悪魔のプレゼント
英輔に盗まれた額は、二十万円だった。給料が現金払いだったため手元にそれだけあったのだ。ここのところ、ATMに預け入れをしに行っていなかったのが原因だった。しかし治美の給料が、現金払いで、預け入れをしていなかったからといって、盗んでいい理由にはならない。治美は身も世も無く泣き崩れた。
杉浦に打ちのめされた夜に、どうして英輔にまで、追い討ちをかけられなければならないのか分からなかった。傷心の自分の金を、どうして盗むことができるのか分からなかった。
もう英輔と会う訳にはいかないと、治美は決意した。そもそも別れようと決意させた男と、セフレとしては上手くやれるなんていうことが、あるはずが無い。
それどころか、立場がセフレになったことで、英輔は遠慮が無くなっている。ドラッグを勧めたり、金を借りたり盗んだりといった行為は、付き合っていた頃はなされなかった。中でも盗みは相手の了承を得ない分、最低の行為だ。会い続けてしまったら英輔のその行為を許したことになる。
その決意に、治美は思わず床の上に崩れ落ちた。英輔とセックスできなくなることが、忍びないのではない。いや英輔とのセックスは、治美にとって気分転換の一つだったから、それを失うのも辛かったが、セックスくらい他の男ともできる。
ただ英輔は、他の男では替えが利かない分野も担当していた。親の愚痴を聞いてくれたのだ。
つくって損したと責められ、小五の頃から発症したストレス性疾患が治らない。家族だけでなく親戚や弟妹までもが、おかしな宗教にはまっている。
そんなヘビーな愚痴を聞いてくれるのは、英輔かうららか喜久子くらいだった。うららと喜久子が聞いてくれるのだから、それでいいではないかと思っても、治美はやるせなかった。そういったことを理解してくれる男には、もう巡り会えない気がしたから。
できるのかどうか、さっぱり分からなかったけれど、もし結婚というものをするのなら、自分の全てを受け入れてくれる相手を選びたいと治美は考えていた。自分に付随する親を含めて、受け入れてくれる相手でなければならなかった。
それは、自分の欠点は直す努力をすることができるが、親をまっとうな人間に変えることは、子供の努力では不可能だからだ。
しかし全てを受け入れてくれる男と、結婚したいからといって、英輔と関わり続けた治美は矛盾していた。ジャンキーの上に、女と金にだらしない英輔と、結婚するつもりが無いからこそ、治美は別れを告げたからだ。治美はただ、自分の願望の代償行為に英輔を利用していたのだ。
治美にはその自覚が無かった。ただ親の愚痴を、聞いてくれる男を一人失うことに、身を切られるような悲哀を覚えただけだった。それでもようやく、英輔と離れる決意をした。
ところがそれは、実行されなかった。盗んだ金をいっぺんに返済することを、英輔が拒んだからだ。
月々一万円の支払いではどうかと、まるで借りた金であるかのように、英輔は提案した。それくらいなら返してもらわなくてもいいとは治美は言わなかった。
鬱気質の治美にとっては、絶えず笑顔を要求される水商売が、苦痛だったからだ。苦労して得た金を、泥棒にみすみす渡してしまうほど、治美は売れてもいなかった。
返済のためという名目で会っている内に、ずるずると、体の関係は再開した。その内返済されない時にも会うようになった。それでいて治美は、もう返済しなくてもいいとは決して言わなかった。会う度に治美は、次の返済日を口頭確認した。
その内治美は、染谷という客と付き合い始めたが、たった三ヶ月で終わりを迎えた。性懲りも無く治美は、その時も英輔を呼び出した。
染谷がバツイチだったことを知ると、なぜか英輔は染谷の住まいを、見てみたいと言い出した。英輔の運転で、二人は染谷の住む住所を目指した。染谷は別れた妻と暮らしていた団地に、引き続き住んでいた。
染谷の運転で、何度か眺めた風景を確認しながら治美は、バチが当たったのだと言った。染谷にではなく自分にという意味だ。それは染谷が、身体障害者だったからだ。障害者が周囲にいなかったので興味を持ったことや、小説のネタになると思ったことを、治美は告白した。
「でも、好きだったんだろ」
とでも言ってくれれば、肯定することができたのに、条件の悪い相手と治美が別れたことを、英輔は喜んだ。そしてどうということのない団地を、遠目に見学しながら、ボロイだの田舎だのと馬鹿にした。
治美は複雑な思いだった。付き合う相手とは、すぐさま結婚を考える治美にとっては、染谷との結婚も夢見ていたからだ。染谷と関われば、ネタになるという不純な思いもあったとはいえ、結婚したいと思うくらいの、好意はあったのだ。
別れたのは染谷の障害が原因ではない。強いて言えば、バツイチだったことが原因だった。なぜ離婚したのかと尋ねる治美に、染谷は
「元々、相手をあんまり好きじゃなかった」
と答えた。
「親同士が友達でさ、それで子供同士を、結婚させたいって願いがあったみたいで。でもオレは、特に彼女と結婚したいとも思ってなくて」
「じゃあ何で、結婚したの」
「事故ってこの体になった時、ああこれで、一生結婚っていうものができないんだなって思ったんだよね。そしたら向こうが、『それでも構わない結婚しよう』って言うから」
打算だったのかと治美は呆れたが、責めるのはよそうと考えた。治美は、身体障害者になったことがないからだ。そういう立場になれば、自分を受け入れてくれる人なら誰でもいいと、思ってしまう場合もあるかも知れないと考えた。
だがその後に続く言葉がいけなかった。染谷は
「でも結局、浮気がばれて離婚切り出されたんだよね」
と残念そうに言ったのだ。
「浮気したの? 何で?」
「こんな体になったから、自分はもう、一生浮気ってものができないんだと思ってたら、誘ってくる女がいたからさ」
酷い話だと治美は立腹した。たいして好きではない相手だったとしても、障害を負った自分と、結婚してくれるという女をめとったなら、相手の愛に応えるべきではないか。しかも染谷は妻が妊娠して以来、一度も妻を抱かず浮気ばかりしていたというのだ。
右手が全く使えない身でありながら、染谷のセックスは、感心するほど上手かった。だから染谷が、見栄を張っている訳ではないことは分かった。障害を負った後も何人もの女を抱いたからこそ、セックスの手際がいいのだろうから。
この分では自分も、結婚しても全く感謝されず、浮気ばかりされるのだろうと治美は考えた。何が嬉しくて、そんな男と結婚しなくてはならないのか分からなかった。結婚を考えられない男と、付き合い続ける理由が分からなかった。
治美が別れを告げると、染谷は
「悪いところは直すから」
と食い下がった。それを聞いて治美は考え直した。自分と付き合ってからならともかく、過去を理由に相手を振るのは、間違いのような気がしたからだ。
それなのに染谷は、それ以来治美に冷たくなった。どういうことかと治美が尋ねると、染谷は「別れよう」と言い出した。染谷はプライドが高かったため、振られることが納得できなかったのだ。
ちんけなプライドに固執し、自分を振り回した染谷を、治美は恨んだ。しかしだからといって、染谷の住まいを馬鹿にする英輔に同調する気にはならなかった。団地住まいだろうと、バツイチだろうと、障害があろうと、治美は染谷と結婚するつもりだったからだ。
染谷の住まいを蔑めば、自分が元気になると、英輔は思っているのだろうかと治美は考えた。だとしたら英輔は、上等な人間ではないと思われた。だとしなくても英輔は、上等な人間ではないと思われた。
団地を遠巻きに眺めるという行為は、長い時間を、潰せるものではない。一体何のために見学に来たのか分からないまま、二人はさっさと帰路についた。車中で治美は突然尿意を感じ口にした。都合の悪いことに、辺りにはコンビニすら無かった。
「お前と付き合ってた時だったら、お前の尿だって飲めたのにな」
と英輔が何の解決にもならない発言をした。
ふと治美は残念に思った。決して飲んで欲しい訳ではないのに、もう英輔が自分の尿を飲めない事実を、残念に思った。
うかつに返事は送れないと、治美は恐れていた。送った返事が自分の未来を、決めてしまう気がした。やっぱりSNSはやめませんと送れば、光佑と寝ることになる気がした。やっぱりSNSをやめますと送れば、光佑と会うこともかなわない。
会うだけなら許されるのか、よく分からなかった。出にばれた場合どこまでが許されるのか、よく分からなかった。世間はどこまで許すのか分からなかった。それでも今ならまだ許される気がした。故意ではなく、知り合った相手が元カレの兄だった場合、ついでに元カレの近況を尋ねるくらいは、許される気がした。
しかしその先が分からなかった。例えば、光佑と会っていいのか分からなかった。通常なら許されないことは理解していた。ただ自分が作家志望の場合は、例外として認められるのかどうかが、分からなかった。好奇心は作家の性だ。その好奇心をどこまで解き放っていいのか分からなかった。
メッセージを送らず寝床に戻った。悶々として寝付けず、挙句の果てに寝過ごした。弁当も持たずに出社して行った出を思い、治美は唇を噛んだ。こんなことを続けている訳にはいかなかった。
パソコンを立ち上げ、メッセージボックスを確認すると、メッセージが一通入っていた。
差出人 ousuke
日付 5月19日21時10分
件名 提案なのですが
僕が悪かった訳ではないですけど、僕とのやり取りの中で、みつきさんはSNSをやめようと思い詰めた。
そのみつきさんを、引き止めたいと思うのはわがままなのですが、
こんなやり取りではまどろっこしいから
もし良ければ、ケイタイ番号を教えてくれませんか?
もちろん僕の番号とメールアドレスも教えます。
末尾には、ケイタイ番号とメールアドレスが記されていた。治美はそれをすかさず、ケイタイに登録した。そうしながらも迷っていた。
男に引きとめられるとは、久しぶりの経験だ。なかなかいいものだと思う。それを味わえたのだからもう充分だという気もする。けれど作家志望者として、もっと貪欲にならなければとも思う。
請われるまま、浩輔に連絡先を教えてしまうことに、治美は罪の意識を感じた。しかし教えないことにも罪の意識を感じた。小説のネタをみすみす見逃すという行為が、大変罪深いことに、治美には感じられた。
どちらも罪なら、果たしてどちらを選択するべきか。
心が定まらなかったので治美は、パソコンを落として、洗たく機を仕掛けた。水道から洗たく機へ水が注入される音を聞きながら、蓋を閉めハッとする。浴槽の残り湯を使うつもりだったのに、忘れていたことに気づいたのだ。
何をやっているのだろうと思いながら、顔を洗うために、キッチンへ向かう。洗面台に設置された蛇口からは冷水しか出ないため、キッチンの湯沸かし器で、洗顔するのが日課だからだ。ボタンを押し出てきた湯が熱くて手を引っ込める。ぬるま湯に設定するのを、忘れていたことに気付く。
治美は舌打ちしながら、水道の蛇口を捻った。流水に指先を浸しながら、日常生活を犯されてしまっている事実について考える。何ともしゃくだった。何とかしなければならない気がした。
蛇口を閉じ濡れた手をタオルで拭うと、治美は再び、パソコンを立ち上げた。浩輔への返事を保留にしていることが、今の事態を招いているように思えたからだ。
キーボードを叩きメールアドレスとケイタイ番号を打ち込むと、治美はそれを光佑に送った。連絡先を教えずにいても、ここまで日常が破壊されるなら、いっそ開き直って教えたくなったからだ。電話だけなら、光佑に押し倒されることはないのだから、安全な気がした。
しかし送ってしまうと、何やら自分が、取り返しのつかないことをしたような気分になった。でも今更そんなことを思っても、もう取り返しがつかない。
一体どうしたらいいのだろうと、治美は考えた。考えたがよく分からなかった。そこでとりあえず日常生活を送ることにした。まだ洗顔もすませていないのだから、まずはそれを、すませるべきだろうという気がした。それなのに、果たして洗顔することに何の意味があるのだろうという、疑問が芽生えた。
メンタルが揺らいでいるのを感じた。いや分かっていたことだ。光佑に連絡先を教えなくても、すでに治美のメンタルは、揺さぶられ始めていた。そのせいで夜は眠れず朝は起きられず、家事は不手際を起こした。だから治美は光佑に連絡先を教えたのだ。教えなくてもそこまで日常が脅かされているのならと、自棄になったのだ。
そして光佑に連絡先を教えた今、治美は、光佑からいつ連絡が来るかということ以外に、意味を見出せなくなってしまった。まるで恋をしているかのようだと、治美はぞっとした。治美は恋に落ちると、自身の恋情が中心の生活を送ってしまうタイプだったから。
しかし過去の恋情など、今の治美にとっては、どうでもいいことだった。治美は今はただ、光佑からいつ連絡が来るのか、それはケイタイメールという形で来るのか、それとも電話という形で来るのかということだけが、気になってたまらなかった。
とはいえ、ただケイタイを握り締めて待つという行為を、自分に許すことが、治美は恐ろしかった。できるだけ冷静な心で生きていたかった。そこで治美はやはり洗顔することにした。意味を忘れたまま顔中に泡を広げていると、ケイタイが鳴り出した。慌てて目元と左頬だけをすすぎ、ケイタイをつかんだ。
顔のそこかしこに泡を残したまま、治美は液晶を確認した。先ほど登録したばかりの光佑の名前が、浮かんでいた。
英輔には気に入りの逸話があった。交際当時から英輔は、気が向くとその逸話を、治美に語って聞かせた。それは知り合いの美容師に、『完全自殺マニュアル』を持っていると話したところ、貸して欲しいとせがまれ、貸したところ彼が妻子を残して、命を絶ってしまったというものだった。
英輔はこれまでの恋人たちや、治美と別れた後に付き合った新潟の女には、もっと頻繁にこの逸話を仕掛けた。治美にあまり仕掛けなかったのは、治美の反応が思ったものと違ったからだ。
「どうしてオレは、言われるまま貸しちゃったんだろう」
と後悔に駆られてみせる英輔を、ある時治美は
「ホントだよ。どうして貸しちゃったの」
と責めた。その人が死んだのはあなたのせいではないと、慰めてもらえることを期待していた英輔は、びっくり仰天した。
しかし治美は、その人が死んだ理由の一因は、英輔にあると考えていた。大体その本を活用される可能性を、全く考慮せずに貸してしまった英輔が、よく分からなかった。
だがそうは言われても、英輔は死にたいと思ったことが、これまでに無かったのだ。太宰が好きだからといって、死にたがりの気持ちが分かる訳ではない。死にたくない英輔は、物事を自分の物差しで考えていた。自殺マニュアルを入手した途端、死んでしまうほど危ういところを歩いている人間の存在が、ピンと来なかったのだ。
死にたくない人間の、ある種の愚鈍さに、治美はうんざりした気分になった。別に自殺は推奨すべき事案ではないが、自己破産をした挙句、クスリをやめられない身であるくせに、生きる意欲に溢れているのも問題に思えた。それに死にたくないということは、治美と分かり合えないということだ。
二度も鬱になったくらいだから、自殺願望は治美にとって、馴染み深いものだった。なぜ実行しないのかといえば、自殺願望と共に生きる日常に慣れてしまったからだ。大体、願望というものが即座にかなう半生を送っていたなら、自殺願望は生まれない。
治美にとって願望というものは、かないにくいものだった。だから自殺願望を実現せずに飼い続ける行為は、当たり前のものだ。こういう後ろ向きな自殺志願者は、きっかけが無ければ、自殺しにくい。例えば英輔の知り合いの美容師のように、自殺マニュアルでも手に入れなければ。
快楽が欲しいと思えば、ヌード劇場の踊り子と変態プレイを行い、兄の恋人とも情を通じ、借金してまで違法ドラッグにも手を出す。そういった積極性に、溢れていた英輔が、美容師や治美と分かり合えないのは当然のことだった。仕方が無いので治美は、一人で回想に浸った。
マリファナをした時の喉元の苦しみを、治美ははっきりと覚えている。あの体験の後自分が難産だったことを思い出し、妙な心地になったものだ。
生れ落ちた後の生活が、こうも過酷だということを、自分は知っていたのではないかとふと思う。だから胎児だった頃、へその緒で首をつろうと企てたのかも知れないと。それが失敗に終わったからこそ、自殺願望を行動に移す気力が、湧かなくなってしまったのかも知れないと。
それでも電話に出るまでは、治美はまだ冷静さを保っていた。防水機能が付いているから、顔に残った水分は、心配しなくてもいいかも知れないが、泡がケイタイに付着してしまったら、まずいのではないかと考え、フェイスタオルで顔の左側をごしごしと拭った。ケイタイもそうだが、泡をずっと付着させていたら、肌にも悪いだろうと心配した。
それでいて、顔をきちんとすすぐことよりは、すぐさま電話に出ることを優先した。顔をすすいでいる間に、コール音が途絶えてしまったら、自分がどれだけ失望するかと考えると、恐ろしくてたまらなかったからだ。
顔の右半分を、泡と水分で塗れさせたまま治美が電話に出ると、ケイタイの向こうから流れてきた気配は、声だけでなく、話し方や息遣いまでもが、英輔にそっくりだった。治美は胸の高鳴りを感じた。ケイタイ機器と肌の心配が頭から吹き飛んだ。まるで五年振りに英輔と通話しているかのようだった。
舞い上がっている治美に、光佑は
「突然電話しちゃって、びっくりしたと思うけど、君ともう関われなくなるのは、僕の人生の損失だと思ってさ」
と英輔そっくりの口調で言った。そういえば、付き合う前とヨリを戻す前、英輔は治美を「君」と呼んでいた。この兄弟は距離を縮めたい女に対する呼びかけまで同じだ。
耳を侵食するその言葉を、英輔の唇が発しているかのように、治美は錯覚した。優しい言葉が、英輔にされた様々な酷い事柄を埋めるかのように感じられた。英輔にはもう懲り懲りだが、光佑は英輔ではないのだ。
だから関わってもいいのではないか。そう思いついて、治美はハッとした。危険だと思った。目の前には今危ない橋が架かっている。でも危ない橋なら、尚のこと渡りたかった。駆け抜ければいいのではないかと思った。危ない橋には、長いこと滞在しなければいいのだ。
その時、光佑が
「でもどうしても君が、SNSをやめたいって言うなら、僕には止める権利は無いけど」
と悲しそうな声を出した。
何だ。電話までかけてきておきながら、そんな弱気なことを言うのかと、治美ががっかりしていると
「SNSをやめちゃうなら、せめてこうして、電話に付き合ってもらえたらと思うんだけど。僕のわがままだけど」
という言葉が続いた。
つれなくした後、すかさずフォローするやり口も英輔と同じだ。遊び人の手口だと分かっているのに、何度も繰り返されると、ふらふらしてしまう。だから早めに引き上げなければならない。早いところ成果を得て、引き上げなければならない。
けれど成果とは、どのようにして得たらいいのだろうか。また成果とは具体的に何を指すのだろうか。考えあぐねながら治美は
「いえ、電話くらいならいいですよ」
と返事をした。
「ホントに? いやあ嬉しいなあ。治美ちゃんとは……、あ、治美ちゃんて呼んでいい?」
「いいですよ」
「治美ちゃんとは、文学や芸術の話ができるから、ああゆうメッセージのやり取りじゃなくてね、いや、ああゆうやり取りも楽しいんだけど、ほらああゆうのってすぐ返事が来ないでしょ。だからオレ、……あ、オレなんて言っちゃった」
うまいと治美は感心した。オレという一人称は横柄だから、使う気は無かったのだが、君には気を許せるので、つい使ってしまったと言われた訳ではないが、言われた気がした。遊び人というものは英輔もそうだが、はっきりそうは言わないのに、思わせるのがうまい。
「オレでいいですよ」
「そう? いやオレは心配性だから、ちょっとメッセージが来ないと、このままずっと来ないのかなって心配になっちゃうんだよね。オレは気の利いたこと言えないから……」
「え、そうなんですか」
気の利いたことが、言えない男が、二百人斬りを達成できるだろうかと疑問に思いながら治美が尋ねると、光佑は
「そうそう。そこがオレの弟とは違うところ。あいつは結構口うまいからさあ」
と答えた。
「ああ、そうですね」
納得を口にした途端、何となく、口がうまくないと言われたことに納得したような錯覚に陥る。
「でしょ? だからあいつは口先で世の中渡って、いい思いしてんだよなあ。その点オレは、お世辞とか言えないから苦労するんだよね。そうだからね、オレは口がうまくないから、治美ちゃんの気分を、害したんじゃないかとかって心配になって」
英輔は、地獄のような人生のはずだったのに、いい思いをしていると言い出す。光佑が嘘つきな証拠だ。嘘つきの発言には矛盾が多い。
「あ、でもハワイに留学してたっていうのは、先に光佑さんがコメントしたことですよね」
「そうだっけ?」
「そうですよ。それなのにあたしがブログのコメント欄に、最初に書いたみたいに注意されたから、その件は、違うのにぃと思いました」
男に文句を言う際は、すねた口調にした方が、受け入れられ易いと、治美は経験で知っていた。
それに対して光佑は
「そっかそっかー。じゃあそれはオレの勘違いだ。たださ誤解しないで欲しいんだけど、オレは君に、文句を言ったつもりじゃないんだよね。君がこれからSNSをやっていくにあたって、知ってた方がいいことだと思ったから」
と優しそうな声を出した。
「そっかそっかー」は、距離を縮めたい女に対する英輔の口癖だったので、治美は懐かしくなった。
「分かりますけどぉ、でもクウさんが妹さんだっていうのも、クウさんが自分のプロフィール欄に、光佑さんのこと、『兄です』って書いてるんですよぉ」
「マジで? 参ったな。いや参らないんだけど」
「どっちですか」
思わず笑った治美に、光佑は
「何か、楽しいな」
とつぶやいた。
「君とは文学や芸術の話ができるから、会話したら楽しいだろうと思ってたけど、そういう気取った話をしなくても楽しいんだな。何か感動したよ」
「そうですか」
「だってさ、世の中色んな人間がいるけど、その中で話が合う人間なんてわずかだよ。そう思わない?」
話が合うと言えるほど、まだ二人は会話をしていなかった。しかしこれは、一般論なのではないかという気がして、治美は「そうですね」と返事をした。そして同意を口にしてしまうと、何やら自分が光佑と話が合うと、肯定したような気分になった。
「いやあ君とこうして、電話できる間柄になれてよかったなあ。でもなあ、君と話すのは楽しいから、電話代すごいことになるんだろうなあ。……て、そういう意味じゃなくてね、オレは男だから君と電話する時は、オレが電話代払うのが当たり前だと思ってるし、だからもし、君の方からかけてきてくれる時があったら、当然かけ直すつもりだし、それは全然苦にならないんだよね」
「え、でもあたしからかけた場合はかけ直さなくてもいいですよ」
自分から光佑に電話をするつもりは無かったが、黙っていたら、自分からかけた場合は、かけ直せと求めていることになる気がして、治美は断った。しかしそれを口にしてしまうと、自分があたかも光佑に、電話をかける意思があるかのような気になった。
「いやいや聞いて。オレの弟は金にルーズな男だから、色々女の人に金をたかったりしてたんだよね。オレはあいつのようになりたくないから、自分が気に入って関わってる女の人には、一銭も使わせたくないんだよね。もし使うとすれば、オレに会うためにひく口紅に金を使って、綺麗になって欲しいんだよね。だから女の人のために金を使うのは構わないんだけど、でも電話代っていうのは、オレの好みの使い方じゃないんだよね。だって実際に会えば、相手の顔が見える上に、金かからない訳でしょう。だったら会って浮いた金で、女の人に洒落た店でお茶の一杯でもご馳走したい。そして女の人が『美味しい』って笑う顔を、見たいっていうかね」
何て口のうまい男だろう。英輔にそっくりだと、治美は感じ入った。会いたいという要望を断ることに、罪悪感を抱かせてしまう点など、英輔が電話口で、光佑を語っているのではないかという気になるほどだ。光佑が英輔との違いを強調するほどに、二人の類似性は増した。
「だからね、こうして電話で君と話してるのも楽しいんだけど、できれば君に、美味しいお茶をご馳走しながら話せたら、もっと嬉しいっていうかね。まあオレのわがままなんだけど」
わがままとまで言われてしまうと、違う気がした。だからとりあえず治美は
「わがまま……、ではないと思いますけど」
と返事をしてみた。
「じゃあ、ご馳走させてくれる?」
巧妙に外堀を埋められていたことに、治美は気付いた。でもだから何だというのだろう。成果を上げることを、治美も望んでいたのだ。
治美は「はい」と返事をした。自分が危ない橋に、一歩踏み出したのを感じた。
治美が出と出会ったのも店だった。二人は、ホステスと客として知り合った。
当初、出の目当ては別の女だった。店のナンバーワンを出は指名していた。しかし彼女はナンバーワンだったため、あまり出の席に着くことができなかった。そこで治美が度々その席に派遣された。治美は暇だったからだ。水商売が苦痛な鬱気質のホステスが、売れっ子になれる道理が無かった。
度々同席する内に、出は治美を気に入った。互いに読書家で話が合ったし、出は暗い女が好みだからだ。
一方、治美はなかなか自分の気持ちに気付かなかった。出はお世辞にも、色男と呼べる類ではなかったからだ。
遠距離恋愛だった串崎が、凡庸な外見だったのだから、いいではないかという気がするが、串崎はお世辞なら色男だった。障害者の染谷とまで付き合ったのだからいいではないかという気もするが、染谷は涼しげな顔立ちの美男だった。つまりそれまでの治美にとっては、美しくない健常者より美しい障害者の方が望ましかった。
並み以上の外見の男にしか、惚れたことのなかった治美は、出に対して、自分の胸に渦巻く感情は恋ではないと、長いこと考えていた。しかし本人がどう認識しようと芽生えた恋は育まれる。認識が遅れたため、治美が気付いた時に、その恋情は手がつけられないほど燃え上がっていた。
そのため治美は、突然出に電話をかけ好きだと告げた。それが治美の人生初の告白だった。
ナンバーワンの女から治美に、指名を変えてはいたものの、まだ店外デートすらしていなかった出は、事態が飲み込めず
「ちょっと待って。まず問題を整理しようか」
とのんきな返事をした。しかしだからといって、出が嬉しくなかった訳ではない。
とんとん拍子に二人は、付き合うことが決まった。治美は浮かれながら英輔に報告した。英輔はそれを祝福した。出は一部上場企業の会社員だった上に、真面目そうだったからだ。また読書家だったことも英輔を満足させた。
「ゴムつけたがらなかった野郎とか、バツイチ野郎とか、お前が最近関わってた野郎共に比べたら、全然いいじゃん」
と英輔は機嫌がよかった。条件のよかった串崎と別れる時に、英輔に反対されたことを、治美は思い出した。英輔はどうしようもない男ではあるが、それでも自分の幸せを願っているのだと感じた。
とはいえ、いつまでもこうして、英輔と関わり続けていてもいいのだろうかと治美は危惧した。ゴムつけたがらなかった野郎や、バツイチ野郎と関わっていた時には、英輔は別腹だと思っていたが、出に対してそれでは、不誠実な気がした。出は誠実そうだったからだ。
付き合って二ヶ月で、結婚話が出たこともあり、治美は出を呼び出すと、実は元カレと定期的に会っているのだと告げた。盗まれた金を、返済してもらうために会っていて、まだ残があるので会い続けたいと説明すると、出は難色を示した。
「残額オレが払うから、もう会うのやめてくれない?」
出に払ってもらう謂われは無いと、治美は断った。自分の収支さえ合えばいいと、考えていた訳ではないからだ。しかもこれから結婚するのなら出の財布は治美のものになる。その財布から、今だけ金が流れてきても意味が無い。しかし収支はさておき、出がここまで嫌がるのなら、もう英輔と会うことはかなわないようだった。
試しに、出のことは、英輔も認めていると言ってみたが無駄だった。考えてみれば、元カノの金を盗むような男に認められて喜ぶようでは、出はろくな男ではない。
仕方なく全額返済を治美は諦めることにした。その代わり、最後に一度だけ、会っていいという許可を取り付けた。その最後の機会に、もう会わないと英輔に告げるためだ。そんなもの別に電話で済ませればいいのだが、それでは金が返ってこない。翌週が返済予定だったため、それを最後の機会にしようと治美は考えた。
事前に電話で事の経緯を伝えると、英輔は
「じゃあ結婚祝いに、来週全額返済するわ」
と請け負った。元は治美の金なのだから、結婚祝いも何もないのだが、何にせよ金が戻ってくるとは喜ばしい。
しかし返済日、英輔の持参した金額は三万円足りなかった。どういうことかと治美が尋ねると
「ちょっと、金策が上手くいかなかった」
と英輔は頭をかいた。つまりパチンコでスッたのだ。
だったら初めから、全額返済など請け負わなければいいのにと、治美が不愉快を覚えていると、英輔は
「来週だったら、都合できるんだけど」
と言い出した。
「もう、いいよ」
と治美は疲れたように返事をした。
「えー、じゃあ会うのこれが最後かよ」
まるで初耳であるかのように、英輔は抗議した。英輔はまだ治美に所有欲の名残を感じていた。
「今日が最後だって、先週の内に言ったよね?」
治美が冷たく尋ねると、英輔はしょんぼりとした。すっきりしない別れだった。
指定された喫茶店の名前を聞いて、治美は一驚した。英輔との最後の逢瀬に使った店だったからだ。どうしてそこなのかと、尋ねたい気がしたがやめにした。そんなことを尋ねたら、その店では嫌なのか、ならばどこがいいと尋ねられそうで、面倒だったからだ。
突然だけど今日の午後から、という提案も受け入れた。本当は歯石を取りに、歯医者に行きたかったのだが、予約を入れている訳ではなし後日に回せばいい。それよりも平日の昼間に、こんなにも急に時間を空けられる光佑が、治美には驚きだった。
自宅のアトリエで、作業をする身分だということだから、自由が利くのだろうが、締め切りには追われていないようだと、推測できた。本当に仕事が忙しくて胃から出血して入院したのだろうか。ただの不摂生だったのではないかと、治美は白けた気分になった。暇な人間ほど、多忙な振りをしたがるものだ。
働かざる者食うべからずだから、仕事にならない今日は、一切食事をしないと言っていた男が、当然のように、今日の仕事を半日で終わらせようとすることにも、治美は不快を覚えた。半日で終わらせたからといって、昼以降に光佑が、食事を断つとは思えなかったから。
不快な相手になぜ、こんなにも急いで会いに行こうとするのか。ネタのためだと治美は考えた。しかしだとしたらなぜ自分が、クローゼットに吊るされた洋服を、真剣に吟味し始めたのか、そこまでは治美は分からなかった。
あれこれ迷った上治美は、黒いタートルネックの上に、グレーのワンピースを合わせた。英輔がシックな色合いを好んだことを、覚えていたからだ。ワンピースの胸元には、リボンがあしらわれているが、色味を抑えたため甘すぎない仕上がりだ。こういう上品な甘さを英輔は好んでいた。
二人が似たもの兄弟である以上、服装の好みも、似通っている可能性があった。治美は光佑に好ましいと思って欲しかった。光輔を嫌いなのに、好ましいと思って欲しかった。
身支度を整えると治美は、最後の仕上げに、リップグロスを手にした。「オレに会うためにひく口紅に金を使って、綺麗になって欲しいんだよね」という光輔の声が、耳元によみがえる。このグロスは知人からのプレゼントだったため、治美は一切、金を使っていないのだが、何やら心が浮き立った。
男に会うために、自分を装うという、久しぶりの行為に高揚していた。まるで恋をしているかのようだった。いや恋なんかよりずっと素敵だとすら思った。
喫茶店の駐車場にラパンを止めると、そこから降り立ち、治美は待ち合わせの喫茶店を見上げた。
店の佇まいは、三年前と変わっていなかった。見た目は重そうなのに、押してみると案外軽い木製のドアを押して中に入る。ドアに付けられたベルがからんころんと鳴る中、店内を見渡すと、階段が目に入った。そういえばこの店には二階席があったのだ。
光佑の顔は記憶しているから、会えば分かると思っていたのだが、もし二階に上がられていたら、目で探すことができない。逡巡していると、「いらっしゃいませ」とバイトらしい若いウェイトレスがやって来た。パーマっ気の無い真っ直ぐな髪をしている。近所の国立大学の学生か。
そちらに目をやった時、背後のテーブルで、軽く手を挙げる男の姿があった。全身黒ずくめの姿をしている。光佑だった。
「待ち合わせです。あちらと」
治美が光佑の席を指すと、ウェイトレスは笑って引っ込んだ。
治美は席に向かうと
「どうして分かったんですか」
と尋ねながら腰を下ろした。光佑は、治美の記憶が無いと言っていたはずだ。
「顔見て、思い出した」
三年前より肌がたるんだようだ。目元に刻まれたシワも、過ぎ去った年月を語っている。それでも微笑む顔が英輔にそっくりで、治美はぎょっとした。これで口元にこぼれる前歯が欠けていれば、完全に英輔のコピーだ。
光佑から目を逸らすと、治美はメニューを手にした。光佑の目の前には、すでにコーヒーが置かれている。治美も何か頼まなければならない。そう思うのにメニューの上を目が上滑りした。落ち着かなければならない。ならば鎮静作用のあるペパーミントティーはどうか。
先ほどのウェイトレスを呼び寄せ、注文をすると、治美はバッグから、セーラムライトを取り出した。ハッカ系の飲み物を頼んだ上に、ハッカ系のタバコを吸うとは、どれだけハッカ好きかと思われそうだが、光佑もラッキーストライクを吸っているので、遠慮なく火を点けることができる。
そうか、ラッキーストライクかと、治美は再度テーブルの上に置かれた光佑のタバコに目をやった。英輔が吸っていたのと、同じ銘柄だ。
嫌あな気分が、膝裏を撫でるように上っていくのを感じた。この男は英輔に、似すぎていると思った。いくら血を分けた兄弟だからといって、一卵性双生児でもないくせに。
治美はライターを点した。治美は四人きょうだいだ。その中で鬱を患ったのは治美一人。統合失調症を患ったのは妹一人。タバコを吸うのは治美一人だ。タバコに限らず、きょうだいたちは誰も治美に似ていない。似ていたら、父親が指導者を務める宗教施設に加入するものか。治美以外の三人が加入している現状は異常だ。
そういうものだと、治美はそれまで思っていた。同じ種と畑でできても、全く違うのがきょうだいだと。それなのに英輔光佑の類似性はどうだ。
治美は何となく、イライラしてきた。英輔と光佑が似ていることが不快だった。遺伝子がさぼっている気がした。
遺伝子を残すために、人はなるべく、多くの子を生まねばならないが、ただ生むだけでは駄目だ。生むなら違うタイプにしなければ生き残りが望めない。色んなタイプを生んでおけば、どれかが世の中に適合できるのだ。
それなのになぜ、この兄弟はここまで似てしまったのかと、治美は不服を覚えた。英輔と光佑は、一人いれば充分すぎるほどに充分だった。この手のタイプが一人だけでは惜しいなどと、誰が思うというのだろう。もしかしたら一人もいなくても、よかったのかも知れない。
せかせかと煙を吐く治美の視界に、手元のタバコが入った。唇の端でくわえているが、吸い口はリップグロスで彩られていた。一人もいなくてもよかったのかも知れない男と会うために、グロスを塗ってしまった事実を突きつけられたようで、治美はたじろいだ。
その時、光佑が
「弟に写真見せられたことがあるんだよ。君の」
と言い出した。
「そうゆうこととか思い出した。さっき」
「あたしのこと、ミス宝石より美人だって言ってくれたこともですか」
何となく挑戦的な気分で治美が答えると、光佑が
「あ、それ今言おうと思ったのに」
と笑う。それを治美は苦々しい気分で見詰めた。そんなものは世辞にならないと治美は思う。なぜそこで、比較対象としてミス宝石が出てくるのだ。
それは英輔が、ミス宝石とのツーショット写真も、所持していたからだ。英輔はおそらくミス宝石とも浮気していた。
悔しさを悟られまいと、治美は視線を横に流した。漂う固い空気に光佑は不審を覚えたが、気付かない振りをして、「それと」と言った。
「あいつが新潟のカノジョに乗り換えようとした時に、止めた記憶がある」
「知ってます」
別れ話が進んでいた時、英輔が不意に言ったことがあった。「兄貴が」。
「オレが治美に頼み込んで、ヨリ戻したこと知ってるからさ。しんどかった時に助けてくれた人を、どうして捨てるような真似するんだって、オレを責めるんだよね」
別れたがっているのはあたしなのに、英輔の兄は、どうしてそんなことを言うのかと、治美は不思議だった。別れてしばらくしてからふと悟った。表向きは別れを拒否しながら、英輔自身も別れに向かっていたことを。英輔の心はとっくに、新潟のカノジョに傾いていた。
その時、英輔の兄に温かいものを感じたのは事実だ。
二百人斬りをしているような男が、弟に人の道を説いたことが、意外だったしありがたかった。付き合っても何のメリットも無い男と、復縁した自分を、いたわってくれる存在がいたことが嬉しかった。友人知人全てが復縁を反対した中で、一時でも英輔に未来を任せた自分を、汲んでくれた気がした。
その頃から自分は、光佑に好意を抱いていたと治美は思った。ふと、ならば大丈夫なのではないかという気がした。何がという訳ではないが、大丈夫なのではないかという気がした。
真っ直ぐな髪のウェイトレスが、ペパーミントティーを運んできた。透明のティーポットの中に緑色の植物が揺らいでいる。治美はカップにティーを注いだ。緑色の植物から抽出された熱湯は、黄色を思わせる緑色だ。
「君が、弟と結婚すればよかったのに」
治美はカップの中のティーを見つめ続けた。花嫁の持つブーケの色に似ている。
付き合っている間、英輔の花嫁になることを夢想していた。そして好きだったのに別れた。どうしようもない男だったけれど、別れることによって英輔の妻になる夢を砕かれ、治美は苦しさに、のたうち回って過ごした。
周囲は、あんな男と別れてよかったとそればかりを口にした。誰も、ウェディングドレスを身にまとって、英輔の隣に立つ治美の姿を見られなくて残念だとは言わなかった。誰も、治美と一緒に懊悩してはくれなかった。
鼻の頭が熱くなるのを感じ、治美は唇を噛んだ。馬鹿なことを考えている気がした。あれから恋をしなかったならともかく、三度も恋愛した。しかも今は人の妻だ。出と式を挙げた時は人並みに感動した。それどころか出を愛しているつもりだ。それなのに、
過ぎ去った英輔との交際の記憶と、共に生きているなんて。
「いやでも、治美ちゃんは賢いからな」
と光佑は付け足した。
「頭いい人は、弟からはすぐに離れるよな」
「いいえ」
治美は光佑を見詰めた。媚びた真っ直ぐな目で見詰めた。
「あたしなんか、馬鹿です」
光佑はしばし沈黙し治美の顔を見詰めた。そして
「まあ、弟と二回も付き合ったんだから、馬鹿な面もあるんだろうけど」
と言い始めた。
「馬鹿、結構じゃん。白痴美人そそるよ」
「白痴ブスと、どっちがそそります?」
「んー、白痴ブスだな」
気落ちする自分を、治美は感じていた。ブスよりは美人と評される方がありがたいのに、白痴ブスよりは、光佑をそそらないらしい自分に失望した。それに光佑は、治美とは文学や芸術の話ができると喜んでいる。つまり光佑にとって治美は、ちょっとしか馬鹿な女ではないのだ。
こんな心境になった以上は、自分は光佑と、いずれ寝るのだろうと、治美は敗北した気分になった。メッセージを交わし始めた時点では嫌いな男だったのに、いつの間にか光佑に、突き動かされている。
出のことを考えた。ただの不倫だって悪い。それが元カレの兄とだなんて裏切りもいいところだ。しかも治美の金を、盗んだ英輔の兄。出がその金を立て替えるとまで申し出てくれた男の兄。
それなのに、それが何だというのだろうという気になってくる。
この出来事を、小説にしたいという創作欲か、はたまたただの好奇心か治美には見分けがつかない。ただどちらであれ、このまま乗ってしまいたいという願望が、生じていることは事実だ。そしてこの願望は、光佑との偶然の再会から生じた。
この偶然の再会は天使のいたずらか、悪魔のプレゼントか。
治美はふと、欧米の人々が、一神教を信じる理由が分かった気がした。ヨブ記によるとユダヤ教イスラム教キリスト教の世界では、悪魔でさえ、神の許しが無ければ何をすることもできない。
つまり、もし一神教が正しいのなら、偶然の再会は神の御心だったと解釈できるのだ。
最後の逢瀬だと、治美が思っていた日の翌週、英輔は治美のケイタイを鳴らした。「どうしたの」と治美が尋ねると
「言ったじゃん? 来週なら金都合できるって」
と晴れやかな声が響いた。
「え、でもあたしもう会わないよ」
「お前のアパートの前まで、来てるんだけどなー」
治美は溜め息を吐くと、「待ってて」と電話を切った。返済金を受け取りたいというよりも、アパートの前まで来ていると言う英輔を、追い返すのが億劫だった。「帰って」「帰らない」のやり取りをするくらいなら、さっさと会って帰ってもらいたかった。
ドアを閉め、治美が玄関を施錠していると、英輔が外階段を上がって来た。
「何で? 『待ってて』って言ったじゃん」
と治美は抗議した。
「何、中入れてくれないの」
「入れないよ。それが嫌なら帰って」
低い声を出す治美に、英輔は
「帰る訳ないだろ」
とまるで恋人に放つような声を出した。
「別にオレは、お前の体が目当てな訳じゃないし。ただオレの元を離れて、幸せになるお前にさ、この金がはなむけになればと思っただけでさ」
銀行の封筒を差し出す。かっこつけているが、重ねて言うがこれはそもそも治美の金だ。治美は白けた気分になったが、しかしこの英輔が、金を全額返済したのだから、たいしたことかも知れないと思い直した。全く思い直す必要は無かったのだが。
ドアの前で、立ち話も何だということになり、二人は近所の喫茶店へ向かった。コーヒーをすすりながら英輔は
「結婚することになった」
と単刀直入に切り出した。
「カノジョと?」
「そう」
「まだ、付き合い始めたばっかじゃなかった?」
英輔は三ヶ月前に、新潟の売り子と付き合い始めていた。美人ではないからと渋っていたものの、最近彼女が処女だと分かり、株が上がったのだ。
「カノジョが妊娠しちゃって」
「何で? デキ婚なんて英輔らしくないじゃん。避妊してなかったの?」
「まあね」
これは余程カノジョと結婚したかったのだなと、治美は考えた。最初は風俗嬢とかけもちしていたものの、結婚するなら確かに、風俗嬢より処女だろう。ただ英輔のような男が、処女を孕ませて結婚するなど罰当たりな気がするが。
「やっぱ子供ができると、優しい気持ちになるっつーか、お前にも色々酷いことしたけどさ、せめて金くらいは全部返そうと思って」
顔を背けたくなるほど、間の抜けた顔をする。ここまで危機感の無い表情をされては、注意を喚起したくなるのが人の性だ。
治美は
「あれだけクスリやってて、子供つくるの不安じゃなかったの? 異常がある子が、生まれるかも知れなくない? あたし英輔と復縁する時、もしかして結婚することになるかもと思って、子供持つこと諦めたんだよ」
と厳しいことを言った。
自分は果たして、子供を持つことを諦められるのかと、治美は何度も自分に問いかけたのだ。
「もしどんな子が生まれても、オレは受け入れるつもりだからさ」
英輔は慈愛に満ちた表情をした。これではまるで、障害児を心配する治美の方が間違っているかのようだ。元はといえば英輔が、初めからドラッグに、手を出さなければよかっただけなのだが。
それにしても、優しい気持ちになったから、全額返済するということは、当初は全額返済の予定ではなかったのかと、治美は面白くない気分になった。優しい気持ちになったのなら、多少色をつければよいのに、英輔に渡された額は一円の余りも無かった。
沈静作用のあるペパーミントティーを飲んでも、さっぱり気分が落ち着かず、治美は
「カノジョの写真、見せてよ」
とねだった。何でもいいから、自分に新しい情報を入れてやらなければ、気分を変えられない気がした。
英輔は嬉しそうにケイタイを差し出した。
「枕元に写真飾ってるんだけどさあ、駄目だよなあ。写真があると自慰もできねえよ」
自慰ができなくて困るなら、写真を外せばいいのに。と思ったがそれを口にするのも面倒で、治美は黙って、画面に目を落とした。ぬけぬけとした笑顔を浮かべる英輔の横で、微笑んでいる女がいる。
確かに美人ではない。謙遜ではなかったのだなと治美は思った。あれだけ外見重視を口にしていた男が、よくもこんな、平凡な容姿の女と結婚できるものだと、治美は呆れた。英輔の言葉とポリシーは、ちりあくたより軽い。
しかし、こうして写真を見てしまったからには、何か感想を述べねばなるまい。治美は
「聖母マリヤみたいだね」
と述べた。
処女が妊娠したと聞かされたせいか、聖母マリヤを連想したからだ。もっとも聖母マリヤは、処女のまま妊娠したということになっているが、そんなことはどうでもいいことだった。
聖母マリヤみたいだと言ってみると、治美は本当にその女が、聖母マリヤみたいな女のような気分になった。そんな女が、英輔のような男とデキ婚とは、気の毒なことこの上ないが仕方がない。
英輔によると、自己破産もドラッグ歴も、告白済みとのことだから、女にも責任はある。自己破産をしたような男の金銭的なルーズさを警戒できなかった点で。金にルーズな男は女にもルーズだと気付けなかった点で。ドラッグ使用が過去のことではないと、見抜けなかった点で。英輔に避妊を要請しなかった点で。
別れ際、英輔は眩しげに治美を見詰めると、「幸せになれよ」と呼びかけた。治美はうなずくと「英輔もね」とつぶやいた。
二人の言葉は軽かった。ちりあくたより軽かった。
二度目の逢瀬で、治美は光佑の車に乗った。アルファロメオだった。
「きゃあ、あたしアルファロメオに乗るの初めてです」
と治美ははしゃいだ。運転手が光佑でなければ、もっとよかったのにと思った。
「オレは感覚でやる仕事をしてるからさ、感覚に訴えかけてくれる車じゃないと駄目なんだよね」
気取った返事をする浩輔に対し治美は、ではどういう車なら、感覚に訴えかけてこないのだろうと思ったが、質問するのはやめた。どうせこの手のかっこつけ男が、国産車を非難するだろうことは、目に見えていたからだ。おそらく国産車には、個性が無いなどと言うのだろう。
英輔も似たようなことを言って、アウディーを乗り回して、潰していた。そして仕方なく、治美のラパンを運転するようになったが下手だった。運転の下手な男がゴタクを並べて外車に乗り、運転の下手さゆえに、オシャカにしてしまう様は白けた。高い関税を払う甲斐も無いというものだ。
自己破産に陥った男が、関税を払っていたなんて。
自己破産をしたのは英輔だ。光佑ではない。ただ光佑は弟の自己破産を救えない男だったのだと、ふと思う。光佑に余裕があったなら英輔は金を借りたはずだ。光佑だって貸せる金があったなら、弟を自己破産させたりはしなかったのではないか。自己破産は身内の恥だ。光佑はプライドの高い男だ。
英輔の借金総額は三百万だった。光佑はその金額が、捻出できなかった。そして自身はアルファロメオに乗っている。おそらく中古なのだろうと、治美はあたりをつけた。
ドライブをしていたら、ラブホテルの連なる国道沿いにさしかかった。光佑が
「あ、何かやべえ」
とつぶやいた。
「どうしたんですか」
「いやオレ、昔は好色一代男を目指してたって言ったじゃん?」
「はい」
目指してしまった点も、英輔と同じだと思いながら、治美は相槌を打った。英輔は高校に進学した際に、この高校で自分が一番になれる分野は何だろうと考え、体験人数を増やす決意をしたと、治美に打ち明けていた。
どうして一番になりたかったのだろうと治美は疑問を持ったが、尋ねるのはやめた。どれだけ質問を浴びせたところで、鬱気質の人間がやる気溢れる人間を理解できる訳が無い。それは脳内の、やる気物質の問題だ。
「だから昔は、隣に女の人乗せてる時は、どうやってホテルに連れ込もうかって、そればっか考えてたんだよね」
「そうでしょうねえ」
「でももう、そういうのは卒業したつもりだったんだけど、こういういかがわしい所通ってると、忘れてた情熱を、つい思い出しちゃうっていうかね」
探りを入れているのだなと、治美は思った。これが交際を考えている相手だったなら、そんな軽い女ではないというアピールをしたところだが、治美は手っ取り早く事を起こしたかった。光佑と寝ることについて、出に対して罪の意識はあったが、どうせ寝る相手なのだ。
だとしたら少しでも短い逢瀬で寝た方が、罪が軽い気がした。治美はただ一度だけ、寝たいだけだったからだ。
「やだ、そんなこと言われるとドキッとしちゃいます」
と治美は応じた。寝る可能性を踏まえてムダ毛処理は完璧だ。髪はおろしてきたしピアスも小ぶりだ。ホテルに連れ込まれても構わないと思う。
「うわ、そんな返ししちゃ駄目だよ。そそるじゃん」
「白痴ブスほどは、そそらないんじゃなかったでしたっけ」
「まあブス相手だったら、何してもいいと思うから、そっちの方がそそるよね。美人はやっぱヤッちゃうっていうよりは、させて頂くっていう対象だから、緊張するっていうか」
光佑のアルファロメオが国道を降りる。その後二、三のやり取りを経て、アルファロメオはラブホテルの駐車場へ入って行った。あっけなかったなと両者は共に感じた。
バックで駐車中の光佑に、治美はふと、「聞いていいですか」と尋ねた。ややこしいことを聞かれるのではないかと身構えながら、光佑は「何?」と聞き返した。
「英輔さんが関係を持った、光佑さんのカノジョって、光佑さんの今の奥さんですか」
ホッとしながら光佑はそうだと答えた。治美は合点した。それならば光佑は、さぞかし自分と寝たいはずだ。
二百人斬りをした男がなぜ、弟と寝た女と結婚するのかという疑問もあるだろう。だが相性とはそういうものだ。ひとたびこいつとはウマが合うと思えば離れられない。二百人と関係があればこそ、合う相手の存在は貴重だ。だからこそ、その相手と寝てしまった英輔が憎いだろう。
別れた相手とはいえ、英輔にとって特別だった女が、目の前に現れたら寝てみたいだろう。そんなことをして、解決になるかどうかなどは問題ではない。今、寝てみたいということが肝心なのだ。寝た後のことは問題ではない。
9999。それがホテルの名だった。そこが英輔の常宿だったことに治美は笑い出しそうになった。これでも光佑は、英輔を真剣に憎んでいるのだ。
シャワーを浴びるために、治美は浴室へ向かった。ラブホテルというものに入ったのは三年振りだ。結婚前に出と来たのが、最後だった。コスプレの充実している部屋で、セーラー服を身に着けたら出が随分ご機嫌だった。我ながら似合っていると治美も思った。高校を卒業して、九年経っていたのに。
あれから更に三年の歳月が流れた。三十路を迎えてしまったし、もうセーラー服は似合わないと思う。三年か、と治美は改めて考えた。三年後には夫以外の男とラブホテルを訪れることになるとは、想像もしなかった。それも元カレの兄と訪れることになるとは。
治美がバスタオルを巻いて浴室から出た時、ケイタイの呼び出し音が鳴り渡った。光佑がケイタイを掴んだ。しばらく黙って液晶を見詰めそして電話に出る。女の声が漏れるのが聞こえた。切羽詰った声だ。対応する光佑の声と表情も緊迫している。
「怪我は無いのか」
「病院に行く必要は?」
などの物騒な単語も聞こえる。
電話を切ると、光佑はしばらく頭を抱えていた。馬鹿らしくなって治美は服を着た。何かが起きたらしい。だが何が起きたのかは興味が無かった。分かったのは、どうやらセックスどころではないらしいということだけだ。
悪魔は自分と光佑に、セックスさせたかったかも知れない。けれど神はさせまいとした。何て馬鹿らしいんだろうと、治美はふて腐れた。まるで決定権はこちらにあるかのように、振舞っておきながら。
神の恩寵だとは思えなかった。白けた気分で衣服を身に着け、鏡に向かって、殊更に化粧を直した。自分はシャワーを浴び化粧を直すために今日ラブホテルに来たのかと思った。そして三年前に、出の前で、セーラー服に着替えたことを思い出すためにか。それとも英輔の常宿だったホテルで、英輔を思い出すためにか。
「一緒に、来てくれないか」
空間をにらみながら、光佑が言った。
「どこへ?」
フェイスパウダーを顔に叩きつけながら、治美は尋ねる。
「英輔のアパート」
「どうして」
一瞬の沈黙の後、光佑は答えた。
「英輔が、自殺を図った」
出と結婚して治美は幸せだった。でも時々英輔を思い出した。例えば歯が欠けた人を見ると、治美は英輔を思い出した。英輔の歯が欠けていたからだ。クスリをヤッていた時、転んで顔面を強打して欠けさせたらしかった。
クスリのバイヤーが、同情してクスリを追加してくれたが、クスリが利いていたおかげで、英輔は全く痛みを感じなかったらしい。
英輔は見てくれを気にする男だった。同棲していたのに治美は、髪の濡れた英輔の姿を見たことが無い。英輔はただの一度も、治美のアパートで、洗髪をしなかったからだ。英輔は毎日出勤していた実家で洗髪していた。癖毛だったからだ。英輔はこてで真っ直ぐに伸ばしたヘアスタイルしか、治美に見せようとしなかった。
そこまで見てくれを気にする男だったのに、英輔は歯を直さなかった。金が無かったからだ。英輔にはクスリをヤる金はあっても歯を直す金が無かった。
結婚したばかりの頃、まだ独身気分が抜けない治美が、うららと夜の街を徘徊していて、英輔を思い出したこともある。路上でドラッグをヤッている若者を見たからだ。
若者たちは路上で、何かの粉末を、ラインを引いて鼻からストローで吸っていた。英輔も治美の部屋でよくそうやっていた。違法ドラッグではない。精神科で処方された抗うつ剤を砕き、ラインを引いて鼻から吸っていたのだ。こうした方が、ただ飲むよりも効くと英輔は信じていた。
異様な光景に目を丸くするうららの手を握って、治美は走った。英輔の幻影が、追いかけてくるような気がしたからだ。英輔の幻影に、追いつけるような気がしたからだ。
英輔が自殺を図ったと聞かされた時、治美は咄嗟に、「嘘です」と答えた。
「英輔さんが、自殺なんかするタマですか」
死を思う人間の気持ちが理解できず、迂闊に『完全自殺マニュアル』を貸し出し、一人の人間を自殺に追いやったような男だ。自己破産をした時も、「死にたい」とすらこぼさなかった男だ。「辛い、眠れない」を繰り返し、手当たり次第クスリを乱用していた時も、英輔は死にたがらなかった。
死にたくなったことはあるかと治美が尋ねても、否定した。英輔は稀に見る生きたがりだ。その英輔が自殺を図るとは。
「そうはいっても、奴だって人間なんだ」
光佑が悲痛な声で叫ぶので、治美はぎょっとした。そして、なあんだ、とつまらない気分になった。死んで欲しいと言いながら光佑はたいして英輔を憎んでいない。身内だからだ。たかが自分の女を寝盗られたくらいでは、本気で憎めないのだ。
身内を憎まない人間は、ありきたりなので、治美は醒めた気分になった。先ほどまで感じていた情欲も泡と消えた。だがそれは単に光佑が平凡な男だからではない。
治美は光佑との偶然の再会を、何らかの形で、踏ん切りをつけたいと願っていた。何らかの形でおしまいにしなければ、小説にできないからだ。そうするにはセックスが手っ取り早かった。光佑が二百人斬りのツワモノであれば、尚のこと。
ところがここにきて、英輔の自殺未遂情報が入って来た。しかもその現場にどういう訳か誘われた。光佑と寝るよりその方が、よっぽど非凡で、おしまいの形にふさわしい。
「そうですね。すみません」
ちっとも悪いとは思わなかったが、治美はとりあえず謝った。そんなことよりも早く、現場に連れて行って欲しかった。
「それよりあたしなんかが、英輔さんのアパートに行っていいんでしょうか」
「来て欲しいんだ」
どうして来て欲しいのだろうと、治美は思ったが、追及せずに同意して光佑に付き従い部屋を出た。おそらく光佑は、混乱しているのだろうと感じた。弟に突然自殺未遂などをされて、どうしていいのか分からないのだ。それで、一人で現場に駆けつける勇気が湧かないのだろう。
とんだ甘ったれぼっちゃんだが、治美にとっては、都合がよかった。自殺に失敗して弱りきっている英輔を、眺めることができるからだ。
思えば、英輔との別れがあれほど辛かったのは、英輔が生きたがりだからだ。自分を失っても、英輔が絶対に死を願わないという確信に治美は身もだえした。それなのに今、英輔は死を望み失敗したという。この世に見切りをつけ、死しか選ぶ道が無いと思い詰めておきながら、死にも拒否されたのだ。
人間、それ以上の絶望があるだろうか。その絶望に英輔は今浸っている。早く観察しなければならない。早くしないと生きたがりの英輔は、立ち直ってしまうかも知れない。
焦る治美の耳朶をカーミュージックが打った。イギリス史上最高のシングルと評される、クイーンの『ボヘミアン・ラプソディー』だ。内臓を素手で直接べたべた触られたような心地になった。英輔の好きな曲だからだ。
最初、この兄弟は音楽の好みまで同じなのかと治美は考えた。それなのにママ、と呼びかける悲痛な歌声を耳にしていたら、治美はあっと思った。
もしかしたら英輔が好きなのは、光佑なのではないのか。英輔はただ、光輔が好むものを追いかけているだけなのではないのか。だから英輔は、光佑の女にも手を出したのではないのか。
「僕は、人を殺してしまったから、もうママの元へは帰れないって歌詞でしたっけ」
英輔に教わった和訳を、確認のため舌に乗せると、光佑はハンドルを握りながら、「ああ」とうなずいた。
「一般的にはそう言われてるけど、クスリをヤッてしまったからとか、男を知ってしまったからっていう解釈もある」
「その解釈、英輔さんも知ってますか」
「知ってるけど?」
もしかしたら英輔は、兄の好きな歌詞に、感化されただけだったのではないのか。ただの、お兄ちゃんが大好きな悲しい弟だったのではないのか。治美はふとそんな気がした。
治美は夢を見ていた。
ひっそりと冷たく湿った廊下に立っていた。どうやらそこは、実家の廊下のようだった。手にはずっしりと重たい受話器を持っている。昔懐かしい黒電話の向こうから英輔の声が響いた。
「今ならお前を、許せそうな気がする」
治美は電話に噛み付いた。
「あなたの出張中に、あたしが男友達と出かけた件でしょ。悪いけどあたしは、そのことを許して欲しいなんて思ってない」
英輔に常につきまとわれ、息も絶え絶えだったあの頃の、胸苦しさが湧き起こった。
「あの時あたしは、息抜きをしなきゃ生きていけなかった」
治美は尚も叫ぶ。
「だから、男に指一本触れさせず、酒を飲みに行くぐらいたいしたことじゃないと思ったのよ。それぐらいのことを、あなたが許せないって言うなら仕方無いと思ったのよ。それなのにいざばれたら、あたしはあなたに執着してしまった。酷い人ね、あなたはそれが重かったのね」
「違うよ」という声がした。「え?」と治美は聞き返した。
「オレが許せなかったのは、バレたら別れてもいいって、お前が……、ってたことと、結局別れをお前がきり……だ」
ところどころ、英輔の声がかすれて聞き取れない。「英輔」と治美は叫んだ。「英輔、英輔、英輔、英輔」叫ぶごとに受話器が重みを増す。もう持っていられない。手が砕けそうだ。
ツーと非常な音が治美の耳をつんざく。耳を塞いで飛び起きる。
隣には、健やかな寝息を立てる出の寝姿。
ああ幸福とは、もしかしたらこういうことなのかも知れないと、治美は考える。
築年数が随分、経過していそうなアパートだった。アパート名を記した看板は傾き、黒ずんだ外壁にはひびが入っている。洗たく機がベランダに設置されているのも、不便極まりない。しかも場所が悪かった。すぐ隣に墓地とセレモニーホールがある。
嫁が不憫だったから、僕が見つけてやったアパートだと、光佑は自慢していたが、そうはいっても酷いアパートだと治美は考えた。
確かに英輔は、父と兄の使い走りしか仕事をしていなかった。嫁は身重で働けなかった。その上、県外から越してきたばかりで右も左も分からなかった。だから代わって、安い家賃のアパートを探したというのも分かる。だがここは甲府の中心にほど近い。
もっと郊外に出れば、同じ家賃で、ずっと条件のいい物件が探せたはずだ。郊外で暮らす場合は、車を所持しなければならないというデメリットもあるが、公共交通機関の発達していない山梨では、どこに住もうと、車を所持しない訳にはいかない。アウディーだのアルファロメオだのを求めなければ、関税もかからない。
死んで欲しくはないが、幸せになられるのもしゃくだと、光佑は考えていたのではないかと、治美は推察した。自分の女を寝取った弟に対して妥当な感情だろう。いっそ死を願った方が、爽やかな気すらするが。
錆びた外階段を上った先に、英輔夫婦の部屋があった。玄関先に安っぽいベビーカーが、おびただしく泥を付けたまま、放置されている。子供が家にいたら厄介だなと考え、その懸念を治美が口にすると、保育園に行っているはずだと光佑が答えた。
ブザーを鳴らすと、ドアを開け女が飛び出して来た。英輔に見せられた写真の顔と同じなのに、太ったせいか印象が違う。顔には吹き出物が溢れ清潔感が無い。
「ああ、お義兄さん待ってたんですぅ」
掴みかからんばかりに、身を委ねようとする女の勢いに、光佑は思わず後ずさりした。生活に疲れた女の様子から治美は、ああと合点した。英輔が確かに自殺を図ったことを合点した。自分の女が綺麗で元気なら、男というものは絶望しないものだ。
冷静に分析する治美の姿を、女が捉えた。「こちらは?」と早口に尋ねる。
「英輔の元カノ」
「えっ?」
聞き返す女に答えず、光佑は治美に、「上がって」と靴脱ぎ場を目で示した。自分の正体が明かされてしまうとは、考えていなかった治美は、面食らいながら「お邪魔します」とサンダルを脱いだ。だが考えてみれば、英輔に会えば知らない振りはできないのだ。仕方ないと考え直していると、続いて光佑も革靴を脱いだ。
「ちょっとお義兄さんどういうことですか。元カノって何ですか」
背後で叫ぶ女を無視したまま、光佑は廊下を突き抜けた。治美はふと、夫が自殺を図るというのは嫌なものだと考えた。不意打ちだったとはいえ、通常時だったら、元カノを家に上げる羽目になっただろうか。
この女も、突然夫に自殺を図られて、どうしていいか分からないのだ。だから義兄に助けを求めたところ、元カノを連れ込まれてしまった。誰かに助けて欲しくて、そのくせ助けてくれる相手を最も選びたいデリケートな時に。そもそも、英輔の元カノに過ぎない自分が、この夫婦を助けられる訳もないのに。
ガラリと音を立てて、光佑が襖を開けた。天井から輪っかを作ったロープが垂れている。治美は息を飲んだ。濃密な存在感を持って床に腰を下ろした男の後ろ姿がある。英輔だ。
心臓に鋭い痛みが走った。再会が痛みを生じさせたのか、それとも英輔の姿を認めたと同時に、彼の姿を、永遠に消し得る自殺の道具が、視界に入ったからなのか分からない。
とりあえず痛みに耐えながら、治美は光佑に視線を投げた。ここに自分を連れてきた光佑の動向を、まず知りたかったからだ。光佑は顔を歪めながら
「英輔、元カノだ」
と呼びかけた。英輔は反応しない。
「重田治美さんだよ」
ゆっくりと英輔は振り返った。目は落ち窪み顔は土気色だ。そしてあろうことか、頭髪が薄くなっている。彼にそっくりな光佑の頭髪は、今尚豊かだというのに。
自殺未遂という悲劇性の中で、頭が薄くなるという喜劇性は、ある意味では最も悲劇的なことに治美には思えた。神は英輔を、純粋な悲劇の主人公にしてくれない訳だから。
治美の顔を見て、英輔は微かに笑った。頭髪が薄くなっていることは、治美にとっては衝撃だが英輔にとっては日常なので、恥じ入ることでもないらしい。つられて治美も微笑した。とりあえず微笑み合ったので、存在を許容されたように治美は錯覚したが、当然のことながら英輔は、「どうして」とつぶやいた。
「さっきまで一緒に、ラブホテルにいたんだよ」
光佑の説明に治美は目を剥いた。それは事実だが、しかしそんなことを言う必要があるだろうか。行ったは行ったけれど、してないんですと言うべきかと治美は悩み、そしてやめた。
していないのも事実だが、それは英輔の、自殺未遂の一報があったからであって、それが無ければしていた。だとしたら実際にはしていないということに、意味は無い気がした。二人がやる気になった以上、実際に事に至ったかどうかという点は、治美にとっては意味が無かった。
「どういうこと?」
英輔が震え始めたので、治美はハッとした。英輔はまだ自分を好きだったのだと、自惚れた訳ではない。自殺を図るような精神状態の時に、兄と自分の元カノがホテルに行ったと知らされたので、ショックを受けたのだと理解した。
やはり、行ったけれどしていないのだと告げるべきだろうか。迷いながら光佑の顔を確認し治美は目を見開いた。光佑の顔が、期待で輝いていたからだ。
光佑の復讐に利用されたらしいと、治美は気が付いた。だから光佑はこの場に治美を連れて来たがったのだ。光佑にとっても、治美と実際に寝たかどうかは、問題ではないのだ。英輔が最も弱っている時に、本人を証拠として突きつけ傷つけることができれば、それでよかったのだ。
「うわああ、どうして? 治美、治美ぃぃー」
慟哭し始めた英輔に光佑が馬乗りになった。そして
「てめえに、悲しむ権利があると思ってんのか」
と叫んだ。光佑がこんなにも生き生きとした男だったということを、治美は初めて知った。
「やめて下さい。何やってるんですか。ついさっき自殺しようとした人に向かって」
治美は慌てて止めに入った。英輔の妻も加勢する。留置所にまで入った英輔に、まだはっきりとした愛情を持っていたという訳でもなかったが、目の前でトラブルが起こったので、本能で止めたくなったのだ。
「英輔を裏切っときながら、今更綺麗ごと言うんじゃねえ」
「裏切ったって、何のことですか」
「オレと、ホテル行ったじゃねえか」
もみくちゃになりながら、治美はしっかりと目を開けた。体をもって人と争う時、人はどのような景色を見るのか、興味があったからだ。治美の目に天井から垂れる輪っかが二つ映った。おやと思った。よく見ると一つは鏡に映っている。この部屋にはどうして、こんなに大きな鏡があるのだろうか。
部屋の中を、キョロキョロと見渡していると、治美を押さえつけている光佑がけげんな顔をした。治美は力を抜いた。それを合図に四人の男女はほどけて、畳の上にてんでに寝転がった。
だがこれは一時の弛緩だと治美は分かっていた。だからすぐさま
「この部屋、何でこんなおっきい鏡があるの」
と質問を口にした。今言わなければ、永遠にこれを質問するチャンスが得られない気がした。
少しの沈黙の後、英輔が
「死んでいく自分の姿が見えるように」
と答えた。なるほど言われてみれば鏡は、首を吊った姿が眺められるように設置されていた。
治美は、記憶の扉をノックされた心地がした。マリファナでバッドトリップした時、自分が、鏡を見ようとしたことを思い出したのだ。英輔は何を見たかったのだろうと思った。鏡を凝視する。左右に映った下手糞な絵も、何かの演出だろうか。画用紙に絵の具が塗されたこの不気味な絵も。
「じゃあさあ、輪っかの左右にかかってる悪魔みたいな絵は何? 自分で描いたの?」
治美の質問に英輔が
「オレが描いた」
と答えた。
「どうして」
「悪魔に挟まれた自分の姿を見ながら、死のうと思った」
なぜか楽しそうに英輔は答えた。
治美はふと、ゴルゴダの丘で処刑された、イエスキリストを思い出した。イエスも二人の罪人と共に十字架刑に処せられたからだ。ただ、その内一人はイエスを罵ったが、もう一人はイエスに対し、あなたが神の御許へ行った時は、わたしのことを思い出してくれと頼んだ。するとイエスは、その時にはお前も共に神の国にいると言った。
そうすると、イエスも二人の男に挟まれて、十字架につけられたものの、悪魔に挟まれた訳ではないということになる。少なくとも一人はイエスに罪を許されたからだ。
つまり英輔の死に方は、イエスを連想させはするが、完全に模倣している訳でもないようだ。まあ死に方も、十字架刑と首吊りでは完全に異なる。
中途半端な物真似を見せられたようで治美は胸糞が悪くなった。この半端な、芝居じみた自殺は何なのだ。しかも英輔は助かってしまった。治美は突然吐き気を催した。思わず口元を押さえると
「すみません。お手洗い貸して下さい」
と英輔の妻を見た。
玄関近くの扉の向こうだと言われ、治美はトイレに飛び込むと、便器に向かって、吐しゃ物をぶちまけた。はあはあと息を吐いた先に、幼児用のキャラクター付き便座が目に入る。英輔の子供が使用しているものなのだろう。治美は何やら忍びなくなった。
トイレを流し部屋に戻りかけると、英輔の妻の、泣き声が聞こえてきた。無理も無いと治美は思った。夫には自殺未遂をされるわ、夫の元カノが訪ねて来るわ、乱闘が起こるわ、元カノにトイレで吐かれるわといったことが続けば、泣きたくもなるだろう。
「この絵も鏡もみんな、このために用意したっていうの? どうしてこんなことしたのよ」
金切り声をあげて妻は、英輔に取りすがる。
その肩に手を回すでもなく、英輔は
「オレが、最後にこの世に残せる芸術作品だと思ったんだ」
と血を吐くかのように叫んだ。
この男は強いのではないかと、治美は感じた。頭髪が薄くなったから喜劇的だ、画用紙の絵は芸術的ではないというのは、外野の勝手な感想で、英輔は自分の死を芸術にできると信じていた。
ひょっとしたら、芸術のためにローマを焼いた暴君ネロよりも、英輔は強いのではないかと、治美は鳥肌を立てた。
独裁者が芸術のために、多くの人々を、死に至らしめたからといって、そんなことはたいしたことではない。もし芸術に仕上げられなかったとしても、独裁者は痛くもかゆくもないからだ。しかし芸術のために命を賭けるには、強さが必要だ。失敗する可能性を踏まえない強さが。
常識的に考えれば、自殺などしては、残された妻子がさぞかし苦労する。それなのに英輔は、自分に残された僅かな気力を自分の虚栄心を満たすために使った。
こういう男を、死の淵から引き上げるのは、もしかしたら難しいことではないかも知れないと治美は考えた。その時光佑が
「何が、芸術作品だよ」
と言いながら上体を起こした。
「カスみてえな絵描いて、カスみてえなアイディア捻りやがって。てめえみてえに才能もセンスもねえ奴が、命賭けたって、芸術なんか作れる訳ねえだろ」
光佑の罵りに、英輔が顔を紅潮させた。確かに光佑の言う通りかも知れないが、目の前で人が人を嘲るのが不快で、治美は
「いい加減にして下さい」
と怒鳴りながら、再び部屋に入った。
「英輔さんを恨む気持ちは分かりますけど、英輔さんが光佑さんに憧れてるってこと、分からないんですか。歪んだ兄弟愛かも知れないけど、手先がぶきっちょで、芸術作品が生み出せない英輔さんにとって、芸術家の光佑さんは憧れなんですよ。死を利用して光佑さんに少しでも近づこうとした弟を、そこまで責めることないじゃないですか」
光佑は押し黙るとそっぽを向いた。都合が悪くなるとそっぽを向いたり布団を被ったりする男の存在を、治美は知っている。よくいるタイプの子供のような男だ。どうしてこんな男に憧れるのか、治美にはちっとも分からない。つまらない男だと思う。けれど一時は本気で寝るつもりだった。
それはさておき、そろそろ帰ろうと治美は考えた。理屈をこねくり回して英輔に、死ぬべきではないと説得してもいいのだが、それは自分の役割ではない気がした。大体英輔の妻を差し置いて、治美がそんなことをするのも、おかしな話だ。
手櫛で髪を整えると、治美は「帰ります」と宣言した。最後に英輔に、何か言葉をかけようと思ったけれど、何を言っていいか分からなかった。代わりに治美は「奥さん」と英輔の妻に声をかけた。
「突然お邪魔して、申し訳ありませんでした」
妻は「いえ」と目を伏せた。そもそもどうして来たのかと、尋ねてもよかったのだが、せっかく治美が帰ると言っているのに、下手なことを尋ねて、引き伸ばしたくなかったからだ。
サンダルを履くと、治美は玄関からもう一度室内に目をやった。相変わらず同じ部屋に、英輔のシルエットが見える。窓から入る西日のせいで表情が分からない。
アパートを出た。ここまでアルファロメオで治美を連れて来た光佑が、追って来る気配は無い。自宅へは車で四十~五十分はかかるから、公共交通機関が発達していないとはいえ、とりあえずバスを利用しなければならない。
どこにバス停があるのか分からないからなるべく大通りを歩く。あの人が日頃、利用している道路なのだなと思う。
英輔と別れセフレになった頃、治美は打ち明けたことがある。
「校正の勉強をしてみようかな」
と。
「小説の校正の仕事が、入ることもあるんだって。あたし小説好きだし資格取ってみようかな。水商売するから、それくらいのお金出せるだろうし」
英輔は反対した。小説が好きなら作家になれと言うのだ。
「あたしに、そんな才能無いよ」
首を振る治美に英輔は、「そうかな」と言った。
「別れの前後に、お前から何通か手紙もらって、結構文才あると思ったけどな」
褒められたのかも知れないが、治美は面白くなかった。自分は子供を持つことを諦められるのかと、悩み苦しんで復縁した英輔との別れは、気が狂いそうなほどの喪失だった。別れなければと頭では分かっていても、心が納得しなかった。だから心を納得させるために、治美は思いのたけを書き綴った。
それらの手紙を読んで、作家になればいいのにと、のん気なことを英輔が考えていたのかと思うと、治美は腹が立った。あの時治美は作家になどなりたくなかった。ただの女でいたかった。ただの女として、英輔のそばで幸せに過ごしたかった。
それがかなわなかった今、治美は作家を目指している。優しく誠実な出と暮らしながら作家を目指している。もし英輔が、作家の可能性を示唆しなければ、目指さなかったかも知れない。
この二年で治美は、十二編の小説を執筆した。けれど自分が本当に書きたいのは、英輔のことなのではないかと治美は思う。
今回この小説を読み返していたら、小説家を目指す人間の意地悪さというか冷淡さのようなものにぎょっとしました。
というかこの小説に出てくる人間は、悪い部分や欠点を持っているケースが多いですね。……いや、私の書く小説に出てくる人に、欠点が多いのか……。自分勝手だったりだらしなかったり弱かったり、そんなんばっかですね。
でも私は「人間」が書きたいので一人一人の持つどうしようもなさに思わず光を当ててしまいます。
こういった姿勢って読者の皆様はどう思うのかな。よろしかったら皆様の意見を聞かせて下さい。