『蝕み』
もし身体が静かに壊れていたとして、
それに気付かないまま生きている時間と、
気付いてしまった後の時間。
本当に苦しいのはどちらだろう。
この物語に答えはありません。
ただ、一つの観察記録があります。
彼は昔から、自分の身体を信用していなかった。
痛みがあるからではない。
むしろ逆だった。
何も感じないからだ。
人は壊れる時、悲鳴を上げるものだと思っていた。
骨が折れれば痛い。
皮膚が裂ければ血が出る。
心が傷付けば涙が出る。
なのに、自分の内側だけは違った。
静かだった。
あまりにも静かすぎた。
まるで深い海の底で、
ゆっくり沈んでいることに気付かない船みたいだった。
彼はそれを面白いと思っていた。
見えないものほど興味深い。
分からないものほど触れてみたくなる。
だから身体の奥で何かが少しずつ削れていく感覚すら、
どこか他人事のように観察していた。
今日は少し疲れやすい。
昨日は少し食欲がなかった。
先週は少し眠りが浅かった。
そんな小さな違和感を並べては、
頭の中で勝手に仮説を立てる。
原因は何だろう。
どこから始まったんだろう。
もしこれが実験なら、
結果はいつ出るんだろう。
彼は考えることが好きだった。
だから恐怖より先に好奇心が来る。
人が崖を見て危険を感じる時、
彼は下を覗き込んでしまう側の人間だった。
その性質は、
自分自身に対しても変わらなかった。
ある日、
鏡の前に立った時だった。
少しだけ痩せた気がした。
頬の輪郭。
鎖骨の浮き方。
指先の細さ。
確かに変わっている。
けれど誰も気付かない程度だった。
本人ですら、
気のせいかもしれないと思う程度だった。
だから笑った。
人間というのは不思議だ。
崩れる時でさえ、
一気には崩れない。
少しずつ。
少しずつ。
気付かれないように。
誰にも見つからない場所から。
まるで白い紙の裏側を濡らす水みたいに。
表面は綺麗なままなのに、
内側だけが広がっていく。
彼はそんなことを考えながら、
いつも通り歩き、
いつも通り働き、
いつも通り笑っていた。
周りから見れば変わらない。
だが彼だけは知っていた。
何かが減っている。
何かが削られている。
目には見えない場所で。
誰にも届かない場所で。
静かに。
確実に。
それは痛みではなかった。
恐怖でもなかった。
もっと曖昧なものだった。
夜の部屋で、
消したはずの時計の音だけが聞こえるような。
白い壁に、
見えない亀裂が入っていることを知ってしまったような。
そんな感覚だった。
彼は窓を開けた。
夜風が入る。
街の光が遠くで滲む。
その光景を見ながら思う。
人間は案外、
壊れることを前提に作られているのかもしれない。
花が枯れるように。
鉄が錆びるように。
海の貝殻が波に削られるように。
終わりへ向かう力は、
最初から身体の中に住んでいる。
そして今、
その何かが少しずつ自分を食べている。
急ぐこともなく。
怒ることもなく。
ただ静かに。
長い年月をかけて。
彼の骨の隙間を。
血の流れる場所を。
眠りと目覚めの境界を。
少しずつ。
少しずつ。
蝕んでいく。
それでも彼は空を見上げた。
まだ知りたいことがあった。
まだ描きたい景色があった。
まだ理解できない人間がいた。
だから歩く。
削られながら。
失いながら。
それでも前へ。
自分を蝕む何かさえも観察対象であるかのように。
誰よりも静かに。
誰よりも執拗に。
誰よりも近くで。
まるで、それに食べ尽くされる日を待っているように。
初めての投稿です。
後書きは何を書けばいいのでしょう。
作品の解説でしょうか。
それとも、作者の言い訳でしょうか。
私にはまだ分かりません。
ただ、『蝕み』を読んだあとに一つでも問いが残ったなら。
それだけで十分です。




