬の汚れはお約束と言わんばかりの広がりを見せ、マルネの白い肌を黒く汚してしまいました。
その様子を見て、アスガルは顔を逸らし手で口元を覆います。微かに緩んだ目元を見るに、どうやら笑っているようです。
「あ、アスガルさん?!」
彼のいきなりの行動に驚いたのか、マルネは首をかしげました。真剣な顔でどうしたのだと聞いてくる彼女の頬に取り出したハンカチを当てると、アスガルは目を細めて言います。
「マルネ、余計汚くなってますよ」
そのまま優しく頬を撫でてからハンカチについた汚れを見せてやれば、マルネの頬は赤く染まっていました。アスガルはそれを見て強く擦ってしまったかと心配をしましたが、何の事はありません。ただ単に恥ずかしくなってしまっただけのようで、ハンカチで拭いたのとは逆の頬も耳まで赤く染まっています。
汚れの取れた彼女の顔は、十人中恐らく十人、少なくとも九人は美しいと言うであろう造形をしています。少し釣りがちな目の真ん中で大きな空色の瞳を揺らしながら、顔を赤くしている彼女は、現在の格好を差し引いたとしても充分美人で通ることでしょう。もちろん先に『変な格好をした』や、『汚い服を着た』という言葉がつくのでしょうが。
「お、お手数をお掛け致しました……」
「どういたしまして。けど、そんな格好で街中うろついてるのがバレたらエルゼリンデさんに怒られません?」
「う、……恐らく怒られるのではないかと……思います」
そう言いながら目を泳がせる彼女が何を想像しているのか。それがアスガルには分かっているようで、彼はまたもや面白そうに目を細めました。
言葉を詰まらせた彼女が思い浮かべたのは、きっと彼女の幼馴染みのこと。心配性で世話焼きで、しっかり者で優しい彼女の幼馴染み。きっと彼女が今のマルネを見たならば、『もう、そんな格好で出歩かないの!女の子でしょう!?』と怒りを露にすることでしょう。
その様子を想像してか、マルネは気まずげに視線を落とします。その時彼女は何かに気付いたのか、ハッとして誘われるようにカウンターに手を伸ばしました。
そこには数枚の紙が置いてあります。
アスガルがマルネの行動に気付いて「あ」と声を漏らすのと、彼女の嬉しそうな声が店内に響くのは、ほぼ同時のこと。
「ア、アスガルさん!もしかしなくとも、こちらは新しい絵物語ですか?」
そこに描かれていたのは、日傘をさした上品そうな狐と、シルクハットを被った小さな子ブタ。 絵物語、と言うには物語の部分が見当たりませんが、可愛らしい絵には変わりません。
「そうですよ」
アスガルは一つ頷き、諦めたように溜め息を漏らしました。そんな彼の表情などお構い無しに、マルネは嬉しそうに笑っています。
「こちらはどのような物語になるのです!?」
「それは内緒です。話してしまったら面白くないじゃないですか」
「それはそうなのですが……ああ、気になりますね」
「また見に来たらいいじゃないですか」
そういいながら彼女のためにクッションと膝掛けの置かれた椅子を差し出します。その慣れた仕草に、マルネの方もついそのまま椅子に腰かけそうになりました。けれど彼女はハッとしたように首を振り、その椅子に座ることなく彼の顔を覗き込んだのです。
「ありがとうございます。けれどアスガルさん、今は座って話し込んでいる場合ではないのです!」
そして彼の目の前でその自信に満ちた笑みをいっそう深め、古書店の静かな空気を震わせると声高らかに言いました。
「ついにわたくしの夢の結晶が、完成の時を迎えようとしているのです!」
シンと静まり返った薄暗い古書店で両手を広げ、足を肩幅に広げて胸を張った彼女。
そんな彼女をたっぷり数秒見つめたあと、アスガルは口を開きました。
「本当、ですか?」
何が、とは聞きません。 きっとその『夢の結晶』とやらに心当たりがあるからでしょう。
ただ、聞き返す彼の口の端は、わずかに持ち上がっています。
「本当ですとも!理論上は間違っていないはずです、あとは実験あるのみです!」
喜色満面の彼女の腰に当てられた手は、少し震えていました。
「実験……」
そうポツリとアスガルが呟くと、とたんに彼女はそれまでの自信に満ちた笑みを抑えて、真剣な目を彼に向けます。
「はい、場所は東門を出た街道沿いで行いたいと思います」
「……大丈夫なんですか?その、街道沿いとは言え許可とかいるんじゃ……」
「問題ございません!実はその事について上級学校の先生に相談したところ、先生が偉い方に掛け合って許可を取ってくださったのです!」
これがその許可書ですと言って彼女が広げた紙には、確かに街道沿いで作業することを許す旨の記載と行政者の押印がありました。
「……上級学校の先生って、すごいんですね……」
「そうですね、今回ばかりはわたくしも驚きました……」
「まぁ、基本的に身分の高い人やお金持ちが通う学校ですしね……」
「そうですね……話を戻しますが、全て組み立ててしまうと往来の移動が出来なくなりますので、今は本体と翼部分が別れている状態なのです……ですので、街の外で完成させることになります」
「可能なんですか?」
「可能にするのです!」
彼女は鼻息を荒くして右手に握り拳をつくると、間髪をいれずに返しました。 その顔にまた笑みを浮かべ、今度はアスガルの手をとって、真剣な声で言うのです。
「つきましてはアスガルさん、お手伝いをお願いします」
自分の手を握りながら有無を言わせない笑顔を浮かべる彼女を見て、アスガルは目を細めて頷きます。
「もちろんです、手伝いましょう」
その言葉を聞くと、その手に握った彼の手をブンブンと振り回しながら、彼女はお礼の言葉を述べます。 嬉しそうに。
「ありがとうございますアスガルさん!きっと成功させてみせましょう!!」
飛び上がりながら喜ぶ彼女は、それでも手を握って離しません。
「わっ、マルネ、ちょっ」
「す、すみません、つい興奮が押さえきれず……」
マルネと呼ばれた彼女はハッとしたように手を離すと、パタパタと自分の手を振り回しながら詫びました。
「実験の日程についてはまた追ってお伝えに参りますね!」
「分かりました。待ってます」
「はい、よろしくお願い致します!では、わたくしはこの事をジオルとエルゼリンデにも伝えて参ります!」
「……その格好で、ですか?」
「ああ、そうですね!一度戻って着替えてから行くことにしましょう。ありがとうございますアスガルさん!」
そして彼女、マルネは鈴蘭を後にしました。
先程まで握られていた自分の手を見て、ポツリと一言。
「ついに、か」
彼女が喜んでいるから嬉しいような、これで終わるのかと思うと寂しいような。
いろいろな感情を織り混ぜた笑顔を浮かべて、彼は彼女が去っていった店の入り口を眺めるのです。
それはとても心地よい、春の日の午後。
マルネ二十三歳、アスガル二十一歳の日のこと。
国中の人々に自身の夢を認めさせることになる彼女と、その夢を応援してきた彼の日常のひとこま。