おしまいの形
治美は改めた。二人がやる気になった以上、実際にはしていないということに、意味は無いという認識を。やはり実際にはしていないということは重要だった。出との関係に於いて。
連日の光佑とのメッセージのやり取り。光佑との逢瀬。それらの変化を、出は感じ取っていた。治美が物思いにふけってばかりいたからだ。出は気にかけながら様子を見ようと決意していた。そしてあれから一週間が経った今、治美は平常心に戻っていた。
もし治美が光佑と寝ていたら、こうも易々と、平常心には戻れなかった。不倫という行為は治美にとって初めてのものだし、もし行なったら、彼女は自分の心に夢中になるタイプだから。けれど治美は光佑と寝なかった。なぜ寝なかったかということは、後になってみれば問題ではなかった。倫理的にではなく治美にとって。
免れたのだなと治美は考えた。偶然の再会の結末を見たいと、容易く性交に及ぼうとしたというのに、性交よりずっと衝撃的な、おしまいの形がやって来た。
平常心には戻ったが、治美の中で、一つの心境の変化が起きていた。うららにどうしても会いたくなったのだ。
会って謝りたいとの趣旨の、メールを送った。程無くしてうららから了承のメールが届いた。約半月の音信不通を経て、うららも冷静になっていた。
待ち合わせのレストランに現れたうららに、治美は頭を下げた。そして、男と早く別れるよう急かしたことをわびた。ふさわしくない行動を、ただちに正すよう人には要求しておきながら、自分は危ない橋を渡ったからだ。人には、どうにもならない好奇心というものがあることを思い出したのだ。
「もう、いいよ」
とうららはおっとりと笑った。ブローされた髪はつやめき、肌はバラ色だ。とても悪い男に引っかかっているようには見えない。
「わたしも結局、加賀さんと別れたし」
そうつぶやいて、笑う様まで可憐だ。
「そうなの? どうして?」
いくら悪い男とはいえ、別れたばかりにしては血色がいい。
「んーとね、加賀さんは会社の人とかを、オレは何々さんを尊敬してるとかってよく言うんだけど、そう言っときながら、その何々さんから電話かかってきても、無視したりする人で」
「ええ?」
「そういうことが続くと、わたしも気が狂いそうっていうか」
うららの顔色がいい理由を、治美は分かった気がした。加賀の女に対するだらしなさに、苦労させられるのではないかと心配していたが、加賀のいい加減さにうららは愛想を尽かしたようだ。
「それで別れてから、治美のこと思い出して、加賀さんがこういう人だってことを、治美は見抜いてて、反対してたのかなあとか思って」
「んー、尊敬する人から電話がかかってきても、出ない人だとは思ってなかったけど、いい加減な人だとは思ってたよ」
「そうだよね。だから心配して反対してくれてたんだよね」
どうやら治美は、よいタイミングで、うららにメールをしたようだ。正に争うに時があり和解するのに時がある。今が和解すべき時であることを、治美は嬉しく感じた。そして今は報告の時でもあると治美は考えた。体験したばかりの話を、治美は大好きな友人に語って聞かせたくてたまらなかった。
「分かってくれてよかったけど、あたしこの半月の間に、無茶したよ。うららに忠告する資格もないくらい」
そう切り出すと、治美はうららと二人、日曜日のランチをとりながら、光佑との偶然の再会とその後の顛末について語った。
ランチをあらかた食べ終えた時、うららが
「もしわたしと喧嘩しなかったら、そのSNSに、登録しなかったんだよね?」
と確認した。
「しなかった」
「何かすごいタイミングじゃない? わたしと喧嘩したからって、登録したSNSで英輔さんのお兄さんと知り合って、そしてすぐ、英輔さんが自殺未遂するって」
驚きの声をあげるうららに、治美は満足した。そしてこの驚きをもっと確かなものにするために
「そうなの。もし英輔が自殺未遂してなかったら、あたし英輔のお兄さんと寝てたんだよ」
と付け加えた。
「でもどうして? 英輔さんのお兄さんを好きになったの?」
「まさか。好きになる要素無い」
「じゃあ、どうして?」
「一つは、焼けぼっくいに火が点いた」
光佑が英輔に容貌が似ていることを、治美は知っていた。そして今回接したことによって、互いが内面も似ていることを知った。それは決して美点ではなかったのに、英輔にそっくりな、光佑の内面に触れている内に、捨てたはずの恋情が再燃した。
「不思議だよね。英輔はお兄さんに憧れて真似てたのに、あたしはそのお兄さんと接して、英輔を好きだった気持ちを思い出すんだもん」
しみじみと語る治美に、うららは「そうだね」と同意すると
「でもだからといって、お兄さんにコンプレックス持つ必要無いって、英輔さんに言ってあげられない点が残念だね」
と付け加えた。
あれから一週間が経ち、治美の気持ちは冷めてしまったから、今更
「実は、一週間前に気持ちが再燃していました」
と英輔に伝えても意味が無い。せっかく倫理に反して、焼けぼっくいに火を点けたのに、惜しい話だ。
とはいえ英輔を元気づける義理も無い。そんなことより、うららには気になることがあった。だからうららは
「それで? 英輔さんのお兄さんと、過ちを犯そうとしたもう一つの理由は?」
と興味津々な様子で尋ねた。
「何か、いっちゃえって思って」
「何それ」
「あたし出に、三年間は作家目指してていいって、家事だけやってれば、あとは小説書くのに、時間費やしてていいって言われてるでしょ? 期限は残り一年でその一年はすごく貴重なんだよね」
この二年、うららに繰り返し伝えてきた現状を治美は口にした。うららは「そうだよね」と同意した。
「だからもし、英輔のお兄さんと寝てそれがばれたら、大変なことになるなあと思ったの」
「そうだよね」
「それなのに、何かもういっちゃえって思った。今来てる波に乗っちゃえって。乗っちゃっても、デメリットだらけっていうのは分かってたんだけど、乗ることに意味がある気がした。正直言って英輔への気持ち再燃とか、そんな感情よりずっと、このいっちゃえって気持ちの方が強かった」
うららは銀行員らしい理知的な顔に困惑を浮かべると、「え?」と何度かつぶやき、そして
「だって治美にとって作家になることは、何よりも大切なことだよね?」
と問いただした。
「そうなんだけどねえ」
「もし英輔さんのお兄さんと寝て、それが出さんにばれて、離婚なんてことになったら、治美働かなきゃいけないから、小説なんか書いてられなくなるじゃん。いや働きながらでも書けばいいんだけど、それじゃ書く時間、あんまり取れないじゃん。せっかく今作家を目指せる環境にあるのに、何もそれ壊すことないじゃん」
「そうなんだけど、でもあと残り一年しか無いしね」
答えながらふと治美は、自分は焦っていたのかも知れないと気付いた。作家を目指せる期限はあと一年。それまでに芽が出なければ、仕事をするなり子供を生むなり、しなければならない。仕事をしながら子供を育てながらでも、作家を目指すことは不可能ではないが、難しくなることは事実だ。
もしかしたら自分は、勝負に出たかったのかも知れないと、治美は思う。ここででかいネタをつかみ、それを小説化し勝負に出たかったのかも知れないと。だから危険を顧みず、光佑に近づいてしまったのかも知れない。
自分はどうやら、よっぽど作家になりたいらしいと、治美が納得していると、アイスティーをぐるぐるかき混ぜていたうららが
「残り一年しか無いからって」
と切なげな声を出した。
「貴重な一年だって今治美言ったじゃん。なのに何で、それ壊すようなことしようとしたの」
「ただね、作家になりたい気持ちっていうのは、作家を目指せる環境を保持する意欲も生むけど、同時に、小説のネタを得たいって渇望も生むんだよねえ」
「治美にはネタいっぱいあるんだから、もういいじゃん。二度も鬱になった話とか、会社クビになった話とか、恨みのパワーの占い師の話とか、妹が精神科通ってる話とか、身内がいっぱい怪しい宗教にハマッてる話とか、初めて付き合った相手に四股かけられた話とか、障害者と付き合った話とか、世古くんの話とか」
最後にさりげなく付け加えられた世古のことを、治美はふと考えた。うららとの共通の恋人である世古を巡っては、うららとの友情に亀裂が走りそうになった時期もあった。それでもこうして、二人の友人関係は続いているが、小説に仕上げられるだけの量の、エピソードはある。
「あたしも、そう思ってたんだけどねえ」
と治美は返事をした。あの頃は罪の意識が無かったが、結局世古と別れてしまったことを考えると、うららに申し訳ない気がした。自分が世古と付き合ったばかりに、不愉快な思いをさせたからだ。
不愉快な思いまでさせてしまった以上、もちろん治美は、それを小説に仕立てるつもりだった。そうでなくては、うららにただ不愉快な思いをさせただけという結果になってしまう。世古の件以外のネタも、せっかくだから仕立てるつもりだ。まだ仕立てていないのは、たまたま他の題材に先に着手したからだ。
結婚するまで治美は、働きながら書いていたので、執筆が遅々として進まなかった。結婚してからは執筆時間が取れたため、精力的に書き進めたが、二年はあっという間に過ぎた。
題材を多く持っていたからこそ、治美は焦っていた。手持ちの題材を全て書き尽くしたいのに、与えられた時間が少な過ぎるのだ。だからどうしても作家になりたくて、勝負に出た。手持ちの題材を書き尽くすために、更なる題材を得ようとした。それはうららに指摘される通り、確かに危険な行為だった。
この矛盾をどう説明したものか。治美が難しい顔をしていると、「大変だね」と、うららがぽそりと言った。
「今回はたまたま、英輔さんが自殺未遂してくれたからよかったけど、治美がそんな風に好奇心の赴くまま行動してたら、その内大変なことが起こるかも知れないよね。でもいくら、ネタ集めて大変な目に遭ったからって、絶対作家になれる訳じゃないしね」
全くその通りだったので、うららのセリフは、治美の心を突き刺した。どうしても作家になりたいからと、旨味のあるネタを追いかけたが、そのネタを小説化して応募したからといって、必ずしも作家になれる訳ではない。
驚くべきタイミングにより、危ない橋を駆け抜けることに成功したと治美はいい気になっていたが、治美が作家気質である以上、いずれトラブルに見舞われる可能性は、大いにある。そして残念なことに、作家気質だからといって作家になれる訳ではない。
それなのになぜ自分は作家気質なのかと、治美は腹を立てた。だがすぐに考えるのをやめた。なぜ作家気質になってしまったのか、その原因を究明すれば、やはり一本の小説が、仕上がってしまうからだ。治美が人生で問題や疑問にぶつかると、結局それが小説の題材に変化してしまうのだ。
だとしたら治美は、小説を書くしかなかった。書かなかったからといって、問題が解決する訳ではないからだ。だとしたら問題や疑問に苦悩する時間を、小説を書く時間に変えた方が心地よかった。
けれど時間は貴重だ。一般の人々なら、その時間を使って労働をして金を生み出したり、あるいは子供を生み出して、育てるという選択をするところだ。治美とて金と子供は欲しかった。だから小説など書いている場合ではないのではないかとは、何度も思った。思ったが書かずにおれないのだ。
その時治美のバッグから、ケイタイが鳴る音が響いた。取り出すと液晶に光佑の名前が浮かんだ。一週間前にSNSを退会して以来、音沙汰が無かったというのに、今更何の用か。
「ちょっと、ごめんね」
うららに断ると、治美はケイタイを掴んで店の外に出た。ふと空を見上げると鈍色の雲が広がっていた。何やら気が重くなる。
電話の向こうの光佑は、快活な声を出した。一週間前には人を罵っておきながら、よくもこんな、緊張感の無い声を出せるものだと治美が呆れていると、光佑は
「この間は、失礼なこと言っちゃって」
と相変わらず緊張感の無い声で言った。
全くですよとも言えず治美が「はあ」と返すと、光佑は
「お詫びに、メシでもご馳走したいんだけど」
と言い出した。
メシだけで済むはずがないことを、治美は分かっていた。英輔への復讐は、とりあえず果たされたとはいえ、一度はその気になった治美を、光佑がみすみす見逃すはずがない。そういった貪欲さを忘れないからこそ、光佑は二百人斬りを達成できたのだ。
しかし治美は今更、光佑と寝る気にはなれなかった。せっかく英輔の自殺未遂という、センセーショナルなおしまいの形が来たというのに、その後で光佑と寝てしまったら、何だか間が抜けているからだ。
治美は早速断ろうとしたが、ふと肝心なことを思い出した。
「それより英輔さんて、どうして自殺を図ったんですか」
てっきり英輔は、芸術作品になりたくて、あんなことをしたのだと思っていたが、先ほどうららに一連の経緯を説明している内に、治美は気づき始めた。英輔は死にたくなったからこそ、あんな方法を思いついたのではないかと。
電話の向こうの光佑は、「ああ」となぜか嬉しそうな声を出すと、「借金」と短く答えた。
「あいつ自己破産してて、普通のとこじゃ借りられないからって、ヤミ金に手ぇ出しやがって」
「トイチですか」
「詳しいね」
ノンバンク二社に勤めていましたから、と答えてもよかったのだが、治美は
「ええ、まあ」
とだけ返事をした。もう会いたくない相手に、自分の情報を公開するのが億劫だった。
「トイチなんて可愛いもんよ。奴が借りてたのはトサン」
「トサン? 十日で三割の金利?」
「ふざけてるよなあ」
法定金利が引き下げられている時代に、確かにその金利は、ふざけていた。ヤミ金なら相手が自己破産をしていようと構わず、追い込みをかけてきてもおかしくない。
「それを苦にして、英輔さんは自殺を図った訳ですか」
「そゆこと」
「それで、どうしたんですか」
「ひとまずアパート引き払って、うちの実家に荷物運び入れた」
ではあのアパートに、英輔とその妻は、もう暮らしていないのかと治美は衝撃を受けた。それは英輔の自殺の動機よりも、治美を慌てさせた。なぜなら自殺の動機は想像の範疇だったからだ。
ただ借金が動機だったことが、想像の範疇なら、取立てから逃げるために引越しをしたことも、驚くには当たらない、だが治美は焦りを覚えた。自分が見届けたおしまいの形が、現実世界で変化してしまったことを知らされたからだ。
こうしてはいられないと治美が考えていると、光佑が
「詳しいことは、メシ行った時に」
と言い出した。それどころではなかったので治美は
「もうこれ以上は、結構です」
と電話を切った。すかさず光佑が、ケイタイをりんりん鳴らすので、電源をオフにする。
途端に生気を失ったケイタイを握り締めると、治美はぼんやりと、英輔のアパートを回想した。処女だった女が、英輔のようなとんでもない男に引っかかり結婚し子を生み、けれど英輔は、牢につながれ、出てからは自殺を図ったあのアパートを回想した。
治美はまぶたを閉じた。英輔と別れたことによって、辞めた最初の会社を思った。その後に、生きるために勤め始めたローン会社を思った。そして英輔と付き合い始めたことにより、ローン会社をクビになり、別のノンバンクに勤め始めたことを思った。
その英輔が、ヤミ金の追い込みを苦にして自殺を図るなんて、あまりにも皮肉じゃないかという気がした。あの生きたがりが、自身の生きたがりゆえに、人を書物でもって殺したような過去を持つ男が、いつの間にか死にたがりになっていたなんて、あまりにも皮肉じゃないか。それを記録しなくてもいいのだろうか。
そんなはずはないと思った。書きたいという気持ちが、治美を貫いた。こういう人生もあるということを知ってしまった以上、書かずに済ませることは不可能だった。
治美は目を見開いた。あごを上げ空を見上げる。相変わらず鈍色の雲が広がっていた。
「いくらネタ集めて作家になったからって、絶対に作家になれる訳じゃないしね」といううららの声が、こだまする。生暖かい風が治美の頬を撫でる。悪意ではなく放たれた言葉だからこそ、胸を突き刺す。
未来は鈍色で、どうなるか分からない。治美にもたらされたものが、天使のいたずらだったのか、あるいは悪魔のプレゼントだったのか、はたまた神の恩寵なのかも分からない。分からないからこそ治美は書きたかった。
キッとまなじりを正すと、うららの待つテーブルに向かって、治美は歩き始めた。喧嘩別れした親友との久しぶりの逢瀬だ。もっとゆっくりしたかった。でも治美には時間が無かった。
現実は刻々と変化する。作家を目指すことを許されるモラトリアムが、刻一刻と減ってゆく。
作中の出てくる英輔兄弟には実在のモデルがいます。個性的な人なので、今まで色んな小説にちょいちょい登場させていたんですが、今回、英輔をとことん描いてみたくてこの小説を書きました。
でもとことんって難しいですね。完結させてから、あああのエピソードもあったなあと思い出します。
一人の人間を書ききるって難しいものですね。何だか今後も、英輔を他の小説で登場させてしまいそうです。