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『蝕み』

作者: en2tp
掲載日:2026/06/06

もし身体が静かに壊れていたとして、

それに気付かないまま生きている時間と、

気付いてしまった後の時間。

本当に苦しいのはどちらだろう。

この物語に答えはありません。

ただ、一つの観察記録があります。


彼は昔から、自分の身体を信用していなかった。


痛みがあるからではない。


むしろ逆だった。


何も感じないからだ。


人は壊れる時、悲鳴を上げるものだと思っていた。


骨が折れれば痛い。

皮膚が裂ければ血が出る。

心が傷付けば涙が出る。


なのに、自分の内側だけは違った。


静かだった。


あまりにも静かすぎた。


まるで深い海の底で、

ゆっくり沈んでいることに気付かない船みたいだった。


彼はそれを面白いと思っていた。


見えないものほど興味深い。


分からないものほど触れてみたくなる。


だから身体の奥で何かが少しずつ削れていく感覚すら、

どこか他人事のように観察していた。


今日は少し疲れやすい。


昨日は少し食欲がなかった。


先週は少し眠りが浅かった。


そんな小さな違和感を並べては、

頭の中で勝手に仮説を立てる。


原因は何だろう。


どこから始まったんだろう。


もしこれが実験なら、

結果はいつ出るんだろう。


彼は考えることが好きだった。


だから恐怖より先に好奇心が来る。


人が崖を見て危険を感じる時、

彼は下を覗き込んでしまう側の人間だった。


その性質は、

自分自身に対しても変わらなかった。


ある日、

鏡の前に立った時だった。


少しだけ痩せた気がした。


頬の輪郭。


鎖骨の浮き方。


指先の細さ。


確かに変わっている。


けれど誰も気付かない程度だった。


本人ですら、

気のせいかもしれないと思う程度だった。


だから笑った。


人間というのは不思議だ。


崩れる時でさえ、

一気には崩れない。


少しずつ。


少しずつ。


気付かれないように。


誰にも見つからない場所から。


まるで白い紙の裏側を濡らす水みたいに。


表面は綺麗なままなのに、

内側だけが広がっていく。


彼はそんなことを考えながら、

いつも通り歩き、

いつも通り働き、

いつも通り笑っていた。


周りから見れば変わらない。


だが彼だけは知っていた。


何かが減っている。


何かが削られている。


目には見えない場所で。


誰にも届かない場所で。


静かに。


確実に。


それは痛みではなかった。


恐怖でもなかった。


もっと曖昧なものだった。


夜の部屋で、

消したはずの時計の音だけが聞こえるような。


白い壁に、

見えない亀裂が入っていることを知ってしまったような。


そんな感覚だった。


彼は窓を開けた。


夜風が入る。


街の光が遠くで滲む。


その光景を見ながら思う。


人間は案外、

壊れることを前提に作られているのかもしれない。


花が枯れるように。


鉄が錆びるように。


海の貝殻が波に削られるように。


終わりへ向かう力は、

最初から身体の中に住んでいる。


そして今、

その何かが少しずつ自分を食べている。


急ぐこともなく。


怒ることもなく。


ただ静かに。


長い年月をかけて。


彼の骨の隙間を。


血の流れる場所を。


眠りと目覚めの境界を。


少しずつ。


少しずつ。


蝕んでいく。


それでも彼は空を見上げた。


まだ知りたいことがあった。


まだ描きたい景色があった。


まだ理解できない人間がいた。


だから歩く。


削られながら。


失いながら。


それでも前へ。


自分を蝕む何かさえも観察対象であるかのように。


誰よりも静かに。


誰よりも執拗に。


誰よりも近くで。


まるで、それに食べ尽くされる日を待っているように。

初めての投稿です。

後書きは何を書けばいいのでしょう。

作品の解説でしょうか。

それとも、作者の言い訳でしょうか。

私にはまだ分かりません。

ただ、『蝕み』を読んだあとに一つでも問いが残ったなら。

それだけで十分です。

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