優しい嘘より残酷な真実
差出人 ousuke
日付5月19日0時55分
件名 お願いです。
>打ち明けるかどうかは、しばらく考えさせて下さい。
治美さんは、僕の名前を聞いて、僕が何処の誰なのかが分かってすっきりして、懐かしがって? いる事でしょう。
相手に名前を聞くにはやはり、自分の名前を言うのが、礼儀かと思います。多分一度は社会に出られてる方だと思うので。
急に本名を尋ねられて、僕の気持ちは察してもらえませんか?
三年前にウイルスが脳に入りまして、死ぬか生きるかの瀬戸際な時がありました。
その時、多少の記憶が飛んだのも事実です。
(⇒こんな事までは言いたくなかったのですが)
僕は、小さいことをモヤモヤと考え込む小さな人間です。
些細な事で悩み、終わってしまうかもしれない人間です。
そんな弱い人間を、いじめて、からかっても
何も面白くないでしょ?
僕に、本名を聞いて、僕は素直に何の疑いもなく答えました……
是非、治美さんも僕に答えて下さい。
お願いします。
精神が可笑しくなりそうです。
差出人 ousuke
日付5月19日1時35分
件名 お願いします。
気になって、どうしてもどうにもなりません。
朝まで、いや教えてもらえるまでPCの前にいます。
このメッセージ見たら、何処の誰なのかを教えて下さい。
人助けだと思って、お願いします。
僕にどんな印象が当時あったのかは、もう結構です。
今の僕に関わっているのですから、今の僕に、本名を聞いたのですから……
多分、名前を聞いても今の僕は思い出せるかは分かりません。(この前のメッセージでもお話した様に、病気で)このままでは、僕の心がズタズタになってしまいます……
とにかく何処の誰なのかを教えて下さい。
助けて下さい。
こんな目に合うとは思いませんでした。
もしお名前をお教え頂けたら、もうこのSNSは、やめようかと思います。
教えて頂けなければ、人間をやめようかと思います。
何の下心も、何の悪巧みもありません……
純粋に、本名を聞かれて答えて、誰なのかが気になるってだけです。
お願いします。教えて下さい。
明日は仕事は出来そうにありません。
とにかく教えて頂けるまではPCの前に居ますので。
何故こんなに僕を苦しめるのですか?
僕の生活リズムを壊してまで苦しめるのですか?
誰なのかを教えて下さい。
そうしたら、治美さんの人生に、今後一切関わらないことを約束しますからお願いです。
ホンとに今の僕は、些細な事で死んでしまいそうな精神状態なんですよ……
お察しくださいませ……
助けて下さい。
誰なのですか?????
眠れずに再び、パソコンを立ち上げてよかったと、治美は心底思った。「こんな目に合うとは」や「ホンとに」などの変換ミスが、光佑の心の乱れを、表しているような気がした。何だかよく分からないけれど、脳にウイルスが入ったなどと言い出す人間を、待たせていてはいけない気がした。
普通の人間なら、一晩くらいヤキモキさせてもいいかも知れないが、どうやら光佑は普通ではないらしい。普通の人間だったら治美が正体を明かさないからと、人間をやめるなどと、言い出したりはしない。あの英輔の兄だから、おかしいのは当たり前かも知れないが、兄弟とはここまで似ているものなのだろうか。
しかし今は、そんなことを言っている場合ではなかった。ここまで言われてしまったら、一分でも早く正体を明かし、光佑を安眠させなければならなかった。
宛先 ousuke
日付5月19日2時38分
件名ごめんなさい
そんなに煩わせてしまうつもりは無かったんです。ごめんなさい。
あたしは弟さんと当時お付き合いしていた者です。日記のコメント欄で、お兄さんとは知らずに、弟さんのことに触れてしまったので、あたしが弟さんとお付き合いしていた者だと打ち明ければ、コメント欄で触れた「元カレ」が、弟さんのことだと、察しがついてしまうだろうと思って、それは弟さんにとっても、嬉しいことではないだろうと思って、打ち明けるべきかどうか悩んだのです。
あたしも悩んでいて眠れませんでした。それで再びパソコンを開いてみたら、メッセージが三通もあって驚きました。
言いたくないことまで言わせてしまってすみません。SNSをやめるなんておっしゃらないで下さい。SNSのお友達は残念がるだろうし、それにあたしも、もし自分が弟さんの元カノだと打ち明ければ、光佑さんがどんな反応を示すか見当がつかなくて、悩んだ部分もあるのです。
お仕事にまで影響を与えるようなことをしてしまってごめんなさい。どうか安心して眠って下さい。
本当は一通目のメッセージを読んだ時点で、無視して寝ようとしたのだが、まさかそれを正直に打ち明ける訳にいかず、今三通のメッセージを読んだかのように、治美はメッセージを作成した。
光佑がSNSをやめる件も、本当は知ったことではなかったが、とりあえず引き止めた。そうすることが、光佑を落ち着かせることにつながると思ったし、何とか落ち着かせなければ、治美も落ち着かなかった。
光佑のページを訪問してみると、ブログが更新されていた。その記述によるとどうやら光佑はここ数日、眠れていないようだった。関わっていた当時は、弟の方にも、散々眠れない愚痴を聞かされていたが、兄もちょっとしたことで眠れなくなってしまうらしい。
しかし待てど暮らせど、光佑からの返信は無かった。治美が正体を明かすまで、PCの前で待っていると言ったが、嘘つきも血筋なのだろうか。今頃はおそらく眠りについているに違いない。
その寝姿は、ラリッて惰眠をむさぼる英輔のように、醜悪だろうか。
鼻の穴をふくらませ、地響きのようないびきをかく、英輔の寝顔を、治美は闇夜に描いてみた。昔一度だけ出会った光佑は英輔と同じような男なのかも知れないと、つくづく思った。
英輔を彷彿とさせる、英輔とよく似た男との、夜を徹したやり取りに治美の記憶が目覚めた。ある日突然、更新されなくなった英輔の記憶が目覚めた。
ふと英輔の記憶を更新したくなった。考えてみれば、それは容易いことだった。そしてそれを実行することに、何の問題も無い気がした。光佑との偶然の再会により、ここまで大変な思いをさせられたのだ。だとしたらこれは、行きがけの駄賃というものだと思われた。そこで治美は再びメッセージをしたためた。
宛先 ousuke
日付 5月19日3時22分
件名 重ねてお詫びします。
さっき、ここ数日の光佑さんの日記を拝見しました。不眠になったのはあたしのせいですね。ごめんなさい。
あたしも不眠症なので辛さは分かります。現に今夜も、不眠に悩まされています。あたしも小さいことをクヨクヨ悩む方です。
ただその分、周囲の人間は、大概自分ほど小さなことに囚われたりしないと思い込んでいる節があるというか、あたしという人間が、誰かを眠らなくさせるほど、悩ませる可能性があるという自覚が、無かった部分もあると思います。
弟さんの話では、お兄さんは強い方だと伺っていたので、必要以上にそう思い込んでしまった部分も、あったかと思います。
ただ打ち明けるのに手間取ったのは、先ほどお送りしたように、他にも色々理由があったからですが、何であれ、光佑さんのお気を煩わせてしまったことは、申し訳なく思います。
本当はすぐに打ち明けて、弟さんの近況を伺いたいとも思ったんですけど、でも結婚している身で、お兄さんにそんなことを尋ねるのは、慎みの無い行為のようにも思いましたし……。
それにお会いした時の印象を、最初に光佑さんが気になさったように、あたし自身も、光佑さんがあたしにどんなイメージを持っているのか分からなかったから、怖かったんです。
でもまさか、自分のそういった戸惑いが、光佑さんにそこまでの悪影響を及ぼしているとは、思いませんでした。重ねてお詫びします。
メッセージ全体に漂う媚びに鼻白みながら、治美は送信をクリックした。
本当は謝りたかった訳ではなかった。ただ、正体を明かしたのだから、英輔の近況を知りたかった。それが全てだった。
新潟出張中の治美の男遊びは、英輔にとっては朗報でもあった。フェアを行なったデパートの売り子と、親しくなっていたからだ。
面食いの英輔にしては珍しく、女は平凡な容姿だった。英輔は寝るだけの女なら外見を問わなかったが、その女とは、すぐには寝なかった。処女だったからだ。遊び人の常で英輔は一度処女と付き合ってみたいと願っていた。それでいて彼女の容貌の凡庸さから、付き合う決意が固められなかった。
だから英輔は治美と付き合い続けた。治美は美人だったからだ。男出入りの激しい治美にうんざりし、同棲を解消しながら、交際は解消することができなかった。しかし売り子には、恋人はいないと嘘をついた。治美との同棲は解消していたから、売り子からの電話にはすぐ出ることができた。
「何で最近、ケイタイが鳴ると部屋の外に出るの」
とある日、治美が言い出した。
「やましいんじゃないの? あたしのケイタイや手帳は盗み見ときながら、自分はコソコソしてずるいよ」
仕事の電話だと言い訳する英輔に、治美は嘘だと言い張った。嘘をついている内に、それが本当のことであるような気になってしまう英輔は、仕事の電話を疑われているような気がして、怒りに燃えた。英輔には治美と結婚する意志があったからだ。
治美の男遊びのショックから、同棲は解消したが、それと結婚は別問題だった。まだこの頃英輔は、結婚は美人とするものだと思っていたからだ。だから治美の親元に挨拶に行きたいと、再三に渡って申し出ていたのに、治美は「うん」と言わなかった。「今はまだその時期じゃない」を繰り返すだけだ。
聞き分けのない治美にカッとして、英輔は思わず治美を殴った。治美は英輔にすがりついて泣いた。そのまま二人は、ベッドに倒れ込んで甘い時を過ごした。だから英輔は学習してしまった。二人に諍いが起きたら、治美を殴ればいいと。
数日後、激しい言い争いが起きた。英輔がエアコンをつけておきながら、つけていないと言い張ったからだ。そんなつまらない嘘をついたのは、エアコンが苦手な治美が眠っていたからだ。寝ている間にエアコンをつけていると、治美が体調を崩すことを承知で、暑がりの英輔は、治美の部屋のエアコンをつけた。
「誰が電気代払ってると思ってんのよ。脂肪にまみれた体で、暑がるあなたのために、何であたしが、体調崩してまで我慢しなきゃならないの」
怒鳴る治美を英輔が殴ると、治美は床に倒れたが、すぐに起き上がり「帰って」と叫んだ。殴ったのに仲直りができないことに、英輔は戸惑った。
翌日英輔のケイタイを治美が鳴らした。電話に出ると治美は
「起きてベッドライト点けたら、光が目に痛くて目が開かないの。病院に連れて行って」
と言い出した。
英輔がアパートのドアを開けると、治美は雨戸とカーテンを閉め切った部屋の中、右目を押さえてうずくまっていた。目が光を感じると激痛がするが、照明を点けなければ身支度ができないため、点けては消して、右目を押さえるを繰り返しながら、何とか出かけられる用意をしたらしい。
ようやく治美が、右目から手を外すと、青く腫れ上がった目元が現れた。英輔は
「うわあ、見たくなかったなあ」
とたじろいだ。治美は「酷い」と怒った。
不機嫌な治美をなだめすかし病院へ連れて行くと、英輔は
「僕が彼女を、殴打してしまいまして」
と医者に説明した。眼科医は、殴られたことによるストレス性の痛みだと診断した。
診察の帰り英輔は
「あのさ、アザ消えたから連絡してよ」
と笑った。
「君のアザ見るの辛いし、オレに殴られたストレスで痛いんなら、オレに会わない方がいいでしょ」
治美はもう「酷い」と言わなかった。
治美と英輔が別れたのは、その一週間後だ。約十ヶ月の交際期間だった。
差出人 ousuke
日付 5月19日8時57分
件名 まだ……
旧姓を教えて下さい。
いつ頃、弟とお付き合いしていた人なのか?
先ず僕の名前を聞いた訳ですから、是非あなたもお名前(旧姓)をお聞かせ下さい。
お願いします。
弟とは丁度3~4年前頃から略絶縁状態です。
彼は、僕の付き合っていた人と、肉体関係を持ちました。
裏切られたのです。
今はその罰が彼にも下されています。
とにかく旧姓をお聞かせ下さい。
今のあなたの環境や、当時の印象など構いません。
とにかくお教え下さいませ。
差出人 ousuke
日付 5月19日9時2分
件名 誤解でしょ?
彼(弟)のいう事は、殆どが嘘ですよ(笑。
僕が、強い人ですか???(笑
それは甚だ可笑しいですよ。
芸術家で強い人っていますか?
皆変人で弱くはありませんか?
とにかくお名前(旧姓)をお聞かせ下さい。
安心して下さい。
彼(弟)とは、付き合いはほぼ無いですから。
彼は、実は大変な事になったんですよ。
多分僕の守護霊からの天罰だと思うのですが……
とにかくお話も出来ません……
お名前を、お聞かせ下さい。
僕は、玄間光佑と申します。
差出人 ousuke
日付5月19日9時8分
件名 助けて下さい
>慎みの無い行為のようにも思いましたし
それなら、名前(旧姓)を教えて下さい。
僕に名前を聞きましたよね? そしたらあなたも、名前(旧姓)を名乗るのが常識なのではありませんか? 今のあなたの状況から、名前は言い難いかと思います。しかしそれは僕も同じですよね? 大人としてどうでしょうか?
ズルイとは自分で思いませんか?
彼(弟)の様に地獄の人生になりますよ……
とにかく、お名前(旧姓)をお聞かせ下さい。
どうやら光佑は起きたようだった。しかし一眠りしたのに、全くパワーが衰えていないようだったので、治美は驚いた。
自分の正体を知りたがったのは、眠れないからだと、治美は考えていたのだが違うらしい。起きた途端、昨夜の気分のまま、いや更にヒートアップしたかに思える状態で、メールを寄越す光佑を、治美は薄気味悪く感じた。
それに治美は、寝る前に、自分は以前英輔と交際していた女だと打ち明けたのだ。それなのに執拗に、旧姓を明かせと迫る光佑が不思議だった。旧姓も知りたいのなら別に尋ねてもいいのだが、なぜメッセージを、三通も送ってくる必要があるのか。それも芸術家の弱さゆえだというのか。
また、弟のように地獄の人生になるだの、守護霊の天罰だのと脅されたことが不快だった。治美も交際当時、自分を恨ませるとバチが当たると英輔を脅したことはあるが、それ以外の人間には、そんな話はしたことが無い。
バチが当たるとか、化けて出てやるといった繰言は、それ相応の関係の人間に対してしか、言ってはならないことだと、治美は考えていた。
だが考えてみると、治美の恨みのパワーを、英輔がいともたやすく信じたのは、この兄の影響なのかも知れなかった。理解できない人間が自分と類似していることに、治美は胸糞の悪さを感じた。
慎みのない行為のようにも思ったという、自分の主張に対して、それなら名前を教えろと、返答されたことにも苛立った。「それなら」の「それ」に、何が呼応するというのだろう。日本語が不自由な人間と、日本語のやり取りをしなければならない事実に、目の前が真っ暗になった心地がした。
とにかくお話もできませんというのも、何のことか分からない。お話は充分にしているのに、これ以上しなければならないのだろうか。
ただもちろん治美も光佑と話したい項目はあった。まず第一は、三~四年前に英輔が、光佑のカノジョと、肉体関係を持ったという点だ。言われてみれば心当たりはある。光佑のカノジョと寝たことが光佑にばれたと、三年前に英輔に聞かされたことがあるのだ。
交際当時だったから英輔は、治美との交際以前に寝た件が、今になって明るみになったと、嘘をついていたはずだ。ビリヤード場で治美が光佑に出会ったのは、その直後だ。
英輔の話では、怒り狂っていたはずの光佑が、穏やかだったのが意外だった。もちろん人前だったからだろうが、それでも英輔を無視するくらいのことは、してもよかったはずだ。
英輔に対しては、不思議に失望しなかった。聞かされた当初はさすがに呆れたが、今更それが、自分との交際当時だったと知らされてもたいした問題ではない気がした。治美にとっては、浮気よりも兄の恋人と情を通じる行為の方が、特殊に思えた。
その特殊な行為を打ち明けた時英輔は、光佑のカノジョが、自白したためばれたと説明した。
「どうして言うんだよ。馬鹿女が」
と英輔は口汚く相手を罵った。
その同じ唇で英輔は、一週間前に光佑を罵っていたはずだ。奔放な女関係を、恋人に隠さないという点について。
英輔が兄の恋人を寝取った件に、タイムラグが発生していなかったことを、三年前から治美は知っていたのかも知れなかった。
二度目の別れの後も、治美が水商売をすることについて、英輔は難癖をつけた。それでも治美は、もう別れたのだから自分は英輔に影響されないと信じていた。別れた当初は、英輔とセフレになるつもりも無かった。
事態が変わったのは、一本の電話のせいだった。
英輔と別れる少し前から、治美の部屋の留守電には、心当たりの無いメッセージが残されていた。ツーショットダイヤルの利用料を払えというのだ。何かの間違いだろうと放置していたのだが、ある時、業者からの電話を直接受けた。
「覚えが、無い」
と言い張る治美に、業者は
「あなたの部屋の電話を、自由に使える人はいませんか」
と尋ねた。英輔が部屋の合鍵を、こっそり作っていたことを知らなかった治美は、「いません」と答えた。
すると業者は、その人物が使っていた暗証番号を治美に告げた。 その9999という数字は、英輔の好きなナンバーだった。そのナンバーを愛するあまり、9999という名のラブホテルを、愛用しているくらいだ。
治美は英輔が犯人であることを、打ちのめされながら悟った。英輔は追及されると、あっさり認め、代金を業者に振り込む約束をした。
英輔が言うには、今までは代金を振り込んでいたのだが、今回はたまたま振り込みを忘れたとのことだった。確かに英輔は、代金を振り込んだらしく、業者からの連絡は絶えた。だがだからといって治美の気分が、爽快になるはずが無い。
別れの少し前には、同棲を解消していたとはいえ、同棲時代には英輔は、治美を監視するため毎日会社の送迎をし、治美の部屋に泊まり込み、歯医者にまで無理矢理付き添っていた。それなのに自分は、ツーショットダイヤルを利用していたのだ。
「オレは君のために、何をしてやれるだろう」
などとほざいていた男が、治美の部屋の電話を使って、ツーショットダイヤルを利用し、あろうことか料金を延滞したのだ。何もしてくれない以上ではないか。
恋愛感情を、理性で無理矢理ねじ伏せ、英輔と別れた治美にとって、その事実を受け入れることは困難だった。そこで治美は一言も文句を言わずに英輔と別れ帰宅した。ここまでの酷い仕打ちが、現実に起こったことだということが、にわかには、信じられなかったからだ。
アパートの部屋で、一人起こった出来事を反芻し、治美は少しずつ事態を悟り始めた。完全に悟る前に何か手を打たないと、精神が崩壊してしまいそうだった。
そこで大音量で、バッハの『G線上のアリア』をかけながら
「嘘よ! 嘘よ! 嘘よ! 嘘よ! 」
と泣き叫んだ。
切なげなバイオリンの音色に、脳みそをかき混ぜられるような心地がした。かき混ぜてめゃくちゃにして欲しかった。音楽の父にかき混ぜられるなら、悪いことではない気がした。旋律に骨の髄がしびれた。ハッとした。
以前、英輔と、この曲について語り合った記憶があったからだ。
「『G線上のアリア』っていいよね。メロディー聴くと、もう駄目って感じ」
あまりにも好きなため、まるで批判しているかのような口調で、治美がうっとりすると、英輔も「駄目だよな」と、やはりうっとりした。あの時治美は、英輔と同じ感性を有していることを嬉しく感じた。
しかし英輔に、ここまでの仕打ちをされた今、その記憶は酷だった。ここまでの凄まじい苦痛の最中に求めた慰めにすら、英輔の記憶が宿っている事実に、治美は何が何だか分からなくなった。逃げ場は無いのだと思い詰めた。
破れかぶれな思いで、治美は英輔に電話をかけた。冷静になり文句を言う気分になったのかと身構える英輔に、治美は
「抱いてよ。やり直す気は無いけど」
と要請した。
英輔はすっとんで来た。
紹介されたSNSで、早速男とトラブルになったと、治美が電話をすると、喜久子は即座に「退会しなよ」と勧めた。
「ハンドルネーム変えて、再登録すればいいじゃん。わたしもう一度、紹介メール送ってあげるよ」
「うん。再登録はとりあえずいいんだけどね……」
しばらく言いよどんだ後、相手が英輔の兄であること、彼が何を言ってきているかを治美は伝えた。ケイタイの向こうで、喜久子が息を飲んだ。
「……英輔さんにそっくりだね」
「もうあたし怖くって。喜久子、どうしよう?」
「尚のこと、退会しなよ」
それもそうだと治美は思った。こんな大変な目に遭ってまで、SNSを続けても仕方がない。それが常識的な、処し方であるはずだった。
それなのに治美の胸の奥には、ぽっちりと赤いものが芽生えていた。だから治美は
「でもSNSで、英輔のお兄さんと知り合うなんて、すごいネタだと思わない?」
と熱に浮かされたように問いかけた。
「ここで英輔のお兄さんと関われば、小説のすごいネタになると思わない?」
「分かるけど、わたしはもう治美に、英輔さんと関わって欲しくない」
真剣に心配する喜久子に、治美は胸を突かれた。うららだったらどう言っただろうかと考えた。きっと「治美、やめて」と、可愛らしい声で言っただろう。もし絶交していなければ。そう。「もし」なのだ。うららはもう治美の傍らにいない。
少し考えると言って、治美は電話を切った。そして何を考えるというのだろうと自分を笑った。知りたい気持ちはこんなにも、治美を突き動かしているというのに。
宛先 ousuke
日付 5月19日9時33分
件名 Re:助けて下さい
名前は旧姓で、重田治美です。付き合っていたのが三~四年前。十ヶ月ほどのお付き合いでした。
ただ弟さんとは、九年前にも十日ほどお付き合いがありました。その後弟さんから再び連絡があり、お付き合いが再開したのです。
弟さんとお付き合いしたことだけ言えば、旧姓や付き合っていた時期は必要無いかと思っただけです。ごめんなさい。でも「地獄」なんておっしゃらなくても言いますよ。脅すようなことおっしゃらないで下さい。
あたしは子供の頃から苦労が多く、すでに地獄は、何度も経験しているので、この後地獄のようなことがあっても、光佑さんの守護霊のせいとは思わないと思います。でも敢えて、人に恨まれるようなことを、する気はありませんけど。光佑さんを悩ませてしまったのは配慮が無かったと思います。
他に質問があれば答えますので、普通におっしゃって下さい。ただいつもパソコンを開いている訳ではないので、パソコンの前にいなければ、返事は遅れてしまうかも知れないけれど、こうなった以上、質問にはちゃんとお答えするつもりなので、そんなに焦らず質問なさって下さい。
弟さんが、光佑さんとお付き合いしていた方と、肉体関係を持ったことは、当時本人から聞いたような記憶があります。詳しいことは知りませんが……。
弟さんは、ずっと以前のこととして、話していたような記憶もあるし、はっきりしませんが。そういうことをする人なのだという点も、あたしが弟さんと別れを決めた一因でもあります。
弟さんに天罰が下ったとは、何があったのでしょうか。一度入院して、その後、結婚することになったということまでしか知りません。その頃はもう別れていましたが、弟さんから連絡があり耳に入ったのです。その後はあたしも結婚し、連絡先が変わったため音信不通です。
今ならまだ引き返せる。こんな風に正体を明かさないまま、脱会手続きをしてしまえる。
そう思ったのに指は送信をクリックしていた。なるようになれ。破れかぶれな思いで、受信ボックスを確認すると、新着メッセージが届いていた。今送ったばかりだというのにどういうことだろう。けげんに思いながら、治美はメッセージを開いた。
差出人 ousuke
日付 5月19日9時17分
件名 お教え下さい
僕はこう教えています……
「働かざるもの、食うべからず」
今日は仕事にはなりませんので、
一切の飲食はとらないつもりでおります。
昨年から今年の頭にかけまして、胃から出血を致しまして手術、入院をしておりました。仕事が忙しくて、身体を大事にしてあげられなかったからだと思います。
もう完全に治って、健康を取り戻したのですが……
とにかく、旧姓をお教え下さいませ。
ご安心下さい。当時でも僕は最低の常識はありましたので、
彼(弟)の彼女さんでしたら、全く眼中には無かったと
思います。旧姓を聞いた所で、どうって事はありません。
しかし今迄生きてきまして、名前を聞かれ答え……
相手が名前を言わなかった事は、一度たりとも、ありませんでした。
それは、常識的に、ありえません。
お願いです。
とにかく、旧姓をお教え下さいませ。
僕は、玄間光佑と申します。
どうやら行き違いになったらしかった。しかしこのメッセージは何なのか。治美は薄ら寒い思いをした。「僕はこう教えています」という文も、打ち間違いならいいのだが、もし間違いではないとしたら、誰かに教えているということになる。
自分は人にものを教える立場にある偉い人間なのだと、この芸術家様は言いたいということか。だから常識を、治美に教えようというのか。
光佑と行ったナンパセックスの話を、治美は英輔に、聞かされたことがある。相手はブスだった上に、シンナーでラリッていたらしい。
どういう基準なのか、治美は知らないが、マリファナやヘロインならともかく、シンナーを吸う人間を光佑は軽蔑しているらしく、女を心底蔑みながら、英輔と代わりばんこに、女を犯したという話だ。
そんな鬼畜が治美に常識を教えて下さるらしい。その常識とは、食わずに連絡を待っていると相手を脅し、入院の過去を、ひけらかすことであるようだ。
パソコンの画面を眺めているだけで、治美はめまいがした。忌まわしい文字が目の前でぐるぐる回って、気持ちが悪い。嫌悪という感情が渦巻くと、肉体まで不調になることを治美は思い出した。仕事というストレスから、解放されて久しい治美にとっては、久しぶりの感覚だった。別に懐かしくもなかったが。
ただ、光佑が異常な人間だということは、治美はとっくに気付いていたことだ。気付いた上で今治美は好きこのんで、光佑と関わっている。それはこの、天使のいたずら、悪魔のプレゼントを、最後まで見届けるためだ。
苦く酸っぱいものが、喉元まで上ってきたが、治美はそれを飲み下した。
最後まで見届けたいなら、こんなことでひるんでいてどうする。昔、英輔にされた数々の仕打ちを思えば、これくらいのことが何だというのだ、と治美は自分を叱咤する。
宛先 ousuke
日付 5月19日9時44分
件名 Re:お教え下さい
先ほどメッセージをお送りしてから、9時17分のメッセージに気付きました。
別に光佑さんが、あたしに下心があって、旧姓を聞きたがっているなんて自惚れてはいません。確か結婚なさってますよね? 女性のお友達も多い方のようだし、その意味では、安心感を持って接していますので、そんな心配はなさらないで下さい。
ただあたしは、自分の配慮の無い言動が、光佑さんにご迷惑をかけてしまったことを、申し訳なく思っているだけです。ただお送りしたメッセージに記入したように、あたしの方も、言いよどむ理由があったので、その辺りを汲んで頂きたいのです。
お仕事に差し障りを与えてしまったことは、申し訳なく思いますが、どうかお食事はなさって下さい。胃の弱い方なら尚更、絶食はお体に触るかと思います。「働かざる者食うべからず」なら、あたしなんて毎日、食事をする資格がありません。
まあだからこそ自分は、生きていない方がいいとは、あたしもよく思うことなので、お気持ちは分かりますが、光佑さんは基本的にはお仕事をなさっている方だし、明日のお仕事のためにも、どうかお食事をなさって下さい。
嫌いな男に媚びているようで、虫唾が走る。水商売をしていた過去に戻ったようで、虫唾が走る。そう思いながら治美は送信をクリックした。
媚びるくらい何だというのだろう。本当にこの経験が、小説という形に昇華されるのかどうかなどということは、後で考えればいいことだ。治美はただ、悪魔のプレゼントが最終的にどんな形のおしまいになるのかを見たい。
セックスの前にあるいはセックスの後に、治美のアパートで、英輔が、ライター用のガスを、ビニール袋に垂らしたものを吸うことが、いつしか日課になっていた。
治美は涙を流しながら、ガスを吸う英輔を眺めた。五年前にマリファナを吸う英輔を、体を盾にして制止した治美は、もういなかった。体と引き換えにクスリをやめさせようとした治美は、もういなかった。今や治美は抱かれて捨てられることが怖かった。英輔がいなくなることが恐ろしかった。
「ねえ、聞こえる?」
半笑いの表情で英輔が尋ねる。治美は耳を澄ます。
「お前のこと、もっと大事にしろって声がする」
ガスによる幻聴を聞いている英輔が、くっくっと笑う。まるで英輔の良心のようなこの声は、ある時は、「治美は店で知り合った客とヤりまくっている」などと告げ、英輔を動揺させる。
辛いからとガスを吸い、幻聴により、ますます苦しめられている英輔が、治美にはよく分からない。辛いならさっさと自分と寝ればいいと思う。この体にあんなにも夢中になっていたではないかと、英輔の胸ぐらをつかみたくなる。
そして、体に夢中になっていたのは、自分の方であることに気付く。煩わしく感じたこともあったのに、卑猥な言葉をささやかれながら、全身をくすぐられる英輔とのセックスは、いつしか治美にとって、中毒性の高い甘い毒になっていた。
五年前に、マリファナの代わりにと体を差し出した治美は、今や抱かれたいがために、ガスパン遊びを止めることをためらった。ガスパン遊びを止めなければ、英輔はここに、通い続けてくれるのだと思った。そしてビニール袋をつかんだ指で触ってくれるのだ。
別れた相手の体が、治美は切実に恋しかった。セックスフレンドという結論は、治美の体にとっては解決になったが、心は散らかったままだった。その心に英輔は満を持してささやいた。「マリファナをやろうぜ」と。
「オレは付き合ってる女には、クスリはやらせないことにしてるからさ」
本当にマリファナをやらせたいのかと疑いたくなるほど英輔は、何やら素っ気無い言葉すら吐いた。しかしこの言葉が、治美には利いた。
心が散らかった中にあっても、英輔が危険な男であることは、治美も理解していた。危険な男とは、別離しなければならないと思った。だとしたら英輔の恋人でなくなった証に、英輔にクスリをやらせてもらわなければならない気になった。
四年前に、仕事のストレスが原因で、喫煙が習慣になっていたことも一因だった。タバコもマリファナも、心身にとって有害な気体を、吸って吐くという点では変わらない。
ただ治美はタバコの味を愛していた。また喫煙によって、ストレス解消ができているという、錯覚にも陥っていた。
しかしマリファナを吸ったところ、治美は何やら、不快な気分になった。この妙なイライラは何なのだろうと考えていると、英輔が治美を求めた。イライラを誤魔化すために治美は求めに応じた。二人は付き合っていた頃のような、卑猥ではあるが、普通のセックスをした。
マリファナはその性交に、何の影響も与えなかった。治美はただうっすらと不快なままだった。
英輔が再び治美にマリファナを勧めたのは、その数日後だった。数日前の初体験で、むしろ不快な思いを抱いた治美は断ったが、英輔は頑張った。今度のは純度が高いからと英輔はしつこく勧めた。治美は断るのが面倒になって、再びマリファナを、ぷっくりとした唇にくわえた。
深く吸い込みしばらく肺に気体を留め、そして吐き出せ。
英輔の指示に従って、何回かマリファナを吸った後、治美はやれやれと思いながら洗面所へ向かった。治美はマリファナになど、何の興味も無かった。ただ英輔がしつこいから折れただけだ。こんなものを勧めるくらいなら、帰ってちょうだいとは、治美は言えなかった。そんなセリフは思いつきもしなかった。
前回と同じく、うっすらと不快になるだけだと、思い込んでいた治美は、洗面所でコンタクトを外そうとしたが、指が動かなくなっていることに気付いた。まさか。そんなはずはない。指が動かないことなど気付かない振りをして、治美はコンタクトケースのふたを、開けようと試みた。何度も試みた。
時間が経つにつれ、指はますますもつれるようになっていった。それだけではない。動かない指が、じっとしていても不快でたまらなくなった。
「英輔」
洗面所を飛び出すと、治美は泣きそうな声で訴えた。
「何かあたし指が変なの。動かないの。すごく嫌な感じなの」
英輔は治美の指を、カップルつなぎのようにして、自分の指で掴んだ。子供の頃ピアノを習っていた治美の指は細くしなやかだ。この指を英輔は好んでいた。英輔の執着していた治美の白い指先が、マリファナによって強張る。
「そのままぎゅっとして。ぎゅっとして。もっと強く。強く」
当初は指の不快感にのみ気を取られていた治美は、突然「ああ」と叫び、もんどりを打つようにして華奢な体を床に打ち付けた。呼吸が荒くなり胸が苦しくてたまらなかった。英輔は冷静な声で
「落ち着いて。君の名前は? 言える?」
と尋ねた。
その時はまだ、治美の意識は明瞭だった。だから自分は錯乱しているのではないと、英輔に伝えなければと思った。それなのに声を発することが困難だった。それでも治美は必死に、声を区切りながら名前を発しようとした。
けれど声が出るようになると同時に、治美の意識に、変化が表れ始めた。治美を落ち着けようと英輔が発する言葉も、全ては理解できなくなった。それでも英輔は続けた。
「指が変なら、腕をぶんぶん振り回してみるとかさ」
「やめて」と治美は耳をふさいだ。「ぶんぶん」という形容詞を聞いた途端、ぶんぶんと唸り声を浴びて飛び交う、無数の虫が見えたからだ。
治美は肝を冷やしつつも、これがドラッグによる幻覚かと、冷静に判断した。鏡を見たいと思った。マリファナによりバッドトリップしている人間の姿を、この目に焼き付け、いつの日か小説に役立てたいと思った。
姿見の方角へ顔を向け、上半身を起こそうとする治美を、英輔のだらしない指先が支えた。自分を未知の苦痛へ貶めた男の、手にすがりながら、治美は鏡の向こうの世界を見た。自分の顔より先に治美の視界に飛び込んできたのは、英輔の顔だった。それは呆れるくらい具象的な、悪魔の顔つきだった。
自分の姿を確かめることも忘れ、治美は姿見から目を背けた。そうすることにより、先ほど視界に入った、角の生えた鈍色の悪魔の顔が治美の脳裏に刻まれた。復縁する前から治美は、英輔を悪魔のような男だと思っていた。だからそのまま、英輔に体をもたれていた。
ただ先ほどの、悪魔の幻覚が、あまりにもステレオタイプだったことに治美は失望した。悪魔とは本当は、美しい姿をしているはずなのだ。美しく冷たい表情をしているはずなのだ。
あるいは悪魔とは、ジョルジュ・ルオーの描いた『悪魔』のような顔をしているはずなのだ。復縁前に英輔におごられた旅行で、向かった清春芸術村で観た、『悪魔』の絵。
それを観た瞬間、治美は英輔に似ていると思った。だから肩越しに英輔が
「この絵、俺に似てるね」
とつぶやいた時は驚倒した。
それでいて治美は、頭の片隅で理解していた。天使が堕ちようと決めた時、堕天使になった時に、悪の自覚が無かったはずは無いのだと。英輔は今も尚、自身が悪であることを知りながら粉をかけてきているのだと。それを理解した上で、自分は英輔と旅行にまで来ているのだと。
ドラッグ使用を知った時、そしてツーショットダイヤルの利用を知った時、治美はだまされたと思った。同時に自分はだまされることを選んでいたと理解していた。一体この世の、だまされた人間の何割が、心底だまされたと言えるだろう。多くの人々は自分で自分をだましているのだ。
だがだとしたらその時尚、悪魔の間違った幻覚を見た治美は、どこをどうだまされていたのか。治美には分からなかった。ただ悪魔のようだと思っている男に、与えられた苦しみの淵で、その当事者にすがっている自分を、不思議がっていた。
そしてその内にそれどころではなくなった。治美の息苦しさは、更に増した。喉を絞められているような心地がした。その時治美はいつの間にか英輔から体を離していた。治美は一人、暗闇の中で喉元の苦しみにもがいていた。ふと遠くの方に光が見えた。
誰かが
「あの光の差す方角へ、行け」
と命じた。
「嫌だ。行きたくない」
と治美は心の中で叫んだ。
それなのになぜかそちらへ転がり出てしまった。その瞬間、喉元の締め付けが消え、辺りが光で満ちた。肉体的な苦痛と交換するかのように、いやそれよりもっと大きな精神的苦痛が治美を襲った。怖いと思った。この世界は嫌だ。怖い。それでいてもうここへ来てしまったのだという、諦めも抱いていた。
諦観の境地でぼんやりしていると、打たれるような、爽やかな痛みが走った。その時何かが治美の中でわっと弾けた。治美は声をあげて泣き出した。泣いて泣き疲れた頃、マリファナの影響は治美から去っていた。
「最初にこんな経験すれば、ドラッグなんて、二度とやりたくねえって思うだろうなあ」
いつの間にか治美を抱きしめていた英輔が、心底羨ましそうな声を出した。
差出人 ousuke
日付 5月19日11時16分
件名 有り難う御座います
旧姓、重田治美様
お名前有り難う御座います。
彼(弟)が、治美様とお付き合いしていて、何を言ったかは分かりませんが、殆どが嘘ですのでご理解下さい。
もしかして新宿で、4人で蕎麦屋に行きませんでしたか?
違っていたらすみません。
三~四年前には僕は既に、彼とは気持ち的に絶縁でしたので、治美様の記憶はあまりありません、すみません。
大人ですから、彼に話掛けられたら、上の空で受け答えはしていましたけど(笑
僕は人には絶対に裏切ってはならない人がいると思います。
それは家族です。家族はどんなときも基本的に、見方に
なってくれるものです。彼は僕を裏切りました。
僕は、小さな人間ですので彼を許せません。
彼には結婚して子供が一人おります。
S町に住んでおります。その住まいも僕がツテで探した
物です。奥さんが不憫でならなかったので……
そして昨年の10月です。
彼は、恐喝で逮捕されました。
起訴されまして、3ヵ月近く牢屋にいたと思います。
今では、彼は前科者です。
判決には執行猶予がつきました。
しかも弁護士費用や、被害者への示談金などは、
両親、僕、妹で工面致しました。
流石の母も、彼には死んで欲しいと、僕に漏らした程です。
多分知っているかと思いますが、僕の父は
とても立派な人で一昨年、黄綬褒章を天皇の手から直接
頂いた人です。後に無形重要文化財(人間国宝)に
なる人でした……
それも、僕や妹、母は支えて今日まで頑張って来たからです……
彼のお陰で、僕等家族の夢も消えてしまいました。
父(本人)の二親等に犯罪者が居る場合は、もう
国宝にはなれないのです。必然的に僕自身もどう
頑張ってももう偉くなれないと言った訳です。
家族皆のお荷物なんです、彼は……
僕は、裏切られた頃からずっと死んで欲しいと願っていました。
治美様は賢かったですよ!
あんな男と関わっていたら、
人生なんてあったものではありません。
治美様が今、幸せで居られる事は良かったと思います。
差出人 ousuke
日付 5月19日11時36分
件名 追伸……(長いけど)
>「地獄」なんておっしゃらなくても言いますよ。脅すようなことおっしゃらないで下さい。
勿論、意識的にな言葉でした。それは常識から外れた言葉だと認識して使いました。名前を聞かれ、僕は素直に答えました。それでも治美様は自分の名前を明かさず、僕を苦しめました。
それに対する言葉です。
言いたくて言った訳ではありません。僕は傷つけられたら、10倍にはして返す男です。
自分が大好きなので自分を傷つける人は、
許せないのです。
こんな経緯で言った言葉です。ご了承下さいませ。
>浩輔さんの守護霊のせい? とは思わないと思います。
僕はかつて3人の人を心から恨み、「死んで欲しい」と思いました。
その内、2人は死にました。
一人は自殺、一人は車炎上による変死です。
もう一人は、しつこく生きています。多分僕の心の中に両親に対する不憫さが残っているからだと思います。
自分でも不思議な力があるのは、薄々幼少の頃から、分かっておりました。
僕は、自分の守護霊は凄いと思っております。
困った時、苦しい時必ず助けてくれるんです。
親は、僕は病気でも、病院にも連れて行ってはくれない冷たい親でしたけど、僕にはそんな守護霊(魂の親)が居るのだと、ずっと今迄頑張って来れました。
Anyway、
治美様は、お幸せにお過ごし下さいませ。
平穏な人生をお祈り申し上げます。
「4人」と打ったかと思えば、「一人」と打つような統一感の無さや、句読点や送り仮名の間違いや誤字について、治美はもう気にしないことにした。
太宰が好きだと気取ったことを言う男が、たかがこれしきの量のメッセージの中で、こんなにもおびただしい数の、文章上の誤りを犯すとは信じがたいが、光佑はただ単に、気取っているだけなのかも知れない。そうでなければ「ありがとうございます」を、わざわざ漢字変換したりしないだろう。
ただ、気取っているだけだとしたら、この文章力の無さもうなずける。同じく太宰好きだった英輔も、こんな程度の男だったのかも知れないと思う。
彼(弟)に話しかけられたら、大人だから上の空で受け答えをしていたというのも、よく分からない話だった。カノジョを寝盗られ死んで欲しいとまで思い詰めるなら、話しかけられても、無視するくらいのことをすればいい。それが一緒にビリヤードに行き、英輔のカノジョには、メル友になろうと誘うとは。
光佑は実は、カノジョを寝盗られたことに、さほど傷付いていないのではないかという気までした。体験人数が二百人を超える男などそんなものなのかも知れない。ただ返事をしていたことを、なぜ(笑)マークで表現するのか、しかもなぜ(笑にして()を閉じないのか治美には分からなかった。
別にそんなことは、何もおかしくなかった。「味方」が「見方」になっている方が、余程おかしかった。
三~四年前に新宿の蕎麦屋に、四人で行ったというのは、東京在住の前カノのことだろうと、治美は当たりをつけた。自分とはかぶっていない可能性があるので、嫉妬も湧かない。仮にかぶっていたとしてもあれだけ女癖の悪かった英輔だ。蕎麦屋の件に、ポイントを絞って妬いても意味が無い。
それにしても、英輔のアパートは光佑が探したものだとか、奥さんが不憫だなどという話は、どうでもよかった。もしかしたら光佑は、優しさをアピールしているのかも知れなかった。
言われてみれば、ついこの間まで処女だったのに、突然自己破産ニートと、できちゃった結婚をする羽目になった奥さんは、不憫だと言えた。地元ではお嬢様学校と誉れ高い短大を出た後に、デパートの売り子をしていたそうだが、まさか英輔のような男に持っていかれてしまうとは、両親も考えていたかどうか。
それはさておき、光佑の家族観が治美は気になった。病気でも親が病院に連れて行ってくれなかったのなら、どういう訳で光佑は、人は家族を、絶対裏切ってはいけないなどと言い出すのだろう。
別に、すでに親に裏切られているのなら、弟にも裏切られても構わないではないか、などと言う気は無い。ただすでに裏切られていたなら、家族という存在を信じる根拠が無いはずだ。まあ根拠などなくても信じていてもいいのだが、だとしたら、家族を裏切ってはならない理由を書くべきだと、治美は思った。
それは治美は、家族に限らず、人を裏切ってはいけないと考えていたからだ。治美も小五の頃発症したストレス性の偏頭痛を、親に一年放置されたクチだから、ひねくれてもいいのだが、親に頼れないからこそ、人を裏切るまいと考えていた。
それは身内に頼れないなら、赤の他人に頼らざるを得ないからだ。身内と上手くいっていないのに、他人を裏切っていたら、治美は孤独になってしまう。
それでは身内は裏切っていいのかというと、それはまた違った。そもそも裏切る以前に、治美は基本的に、実家と付き合いが無いのだ。最近は妹が月に一度の割合で連絡を寄越すが、それ以外の家族は連絡してこないし、治美もする気が無かった。関わらなければそこに裏切りは発生しない。
そんな治美にとって、家族だけを裏切るまいとする光佑は、身内に甘い嫌な人間に思えた。それに、家族はどんな時も味方になってくれるものだと言うなら、恋人を寝盗られても、弟の味方になってやればいい気がした。
自己愛が強く身内びいきが過ぎる人間は、光佑のように、矛盾しているケースが多いため、治美は苦手だった。まあ自分が大好きだから自分を傷つける人間は許せない。やられたら十倍返しにする。ご了承下さいなどと言い出す男が、好ましい訳はないが。
英輔も自分が大好きだったが、はっきりとそう口にしなかっただけ好感が持てた。それに英輔は両親が好きだった。金を稼ぐ親だったから、子供の頃から高級なレストランに連れて行ってくれた、唸るほど金があったから、ちょろまかして、高校生の分際で恋人と香港に行くことができたと、得意げに語っていたものだ。
金はあったのだろう英輔光佑の両親が、なぜ病気の光佑を、病院へ連れて行かなかったのか。おそらく面倒だったのだろうと、治美は考えた。ろくな両親ではないが、考えてみれば両親が人格者だったら、兄弟がこういった人格になるはずがない。
なぜ二人がろくでなしなのか、分かった気がした。そしてげんなりした気分になった。ダメ親の子供が、ろくでなしになるケースを見せられると、自分もつられてしまいそうになるからだ。
しかしいくら、ろくでなしだからといって、英輔が恐喝をしていたとは、治美は考えもしなかった。英輔が捕まることがあるとしたら、てっきりクスリだと思っていたからだ。
ただ治美の記憶によると、確かに英輔は、よくない方法で金を作ろうか、迷っていると口走ったことがあった。ということは決断し実行して失敗したのだろう。そう考えると腑に落ちる。
それにしても流石の母とは何をもって流石なのか。そしてなぜ、「さすが」をわざわざ漢字変換したのか。また流石の英輔の母が、死んで欲しいと光佑に漏らしたのなら、なぜ光佑は、守護霊様にお願いして、呪い殺してもらわなかったのか。
両親に不憫さが残っているからだと、光佑は言うが、不憫なら尚のこと、両親のためにも呪い殺してやればよかったと思われた。守護霊様が困った時苦しい時に必ず助けてくれるなら、国宝の件も、何とかしてもらえばいい。
結局、光佑には呪いのパワーは無いのだと、治美は白けた気分になった。車が炎上して変死した相手がいるというのも疑わしい。英輔は車を炎上させたものの生還しているが、一人の人間の周りで、二度も車が炎上するものだろうか。光佑は英輔の事件をヒントに、作り話をしているのではなかろうか。
大体、己の恨みのパワーを実感している人間は、他者にもそのようなパワーがあるのではないかと、恐れるものではないだろうか。治美が人に恨まれないように気をつけているのも、他者の恨みのパワーを恐れるからだ。そうでなければ、ここまで光佑の機嫌を取る必要も無かったのだ。
それなのに光佑の、自由奔放振りといったらどうだろう。恨みのパワーというものの存在を信じていたら、ここまで傍若無人に、振舞えるものではない。
どうやら今後呪われても、効果のほどは、心配が無くなったようだ。だが自分の他にも、恨みのパワーを持った人がいるのかと期待していた治美は少し気落ちした。
というのも治美の知り合いに、やはり恨みのパワーを、自認する占い師がいるからだ。彼は恋人に別れを切り出された時、手を下さずして恋人の部屋の照明と車を、壊してしまったという。また恨んだ相手の折れた腕が、半年つながらなかったこともあるらしい。そこで彼は、罪の意識から相手を毎週のように見舞っていた。
治美が思うに、恨みのパワーというものは、持ってしまった人間にも、コントロールできないものなのだ。だからこそ図らずもそのパワーを持ってしまった人間は、パワーを持て余し同士を求める。光佑のようにパワーをひけらかすなど論外だ。ほら吹きのほらが、ほらとして、目の前に横たわってしまった。
この分では、光佑の父が、黄綬褒章をもらったというのも疑わしくなってきた。別にもらっていようといまいと、治美にとっては知ったことではなかったが、「多分知っているかと思いますが」と光佑に言われてしまったので、尻の座りが悪い。
そもそも光佑の拙い文章力では、「多分知っているかと思いますが」が、「父はとても立派な人」にかかるのか、「黄綬褒章」にかかるのか分からない。そして例え前者だとしても、光佑の父がとても立派な人だとは初耳だ。
宝石職人だということは聞いていたし、作品も見たことがある。しかし英輔曰く、若い頃はデート待ちの女が並んでいたと、豪語していたらしい父親が、どうして立派な人なのだろうか。ただの自慢したがりやではないか。それでも黄綬褒章をもらうような人だから、立派な人だと、光佑は言いたいのだろうか。
黄綬褒章は立派な賞かも知れないが、授与されるのが、立派な人だとは限らない。その違いが分からないとは、光佑は頭が不自由なようだと治美は認識した。そんな光佑が、英輔のせいでもう偉くなれないとしても、かえってよかったのではないかという気がした。
愚か者に権力を持たせてはろくなことがない。国としても、国宝になるような人間は、人格的にも立派であって欲しいと願うからこそ、二親等に犯罪者がいてはならないと決めているのだろう。
しかし子ならともかく、親兄弟が犯罪者の場合まで規制されるのは、不公平な気もするが、別に国宝になれないくらいたいしたことではない。大抵の人間は、国宝を目指すチャンスも与えられないのだから。
それなのに、やれ父親が国宝になれない、自分も偉くなれないと騒ぐ光佑に治美は疎ましさを覚えた。多くの人間は、やりたい仕事にすら就けない。光佑は就いているというのに、これ以上何を望むのか。
こんな愚かで欲張りな男に、賢かったと褒められ、治美は微妙な気分になった。そもそも治美は、知恵を働かせて英輔から離れた訳ではない。治美はただ、悪い人間からは遠ざからなければならないと考え、心と頭がバラバラなまま離れては戻りを繰り返し、最後にようやく、離れることができただけなのだ。
ただ別れておいてよかったのは確かだと治美はつくづく実感した。うっかり結婚などしていては、大変なことになるところだった。身を切られるように辛かったあの選択は、正しかったと、偶然の再会が教えてくれたのだ。
それにしても、つい先ほどまでは地獄を持ち出し、人を呪っていた男が、今度は平穏な人生を祈るとは。呪って申し訳なかったと思い、罪滅ぼしに祝福してきたのだろうが、だからといってプラスマイナスゼロといった心地になれるものではない。
世の中にはここまで、呪いの言葉や祝福が、軽い人間がいるのだと、治美はしみじみと知った。
光佑の呪いと祝福は、ちりあくたよりも軽い。
「でもオレでよかったぜ」
と英輔は言った。
「俺だったからバッドトリップしちゃったお前をあやしてたけど、他の奴だったら、お前のこと縛って放置してたぜ」
他の奴だったら、マリファナを勧められなかっただろうと、治美は思ったが黙っていた。英輔のことが怖かったからだ。他の奴だったら縛って放置していたというのが、本当かどうか分からない。ただそんな恐ろしいことを、発想する英輔が怖かった。
おわびに酒をおごるからと、英輔に連れ出された。小洒落たバーへ向かう。マリファナを入手し酒まで飲ませてくれるとは、英輔の懐は潤っているらしい。どうして羽振りがいいのかとは、治美は尋ねなかった。どうせ教えてくれないに決まっているからだ。
英輔は治美の、悪い引き出しを開ける男だが、治美の悪い引き出しを全て開けたところで、英輔に対応しきれないことも、承知している。金儲けの手があるがそれをやるにはためらいがあると言い、詳しくは語らないのも、それが理由だ。
そうはいっても、英輔とバーに出かけるのは久し振りで、治美は色めきたった。英輔は交際当時、小金が入ると「治美ちゃん感謝デー」と銘打って、治美を値の張るメシ屋に連れ歩いたが、酒が飲めないため、バーに連れ出すことは稀だった。
マスターの感じが悪く、落ち着かない店だが仕方がない。ここのマスターは、治美の出身短大出の女を嫌う。地元ではお嬢様学校と評されていたからだ。ホモのマスターにとって、少しでも男にモテる要素のある女は、憎しみの対象だ。
ガツンとたたきつけるようにして差し出されたカシスソーダを、治美がすすっていると、英輔が尋ねた。今までやった中で最も辛かったバイトは何か。高校時代に地元で行なった、菓子工場のバイトだと治美は答えた。割烹着にゴム長という、心弾まないいでたちで行なわれたそのバイトは、息吐く暇も無いほど忙しかった。
忙しい上に単調というのは、治美が最も嫌う作業だ。かしわ餅をかしわに巻く作業をしていた時は、白い餅が時々、草餅やさくら餅に替わることが気分転換だった。そのようなことに、気分転換を求めねばならないことに、治美はうんざりした。夢にまで色とりどりの菓子が出てきた。
トイレすらままならないその環境で、救いは三時の休憩だった。失敗した製品が、お茶菓子として出された。年配の同性の社員たちは、男子アルバイトばかりを可愛がり、彼らには様々な菓子を与えた。そして治美には、クリームの付いていないシュークリームの皮を寄越した。
「それは精神的にきついよな」
と英輔は同情したが
「でも年配の同性に、性的対象にされるのもきついもんだぜ」
と自慢げに言った。
経験があるのかと、治美が尋ねると、高校時代にホモ相手のヌードモデルをしたことがあると、英輔は語った。ホモたちは英輔の裸を見ながら、マスターベーションをしていたという。
治美はあまり面白くなかった。年配の同性に、性的対象にされるのがきついなら、そんなバイトをしなければいいからだ。英輔の高校時代に、実家には金が唸るほどあったと、親の金でカノジョと香港旅行に出かけ、ホテルでカノジョが寝ている隙に、現地の風俗に行く金まで出せたと、英輔は常々自慢しているではないか。
「まあオレは、ホモは老後の楽しみに、とっとこうと思ってるからさ」
ホモをやりたいなら、今すぐやればいいのに、老後にとっておくのは、稚児さん遊びの感覚だろうかと治美は思ったが黙っていた。おぞましく感じたからだ。
会計のため立ち上がると、英輔は治美に、先に出ているようにと言った。そういえば交際当時にこの店に来た時もそうだった。治美を外に出して、英輔はマスターに触らせるのだ。
老後の楽しみに、とっとくって言ったのに嘘つき。治美は裏切られたような気分で、一人外に出た。木枯らしが治美の心を鋭く切った。
英輔は触らせることによって、少し負けてもらっているのかも知れないと思う。飲めない英輔がそこまでするのは、治美に酒を飲ませるためだ。だとしたら、感謝しなければならないのかも知れないとも思う。それでも治美はだまされたようで寂しかった。
機嫌よく店を出て来た英輔は、治美の手を取ると、くっくっと笑った。そして
「そうだ。オレ新語つくったんだよ。妄想の『妄』に姦淫の『姦』で『妄姦』」
楽しげに英輔は治美に教える。
意味は察しがついた。太宰の影響で英輔は、キリスト教をかじっているからだ。情欲をもって女を見ることを言語化したのだろう。それすなわち姦淫と、イエスキリストが言った。
こんな言葉を作るくらいだから、英輔は日頃、妄姦をしてばかりいるのだろうと治美は切なくなった。英輔の妄想全てを、自分でいっぱいにすることが、治美にはできなかったからだ。
宛先 ousuke
日付 5月19日15時38分
件名 平穏な人生なんて雲の上の言葉です
お蕎麦屋さんには行っていません。お人違いだと思います。
身内に裏切られるのは辛いですよね。あたしも身内には、多大な迷惑をかけられた経験があるので、お気持ちお察しします。ただまああたしの場合は、幸い身内に前科者はいませんが、いつ犯罪者が出てもおかしくない状態ではあります。まあでもあたしは、偉くなる予定はありませんので、どうでもいいことではありますが。
芸術家として認められ、何らかの賞を頂くことは、芸術家の目標の一つでしょうから、その可能性を阻まれてしまった苦しみは、察するに余りあることだと思います。
ただ……、こんなことを言って生意気かも知れませんが、あたしは以前、美術館に展示された光佑さんの作品を、拝見したことがありますが、光佑さんに与えられた才能は、その苦しみすらも昇華して、作品にできるものなのではないかとも思います。素人が勝手なことを言って申し訳ありませんが……。
ただあたし自身、弟さんとの関わり以外にも、色々と悩みの多い半生を送って参りましたので、自分なりに、与えられた苦しみの意味というものについて考え、そのように解釈するようになりました。ただあたしは、苦しみを昇華できるような、才能も舞台も持ち合わせていない人間ですが。
ですから、苦しみを昇華できるお仕事に、就かれている光佑さんを、羨ましくも思います。才能が無くただ弱いだけの人間は、苦しみを昇華する術も持たないのですから。
弟さんの逮捕の件は初耳ですけれど、正直あまり、驚きはありません。倫理観の欠如した人でしたから、それくらいのことは起こり得るだろうというのが、正直な感想です。こういったことは他人だからこそ見える部分もあるのでしょうが。
ところで光佑さんの守護霊はすごいですね。あたしの守護霊は、人を事故らせて集中治療室に入れた後、数ヶ月入院させたり、(弟さんのことではありません)横領を発覚させた後、刑務所送りにさせたり、家庭内暴力やら離婚やら、不治の病やらを起こさせたりはしますけど、人を死に追いやることはしません。
護霊の力が弱いせいなのか、それともあたし自身が、死より生の方が、残酷だという考えの持ち主のせいなのかは、分かりませんが……。
護霊と考えるのが正しいのか、単純に、恨みのパワーと捉えるのが正しいのか分かりませんが、……まああたし自身は、恨みのパワーと捉えているので、そう呼ばせて頂きますが、恨みのパワーというものが、威力を持っているのは承知しています。あたしの知り合いも、恨みのパワーで摩訶不思議な現象を起こしますし。
たしが幼少期から、自殺願望を持っているのは、幼少期から誰かに、恨まれているせいかも知れませんね。
たし自身は、恨まれるくらいなら、人を恨んだ方が気が楽なので、人を恨ませるようなことはなるべく謹んでいるし、図らずも誰かを苦しめた際は、すぐ謝罪するように心がけていますが、幼少時はどうしても気配りに欠けますから、何か至らないことをして、誰かの恨みを買ったのかも知れません。
実際あたしは、望まれずに生まれてきた人間ですし、(あたしも病気になっても、親に病院に連れて行ってもらえませんでした。そのせいで病状が悪化し、いまだに病院通いばかりしています)
出産の際も、首にへその緒を三重に巻きつけ、死産になりかけたのに、たまたま腕のいい医者が担当して助かってしまったのです。まだ意識というものがなく、産湯で入水自殺が図れなくて残念です。
そんな命ですから、仮に今失うことになっても、あまり問題は無いのですが、できるなら自殺ではなく、事故か殺人によって失いたいと思います。だって自殺って面倒臭いんですもん。まあでもあんまり残虐なのは嫌ですけどね。
ただまあここに至っては、光佑さんもあたしを、自殺に追い込むほど恨んではいないだろうと思いますけど、でも仮に、今後あたしが自殺しても、光佑さんの守護霊の力かな? とは思わなそうなので、もったいない感じがします。光佑さんにとってではなくあたしにとって。
だって恨みのパワーに限らず、真実は知りたいですもん。真実って残酷なものだけど、でもあたしは、優しい嘘より残酷な真実が好物なんです。
自分の打ち込んだ「倫理観の欠如した人」というワードに、治美はふと懐かしさを覚えた。同じセリフを以前、警察署で口にしたことがあったのだ。自分をクビにするよう画策した、化粧の濃い店長代理の横領が発覚し、話を聞かせて欲しいと、呼び出された時のことだ。
一言で言えば、店長代理はどんな人だったかと、癖毛のきつい刑事が尋ねた。まさか
「化粧の濃い人でした」
と答える訳にもいかず、治美は
「倫理観の欠如した人でした」
と答えた。
だからといって横領までするとは思わなかったが、店長代理は、倫理観が欠如していたから、横領くらいしても、おかしくはないと思えた。
しかし後日、くるくる頭の刑事に見せられた調書では
「彼女は、一言で言えば浪費家です」
と治美が言ったことになっていた。浪費家の件は、刑事に誘導尋問された治美は、不満を覚えたが黙って捺印した。
浪費家以前に倫理観が欠如していなければ、横領も恐喝も、起こらないと、治美は考えていた。しかし警察とやり合うのは億劫だった。店長代理が犯人だという証拠が複数あるのだから、それでいい気がした。
ただ店長代理の逮捕は、治美にとってショックだった。刑事とのやり取りの最中に、彼女が自分をクビにした理由が、分かったからだ。
「もしかしたら店長代理は、あなたが横領に、気付いたのではないかと誤解して、あなたを解雇したのかも知れない」
と、くるくる頭の刑事は言った。治美も腑に落ちた。そうでなければわざわざ師走の忙しい折に、突然解雇された理由が分からなかった。しかし今更それが分かったところで、どうなるというのだろう。
今回の件で気付かされたのは、自分はある種の、人を見抜く目があるということだと治美は考えた。この人は、倫理観が欠如していると自分が感じた人間は、犯罪までにも手を染めるということだ。
光佑にメッセージを送信すると、自宅の電話が鳴った。ケイタイが普及した昨今、固定電話はろくな用件で鳴らない。勧誘ならまだいいがと思いながら、治美はナンバーディスプレイに浮かんだ電話番号に目をやった。歓迎したくないナンバーが点滅していた。
受話器を取り上げると、実家に住む妹の声が流れてきた。治美は憂鬱に駆られた。近頃ちょくちょく連絡が来るが、妹とは昔から折り合いが悪いからだ。思いやりのない彼女は、鬱で帰省した治美をことあるごとに罵りいじめたため、治美は夜中に、家出をしたこともある。
それなのにその妹が、この度、統合失調症にかかってしまったのだ。治美は二度も鬱を経験したくらいだから、精神疾患には理解がある方だ。しかしいくら理解があっても、統合失調症の患者と会話をするのは精神的にきつい。
彼らは幻聴や妄想を、現実のことと捉えているからだ。鬱気質の治美は、妹と会話をするとすぐに鬱状態に陥った。
元々が仲のよい姉妹だったなら、支えることは、やぶさかではなかった。けれど患う前はあんなにも意地が悪かった妹が、病気により気落ちしているからといって、どうして愚痴を聞いてやらねばならないのか、治美には分からなかった。愚痴を聞いたことによって陥る自分の鬱気分を、どうしたらいいか分からなかった。
そう思うなら、電話を切ってしまえばいいのに、治美はそれができなかった。以前自分を虐げた相手であっても、今心の闇に犯されている人間を、放置することができなかった。
とにかく気分がダークで仕方がないと訴える妹を、治美は
「病気だから気持ちが辛いんだよ。治療を進めればよくなるよ」
と、この上なく優しい声で励ました。すると妹は
「そうは言ったってお姉ちゃん。わたしだってこの歳なんだから、恋愛くらいしたことあるよ」
と笑い声を立てた。
その訳の分からない対応に、治美は気が狂いそうになった。どうして自分の周りには、まともでない輩ばかりが、寄って来るのだろうと思った。
四十分後ようやく解放された治美は、畳の上に、ごろりと寝そべった。妹のことを誰かに委ねたいと強く思った。母親に委ねることができれば一番よかったが、パーキンソン病を患い、実家を離れていた。病気のせいで父親に離婚されたのだ。
父親は、小学生だった治美に、唐突に
「お前をつくって本当に損した。オレはなあ、子供なんか欲しくなかった」
と吐き捨てたことがある。
小五でストレス性疾患にかかるまでは、治美は、問題の無い優等生だった。しかしそんなことは父親にとって喜びではなかった。治美がたまにテストで百点満点を逃し、九十八点や九十九点を取ってしまうことや、体育の成績が普通であることが、父親にとっては不服で不服でたまらなかったのだ。
そんな父親が、不治の病を背負った母親を、突き放さない訳がない。従って離婚はやむを得ないことだった。そして実家に帰された闘病中の母親が、妹を引き受けてくれるとは思えなかった。離婚以前、毎日のように妹に暴力を振るわれていたのだから、恨みもあるだろうと思われる。
せっかく母親なのに、肝心な時に役に立たないなんてと、治美は歯噛みしたい気分だった。短大在学中に、治美への仕送り費用を使い込む一方で、百万円もの金の無心をしてきたりと、余計なことには熱心で頼り甲斐は全く無い女。だから治美は、母親を心を込めて恨んだのだ。
そうすると結局、妹のことは父親に委ねるしかないが、彼女は父親の所属する宗教施設で虐待を受けていた。これは妹の友人も、証人になっている。
妹が病を得始めた頃、治美は様子がおかしいことに気付き、病院へ連れて行くよう再三に渡って両親に要請した。ところが両親は、「神様が治してくれる」と言い張って、受診させなかった。その頃妹は、言動のおかしさを罰するために丸坊主にされたのだ。
その後、幸いにも妹が手がつけられないほど暴れたため、病院へ運び込まれた。それにより妹は、ようやく病院の治療が受けられるようになったが、よく報道される新興宗教のニュースを聞くようで、治美は不安におののいた。
悪いことに父親は、その施設の指導者の一人なのだ。その宗教施設にはもう一人の妹と弟だけでなく、叔母二人も加入している。誰かがその内逮捕されても、おかしくはない気がした。
治美は何とかしたかった。けれどどうにもならなかった。病気になる前に妹には、その宗教から抜けるよう度々説得したのだ。ここまでの事態に発展してから、助けを乞われても遅かった。
治美はむっくりと起き上がると、パソコンを立ち上げた。そろそろ夕飯の用意をしなければならないが、そんな気分ではなかった。妹のことを身内のことを忘れたかった。強烈な何かに、忘れさせて欲しかった。
お気に入りからSNSに進み、マイページを開いた。新着メッセージは届いていなかった。
治美はにわかに寂しさを感じた。
治美が水商売をしていた頃、英輔が客として、店を訪れたことはない。ただ知人としてなら訪ねて来たことがある。接客中にボーイに、英輔という男が来ていると知らされた治美は、何事かと店の外まで出た。夜のとばりに包まれた英輔は、卑しい笑顔を浮かべ治美に金を無心した。
別に貸す義理はなかったのだけど、突然店に来られたことに驚いて、言われるまま治美は二万円を渡した。水商売をするようになっても、つましい治美は、万札を二枚までしか持ち歩くことがなかったため、財布は空になった。数時間後には日払いの給料をもらえるからこそできたことだ。
なぜ英輔が、店にまで金を借りに来たのか治美は不思議だった。英輔の好まない職場で稼いだ金を、なぜ借りたがるのか、治美にはよく分からなかった。
しかしそんなことは、英輔には関係がないことだった。水商売をするのは反対したが、それでも治美は始めてしまったのだ。その事実が変えられないのだったら、英輔は金を借りたかった。集金した売り上げを、パチンコに突っ込んでしまったからだ。
あっさり貸してしまったものの、治美は金にシビアだった。店がはねると、治美は英輔に電話をかけ、人の職場に金を借りに来た行為をなじった。そしてなるべく早く返済するよう、ドスの利いた声で迫った。
英輔は金にだらしがなかったから、すぐ返済した。あちこちに借金をすることが、苦ではなかったからだ。英輔はよそから借りることによって治美への返済金をこしらえた。英輔はいい加減だった。とにかく督促のうるさいところを、黙らせることができれば、それでよかった。
借金癖のある人間に、見られる傾向だ。金融業を二社勤めた治美はそれを知っていた。
不意打ちを食らわさなければ貸さない上、いざ貸すと、督促のきつい治美に、英輔はその後しばらく借金を申し込まなかった。しかしだからといって、英輔と気持ちよく付き合えるようになる訳ではない。
その頃、とび職をしていた杉浦という客が治美を口説いた。客に口説かれることは、珍しいことではなかったが、治美はその気になった。杉浦は彫りの深い色男だったし、それに治美はとび職の男と親しくなったことがなかったからだ。
治美は好奇心が旺盛だった。それまでに関わったことのないタイプと、関わることが好きだった。誘われるまま治美は杉浦と飲みに出かけたが、交際は申し込まれなかった。本気ではないのだろうかと考えながら治美は杉浦と寝た。
恋人ではない英輔と寝ている内に、寝る前に、恋人関係を結ぶという習慣を忘れてしまったからだ。杉浦も自分を気に入っているのだから誘うのだろうし、自分は杉浦を好きなのだから、それでいい気がした。
破局が訪れたのは、三度目のベッドイン時だ。実家の離れに治美を引っ張り込んだ杉浦が、いよいよという時になって、避妊を嫌がったのだ。これまでは渋々ではあったが応じていたというのに。
何が何でも避妊をしろと迫る治美に、杉浦は
「何でそんなにゴム付けたがるの。おかしいよ。お前。堕ろしたことあるだろ」
と濡れ衣を着せた。
「何言ってんの? ゴム付けないようないい加減な人が、堕ろすような羽目になるんでしょ」
「てゆうか何でそんな堕ろすのやなの。オレの前カノなんて、二回も堕ろしてたけど平然としてたぜ」
「殺人を犯して平然としてるって、何それ」
堕ろさせる気なのかと、治美はぞっとした。膣外射精を安全だと信じるような愚か者にもげんなりするが、リスクが無いと思い込んでいる分まだ可愛げがある。しかし杉浦は、妊娠し中絶する前提で避妊しない性交を望んでいるのだ。
「殺人じゃねえよ。人じゃねえもん」
杉浦はむくれた。その顔はまるで子供のようにあどけなかった。
「それは法律が、一人の人間と規定してないだけの話でしょ。中絶さえしなければ、そのまま人間になるんだから、倫理的には人間でしょ。そもそも法律は、母体に悪影響がある場合に限ってしか中絶を認めてないじゃん。それを世間が誇大解釈してるだけじゃん。あたしに殺人を犯させないで」
人じゃないという発言に、怒り心頭に発しながら、治美が応戦すると、杉浦は
「てゆうか、何でオレだけそう責めるの」
と不平を鳴らし始めた。意味が分からず治美は耳を傾けた。
「世間にも避妊してない奴とか、安易に堕ろしてる奴、いっぱいいるじゃん。何でそういう奴らにもそう言わないの。何でオレにだけ言うの」
「だって他の人は、あたしを中絶するような目に、遭わさないじゃない。どうしてあたしが、世界中の倫理観の欠落した人間に説教して回らなきゃいけないのよ。そんな時間どこにあるのよ。あたしはただ、あなたの快楽のために、殺人を犯すなんて真っ平だって言ってんのよ」
義憤に駆られる治美を見て、バツの悪くなった杉浦は、頭から布団をかぶった。何が色男だろうと治美は呆れた。自分の快楽のために、訳の分からない理屈を口にし、それが通らないとなると逃避してしまう。こんな男のどこがかっこいいものか。みっともないだけではないか。
「あなたが考え変えないなら、このまま帰るけど。もちろん二度と来ないけどね」
最後通告をする治美に、杉浦は布団を被ったまま、「帰れば」と言った。
「でもお前は、絶対オレに連絡してくるって分かってるけどね」
目のくらみそうな怒りが、治美を襲った。こんな人でなしに連絡をするくらいなら、英輔に連絡を取った方がマシだと、治美は思った。治美にとっては英輔より杉浦の方が悪だった。それは英輔は必ず避妊をするからだ。
一度だけ、ゴムが切れていて使わなかったことがあったが、その時は英輔に浴室に連れて行かれ、ヘッドを外したシャワーを、中に突っ込んで洗浄された。英輔に洗われながら治美は、少なくとも自分は、最悪の扱われ方はしていないと感じた。
それは知り合いに、ナンパで知り合った女と寝る際に、女の軽さを戒めるために、わざと中出しをする、鬼畜のような者がいたからだ。
なるほど確かに、英輔はドラッグをするかも知れない。治美にも勧めるかも知れない。それは犯罪かも知れない。しかし治美にとっては、基本的には中絶の方が罪深かった。やむを得ない事情で中絶するならまだしも、できてしまったら、中絶すればいいという考えでゴムを使用しないなど、許されないことだった。
たまたま今の日本に、堕胎罪が存在しないというだけで、治美にとって堕胎は殺人なのだ。罪状がドラッグ使用と殺人だったら、確かに裁判にかけても殺人の方が罪が重い。だからそんな罪を、自分に背負わせる杉浦にまた連絡を取るなど、ありえないことなのだ。付き合っていた訳でもないのだから。
それなのに杉浦のこの自信は何なのかと、治美は内心、歯ぎしりをした。ここまで命を軽く扱う人非人にまた連絡を取るなど、治美には考えられないことだった。いくら治美が、男にだらしなくてもだ。治美はそれを杉浦に分からせてやりたかった。
ただだからといって、ここで言葉を尽くして、それを説明することは無意味に思えた。そんなことをしなくても、二度と連絡を取らなければいいだけだからだ。治美は黙って、こんもりと盛り上がった布団を眺めた。
最後に目にする男の姿が、布団を被った姿だなんて、振るわないことこの上無い。それだけ振るわない男と、関わっていたのだから仕方が無い。治美は立ち上がり部屋を出て行った。当然、杉浦は追って来なかった。
アパートへ向かう道すがら、杉浦より英輔の方がマシだと、治美は再び考えた。マシだからといって、別に英輔を呼び出す必要は無かったのに、少しでもマシな気分になりたくて、治美は英輔に電話をかけた。治美が帰り着いた少し後に英輔はアパートへ現れた。
やって来た英輔を引きずり込むようにしながら、治美は杉浦について訴えた。英輔は機嫌がよくなった。水商売を始めて五ヶ月、治美がようやくこのようなことを言い出すということは、それ以前には、客と寝ていない証拠だと考えたからだ。
てっきり客と寝まくっているのではないかと、邪推していた英輔は、はつらつとした気分になった。それで治美と共に杉浦をこきおろし精神的に満足させ、そして治美と寝た。
自分は一体何をやっているのだろうと、治美は思ったが、仕方が無いと諦めていた。杉浦の耐え難いまでの冷酷さを、どうにか紛らわせなければ、立ち直れるものではなかったからだ。英輔は問題のある男だが、こうして恋に破れた折には、唇と体でもって慰めを与えてくれるのだ。
治美は英輔の存在に感謝した。英輔が帰った後、金を保管している引き出しを開けるまでは。
宛先 ousuke
日付 5月19日17時45分
件名 最後にご挨拶を
明日にでもSNSを、やめようと思っています。元々こういうの向いてないし、友人に紹介されて、断るのも何なので始めたはいいけど使いこなせず、そればかりか光佑さんにご迷惑をかけてしまったので、そんなことをしてまで、使い続けても仕方ないと考えました。明日時間があれば解除の手続きをしようと思います。
なので、もしまだ質問がありましたら、今日中におっしゃって下さい。まあもう無いとは思いますけど念のため。
こういうサイトって、初めて登録しましたけど、こういうことって起こるものなんですね。それともあたしだけなのかな。どうも昔から色々と、事件やらトラブルやらに巻き込まれ易いタチなので、そういう巡り合わせなのかも知れません。
とはいえ光佑さんに巻き込まれたと、捉えている訳ではありませんけど。弟さんがあれほどの人ではなかったら、あたしももっと早く、素直に自分が何者なのかを打ち明けただろうと思いますし。
過去って、過ぎ去ったものだと思っていても、いつどういう形で自分の前に現れるか分からないものですね。もう三十年も生きてしまったし、これからも過去が、何がしかの形で目の前に現れることもあるでしょう。そういった時にどういった態度で臨むかは、とても大切なことなのだと気付かされました。
ただ、あたしがそれに気付くに至る過程で、光佑さんにご迷惑をおかけしてしまったことは、重ね重ね申し訳なく思っています。
それでは。
まさか返事をもらう前に、再びメッセージを送ることになるとはと考えながら、治美は送信をクリックした。
最初の頃、光佑がメッセージを何通も送ってきた時は、煩わしくてたまらなかった。それなのにそれから一昼夜が過ぎない内に、こちらからこのように、メッセージを送ってしまうとは。そして光佑からの返事が待ち遠しいとは。
英輔に復縁したいと迫られていた日々を、治美は思い起こした。あの時英輔のことが煩わしかった。ただ精神科に通院する英輔を、拒否できなかっただけだ。それなのに渋々誘いに応じている内に、いつの間にか、英輔と会うことが習慣になっていた。
今回も光佑と、メッセージをやり取りする内に、それが習慣になってしまったようだった。たったの一日で。前回のメッセージを送って約二時間、光佑は反応してこないというのに。治美の素性を知った光佑は、すでに日常に帰ろうとしているというのに。
治美もそろそろ、日常に帰らなければならなかった。洗濯物を取り込み風呂を沸かすと、台所に入り冷凍庫を開けた。鮭を味噌漬けにしたものと、炊いた飯、茹でたさやえんどうと小松菜が、冷凍保存されている。
飯は食べる直前に、レンジでチンだ。鮭はオーブントースターで加熱すれば主菜になるし、さやえんどうはそのまま、鍋に放り込んで味噌汁にできる。乾燥しいたけを加えれば、出汁も取れる上にスピーディーだ。小松菜はレンジでチンしておひたしにした。
冷蔵庫に豆腐があったので、切って冷奴にする。漬物は常備してあるので出すだけだ。野菜室にベビーリーフと茹でたブロッコリーが入っていたので、盛りつけてサラダも作る。
とりあえず夕飯を作ることができたので、出の目は、ごまかせそうだった。一日くらい夕飯を作らなくても、文句を言うような男ではないが、作らない場合は理由を言って、買って来てもらわなければならない。
まさか、元カレの兄と、メッセージをやり取りしていて作れなかったと、正直に言う馬鹿もいないが、治美は嘘をつくのが億劫だった。それくらいなら忙しい思いをして夕飯を作った方がよかった。
できあがった夕飯を眺めながら、やはり人は、真面目に生きるべきだと治美は考えた。
時間のある時に、魚にタレを漬け込んでおいたり、茹で野菜を冷凍保存しておいたりといった、手間を厭わなかったからこそ、今宵の食事を調えることができたのだ。いつどこで、元カレの兄に遭遇することになるか分からないのだから、そうなった時のために、日頃真面目に暮らしていることが、鍵になる気がした。
ところがせっかく夕飯を作ったのに、治美は上の空だった。帰宅した出が話しかけても、心ここにあらずで、英輔とその兄のことばかり考えていた。幸い出は、そういった時に治美を放っておくタイプだった。しかし内心穏やかではなかった。治美がSNSを始めたばかりだということを知っていたからだ。
覚え始めたSNSに妻が夢中になることは、出は構わなかった。ただ治美は普段は口数の多い女なのだ。いつもの治美なら、その日SNSで見知ったことを、興奮冷めやらぬ様子で、出に報告するはずだった。現にブログを始めた時点では、うるさいほどに感想を述べていたのだ。
ところがどういう訳か昨日から、黙りこくって、何かを考えている。何かあったに違いないと出は考えた。しかしそれを問いただすことはしなかった。何が起こったのかを知ることは、出にとって怖いことだったから。
何も聞かれないことをいいことに、治美は散々、物思いにふけった挙句、今夜も寝室を抜け出した。妻の挙動不審を気にかけつつ出は即座に寝入ったからだ。治美の方は、自分が送ったメッセージに光佑がどんな反応を示したのか知らなければ、眠れるものではなかった。
パソコンを立ち上げ、メッセージボックスを確認する。一通新着メッセージが届いていた。
差出人 ousuke
日付 5月19日18時40分
件名 最後ですか……?
Dearみつき様
こういったサイトでは知り合いかもと思っても、メッセージなどで確かめた方が得策ですよ。日記では誰でも見れますよね?
そうしたらあんな書き方
「以前1度会った事が……」「妹がクウさん……」
「ハワイに留学……」をされては、
僕もたまったものではありません。
それって僕の個人情報ですよね、お願いですから今すぐに
自信の日記の僕に関する事を削除して下さいませ。
誤解されますよね? 僕は皆に一応は尊敬されていました、
ところがその1文で、何人かは誤解を受けております。
自分で対処しましたので、お気になさらずに。
クウさんが、妹である事も誰も知りませんし、
それが暗黙のルールなのです。
個人情報ってとても怖いものですよ。
僕はこのSNSでは、殆ど仕事関係で使っています。
スピリチュアルやらヒーリングで水晶が活躍してるそうなので、
その関係の友達が殆どです。後は、同級生ですね。
下心を持った方はいません。
それは昔昔は世の介(好色一代男)を目指しておりましたが、
追いつき追い越したと同時に、性に対して貪欲ではなくなったのが事実です。
SNSを辞めるんですか?
こんな世の中です、相手(個人)を尊重しながら、
仕事なり、傷を舐めあうなり、でしたらとても
都合のいいシステムだと思いますよ。
初めてで要領が分からなかったダケかと思います。
続けてみたらいかがですか?
僕も、文学のお話ができる友達が欲しいし……
あくまで僕のわがままですから……
僕はこの程度の事でも、直ぐに腹が立つタチですけど、直ぐに忘れるタチでもあります。
人って反省して次から気をつけたら
良いと思いますよ。
反省しないで繰り返すと、彼(弟)の様な、悲惨な人生に
なるものです。
みつきさんには、共感できる部分もありますし、何と言っても
本や絵の話が出来そうなので……
前に1度会ってはいるようですけど……
僕にとったら今が
「一期一会」なんです。
千利休の弟子の山上宗二、「山上宗二記」に出てくる「茶湯者覚悟十躰」の一文の
「常の茶湯なりとも路地に入るより出づるまで
一期に一度の会のように亭主を敬い畏るべし」
日頃、多くの人と会っていてもいいかげんな心で会っていては、何も得るものも、通じる
ろもない。
その出会いが一生に一度のものであるとすれば、
その一瞬、一瞬が大切である。
からだそうです。僕もお茶の先生から聞いたのですが(笑。
もし僕との出会いが後者のような、そんな出会いであるとしたら
止めなくてもいいと思います。
わがままなのですが……(笑
相変わらず、誤字脱字の多いメッセージだった。それに認識も間違っている。ブログのコメント欄で、光佑に本名を教えるよう呼びかけたのはまずかったかも知れないが、ハワイに留学していたことがあるというのは、光佑自身が書き込んだことだし、光佑が兄だと自身のページに書き込んでいたのは、妹なのだ。
何でもこっちのせいにされてはたまらないと憤りながら、治美はブログを開いた。これ以上文句を言われてはた困るので、コメントは全て削除する。
それにしても、自分のことを棚に上げ、人に文句ばかり言ってくるとは、光佑は何様のつもりなのだろうという気がした。こんな男が尊敬されていたことが、そもそも間違いなのだから、少しくらい誤解されたところで、ちょうどいいと思えた。
しかしそんなことは、たいした問題ではない。それより注目すべきは「Dear」だ。突然親愛の情を示してきたことから、どうやら光佑は、社交辞令ではなく本気で自分を引き止めたいようだと、治美は考えた。
また「重田治美様」とメッセージを寄越していた光佑が、「みつき様」とハンドルネームで呼びかけてきた点も注目に値した。つまり光佑は、あくまでSNS上で付き合いたいと願っていると、表現しているのだ。しかし光佑は、本当にSNS上での付き合いだけを求めているのだろうかと、治美は疑問を持った。
だとしたらなぜ、下心を持った相手はいないとか、性に貪欲ではなくなったなどと、言い出すのかがひっかかる。SNS上だけの関わりなら、光佑が他の相手とどんな関わりを持っているかとか、性に対してどう考えているかなどということは、どうでもいい。
英輔と再会した頃、クスリのやり過ぎでインポになったと、告白されたことを治美は思い出した。そう言われたため、何となく会っていても安心な気がしていたが、いざセックスとなった時に、英輔が役立たずだったことは、一度も無かった。
ヨリを戻してしばらくしてから、そういえば、インポではなかったのかと尋ねると、いつの間にか治っていたとの返事だった。しかしあれは嘘だろうと治美は踏んでいる。おそらく英輔は、初めからインポではなかったのだ。治美を安心させるために、出任せを言ったのだ。
英輔と光佑が、似たもの兄弟であることを考えると、光佑も嘘をついている可能性がある。光佑は今も尚性に貪欲なのに、治美を安心させるために淡白宣言をしたのかも知れない。ということは、光佑は治美と寝るつもりだということだ。これはあながち、杞憂ではないだろうと治美は考えた。
英輔が光佑の恋人を寝盗ったことを、光佑が恨み続けているのは、送られたメッセージにより明白だ。やられたら十倍にしてやり返すという光佑は、英輔の十人の恋人と寝なければ、納得できないだろう。だが十人の恋人と寝るのは不可能だ。英輔は結婚までに治美を含めて六人しか、恋人をつくらなかったからだ。
体験人数は多いが、英輔は恋愛の数はさほどではない。そんな男が、結婚後に恋愛頻度が増えるとは考えにくい。もし多少増えたとしても、英輔の恋人を端から把握できる訳がない。そうすると英輔に復讐したい光佑にとって、治美の存在は、舌なめずりするほど貴重な訳だ。
本や絵の話がしたい。一期一会とはこういうかっこいい意味。そんなものは大義名分だと治美は思った。光佑にとってではない。さすが光佑も遊び慣れた男だ。光佑は治美に、大義名分を与えてくれているのだ。
意識的であれ無意識であれ、治美はその言葉に酔って、乗ってしまえばいい。作家を目指す人間にとって、捨てるにはあまりに惜しい誘いではないか。兄弟を更に兄弟にするチャンス。兄の復讐に乗るために、別れた恋人を裏切る機会。それが今目の前に横たわっている。
治美はパソコンの画面を見詰めた。進むか退くかは治美次第だ。マウスを押さえる指が震える。
その時は辛いけれど、悪い男や嘘つきな男と付き合った方が勉強になるなあと思います。後になって真実に触れた時に、昔心に引っかかっていた色んなことに、納得がいくから。
誠実な男と付き合っていたら、決して体験することの無い出来事です。
でもだからといって、わざわざ悪い男と付き合う必要は無いですけどね。勉強になる反面、時間の無駄ですもの。小説のネタにするくらいしか使い道がありゃしない。