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元カレのお兄さん

第7回小説現代長編新人賞を落選分を加筆訂正しました。

 テレビが報じている。乗っていた人がタバコに火を点けた途端、車が爆発したらしいと。

爆発した駐車場が、自宅からそう遠くなかったので

「え、何で」

 と(いずる)が反応した。朝食を取る手が一瞬止まる。

 真面目くさったアナウンサーの説明によると、車中には、ライター用ガスボンベが、四つも入れられていたそうだ。

 妻の(おさ)()は、「ラリッてたんじゃないの」 と返事をしようとしてやめた。治美がジャンキーの(えい)(すけ)と付き合いがあったことを、出は知っているからだ。治美が過去の男関係を匂わす発言をすることを、出は嫌がる。

 もし治美が、英輔の女にならなければ、このニュースを聞いただけで、即座にガスパン遊びを連想するようにはならなかった。ならばそんな発言は、口にしない方が賢明だ。代わりに治美は、「そうね」とだけ返事をして、四年前に思いを馳せた。

 英輔がカリーナを爆発させた時も、やはりタバコに、火を点けようとしたことが原因だった。ライター用ガスボンベを、複数積んでいた訳ではなかったが、ライター用ガスを使って、ラリッていたのは確かだ。

 今日、近所で車を爆発させた誰かさんは、どうしてライター用ガスボンベをいくつも積んでいたんだろうと、治美はいぶかしんだ。ラリる用途以外に、一般の人間が、そんな物をいくつも所有する理由が、治美には思い当たらなかった。

 焼きすぎて表面がざらついたトーストに、出がバターを乗せた。熱で溶けたバターは、でこぼこしたパンの表面で、まだらに黄色くてらてら光った。

 そういえば火傷の黄色い薬を塗られた英輔の顔も、四年前のあの日、こんな風にてらてら光っていた。

 








 四年前、英輔と治美は同棲していた。結婚も約束した。でも別れてしまった。

 別れるということは、関係なくなるということだと、治美は分かっていた。分かっていて切り出した。それなのに英輔からの呼び出しに応じてしまった。

 車が爆発して全身火傷を負い、入院していると聞かされたからだ。 無関係になりたくて別れたものの、電話口でそんなことを告げられたら、治美は無視できなくなった。

 別れてまだ、一ヶ月しか経っていなかったことも原因した。いくら別れたとはいっても、先月まで、一緒に暮らしていた男が大怪我を負ったのに、知らぬ存ぜぬでは冷たい気がした。見舞いに駆けつけなければ、情が無いように思えた。

 でもそれは、全て建前だった。手ぶらで総合病院に駆けつける治美の足は軽やかに弾んでいた。不幸に陥った英輔の姿を、早く両の目に焼き付けたくて、目玉までもが先走って、駆け出して行きそうだった。

 病室のベッドに横たわる、英輔の不気味な姿に、治美は度肝を抜かれた。全身火傷を負った人間というものを、目の当たりにしたのは初めてだったからだ。変色し引きつれたその肌は、もう治らないように思えた。事故前は色男だったからこそ、その落差は衝撃的だった。

 こんな姿になってしまうなんて、別れておいて本当によかったと、治美は安堵した。治美は面食いだったから。

 治美の姿を認めると、英輔は喫煙室へ行こうと誘った。喫煙許可が出ていたのかどうかは、定かではない。

 けれど、違法ドラッグをやる許可が下りている日本人はいないのだから、意味がなかった。治美や病院にとってではなく、英輔にとって意味がなかった。英輔は許可を取るなどという発想を、持たない男だから。

 入院病棟の喫煙室というものは、妙な場所だ。疾病の治癒を促進しているのか悪化を試みているのか、判断しかねるという点で。

 その妙な場所で英輔は、治美からもらいタバコをしながら

「ほらオレ、いつもグラサンしてるじゃん? それで目が守られたんだよ」

 などと、事故当時の話を、治美に得意げに聞かせた。

 遊び人でありながら、視線恐怖症の英輔は、夜中だろうと屋内だろうと、サングラスを装着しているのが常だった。しかしさすがに入院中の病院では着けていなかったが。

 珍しい話が聞けたので治美は楽しくなった。別れて一ヶ月、むせ返るような愛しさと憎らしさに、もんどり打っていた日々が、少しは報われた気がした。英輔にはバチが当たったのだと思った。

 しかし英輔の方は、バチだとは思っていなかった。彼はこの厄災は治美のせいだと思っていた。治美が以前、自分が心を込めて恨んだ人間は、酷い目に遭うと言っていたからだ。

「また伝説、作ったな」

 と紫煙と感想を英輔は吐いた。治美の恨み晴らしリストに、自分が加わったことについて言っているのだ。

「お前の恨みのパワーはすげえよ。おかげでこのザマだよ」

 英輔は両手を広げた。寝巻きがずり上がり、両腕が包帯で巻かれているのが見て取れた。タバコが吸えるくらいだから、指はほぼむき出しだったものの、茶色くむくんでいる。

 本当に自分の恨みのパワーが、英輔を病院送りにしてしまったような気がして、治美は猫のような目に涙を溜めた。これは不思議な話だった。治美が夜毎に楽しんでいる妄想の世界では、英輔はもっと残虐なやり口で痛めつけられていたからだ。それなのに治美は、罪悪感に駆られて泣いた。

 涙を流す女は、英輔の好物だったから、彼は唇の両端を持ち上げて治美を観察した。もうじき二十六になるというのに、せいぜい二十二、三にしか見えない治美の泣き顔は可憐だった。英輔は治美を抱きしめたくなったが、火傷が痛いので我慢した。

 泣きやんでしまうと、治美は特にすることもなくなったので、帰ることにした。

「出口まで送る」

 と英輔が言い出した。こんな恐ろしい風貌の人と歩く姿を、誰かに見られたくないと、治美は躊躇した、しかしそんなことを口走るのは、薄情な気がして黙っていた。

 エレベーターの中で、英輔は治美の唇を求めた。こんな恐ろしい風貌の相手とキスなどしたくないと、治美は戦慄した。きっと大抵の女が、そう思うはずだという気がした。ということは英輔は事故以来、誰とも口付けを交わしていないのだろうとも思った。

 もう治らないのだとしたら、英輔は一生、誰とも口付けることができないのかも知れない。何とも可哀想になり治美は嫌々目をつぶった。自分の人のよさに、英輔がつけ込んでいることは分かっていた。

 エレベーターを降りると、一階のロビーは、人々がごった返していた。途端に英輔は好奇の視線におびえ

「悪い。出口まで送れないけど」

 と言い出した。体はもう階段に向かって逃げていた。「出口まで送る」と言ったのにと、治美は憤った。

 英輔の嘘など今に始まったことではない。治美はその嘘に疲れ、別れを決めたのだ。そして別れても尚、だまされたことがしゃくだった。英輔はただ単に、エレベーター内で唇を奪うつもりだったのだ。その男に、まんまと唇を差し出してしまったことに苛立ちながら、治美は病院を出た。

 切っていたケイタイの電源を入れると、すぐさま電話がかかってきた。相手は別れたばかりの英輔だった。

「さっきは、言えなかったんだけどさ」

 と英輔は切り出した。

「一週間後の同じ時間に、また来て欲しいんだ。オレとやり直す気があるなら」

 こちらから別れを求めたのに、やり直す気がある訳がないと、治美は呆れた。思い直してくれと真夜中に訪ねて来た英輔に、何度ドアチャイムを鳴らされても、断固として部屋に入れず、決行した別れなのだ。それをどうして今更やり直す気が起こるものか。

 やんわりと断る治美に、英輔は言った。

「頼むよ。オレ今だったらお前のこと許せそうな気がするんだ」

 あたしは別に、あのことを許してもらいたいなんて思っていないと治美は腹を立てた。許して欲しいのではなく、許せないから別れを決めたのに、この男は何を勘違いしているのだろう。

 人を待たせるのが嫌いな治美は、行くつもりはないと言い張った。だが英輔は一方的に、「待ってる」と電話を切った。

 その後の一週間というもの、治美は全く迷わなかった。もちろん英輔の指定した日時に、見舞いに行くことはなかった。「許して欲しい」と言うならともかく、「許せそうな気がする」と勘違い発言をした英輔に、真実を突きつけてやりたかった。

 ところがその日時がすぎてみると、治美は心配になり始めた。自分の外見に、あれだけ自信を持っていたメンタルの弱い男が、一瞬で醜い姿に変わり果て、復縁を願った自分にも捨てられたのだ。自暴自棄になってしまったのではないだろうか。

 電話をすると英輔は、恐ろしいほど冷淡な声で、「何?」と第一声を放った。

「あ、電話出れるの? 退院したの?」

「したけど何? それが君に何か関係あるの?」

 捨てられた可哀想な英輔に、情けをかけてやったつもりだった治美は、その冷ややかな物言いに戸惑い傷付いた。捨て身の復縁願いを拒絶され、プライドの高い英輔は立腹していたのだ。

 取り付く島がなかったので、治美は早々に電話を切った。すったもんだはあったけれど、最後は笑って別れたのにと、治美は残念に思った。英輔が車を爆発させてしまったばかりに、おしまいの形が塗り替えられてしまったからだ。

 奇妙な喪失感が、治美の中で芽生え始めた。恨みつつも別れてせいせいしていたはずだったのに、その後、英輔の車が爆発してしまったばかりに、英輔に対する喪失感がふくらみ始めてしまった。

 二週間治美は我慢した。英輔はあんなにも冷たかったのだ。連絡をとったところで、喪失は深まるだけだと。しかし二週間後に治美は気付いた。あんな態度を取った以上、英輔の方からは決して連絡できないのだと。それを英輔も分かっているのだと。

 だとしたら英輔も、治美と同じ喪失感に悩まされている訳だ。

 治美は英輔に電話をかけた。弾んだ声で英輔は電話に出た。

 それが四年前だ。









 土曜日なのに出は、その名にふさわしく休日出勤だ。夫を送り出すと、治美は大慌てで洗たくをし食器洗いをやっつけた。子供のいない専業主婦だから、そんなにも急いで、朝の家事を済ませることはないのだが、治美には早く確認したいことがあった。期待しながら治美はパソコンを立ち上げた。

 学生時代からの友人、うららからのメールを、待ち焦がれていたのだ。二人は急用ならケイタイで連絡も取り合うが、普段はパソコンで、長文メールを交し合う仲だ。

 しかしうららからメールは届いていなかった。そこで治美は、ワードを立ち上げ、保存されていた小説を呼び出した。そこに綴られているのは、遠距離恋愛の恋人たちが別れてしまう話だ。自己の体験に基づくこの小説を、治美は仕上げたばかりだった。

 治美は、一から小説を書き連ねる時間も愛していたが、文章の推敲も好きだった。言い回しを変えてみたり、不要な言葉を削除したりしていると、あっという間に時間が流れていった。それでもたった一時間で、治美はワードを閉じた。小説は治美の仕事ではないからだ。

 いつもならそこで、パソコンも落とすところだが、今日は再びメールを立ち上げた。するとこの一時間の間に、うららからメールが届いていた。件名の「わたしにも分かりません」という文字が、治美の視界に飛び込んできた。



 件名 わたしにも分かりません


治美がどうしたらいいか分からないって気持ちになっちゃったことについて、悪いと思うし、わたしのせいだとも思うけど、わたしにもどうしたらいいか分かりません。わたしが加賀(かが)さんを、諦めればいいんだってことも分かってるし、諦めなきゃいけないことも分かってるんだけど。


でも加賀さんも、彼女とうまくいってないって言うし、正直よく分かりません。うまくいってないからって、わたしが加賀さんと付き合っちゃったら、奪ったことになるし、そんなことはいけない。必ず自分に返ってくるって分かってるけど、でも加賀さんは、とうとう銀行を、休職することになったのね。


この前言った鬱が悪化しちゃったらしくて。それで加賀さんは、音楽の仕事で食べていきたいって言ってて。そんな甘いもんじゃないっていうのは、本人も分かってるみたいなんだけど、でも仕事のストレスで鬱になっちゃった人に、元通り働けって言うのも可哀想だし、こんな時にさよならするっていうのも冷たい気がするし。


でも治美は、そんなの本当の優しさじゃない。自己満足だって言うんだろうね。治美が言うことはみんな分かってるの。分かってるけどでも、わたしは治美の言うみたいにはできないし。


だからわたしのせいで、治美にそういう思いみたいなのを、抱かせちゃったのは、悪いと思うけど、でもわたしのせいでそう思っちゃうなら、ほっといてくれていいです。


 治美には離婚の時にも力になってもらったし、本当に治美がいなかったら、乗り越えられなかったと思う。そのことにはすごく感謝してるけど、でも今わたしと関わるのが辛いなら、距離を置いてくれていいです。



 マウスを操作する治美の手が震えた。あんなメールを送らなければよかったと思った。



 件名 混乱してます

 

鬱はあたしもなったことあるから、辛さは分かるけど、でも鬱だからって、同情で親しくなるのは違うんじゃないの? 鬱は心の風邪だから、誰でもかかる可能性があるんだよ。誰でもかかるってことは悪い人もかかるんだよ。あの英輔だって、ずっと精神科通ってたんだから。第一、加賀さんにはカノジョがいるんでしょ? そんな人と何で仲良くなってんの? 

うらら最近どうしちゃったの? 前のダンナさん含め、変な男とばっか関わって。うららってそんな人だった? うららとは12年付き合いあるけど、最近ここ何年かで、うららが変わっちゃったような気がする。それとも本当は前からそんな人だった? あたしが気付かなかっただけ? うららのことが分からなくて、うららとどう関わっていいか分からなくなりました。自分がどうしたらいいのかも、分からなくなりました。

ねえ、どうしたらいいと思う?



 送付済みメールボックスを見るまでもなく、送ったメールの文章は頭の中に呼び出せた。一週間前にそのメールを送って以来、治美は何度もその文章を思い返し、うららからのメールを、焦れるように待っていたからだ。

 謝って欲しかった。そして加賀とは、もう切れたと言って欲しかった。だからまた仲良くやろうという言葉を待っていた。

 自分は何も間違っていないと、治美は思った。せっかく銀行に就職したというのに、三十を過ぎてから、音楽の仕事がしたいと言い出し、本当に休職までしてしまう、将来性のない会社の先輩のことなど、うららはさっさと見限るべきだった。しかも鬱になってしまうとは、何というメンタリティーの弱さだろう。

 治美自身も、過去に二度鬱を患ったことがあったが、それは彼女にとって話が別だった。なぜなら治美はうららの友人であって、うららの男ではないからだ。うららの男は、うららの結婚相手になる可能性があるので、将来性が無ければならなかった。

 うららの別れた夫も

「オレは、人生の勝利者になる」

 と言って、会社を辞めねずみ講に手を出した挙句、ヒモになったような男だった。それが原因で別れたのだから、うららは安定感のある男を、見つけなければならないのだった。

 それなのにうららは、治美から見たら、信用ならない男ばかりを好きになるのだ。

 何のためにあたしが英輔と付き合ったと思っているんだろうと、治美は歯噛みしたい気分になった。精神科には英輔のような、どうしようもない男も通うということを、うららが学習しなかったことが忌々しかった。

 ラリッた英輔にかけられた迷惑の数々や、爆発事故後の腐れ縁によるいざこざを、まるでうららのために経験したことであるかのように治美は考えていた。英輔とのあれこれを、うららには逐一報告してあったのだから、治美によるとうららは、そこから学ばねばならなかった。

 学んでいたらうららは、うららの前のダンナと英輔を、足して2で割って薄めたような加賀に、惚れるはずがなかった。それなのにうららは今加賀に惚れ、治美を疎んじ始めている。

 怒りが指の動きになって、キーボードを叩き始めた。あんなメールを送らなければよかったと、治美は先ほど思った。しかし送ったことで、うららの本音が引き出せたのだと思い当たった。

 指が更に激しく、キーボードを叩いた。自分はうららのためを思っているのだから間違っていない。そう思っていたが、治美は疲れを覚えていた。煙たがられてまで、うららの側にいようとは思わなかった。

例えそれが、一生の友情を誓い合った女友達であっても。









 退院後の英輔に初めて会った日、治美は目を見張った。火傷がすっかり、綺麗に治っていたからだ。

「特に顔の治りが早いって、驚かれてさ」

 と英輔は、顔をにやけさせた。

「ったり前だろって。オレが顔に、どんだけ気合入れてると思ってんだよ」

 英輔が日頃、顔に気合を入れているのは本当だった。英輔は男前だったが、それは意識して顔に力を入れた時だけだった。付き合っている間も、別れてセックスフレンドになった後も、英輔は治美の前で、顔に気合を入れ続けていた。英輔が自分の顔を意識しなくなるのは、ラリッている時か寝ている時だけだった。

 しかしそんなことはどうでもいいことだった。その時、差しあたって重要だったのは、治美が職探しをしていたということだった。 治美はノンバンクの事務員をしていたのだが、社長が国会で重要人喚問されてしまい、連日ワイドショーを賑わせ始めていたのだ。

 なぜ重要人喚問されたかというと、取り立て方法に違法性がある可能性があったからだ。だからといってなぜ連日、ワイドショーを賑わせられるだけの材料があったかというと、告発者が後を絶たなかったからだ。なぜ後を絶たなかったかというと、会社と揉めて辞めた者が多かったからだ。

 その会社は、社員の平均勤務年数が三年だった。そんな状態では、まだ勤めて二年経たない治美が、辞めたくなっても当然だった。会社は内部告発を防ぐため、社員の机を全て、引き出しの無いタイプに総取替えすることまで検討していた。引き出しが無ければ、内部資料を所有できないだろうというのだ。

 そんなギャグのような提案が、本気で可決されてしまい、これは早く辞めなければ大変なことになると、治美はおびえた。社員をそこまで信じられないということは、すなわち会社は、クロだということだ。

 そう思ったのは、治美だけではなかった。退職希望者が溢れたので治美の退職願いは受理されなかった。二十一歳の頃、患った鬱が再発した。医者に診断書を書いてもらったが、支店長は休職しか認めようとしなかった。

 仕方なく親に泣きつくと、父親が支店に電話をして、弁護士を入れると脅した。おかげで治美の退職は認められた。ところがそのせいで父親に、しばらく実家に戻るよう言われてしまった。父親と仲の悪い治美は気が進まなかったが、借りができてしまったため、仕方なく帰った。

 しかし仲が悪い者同士が、借りができたくらいで、仲むつまじくなる訳がない。治美はたった三日で父親と衝突し家を飛び出した。アパートに舞い戻った治美は、突然無職になった身の上を思った。実家は頼れないから、すぐに職に就かねばならない。とはいえ辞めた職場は、三つ目の会社だったのだ。

 もう会社員は懲り懲りだ。辞めたいと思ったら、即座に辞められる仕事でなければ、メンタルに悪い。即座に辞められる仕事といったらバイトだ。だが一人暮らしをしながら、フリーター収入では心もとない。何とか気楽な身分で、それなりの収入を確保できないだろうか。

 世の中はそんなに甘くない気がするが、実は案外甘い。治美は水商売をすることにした。以前スナックで働かないかとスカウトされ、たまたまカレシがいなかったため、やってみたところ、旨味のある仕事だったからだ。

 サボり癖のあるママの目を盗んで、店の客と、ニューハーフの店を冷やかしていたのだが、その間も時給が入った。店を抜け出さないまでも、客一人いない店内で、スタッフと与太話をしながらカクテルを飲む時間も時給に還元された。その店が、新装開店して忙しくなってしまったので、治美は辞めたのだ。

 あれから四年が経っていたが、どういう訳か、見た目は四年前よりもむしろ若返ったと言われる治美だから、何のてらいもなく、面接を受けに行った。

 明日から店に出るという話を治美に聞かされ、英輔は仰天した。

「退院して初めて会ったと思ったら、いつの間にか会社辞めてて、実家も帰ってて、でも三日で帰って来て、今度は店に出るって何だよ。それ」

 と英輔は喫驚していた。しかし人にはそれぞれ、ドラマがあるのだから仕方がない。

 爆発は人生で、一度起こらないぐらいの希少な出来事だ。だから爆発を起こした英輔が、自分を主人公のように思ってしまっても無理はない。しかし英輔が治美と別れて爆発している間に、治美にも色々あったのだ。

 しかし色々あったからといって、水商売をしていいかといえば、それはまた違う。だから英輔は「やめろよ」と言い出した。

「大体お前、水商売するなんて友達に言えんの?」

「うららに電話したら、『頑張って』って言われたよ」

「ああっ、うららちゃんは世間知らずだから分かってないんだよ。ちょっとうららちゃん呼び出して」

 治美と最も仲のいいうららを説得できれば、治美も危険に気付くと英輔は策を練った。そもそも出会った時にも、治美はうららと一緒だったのだ。二十一の治美を英輔が路上で見初め、連れの男と声をかけた。連れはうららを気に入ったから、しばらく四人はダブルデートをしていたことがあった。

 うららと連れは別れてしまい、もう会うことはない。治美と英輔も、実はもうとっくに別れている。しかしそんなことは、英輔にとって重要ではなかった。重要なのは面識のあるうららなら、説得できる可能性があるということだ。英輔は治美に、所有欲の名残のようなものを感じていた。

 そんな勝手な感情で呼び出され、うららにはご足労なことだった。ファミリーレストランでドリンクバーをおごりながら、英輔は

「水商売なんかしたら、運転手の男に、ヤられちゃうかも知れないし」

 と神妙な顔をしてみせた。

「運転手?」

 と愛らしい顔をきょとんとさせるうららに、治美が

「ほら、お酒飲むから、送迎の車が出るの」

 と説明した。そんなことまで説明しなければならないほど、うららは疎かった。それでいて水商売への拒否反応は薄かった。

 うららは

「でも一人の人が、大勢を送迎する訳だから、別に治美が車に乗ったからってヤられないでしょう」

 とおっとりと笑った。

 それにかぶせるようにして治美が

「そうそう。ヤッたとしたらそれ和姦だから問題なし」

 と言い切った。喪失感に駆られ英輔とヨリを戻したものの、彼はもはや治美にとって、セフレ以上の関係ではなかった。

 とはいえ別に、体だけを求めていた訳ではない。心も求めていたが、それはあくまで「友達」としてであって、決してそれ以上でもそれ以下でもなかったということだ。

「それにさあ、年下の女とかに呼び出されてさあ、『わたしの客取ったでしょ』とか、いちゃもんつけられたりとかするんだよ」

 英輔の食い下がりに、うららと治美は、同時に「んー」と言いながら笑った。うららは年下の女は、水商売じゃなくても遭遇するので、仕方がないと思っていた。治美は呼び出されるのは年下だろうと年上だろうと嫌なので、敢えて年下を強調されても、思いとどまる要因になり得ないと考えていた。

 すると英輔は、あっさり二人の説得をやめた。英輔は何かに取り付かれているのではないかと評されるほど気分屋なので、急にどうでもよくなったのだ。それはもしかしたら、ドラッグの影響かも知れなかった。

 ここ一~二年は、会社を辞めたこともあり、すっかり金が無くなって、安価なガスパン遊びをしたり、せき止め薬を使う割合が増えた英輔だが、以前はマリファナや覚せい剤をやっていたのだ。そんな男すら止める水商売など、やめるべきという気もするが、そんな男が止めるからこそやらねばならなかった。

 治美もうららも、水商売にリスクがあることは分かっていた。だがえり好みしていたら仕事などできない。正社員をしていて、治美は二度も鬱になった。だからバイトがいいと言うなら、バイトをするしかなかった。治美には短大の奨学金の返済もあるのだ。

 実家の父親は一度目の鬱で帰省した時に、雪の中、治美を外へ引きずり出したような男だ。そんな男だから仲が悪いのだし、仲良くしようがない。関係改善を頑張ったりしては鬱が悪化してしまう。実家を頼れず、稼がねばならないのなら、水商売でも何でもやるしかない。

 四の五の理屈をつけて、会社を辞め、ニートをしながらクスリをしている英輔より、治美とうららの方が余程まじめだと言えた。

 少なくとも二人は、稼がねばならないということを分かっていたし、クスリもやっていなかった。二人とも男を見る目がなかったから、働かない男とも関わったが、少なくとも自身は働くことをやめなかった。

 それでもどれだけ事情があっても、水商売が蔑まれる職業だということを、治美は分かっていた。うららなどお堅い銀行員なのだから、難色を示してもよかったくらいだ。それなのに全てを理解して応援してくれたうららに、治美は感謝した。それに引き換え英輔は何なのか。別れてもまだカレシ風を吹かせるとは。

 本当なら治美は、英輔にもっと怒ってよかったのだ。









 うららから、分かりました。今までありがとうとメールが来たのは翌日だった。分かっていたことだったのに、引き止めてもらえなかったことに、治美は落ち込んだ。男とは何度も別れたことがあったから、立ち直り方を知っていたが、仲のいい同性と喧嘩別れをしたのは初めてだった。だからどうしたらいいか分からなかった。

 とりあえず治美は、既存の女友達への依存を、少し深めることにした。一人一人と関わる時間を少しずつ増やすことによって、喪失を埋めようとした。すると喜久子(きくこ)がすぐにピンと来た。子育て中で治美へ時間があまり割けなかったからだ。

 優しい喜久子は、「忙しいの」と治美を邪険にする代わりに、あるSNSへの登録を勧めた。メジャーなSNSだったから、治美も名前くらいは聞いたことがあった。ただそれまでは、興味が無かった。そんなものに登録するのは暇な寂しい人だという気がした。

 しかし今、治美は暇で寂しかった。

 作家志望の治美には、本当なら暇は無かった。出には三年間という約束で、専業主婦のまま作家を目指す猶予を与えられている。約束の期限まであと一年だ。それまでに結果を出せなければ、仕事を始めるか子供を生まなければならない。仕事と家事、あるいは子育てに追われながらでは、執筆に割ける時間は極端に減るだろう。

 だから治美は、寸暇を惜しんで執筆をしなければならなかった。そして執筆への意欲は、旺盛だった。アイディアも豊潤に持っていた。

 それなのに今、治美は暇で寂しかった。うららが抜けた穴をふさぐのは、別の誰かの存在である気がした。

 喜久子がこの五年もの間、そのSNSに登録し続けているという事実が治美をそそった。うららと別れた今、治美は違う世界に飛び出してみたくなった。うららの知らない自分になってみたかった。それに作家になりたいなら、経験を積む必要がある気がした。

 これは逆説的だ。そもそも治美は、波乱万丈な自分の人生を書き記したいからこそ、作家を目指しているからだ。治美は自身を鬱に追い込んだ両親の存在に、頭が爆発しそうだった。渡り歩いた職と男の存在に頭が爆発しそうだった。だから爆発しないために、その経験を綴っていた。

 経験をそのまま書くこともあれば、経験をヒントに、全く違う物語を書くこともあった。どちらの作業も楽しかったし、その作業によって、自分をなだめることができた。

 でも人は、まずおまんまを食べなければならない。だからその作業が仕事になることを欲した。そして仕事になることを欲すると、更に経験が必要な気がした。少なくとも今興味のある何かは、やってみる価値がある気がした。自分をなだめつつ、おまんまを食べるために。

 喜久子から紹介メールをもらい、治美はそのSNSに登録した。「初めての方へ」をクリックすると、親切なことに、SNS活用法が載っていた。そこにはまず知り合いを探せと書かれていた。治美は膨大な個人ページを訪問した。しかし皆、ハンドルネームを使っていたので、知り合いがいるのかどうかさっぱり分からなかった。

 再び治美はSNS活用方法に目を通した。コミュニティー、通称コミュに参加しろと書かれていた。そこには、巨大なSNSであることをうかがわせるコミュが、沢山あった。つまりマニアックなものが多かった。

 中には、ノンクリスチャンだけれど、イエスキリストを愛するという人々のコミュまであった。日本のクリスチャンは人口の1%だと聞いていた治美はのけぞった。

 だとしたら、ノンクリスチャンでありながら、イエスを愛する人々は、この日本で大変少ない割合だと考えられる。それなのにそんな少数派のためのコミュが、ここには存在しているのだ。

 だとしたら自分のマニアックな部分も、このサイトは、網羅してくれるのではないかと治美は期待した。このサイトを利用すれば、自分にぴったりくる誰かと、つながれるかも知れない。

 今まで感じたことのない興奮が、自分を包むのを治美は感じた。もしかしたらうららがいなくても、大丈夫かも知れない。この仮定は治美の心を期待で躍らせた。









 治美と英輔は九年前に一度別れている。その時は、たった十日の交際期間だった。

路上でナンパしてくるような男との交際など、すぐ終わってしまっても当然かも知れない。あの時、一緒にいたうららとの様子を見た英輔が

「君たちって、ホントに仲いいねえ」

 と感心したように言ったため、治美は彼を気に入ったのだ。

 うららとの仲のよさを理解されたことで、好意を抱いた。もちろんそれだけではなく、英輔のスーツ姿や、読書に対する造詣の深さや、ナンパ慣れした会話術なども、治美の心をときめかせたのだけど。

 別れを切り出したのは、治美の方だ。交際十日目に初めて治美の方から電話をかけたら、英輔が素っ気無かったからだ。英輔は治美の言うことを、まともに聞きもしなかった。

 自分から連絡してくる時には、あんなに機嫌がいいのに、こちらが連絡をとると、尋常ではないつれなさを見せるとは、何と勝手なのかと、治美は憤慨した。そんな気分屋な男とは付き合いきれなかった。治美はとっくに英輔に惚れていたから、その決断はのたうち回りながら下したのだけど。

 別れの意思を留守電に吹き込むと、翌日治美は、英輔にラブホテルに連れ込まれた。別れ話をするためという名目で。

 9999という何やら切羽詰った名前のラブホテルで

「あの時、あんな態度だったのは、実はマリファナをやっていたから」

 と告白しながら、英輔はその場でもマリファナを吸った。「やめなよ」と治美がマリファナを取り上げようとすると、英輔は

「何すんの。君に止める権利無いでしょう」

 と金切り声を上げた。

 その迫力に治美がひるむと、英輔は治美をベッドに押し倒し、先ほどとは打って変わったねっとりとした声で

「それとも、オレとヤる?」

 と耳元でささやいた。

 今この時だけでも、英輔にドラッグをやめさせたい。切ない願いが治美を無抵抗にした。それが二人の初めての性交渉だった。その日を最後に、二人は二年会わなかった。

 すでに鬱病で通院していた治美にとって、その出来事はきつかった。男と付き合う度に結婚を意識する治美にとって、結婚を考えた男が、あそこまでのろくでなしだったという事実はこたえた。とうとう会社に行くことができなくなった。

 精神科の医師に、どれだけ帰省を勧められても、拒んでいた治美が、実家に電話をかけ母親に

「そっちに、帰ろうかなあ」

 とつぶやいた。

「じゃあ、帰って来たら」

 と母親が言うので、うららに連絡を取ると、治美の元に駆けつけて来た。うららはしきりに寂しがっていた。「君たちって、ホントに仲いいねえ」という英輔の声が、治美の鼓膜によみがえった。

 実家に帰っても、鬱を理解しない父親や、かばってくれない母親の間で、身の置き所が無かった治美の、精神的な支えはうららだった。

 ゆっくりしていなければならない病気なのに、家の手伝いをさせようとする父親に大弱りし

「無報酬で働かせられるくらいなら、いっそ家を出て稼ぎたい。そっちで仕事を見つけたい」

 と手紙で書き送る治美に、うららは求人情報を郵送するなどして応援した。

 その甲斐あって、治美は再び職を得て、実家を離れることができた。

 治美が再就職を果たした年の夏、治美とうららは、那須高原に旅行をした。うららの協力のおかげで再就職を果たした会社の、福利厚生を利用して、ホテルが安く取れたのだ。

 帰りの新幹線の中で、うららは

「わたしたち女同士でよかったと思うの」

 と言い出した。

「わたしたちこんなに気が合うし、もし男と女だったら、絶対付き合ってたと思うのね。でも付き合っちゃったら、結婚すればいいけど、しない場合は別れることになっちゃうでしょ。でも女同士だったらずっと一緒にいられるし」

 その時、治美は確かに心から同意した。女同士なら別れは無いと信じていた。ましてやうららを思う気持ちが、うららを遠ざける理由になるなどとは、夢にも思わなかった。









 うららを失った治美は、巨大SNSで、自分にぴったりくる誰かを探そうと決意した。マニアックなコミュの数々は、その趣旨を読んでいるだけで楽しめたが、ようやく参加したいと思えるものが見つかった。三島由紀夫について語り合うというのだ。

 実は英輔は太宰治のファンだった。ヤク中の上に、手前勝手な弱さを持つ太宰に、共感したのだろうと思われるが、本人はビジュアルがいいからと説明していた。

 治美も面食いだったが、英輔のそれは治美を超えていた。治美は恋愛相手さえ美しければ、それで満足したが、英輔は小説家でさえ美しくなければ認めようとしなかった。自身の面食いさに、罪悪感を抱いていた治美には、英輔の存在は免罪符になった。

 例えば二人でレストランに入る。席に通された英輔が、治美に耳打ちする。

「見ろよ。隣の女。目が覚めるくらいのブス。お前がいくら中和頑張っても難しいくらい」

 褒め言葉一つにも、捻りを利かせる英輔に、治美は脳がじんとした。自分を持ち上げるために他人を貶めた英輔を、非難しなければならないのに、聞き慣れない追従が心地好くて、背徳の喜びに堕ちた。

 悪い英輔と一緒にいることが、治美にとっては安楽だった。自分を責める傾向ゆえに、鬱病と手を切れない治美にとっては。治美の最初の鬱は、会社でのセクハラが原因だ。それも自分に隙があるのではないかと、考えてしまったゆえの鬱だ。

 自分を責めがちの治美には、明らかな悪者である英輔の存在が、心地好かった。英輔と一緒にいれば自分を責めずにいられた。そして英輔のことも責めずにいられた。英輔の悪さを、芸術的に肯定するかのように太宰が存在したからだ。

 太宰に溺れるゆえに英輔は三島を嫌った。三島は太宰を、度々けなしていたからだ。

 英輔と完全に手が切れた一年後、訪れた図書館で、治美は不意に三島と出会った。自分はもう三島を読んでいいのだと思った。もう誰に遠慮することはないのだと。そしてページを広げたら、三島の流麗な文章に、治美は幻惑されてしまった。

 図書館に通い詰め、三島を読み漁った。三島が自決に至った理由を文献で当たり、ネット検索をして調べ尽くした。三島の自決には同意しかねながら、三島作品の虜になった。

 しかし周囲には、一人も三島ファンがいなかった。治美は国文科を修めていたから、国文科出身の友人たちも多い。夫の出も読書家だ。それなのに周囲の誰も三島を好きではなかった。

 そんな折、治美はとある投稿を新聞で見つけた。

「知り合いの東大生に、三島作品を勧めたら、『現代語訳はないのか』と尋ねられた。とうとう東大生が、三島作品を読めない時代がやって来たのか」

 これでは自分の周囲に、三島ファンがいなくても無理はないと、治美は合点した。治美は短大卒だから、周囲にもそれに見合う学力の者しか集まらないからだ。治美はたまたま、読解力があるから三島を読めるが、現代では三島作品は古さゆえに難しいものなのだ。

 それでは三島より早く文壇デビューした太宰が、なぜ今も尚、世間に支持されているのか。それは太宰は、青春のはしかだからだと治美は考えた。治美の目から見て、三島より太宰の方が文章が平易だ。平易なものは若者だけではなく現代に向いている。三島は難解なので現代に向かない。

 その難解さに惹かれる治美は、三島の魅力を語り合える仲間がいないことを残念に思っていた。しかしこれからは違うのだ。なぜなら三島作品を語り合うコミュに、出会ったからだ。

 嬉々として治美は、コメントを書き込んだ。コメントを書き込むなどという行為は、喜久子のブログに行なった以外は、初めての経験だった。

 新しい何かが、始まりそうな予感がした。









 英輔と最初の別れを経験してから一年半後、治美は一歳下の串崎(くしざき)と付き合うことになった。

 面食いの治美が選んだにしては、串崎は凡庸な外見だった。しかし串崎はドラッグをやらなかった。それに一浪とはいえ、国立大学に在籍していて、専門学校卒の英輔より条件がよかった。そもそも治美は、元々イケメンにこだわってはいなかった。これまではイケメンでなければ、恋心が持てなかっただけなのだ。

 平凡な顔立ちでありながら、小鹿のバンビのようなあどけなさを持つ串崎に、治美は恋情を抱いた。これまではあまり意識しなかった学歴の重要さも、串崎に教えられた。別に将来の予想年収を算出してもらった訳ではない。高等教育を受けた男と話すのは、単純に面白かった。

 ようやく治美の人生は、輝きを帯び始めたかに見えた。ところがその矢先、会社から一ヶ月の東京出張を命じられた。治美の住む山梨から、東京は特急で二時間の距離だ。とはいえ恋を始めたばかりの二人にはやるせない。

 後ろ髪を引かれるような心地で出かけた東京へ、串崎は学生の気安さから何度も会いに来た。始まったばかりの二人には、ほんの一ヶ月の別離はスパイスになった。

 出張が終わりアパートに戻ると、部屋の電話が鳴った。電話を取ると、受話器の向こうから英輔の声が流れてきた。ケイタイ番号が変わっていたので、部屋の電話を鳴らしたらしい。

 ケイタイ番号を変えた元カノの部屋の電話を、よく鳴らせるものだと治美が呆れていると、先々週も電話をしたのに、留守電に切り替わってしまったと英輔は言った。

「何か、用だったの」

「いや、どうしてるかなあと思って」

 勝手なものだと治美は呆れ果てた。英輔に抱かれ別れた後、情緒不安定になった治美は、何度も英輔に会ってくれと頼んだのに、聞き入れられなかったのだ。治美の方から別れを申し出たのだから、その後会いたがるのは、不適切ではあったが。

 ただだとしたら、別れのきっかけとなった英輔の大麻吸引は、適切な行為だっただろうか。自分と別れたがる女を、だましてラブホテルに連れ込んだのは、適切な行為だっただろうか。英輔の数々の不適切行為があったからこそ、治美も不適切な願いを抱いたとはいえないか。

 その不適切な願いを、英輔は頑として聞き入れなかった。前のカノジョと、やり直せるメドが立ったからだ。英輔は百五十人斬りをした後、数えるのが面倒になって、カウントをやめたような男だから浮気に抵抗はない。ただ次の当てができたのに、鬱病を悪化させているような女と関わるのが、億劫だったのだ。

「東京に、一ヶ月出張してたの」

 と説明する治美に、英輔は

「うん。うららちゃんに聞いた」

 と返事をした。なぜうららが出てくるのかと、治美はびっくりした。

「君が電話出ないからさ、うららちゃんに電話したら、出張中だって言うじゃん。それで彼女誘って美術館行って来た」

 どうして自分が出張中だと、うららを誘って美術館へ行くのか。元カノの女友達ではないかと、治美は不愉快を覚えたが、黙っていた。そんなことを口にしたら、まるでヤキモチを妬いているようだからだ。しかしうららは本当に英輔と出かけたのだろうか。

 カレシができたことや、キャッシング会社に再就職したことを、手短に説明し、英輔との電話を切ると、治美は早速うららのケイタイを鳴らした。電話を取ったうららは、あっさり英輔と出かけたことを認めた。治美は咎めようとしたがやめた。その四年前に治美は、うららの元カレの世古(せこ)と、付き合ったことがあったからだ。

 うららと世古が、交際していた高校時代、まだ治美は二人に出会っていなかった。だから親友の元カレと、恋人同士になってもいいと治美は解釈した。だがどうやらうららは、出会っていようとなかろうと、元カレは元カレだと考えているようだった。

 治美はその考えには賛同しかねたが、しかしそんなことは、どうでもいいことのように思えた。串崎と付き合い始めたばかりで、幸せの絶頂だったからだ。

 今現在カレシのいないうららが、ちょっと英輔と出かけたことくらい何でもないことに思えた。そんな余裕が持てるくらい、治美は満たされていた。

ところがその半年後、治美は沈んでいた。串崎との仲がまずくなった訳ではない。相変わらず仲はよかったが、遠距離恋愛になっていたのだ。

 出会った時、すでに県外の地元企業に、就職を決めていた串崎と付き合えば、いずれ遠恋になってしまうことは、分かっていたことだった。それでも現実的に距離に引き裂かれ治美は滅入っていた。新入社員の串崎は、結婚も当分先の話と考えており、心の拠り所が無かったからだ。

 そんな折、英輔が再び治美の部屋の電話を鳴らした。英輔は胸に染み入るような低い声で、会わないかと提案した。興味が治美を襲った。三度も電話をされて自尊心も満たされた。会いたい時に串崎に会えない現実が寂しかった。

 半年前に英輔と、美術館に出かけたうららへの嫉妬もあった。あの時は何でもないことに思えた英輔とうららの逢引が、この時は、治美を駆り立てる材料になった。

 三年ぶりに会った英輔は、相変わらず、左手中指にゴールドのリングをはめ、左耳にダイアのピアスを入れていた。しかしそんな装飾が無意味なほど、太って醜くなっていた。英輔自身、太ってしまったことが恥ずかしいらしく、クスリをやめたからだと言い訳した。

 しかしこれは、大変誤解を呼ぶセリフだ。こんなことを言われたら、まるでクスリ全般をやめたかのようだ。けれど実際は英輔がやめたのは覚せい剤だけだった。

 クスリ全般をやめたと勘違いした治美は、それは結構なことだと考えた。結構ではあったが、太って醜くなった英輔に治美は全くときめかなかった。

 一方、相変わらず男好きのする容貌だった治美を、英輔は好ましく感じた。やり直したカノジョと結局別れてしまった英輔は

「逃した魚が、大きくなりすぎた」

 と治美を褒め称えた。賛辞が治美の耳朶を心地好く打った。もう充分だと治美は思った。

 自分を手放した英輔を、嗚咽しながら想い続けた日々に、決着がついた気がした。世間がよく言う、「別れたカレシを見返す」という行為を、治美はやってのけたのだ。

 満足したので治美はもう帰ろうかと考えた。すると英輔が、うららを連れて行った美術館に、治美を連れて行きたいと言い出した。美術品の好きな治美は、二つ返事で了承した。その美術館でうららがどんな感想を口にしたかは知らないけど、自分の方が、ずっと上手にコメントができると、治美は考えた。

 訪れた美術館は和風だった。西洋美術の好きな治美は、がっかりした。治美の気も知らず英輔は二つの作品を示した。どちらも水晶で竜を彫ったものだった。

「こっちが親父の作品で、こっちが兄貴の」

 どちらが優れているのか、治美には分からなかった。いやそもそも、目の前の作品が優れているのかもよく分からなかった。治美はただ不快だった。英輔がただ身内自慢をしたいがために、自分を連れて来たことが分かったからだ。

 やはりあのまま帰ればよかったと、治美が後悔していると

「オレは不肖の弟なんだよ」

 と英輔がにやりと笑った。

「どういうこと?」

「兄貴はハワイの大学に行ったのに、オレは地元の宝石専門学校も落ちて東京の専門卒。兄貴は才能があるから、親父の跡を継げたけど、オレは才能が無いからブローカーみたいなことをしてる」

 職人とブローカーの、どちらに才能が必要なのか、治美にはよく分からなかった。ただ英輔が、コンプレックスを抱いていることは分かった。コンプレックスを見せる人間は治美の好物だったから、治美は少し機嫌がよくなった。

 美術館を出ると、更に英輔は、実は情緒不安定で精神科に通っているのだと言い出した。こんなことを言われては、治美はイチコロだった。英輔に仲間意識すら芽生えた。

 英輔は別に鬱病とは診断されていなかったが、大雑把な治美は、精神科に通っているのなら、鬱病のようなものなのだろうと解釈した。

 治美自身は、実家に帰ったことで通院が中断され、その後忙しさにかまけて、治療を再開していなかった。忙しさにかまけて通院しないくらいだから、一番酷かった時期に比べると、精神は落ち着いていた。しかし眠れない夜は珍しくなかったし、気分の落ち込みもあった。

 それが酷くなると、筆舌に尽くしがたい苦しみになる。それを経験していたから、治美は英輔に同情した。英輔が悪い人間だということはどうでもいいことに思えた。苦悩している人間を、自分が和らげてやれるなら、それは治美にとって実行すべきことだった。だからまた会って欲しいという英輔の願いを、治美は断れなかった。

 串崎に悪いと思わなかった訳ではない。治美にとっては、元カレとたった一度だけ会うことは許されるが、会い続けることは罪だった。罪など犯したくはなかった。しかし苦しみの淵で自分を求める英輔を突き放すことも治美には罪に思えた。会うのも罪。会わないのも罪。

 どちらも罪ならば、誰かの苦痛を和らげる方を治美は選んだ。少なくとも県外に住む串崎にばれる可能性は、極めて低かったから。英輔に会っていることを、知らせさえしなければ、串崎が悲しむことはない。罪悪感という罰は自分が引き受ければいいと、治美は考えた。

 ある日英輔は、相談にのって欲しいと、またもや治美を呼び出した。一体何だろうかと考えながら、治美は英輔の運転するカリーナに乗り込んだ。英輔は事故でアウディーを潰して以来、母親のカリーナを乗り回していた。ハンドルを握る英輔の左手の中指からは、ゴールドのリングが消えていた。

「借金が増えちゃってさあ」

 と英輔は、開き直った債務者の笑いを浮かべた。仕事柄債務者に接する機会は多かったものの、プライベートで消費者金融の顧客だという人間に初めて会った治美は、息を飲んだ。

「それで、パンクしようかと思ってさ」

「パンク?」

「自己破産」

 自己破産は俗語でパンクというのだろうかと、治美が考えていると

「それで誰かに相談しようと思ったんだけど、やっぱ街金に勤めてる君に相談するのが、一番だと思って」

 と英輔は、相変わらず口元に笑みをたたえた。その笑いはもちろん強がりだったが。

「マチキンて何?」

「君が勤めてるような金貸し会社は、街金て呼ぶんだよ」

「ふうん」

 これは誤りだ。街金の俗語は、一つの都道府県でのみ貸金業を営んでいる業者を指す。治美が勤めていた会社は、全国展開していたから街金ではない。しかしそんなことはたいしたことではない。

 ただ言えることは、金貸し業者とそこに勤める治美を、英輔が侮蔑したがっていたということだ。ギャンブル依存により、つくった借金を返せなくなり、自己破産という反社会的な道を選ぶ一方で、どうにか働いている相手を、英輔は貶めたがっていた。

 英輔の意図に気付かない治美は、何やら大変なことになってしまったとうろたえた。とりあえず借り入れ総額を尋ねると、三百万とのことだった。

「それくらいなら、親に出してもらえないの?」

「無理だね」

「破産しないで弁護士に介入してもらって、金利下げる方法もあるよ」

「でもそれだと、借金なくならないんでしょ」

 英輔が自己破産をしたがるので、もう仕方が無かった。英輔は勤めていた宝飾会社を辞め、美術職人の父親と兄の、稼業手伝いの身だったから、自己破産の申請は通ると思われた。

 その後、報告と相談という名目で、治美は英輔に何度か呼び出された。元カレに自己破産の相談で呼び出されるなんてシュールだ、とその度に治美は、うらぶれた気分に浸った。









 コメントを書き込んで三日。反応は無かった。

 それもそうだろうと、治美は思い始めていた。これまでの書き込みによると、コミュの発起人は、まだ三島を一冊しか読んでいないらしいから。発起人の呼びかけに応じた一人の人間に至っては、三島に興味はあるが、読んだ事が無いという体たらくだ。

 三島を一冊しか読んでない相手と、三島談義が盛り上がる訳がないではないかと、治美は認識を改めた。そもそも一冊しか読んでいないのに、三島について語るコミュを立ち上げるという感覚が、治美と合わなかった。かといって、初心者でありながらコミュを立ち上げる気にもなれなかった。

 別にコミュを立ち上げなくても、巨大なSNSなのだから、他にも参加できるコミュはあった。例えば「××年×月生まれ」というやつだ。

「私は十四日生まれなんです。よろしくお願いします」

 と治美は参加してみた。今回のコミュは反応がよく歓迎された。他にも、「自分は×日生まれです」という参加者が続く。

 自分の書き込みに反応してもらえた、見知らぬ人とつながれたという初めての感覚を、治美は味わうことができた。しかしだから何なのだろうとすぐ思った。パソコンを媒介すれば、同じ生まれ年生まれ月の人間に出会えたとしても、当たり前のことに思えた。

 パソコンをオフにした世界で出会ったなら、その希少性から、嬉しさを感じるかも知れないが、オンの世界では、意味を感じられなかった。誰かが合同誕生会をやろうと言い出したが、どうせ会場は東京なのだろうと考えると、行くのが億劫だった。

 オフの世界で、三十年生きてきた自分が、今更オンの世界で生きるのは難しいのではないかと、治美は考え始めた。大体こうした出会い方に興味があれば、SNSが広まり始めた五年ほど前に、とっくに登録している。治美にはオンの世界がピンと来ないのだ。

 しかしだからといって、そのSNSを見限ってしまうのは、早い気がした。まだ登録してから三日しか経っていないのだ。

 そこで治美は、マイページの日記機能を使って、ブログを書くことにした。ブログには以前から興味があったからだ。

 ブログを始めるにあたって、何から手をつけてよいのか、調べるのが億劫で着手していなかったが、そのSNSのブログ機能は、簡単だった。写真がアップできない、文章のみの機能だったことが幸いして、難なく使うことができた。

「初ブログ」というタイトルで、治美はブログをアップした。自分の文章が、初めてネット上に公開されたことに、照れ臭さと晴れがましさを感じた。

 もう誰とつながるなどということは、どうでもよかった。とりあえず好意で紹介してくれた喜久子に、自分がSNSを活用している姿を見せられれば、それでよかった。









 串崎に別れを告げたのは、治美の方だった。

 嫌いになった訳ではなかった。むしろ惚れていた。だから互いの温度差が辛かった。

 もし遠距離にならなければ、生ぬるい串崎の愛情を、気に留めずにいられただろうことは分かっていた。しかし恋愛に、そして人生に仮定は使えない。距離が互いの温度差を自分に知らしめるなら、治美は無視できなかった。生ぬるい串崎を、吐き出してしまいたかった。

 意外なことに、英輔は別れに反対した。特定の女のいない英輔にとっては、治美が別れた方が好都合だったが反対した。串崎は条件がよかったし、生ぬるいとはいっても、結婚まで耐えればいいからだ。むしろ結婚するなら生ぬるいくらいの男の方が無難だからだ。

 しかし人に反対されるくらいで、別れない治美ではなかった。いつたどり着くか分からない結婚の日まで、互いの温度差を感じながら生きるのは真っ平だった。半端な愛情を示されるくらいなら、相手と別れた方が、治美はマシだった。

「ねえ、あたしたちその内いつか別れない?」

 電話口で持ちかけた治美に、串崎は

「治美ちゃんがそう言うなら、今別れよう」

 と応じた。電話を切ると、引き止めてもらえなかった悲しさに治美は声をあげて泣いた。

 その翌日、治美は喜久子と二人で、憂さ晴らしのカラオケに来ていた。失恋ソングを絶叫している最中に治美のケイタイが鳴った。

 歌を中断して、部屋の外に出ながら電話に出ると、相手は英輔だった。

「君のことが心配で」

 と言う英輔に、治美は冷たく「カラオケ中だから」と電話を切った。

 部屋に戻った治美に、喜久子が黒目がちの瞳で、「英輔さん?」と尋ねた。

「そう。君のことが心配なんだって。ばっかみたーい」

 治美は嘲笑した。別に英輔に心配などして欲しくなかった。心配しているのは治美の方だった。

 太った体に自己破産の事実に、終わらぬ精神科通い。心の拠り所を求め恋愛したがっていても、そんな悪条件では、誰が付き合ってくれるものかという気がした。そんな男に心配されるほど、自分は落ちぶれてはいないと、治美は思った。

 治美が英輔とヨリを戻したのは、その四ヵ月後だった。









「初ブログおめでとうございます」

 という書き込みを、治美が見つけたのは翌日だった。

「初ブログおめでとうございます。拝見したところ趣味なども共通しているようで、これから仲良くして頂けたらと思います。ousuke」

 それが治美へ寄せられた、初めてのコメントだった。人とつながることを諦めた途端向こうから来るなんてと、治美はたじろいだ。しかも趣味が共通とは。それはプロフィールを入力する際に、選んだマイナーな趣味だ。読書に美術鑑賞。好きな作家は三島由紀夫。

 作家志望なのだから、読書が趣味なのは当然だ。美術鑑賞好きも嘘ではない。ただ治美が本気で誰かとつながりたいなら、もっと人受けのいい趣味もあったのだ。例えばウォーキングに旅行にゲームにインテリアに、映画・音楽鑑賞に料理という。

 ウォーキングと旅行と、ゲームとインテリアはともかく、映画鑑賞は、映画館まで足を伸ばすことがここ数年無い。それどころかDVDを借りることもせず、専らテレビ放映された映画を、観るのみだ。

 また家事をやりながら、鑑賞する音楽も、ほぼ自腹を切っていない。出の買い集めたCDをこだわり無く聴いているからだ。出こそ音楽鑑賞が趣味なため、家には、様々なジャンルのCDが溢れている。治美とて音楽の好みはあるが、それは出によって網羅されていた。

 また料理はといえば、専業主婦だから、毎日やっているだけのことだ。嫌いではないが別に好きではない。

 だからそれらを、趣味と呼ぶのはおかしいかも知れないが、そんなもの言い張ってしまえばこっちのものだ。つまり治美は、メジャーな振りをしようと思えばできたのだ。

 それをせず、敢えてマイナーな振りをしたのは、誰でも彼でもとつながることが怖かったからだ。うららの知らない世界を、持ちたいと願いつつ、どこかに引っ込み思案な自分がいたからだ。

 だからマイナーな自分を、クローズアップして、こんなあたしでもいいと思う人がいるなら、どうぞというスタンスを取った。そうしたらousukeは、趣味が共通だと言う。コメント投稿者のプロフィールは、簡単に見ることができたから、治美はousukeのプロフィールを眺めた。

 ousukeは趣味が、読書と美術鑑賞なだけではなく、職業が美術品製造と書かれていた。性別は男。座右の銘は「一期一会」。

 相手が男だということに、治美は少し戸惑った。SNS上とはいえousukeと関わることは、出を裏切ることになる気がした。しかしSNS上なのだから、関係ない気もした。そもそもSNS上での人との関わり合いというもの自体が、初体験なのだから、分かるはずが無い。

 しかしそれにしても、英輔を彷彿とさせる相手だと、治美は目を丸くした。ご丁寧に好きな小説家は太宰だという。しかも同じ山梨県内に住んでいるのだ。

 だがそれはたいしたことではないと、治美は考えた。なぜなら太宰は、甲府出身の妻をめとった関係上山梨にゆかりがあり、そのため県内には太宰ファンが多いのだ。

 英輔もビジュアルだけではなく、郷土愛から太宰を愛していた可能性がある。百五十人斬りという実績から、博愛主義者ではと誤解されそうな英輔だが、あの己への甘さは自己愛の強さの表れだ。

 自己愛の強さが英輔に、郷土を愛させたとしても不思議は無い。だからこそ東京の専門学校を卒業後、東京にカノジョを置いて、Uターン就職したのだろう。

 また甲府は、宝石の都と呼ばれていて、宝飾業界に身を置く者が多い。山梨在住者が英輔と共通点があるといっても、それは山梨県の県民性のようなものだ。

 このousukeが、英輔本人でさえなければ問題無いと、治美は考えた。そして本人のはずが無かった。英輔は手先が不器用だったために、美術職人の父の跡を継げず、仕方なく営業をしていたからだ。二十八歳の時に営業をしていた男が、その三年後に職人になれる訳がない。

 それにいくら、治美が本名で登録していないとはいえ、治美のプロフィールを英輔が見れば気付くはずだった。もし気付いたなら、英輔はこんな白々しい近づき方はしてこない。人違いだったらごめんなさい。もしかして治美ちゃん? と尋ねてくるはずだ。だからousukeは、英輔とは無関係だと思われた。

 思えば一週間前に、近所で車を爆発させた誰かさんも、英輔とはおそらく無関係なのだ。近くに英輔を連想させる人間が、案外いることに呆れながら、治美の指はすぐさま

「コメントありがとうございます。ousukeさん」

 と打ち始めていた。

 英輔と完全に切れて三年。英輔に似た人間に懐かしさを覚えるほど、治美は立ち直っていた。









 四ヶ月もの間、毎日愛をささやかれたからではない。旅行をおごられたからでもない。眠れない夜に病院処方のハルシオンを、薬事法違反を犯して分けてくれたからでもない。そのハルシオンを、酒で飲んでしまい、不覚にもラリッてしまったからでもない。

 英輔が髪を切ったことが原因だった。太って醜くなったと思っていた英輔は、ただ単に長髪が似合っていないだけだった。三年前より多少太ったとはいえ、だらしない色男振りは健在だった。髪を切った英輔を見た途端、治美はまるで、自分の恋心がぽんと蹴り上げられたような、甘い衝撃的な気分になった。

 英輔がクスリをやっていたことや、自分と別れて、東京の前カノと復縁したこと。自己破産の事実が、全てどうでもよくなってしまった。どうしようもなく治美は面食いだった。せっかく串崎と付き合ったのに、どうしようもなかった。

 英輔とやり直すことにしたと電話すると、心配したうららが、治美のアパートにすっ飛んで来た。

「もう、決めたの」

 と治美は、生気の抜けた顔で言った。

「陽の当たる道はうららが歩いて。あたしは地獄の道を行く」

 治美は言い出したら聞かないタチだと分かっていたので、うららはそれ以上何も言わなかった。ただどうして治美が、好んで地獄の道を行くのか、うららには分からなかった。治美も実は分かっていなかった。治美は大きな思い違いをしていた。それは例え地獄の道であっても、英輔と共に歩いていけるのだと思い込んでいた点で。

 それでも治美は、全く恐れを抱いていなかった訳ではない。だから勤め先の店長代理に相談した。その店長代理は、以前ヤクザ男と籍を入れていて、その男のドラッグ使用に悩まされたからだ。

「英輔さんは、ドラッグはもうやめたって言ってるんですけど、一度やってた人が再犯する確率って、どれくらいなんでしょうか」

 尋ねる治美に、目を見張るほど化粧の濃い彼女は、重みのある声で言った。

「再犯率なんて知らないけど、そんな男やめた方がいいんじゃないの」

 それに対し、「そうですよね」と同意していた治美が

「やっぱ、付き合うことにしました」

 と言い出したので、店長代理は東京支店の上司に報告した。上司は治美のクビを決めた。社内の風紀を乱したという理由で。

 反発するのも面倒で、治美は素直にクビを受け入れた。「ごめんね」と、マスカラの溶けた黒い涙をこぼす店長代理に、「仕方ないですよ」と答えたが、何がどう仕方ないのか、治美にはよく分からなかった。それは店長代理が日頃、愛人を職場に出入りさせていたからだ。

 店長不在の支店で、店長代理の愛人が、我が物顔で出入りしている時点で、すでに風紀は乱れているといえた。その愛人を金で飼っていると公言する店長代理は、仕事中に愛人と、大声で今日性行為をするかどうかの相談までしていた。おかげで治美は、知りたくもない店長代理の生理周期まで暗記してしまったほどだ。

 そして店長代理は、共に暮らす本命とは籍が入っていなかった。母子家庭手当てを受け取るためだ。

 上司がそこまで風紀を乱していた職場で、英輔のドラッグ使用の過去を相談をしたくらいで、なぜ風紀を乱したことになるのか、治美にはよく分からなかった。

 しかし仕方がなかった。治美にとっては。会社をクビになったことも。英輔とヨリを戻したことも。串崎と別れたことも。

 クビになったから迎えに来てと、治美が電話をしたので、英輔は駆けつけた。ケイタイが鳴り、「着いたよ」と英輔の声が流れてきた。路上に違法駐車されたカリーナ目指して、二人は手をつないで歩いた。









 山梨在住なのに、プロフィール登録した好きな作家の中に、太宰がいないんですねとousukeが言う。太宰より三島が好きなのだ、元カレが太宰ファンだったから太宰は卒業したいのだと、治美がコメントを返しても、ousukeは太宰は太宰はと繰り返す。

 作家志望なのだから、治美とて作家談義は好きだ。ただ三島が好きだと言っているのに、太宰の魅力を語ってばかりいるousukeに鼻白んだ。浮気は太宰の優しさの表れという説は、聞き飽きていた。英輔も同じことを言っていたからだ。太宰ファンというものは、同じ解釈をするものなのだろうかと考える。

 早速ousukeを、うっとうしく感じたからこそ、治美はousukeに媚びたくなった。初めてできた、ネット上の知人だからだ。


 三島の方が好きなんですけど、あたしのハンドルネームの「みつき」は、太宰の「富士には月見草がよく似合う」から取ったんです。


 適当を書き込むとousukeが、そうだと思ってましたよと、返事をする。本当かよと治美は疑う。

 その一方で、治美は精力的にブログを更新していた。

 作家志望だから、元より文章を綴ることは好きだった。この二年ほどは、出との約束の期限内に芽を出さねばと、小説を書きまくった。ところがこのブログというやつは、小説と比べて何と気楽なのだろうか。人物設定などしないまま、自分は自分のまま感じたままを書き散らしてよいのだ。

 自分を書き散らすという行為を、これまで治美は、うららとの長文メールのやり取りによって行なっていた。ところがうららと絶交してしまい機会を失った。そんな折に、出会ったブログというツールは、治美にとってうってつけだった。

 しかも始めたばかりのこのブログに、ousukeが反応をくれるのだ。独り相撲にならなくて済む。例えすぐ太宰の話を出されるにしても。

 その日治美は、『メリーに首ったけ』のDVDを観ていた。以前テレビ放映されたものを、録画してあったのだ。

 下品なラブコメだという前評判は承知していたし、観てみたら確かに下品なラブコメだった。それなのに治美は泣いてしまった。お涙頂戴ものには乗せられない代わり、油断して鑑賞していたものに不意打ちを食らわされることに、治美は弱かった。

 だから英輔にもだまされたのだと、治美は自己分析した。悪い男だと思って安心して、串崎と別れた後に寝てみたら

「君がオレを好きじゃないことを、強く感じた」

 などと悲しげに言われた。そうしたら戸惑いが、いつか恋心に変わった。

 不意打ちを食らわされると、それについて書きたくなる。自分を泣かした『メリーに首ったけ』について、治美はブログで書くことにした。ただどこに泣かされたかを書くのは、治美の趣味ではなかった。そこで治美は別のことを書いた。


 『メリーに首ったけ』を観た。窓の外から、家の中にスピードが投げ込まれてたけど、アメリカの家って網戸付いてないのかな。そういえば以前ハワイに行った時、虫が全然いなかったけど、もしかしてハワイだけじゃなくて、アメリカにはあんまり、虫がいないのかな。


 しばらくしてousukeが、そのブログに反応した。


 そういえば僕も、ハワイの大学に留学していましたが、虫に刺された記憶が無いですね。


 治美は画面にかじりついた。何度も何度も、そのコメントを読み返した。その後治美はousukeのプロフィールを再び訪れた。お気に入り登録されている人物が、何人かいた。その中に治美も入っていた。お気に入り登録されている人物のプロフィールを、全て訪問した。相手は全て女だった。

 その中に一人、神奈川在住の女がいた。ハンドルネームはクウだった。

 間違いないと治美は確信した。









 せっかくクビになったのに、会社が自主退社の手続きを取ったので、三ヶ月待たなければ、治美は失業手当を受け取ることができなかった。たった二年の勤務では退職金も支払われない。大慌てで十六時から二十一時までの電話事務のバイトを決めると、治美は昼間の時間を、就職活動に充てることにした。

 ハローワークで見つけた、事務員の求人を出している会社が、現在バイトをしている会社だと気付いたのは、一週間後のことだ。ノンバンクという職種が、気がかりではあったが、どうせキャッシング会社に勤めていた身だ。経験のある業種の方が、仕事がやり易いと思えた。

 短大の奨学金の返済を考えると、給与のいい金融業に就くことは、致し方ないことに思えた。治美の働きぶりを知っていた支店長は、治美を快く事務に採用した。

 入社した翌月、会社は一部上場を果たした。辞めさせられたキャッシング会社は、上場していなかったから、むしろよかったのかも知れないと治美は考え始めた。

 ある日曜日の朝、治美と英輔は布団の中でぐずぐずしていた。窓を打つ雨の音が、二人に怠惰を薦めているようだったからだ。けだるい空気が、ふと刺激的な言葉を治美の舌に乗せた。

「ねえ誰かを、ものすごく強く恨んだことある?」

「あるよ」と英輔は、治美を後ろから抱いたまま答えた。

「恨んだ相手、どうなった?」

「さあ?」

「あたしは前に言った、初めて付き合った男を恨んだんだけど。ほら四股かけてた男。奴は街で絡まれて病院送りになったよ」

「へえ」と英輔は興味深そうに相槌を打った。英輔は治美に、過去の恋愛話をさせるのが好きだった。

「あとあたしを初めて振った男も、胃潰瘍で救急車乗ったし、前の会社の意地悪な同僚は、交通事故で内臓破裂してICUに入った」

「お前って、何かすげえな」

 英輔の華奢な指が、治美のパーマのかかった髪をくしけずった。治美はくすぐったそうに身をよじる。

「そう? やっぱりあたしの恨みのパワーだと思う?」

「そこまで続くとな」

 心の膿みを出した治美に、情欲を掻き立てられ、英輔は指先を胸に降ろそうとした。すると治美はその指先をつかみ、「だから」と真剣な声を出した。

「だから、あたしを恨ませちゃ駄目なんだよ」

「お前がクウの毛を、誰か女の毛だって誤解しない限り、大丈夫だよ」

「クウ?」

「うちの飼い犬」

 ペットの話をする男の常で、英輔は一瞬劣情を忘れた。

「うちの犬は代々クウなの。今いるのは三代目クウなの。今クウ病気しててさあ。誰も病院連れてかなかったから、横浜から帰って来た妹がすんげえ怒って。お前に恨まれる前に、妹とクウに恨まれそう」

 もう英輔の指は、自由に治美の肌をまさぐっていた。愛犬を放置した英輔とその家族に、治美はぞくぞくした。目をつぶった頭の片隅で、誤解するくらいだからクウの毛の色は黒いのだろうかと、治美はふと考えた。









 再びブログに寄せられた、ousukeからのどうということのないコメントを、治美はしばらく見詰めていた。やがて意を決すると、コメントへのメッセージを打ち込んだ。


 あたしもしかしたら、ousukeさんと以前一度、会ったことがあるかも知れません。ハワイの大学に留学してた方に心当たりがあります。それにお気に入り登録してらっしゃるクウさんが、ousukeさんをお兄さんだって書いてますけど、知り合いの家の飼い犬の名前が、確かクウでした。よろしければお名前を教えて頂けませんか


 するとマイページのメッセージボックスに、メッセージが入った。



差出人 ousuke 

日付 5月18日20時52分

件名 えっ?


名前は玄間光佑(げんまこうすけ)といいます。

誰でしたか?

よかったら、名前教えて下さい。



 まず治美は、こうやって個人宛に、メッセージを送れる機能があったことにようやく気付いた。だとしたら、誰もが見ることができるブログのコメントの返事という形ではなく、まずousukeにメッセージを送り、その中で、知り合いかも知れないと言うべきだったと後悔した。

 次に治美は、英輔の苗字が玄間だったことについて考えた。玄間などという珍しい苗字に、人生で二度も偶然出会うはずが無い。英輔とは再会後は、三年ほど密接な関わりを持ったが、兄までもが太宰信者だったとは知らなかった。

 兄弟だからといって、大の大人が、好きな作家が共通なはずが無いと思い込んでいたから、今の今まで気付かなかったのだ。おそらく二人は好みの女も似ているのだろう。だから兄が、自分に近づいて来たのだろう。

 しかしSNSに登録した途端、元カレの兄と出会ってしまうとは、正に事実は小説より奇なりと、治美は実感した。

 治美は逡巡すると、次のメッセージを作成した。



宛先 ousuke

日付 5月18日23時32分

件名 ビンゴだー。


三~四年前にビリヤード場で会ってますよ。共通の知人(男性)を介して。三十分か一時間かそこらだけど。

いやね、最初にコメント頂いた時プロフィール拝見して、その時その共通の知人を彷彿とさせるものがあったんで、あれ? とは思ったんですよ。でもその知人本人だったら、あたしのこと気付くはずなんで、偶然の一致だと思ってたんですけどね。

そしたら何と、その知人の知り合いだったとは……。光佑さんのお気に入り登録してる人の中に、その知人がいるんじゃないかと思って一人一人見ちゃいましたよ。見事に全員女性でしたけど。(笑)まあでも「一期一会」という言葉を愛する人は、大抵女性のお友達が多いので、びっくりはしませんでしたけどね。

何だか、思わせぶりなことばかり言っちゃってごめんなさい。でもその知人が誰なのかを、言ってもいいのかどうか、思案してるんです。

でもこちらが、名前だけ尋ねておいて、何も明かさないのも悪いので、とりあえず三~四年前に一度お会いしたということと、あたしの名前は、坂井治美(さかいおさみ)だということだけ、お伝えしておきます。以前お会いした時は旧姓でしたけど。

会った印象は、全然悪くなかったですよ。むしろその知人本人よりよかったくらい。こんな場所で、偶然に再会できて嬉しかったです。世の中って色んなことが起きるんだなあって、改めて思いました。



 兄弟のことを、知人と呼んでもいいものかと治美は躊躇したが、敢えてそう表現することにした。光佑に事実を言うのが怖かったからだ。それは以前、英輔が

「兄貴には、かなわない」

 と言っていたからだ。

「兄貴、オレといっこしか違わないのに、もう二百人斬りしてんだよ。兄貴にはかなわねえよ」

 英輔も一期一会という言葉が好きだった。治美は英輔を知ることによって、一期一会という言葉を好きな、一部の男を恐れることを知った。

 ざっと読み返すと、治美は送信をクリックした。きっとこのままでは済まないと分かっていながら。





 別れの間際に寝た時、セックスはあまりよくないと思ったと、英輔は治美に言った。いいとか悪いとかいうよりも、まるで悲しみを抱いているようだったと。

 再会したら、治美はけろっとしていたから、またベッドにもつれ込んだところで、悲しみを抱いたような心地に、なりはしないことは英輔も分かっていたようだ。だが記憶の中で、治美のセックスがよくなかったため性生活には期待していなかった。

 ところが寝てみたら、よくなっていたから驚いたと、英輔は治美に語った。テクニックがついていたとかそういうことではなく、抱き心地がまるで変わっていたと。最初はセックスに期待せず、ヨリを戻そうとしたのだけど、寝てみたら、やり直したい気持ちに拍車がかかったと。

 続けて一週間治美を求めた翌晩、暗がりで上体を起こすと英輔は

「お前、何かしてる?」

 と尋ねた。治美は何のことか分からず戸惑った顔をした。媚薬か何かを使っているのではないかと、英輔は疑ったのだ。

 三日目の晩に、英輔を拒否したものの受け入れられず、性交渉に嫌気が差していた治美が、怪しげな薬なぞ、使っている訳がなかった。英輔もすぐに治美の様子が演技ではないことを悟った。

 治美が嫌がっているからといって、聞く英輔ではない。なだめながらいつの間にか、治美を裸にしていた。漆黒の闇の中に治美の真珠色の肌が浮かぶ。

「分かんねえよなあ。この体だぜ?」

 けなされ、同時に褒められたのだと感じ、治美は胸がいっぱいになった。

 たいした体ではないことは、治美も分かっていた。肌は白くきめ細かいが、一目見てはっきりと胸が欠点だと分かる体だ。英輔は胸の小さな女が好みとはいえ、何もそこまで、好みに合わせることはなかったのにと言いたくなるほど貧弱すぎる。

 そして胸の控えめな女に起こりがちな、乳首の目立ちもある。胸の小さな女は、どうしても乳首が大きく見えるが、英輔は胸全体が控えめであることを望んでいたから、治美の胸は、理想ではなかった。その分やせているが、骨太なためあばらが浮いている点も寒々しい。

 美しい体だから、お前に夢中になるのだと言われるよりずっと、それは治美にとって幸福なことだった。こんな体に、夢中になる謂れはないのに、予定外に夢中になってしまったと嘆かれ、治美もその気になった。

 一線交え、治美が英輔の腕の中でぐったりしていると、ふと英輔が

「そういえば今日、ヌード劇場行ったんだけどさ。知り合いが経営してて」

 と言い出した。

 この人は、ドラッグの売人だけでなく、ヌード劇場の経営者とも知り合いなのかと、治美は呆れた。

「夜は踊り子も、ステージあるんだけど、昼間は各部屋に控えてんだよ。それで客引っ張り込んで本番すんだけどさ、知り合いに『部屋寄ってく? 無料でヤらしてやるよ』って言われてさ」

 そこで英輔は、治美の肩にあごを乗せてくっくと笑った。

「寄ってったの?」

「まさか。まあ昔は、ああゆう所の女と変態プレイすんのも楽しかったけどな。今はお前とノーマルなセックスすんのに夢中」

 てっきり昔話だと思った。昔話だと思って、治美は耳を傾けていた。









 傍らの出の寝顔を見詰めると、治美は後ろめたい気分になった。

 SNS上で、英輔の兄の光佑と再会してしまったことは、意図したことではない。だがそれが何だというのだろう。

 もし道端で再会したなら、光佑は決して、自分に声はかけなかっただろうと治美は思った。昔、ただ一度だけ会った弟のカノジョに声をかける方がどうかしている。それがSNSという媒体を通じて再会してしまったから、親しく会話を交わしてしまったのだ。

 顔の見えない交流というものの気味悪さを、治美は感じていた。顔が見えなくても交流はできるが、見えていたら、決して関わらなかった相手というものが、世の中には存在する。

 SNSで知り合うなんて、ピンと来ないと治美は考えていた。ところがそう考えながらでも、利用したり関わったりすることは、できてしまうのだ。そして関わっていた相手が、関わるべき相手ではなかったことが判明した。そして関わるべきでない相手というものは、甘い毒だ。

 治美は暗闇の中で、息をひそめた。出が確かに寝入っていることを確認する。自分がなぜ、後ろめたい気分になっているかを理解する。

 意図したことではなかったなんて、言い訳に過ぎない。

 ベッドを滑り降りると、夢中で寝室を抜け出し、パソコンを立ち上げた。マイページに新着メッセージが二通届いている。



差出人 ousuke

日付 5月18日23時49分

件名 教えて


教えて下さい。

その知人って誰ですか?

お願いです。旧姓も教えて下さい。



差出人 ousuke

日付 5月18日23時52分

件名 誰ですか?


確かに僕はビリヤードは3~4年前にしてましたけど……

女性と行ったことはないんですよ……

お願いです、気になってしかたありません……



 光佑の顔なら治美は覚えている。一卵性の双子なのではないかと思うほど英輔にそっくりだった。そして光佑のこの動揺はどうだ。何てメンタルの弱い男なんだろう。クスリ無しではいられなかった英輔にそっくりだ。

 英輔に似ているあの男を、ちょっと翻弄するのは、いけないことだろうかと治美は考えた。その思いつきに治美は夢中になった。カタカタと治美の指が、キーボードの上で弾み始めた。



宛先 ousuke

日付 5月19日 0時11分

件名 Re:誰ですか?


覚えてないんですか? あたしに「メル友になろうね」とまで言ったのに。(笑)

まあでもメアドの交換はしませんでしたけどね。やっぱり立場上、実際に交換する訳にはいきませんでしたしね。



 送信をクリックした。

 いけないことだと分かっていた。光佑に対してではない。英輔に対してでもない。出に対していけないことだと分かっていた。英輔への歪んだ復讐心を、英輔によく似た光佑に、妻がぶつけていることを知ったら、出が悲しむことを治美は分かっていた。出には悲しむ資格があることも知っていた。出は優しくて誠実なよい夫だ。

 それでもやめられなかった。転がり込んできたこのチャンスを、見過ごせなかった。今夜だけ、天使の仕掛けてきたいたずらに乗ってもいいような気がした。今夜だけは、異色な胸の高ぶりに身を委ねたかった。









 しばらくの間、仕事は順調だったし英輔も優しかった。でも治美は、こんなはずではなかったと考えていた。英輔に常につきまとわれていたからだ。

 毎朝英輔は、治美のラパンを運転し治美を会社まで送り届けた。別に断ればいいのだが、そうすると治美は、自転車通勤をしなければならなかった。駐車代がかかるからだ。公共交通機関が発達していないため、電車やバスといった選択肢は発生しなかった。

 自転車を漕いで会社に行くより、車で送ってもらった方が楽だから、治美はつい言いなりになった。けれど車で出社してしまったら自転車では帰れない。そこで会社が終わると、英輔に電話を入れることになった。

 英輔はいつも治美のラパンで現れた。アウディーを潰した後、自己破産をして自分の車を持てない英輔は、母親のカリーナを乗り回していたが、治美とやり直してからは、治美のラパンを足代わりにしていた。

 治美をアパートまで送り届けた後、英輔は必ず泊まっていった。治美はたまには帰って欲しかったが、英輔はそうしなかった。朝までいられてしまうと、結局また、ラパンで会社に送ってもらう羽目になった。慌しい朝はつい楽な方へ流された。

 治美は気付いていなかったが、家業手伝いの英輔には、実際は仕事がほとんど無かった。だから毎朝治美を会社に送り届け、会社の終わった治美に合わせ、迎えに行くことができた。英輔は暇だったから、いつも治美と一緒にいたがった。一方で日中は目一杯会社で働いている治美は、時々は一人になりたかった。

 たまには一人の時間を頂戴と頼んでも、英輔は承知しなかった。仕方なく治美は、英輔の目を盗んで女友達と連絡を取り

「お願いだから、あたしを呼び出して」

 と頼んで回った。

 ところがせっかく呼び出してもらっても、女友達と食事中に、英輔は治美のケイタイを鳴らした。ひどい時には、女友達と出かけようとする治美について、一緒に外出した。

 いつしか治美は、息抜きがしたいと、そればかりを願うようになった。百五十人斬りの英輔とやり直したところで、よそ見ばかりされるのだろうと覚悟して付き合ったのだ。それなのにこうも、自分ばかりを見詰められては、当てが外れた思いだった。英輔のことは嫌いではなかったが、少し距離を置きたかった。

 英輔も焦っていた。

 治美とやり直したからには、英輔は治美を、完全に自分のものにしたかった。そのためには結婚は手段だった。結婚をするために英輔は、仕事をしなければならなかった。宝飾品のブローカーをやらせてくれと、英輔は知り合いに頼み回った。

 その甲斐あって、英輔に新潟出張の話が持ち上がった。甲府の宝飾品を、新潟のフェアで販売することになったのだ。

 治美にとってこれは朗報だった。この機を逃したら、息抜きのチャンスは無かった。治美は精力的に男友達に連絡を取り、予定を入れた。もし英輔にばれたら別れることになるというのは、覚悟の上だった。別れることになるのなら、それはそれで仕方が無いと思った。

 出張前夜、英輔はラパンを運転しながら

「できるもんならお前のあそこを、縫い合わせてから行きたいよ」

 と嘆息した。隣に座る治美は

「何、言ってんの」

 と呆れた。

「あと敏感なポッチにも、何か被せときたい」

「ばか」

 卑猥な冗談は嫌いではなかったけど、治美はふと、心が冷えるのを感じた。つまり英輔は、出張中に自分が他の男と寝ると思っているのだと感じた。そこまで疑われているのだとしたら、男友達と酒を飲むくらい、たいしたことではない気がした。どうせ信じてもらえていないのなら、それくらいしなければもったいない気がした。

 ラパンは、甲府の夜景を一望できる、中華料理店の駐車場に滑り込んだ。助手席のドアを開け英輔は

「オレ今夜、結構無理するんだよ。でも一週間お前に寂しい思いさせるからさ」

 と言った。別に寂しくないのだけどと治美は思ったが、黙っていた。

「ねえもしオレの出張中、男と約束してたとしても、今なら許すから断って。約束してたとしても今なら許すから」

 いつになく真剣な英輔に、治美は笑って言った。

「もぉ何言ってんの。英輔の出張中、女友達とは約束入れたけど男とは会わないって言ってるじゃん」

 この時治美はまだ、自分の心を見くびっていた。英輔にばれたなら別れるまでだと考えていた。





 天使のいたずらに乗って、ワクワクした心地で、治美は眠りに落ちるつもりだった。それなのに睡魔は一向に現れなかった。治美はただ気がかりでたまらなかった。今頃、光佑が苦しんでいるのかも知れないと思うと、申し訳なさでたまらなかった。

 これは天使のいたずらなどという、可愛らしい出来事ではない気がした。悪魔のプレゼントだ。悪魔のプレゼントであるドラッグに夢中だった男と関わったことによって、今また与えられた、悪魔のプレゼント。

 本当は布団を跳ね飛ばしたかった。けれど治美は、傍らの出を気遣って慎重にベッドから降り立った。自分は何をやっているのかと呆れながら再び寝室を抜け出す。

 パソコンを立ち上げると新着メッセージが一通届いていた。



差出人 ousuke

日付 5月19日 0時18分

件名 誰ですか?


お願いです……

誰なのか教えてください。

最近は、一昨日の夕飯も思い出せなくなっています。

 

弟の何かですか?

弟のカノジョにメアド聞いたりはしてないと思います。

立場上って?

 

旧姓と、僕らの関係というかを教えて下さい。

気がおかしくなりそうです……

もしその折、最低な事してたら僕は

心から謝ります。



「弟の何かですか?」の一文に、治美はぎくりとした。このままでは勘付かれてしまうと思った。自分の感情にあまりにも忠実で、大げさな謝り方をするこの男に。英輔にそっくりなこの男に。

 慌てて治美はメッセージを作成した。



宛先 ousuke

日付 5月19日0時40分

件名 Re:誰ですか?


印象は悪くなかったって言ったじゃないですか。気にかけさせてしまったならごめんなさい。

打ち明けるかどうかは、しばらく考えさせて下さい。

でも一度会っただけの女のことを、そんなに考えたりしないで下さい。昔のことだし、光佑さんに対して悪い印象は全く持っていないんですから。

それではおやすみなさい。



 送信をクリックした。

 パソコンを落とす気にもならず、治美はしばらくぼんやりした。これだけ気に病むということは、光佑も、すねに傷を持つ身だということだと察せられた。何から何までこの兄弟は似ていた。

 こんなにも似ているから、今夜だけは正体を明かしたくなかった。英輔にそっくりだから、今夜一晩だけは、自分のことを考えて欲しかった。

 そこまで考えた時治美は思い当たった。復讐というものは、自分のことを考えて欲しくて、するものなのかも知れないと。心を込めて人を恨む行為、それはその人に、心奪われていることに他ならないと。

 その時メッセージが一通入った。このSNSでメッセージを交わすようになったのは今夜が初めてだというのに、交わした早々、こんなにも立て続けに、メッセージが届くなんて。現状に慣れないまま治美は、メッセージボックスを開いた。



差出人 ousuke

日付  5月19日0時46分

件名  寝るのですか?


相手が、あなたが僕の事を知っていて……


僕はいまだなにも分からなくて、苦しんでいて、

今晩も寝れずに苦しむと思います。

悩んで苦しんで……

明日の仕事で怪我をするかもしれません。

何故、こんなに苦しめるのでしょうか?


知り合いだったら「あー久しぶり」とはいかないのでしょうか?

意味深な言葉を残して、相手を悩ませて

苦しませて……

おやすみなさいですか?


僕がこのまま寝れるとお思いですか?

一応芸術家のはしくれですので、想像力は豊かな部類だと自負しています。

苦しいです。


助けて下さい。

誰ですか?



 おやすみなさいと言ったのだから、相手は寝たと考えるのが普通だ。それなのにこのメッセージは何なのかと治美は腹が立った。

 どうしても打ち明けて欲しいなら

「じゃあ明日起きてこのメッセージを読んだら、誰か教えてくれませんか」

 などと打つべきだと、治美には思われた。

 それなのにこんなメッセージを送られ確認がもし翌日だったら、返信しにくくなってしまう。

 また、仕事で怪我をするかも知れないという記述が、治美のカンに触った。脅されるのは真っ平だった。

 芸術家のはしくれだから、想像力が豊かだという言い分も、面白くなかった。はしくれとはいえ芸術家になっていなければ、想像力は貧困だと言いたいのか、と作家のはしくれにさえなっていない治美のコンプレックスは刺激された。

 泣き落としと脅しの混ざった論調も、気に入らなかった。泣き落としだけで構成されていたなら、思い直して正体を明かしてやったのにと考えながら、治美は残酷にもパソコンを落とした。





 出張中の男遊びはすぐにばれた。治美のケイタイに、電話がかかってきたからだ。電話に出た治美に英輔は

「誰といるの?」

 と尋ねた。治美が「うらら」と答えると、「代わって」と要請した。

「何それ? あたしのことが信じられないの?」

 と治美は怒ってみせ、さっさと電話を切った。そして慌てて男友達と別れうららの家に駆けつけた。その後

「うららに、『電話かけなよ』って言われたから」

 と英輔に電話をかけ、さもずっと一緒にいたかのように、うららに代わった。

 しかし英輔はその芝居を見抜いていた。英輔は出張前に、治美の手帳を盗み見ていたからだ。

 嘘というものは、言い張ればまことになると、それまで治美は思っていた。しかし嘘つきにかけては、英輔の方が一枚も二枚も上手だったので負けた。嘘だ嘘じゃないの攻防戦の最中に、信じて欲しいと、治美が思い始めたのが原因だった。聞く耳を持たない英輔の態度に、ふと疑問を持ったからだ。

 もし英輔が本当に自分に惚れていたら、信じるはずだと思った。信じてしまえば自分と仲直りができるからだ。けれど英輔は、治美を信じなかった。

 あんなにもうっとうしいと思っていた男の想いが、愛情に裏打ちされていないらしい事実に、治美はぎょっとした。ついこの間まで信じて疑わなかったもの、重すぎて逃れたいとすら思っていたものを、実は手に入れていなかったと知り驚愕した。

「ごめんなさい。うららにアリバイ工作に、付き合ってもらいました。実は男友達と会ってました」

 泣きながら行なわれた治美の懺悔に、英輔はまるで、勝利したかのような上気した顔をした。

「でもごはん食べただけ。キスもエッチもしてない」

「そんなことはどうだっていいんだよ」

「お願い。捨てないで」

 叫びながら治美はおかしいと思った。ほんの数日前まで、ばれれば別れてもいいと、思っていたはずではなかったか? 別れられると思ったのは、英輔が自分を愛していると誤解していたからだ。別れられなくなったのは、英輔が自分を、愛していないと確信したからだ。

 あまのじゃくで身勝手な自分の心に振り回され、泣きじゃくる治美を、英輔は抱き寄せて涙をぬぐった。泣く女は英輔の好物だったから。

 だから治美が泣きやむと、英輔はつまらなくなって、立ち上がった。

「どうしたの」

「うちに帰る」

「どうして? 今日出張から帰って来たばっかでしょ」

 追いすがる治美に、英輔は高らかに宣言した。

「今日は、お前と一緒にいられない」

 目のくらむような失望が治美を襲った。あれだけずっと、放っておいて欲しいと思っていた時には放っておいてくれず、痛烈に求め始めた今になって、距離をへだてられた事実にいきり立った。

 そんなことが、前にもあった気がした。だからあの時別れたのだと思い当たった。それなのにどうして、やり直してしまったんだろうと思った。

「今日一緒にいてくれなきゃ、あたし他の男と寝る」

 つぶやく治美に英輔が振り向いた。

「本気よ。今日一緒にいてくれなきゃあたし他の男と寝る。帰らないで」

 英輔は黙っていた。治美は語気を荒め言った。

「……、寝てよ。あたしと」

 すぐに英輔の情熱が治美を抱きすくめ、服を脱がし始めた。だが治美の目はうつろだった。ここに愛情が、存在しないことが分かったからだ。そして決して手に入らないそれを、自分が求め始めたことを悟ったからだ。

 英輔が女と、新潟出張中に知り合っていたことを、治美が知ったのは、それから五ヶ月も後、英輔と別れた後のことだ。その女は治美が去った後英輔の恋人になった。



 実はSNSで元カレのお兄さんと再会してしまったくだりは、ほぼ実話です。

 小説みたいなことが起きちゃったなあと思ったので、実際に小説にしてみました。……とはいっても小説にするにあたって創作した部分もあるので、この小説に書かれたこと全てが実話な訳ではありませんが。

 驚きの体験を書き表すことによって、皆様に楽しんで頂けたら幸いです。そして感想も下さったら尚のこと幸いです。

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