⑥「最初の一冊」
家の鍵を回すと、少しだけ引っかかった気がした。
扉を閉め、背を預けて大きく息を吸う。埃っぽさの中に紙とインクの匂いが混じって、体中に広がって、残っていた苦さが紙の匂いに押し流されていく。
一年前、学院を卒業した時から借りている安い部屋。いつも板床の軋みが、私の帰りを迎えてくれていた。
壁際の本棚には文献と論文が分野ごとに並べてあり、机の上には、端を揃えた紙の束とノートが積まれている。部屋の大半は紙に占拠されている状態だ。
鞄を床に下ろして、部屋の中を見回す。
「この子たちを、どうしようか……」
悩むだけで、息が詰まる。
そうだ、全部持っていけばいい——そう思って、試した。
文献を積み上げて紐で括り、背負い鞄に押し込んでから、残りを両腕で抱えて前に積む。紙の塔は私の頭をゆうに越える。
なのに、その塔を見上げたら、なんだかいける気がした。
よし、と力を入れて立ち上がった瞬間——
「あっ」
背中から引き倒されるように、床に転がっていく。
抱えていた本が雪崩のように覆いかぶさって、頬に角が当たり、背表紙が胸を打ち、最後の一冊が顔の上に落ちて視界が塞がる。
しばらく天井の代わりに紙の裏を見つめてから、顔の上の本をどかす。「ごめんね」と呟いて、息を吐いた。
「……無理だ」
全部持っていくのは無理だ。置いていけば、家賃が鎖になる。かといって処分するには、一冊ずつ中身を思い出してしまう手が邪魔をする。
「収納魔術とか、造れないかな」
馬鹿らしい。空間系はおとぎ話と同列だ。
なのに溜息を一つ落として、背表紙を撫でる。ノートを開き、隅に小さく書く——収納魔術。書いてから、笑いそうになってしまった。
それでも現実は、笑い事ではない。
旅には常に荷が付き纏う。魔獣や野盗に遭遇したときに、こんな大荷物を抱えてどうしろというのか。
腕を組み、何度も小さく唸る。ここにある背表紙は、私が積み上げた時間そのものだ。表紙に指を滑らせてから、決めた——ノート以外は、学院の図書館へ寄贈する。
大半はもう学院にあるだろうが、重複分は保管庫に回るか、別の街の分室に流れるのだから、処分するよりマシだ。
私は立ち上がり、紐と紙箱を準備して、棚から順に本を一冊ずつ丁寧に詰めていった。何冊もある文献の重みが、腕に来る。
三つ目の箱になった頃、手が止まった。
薄い本だった。背表紙は擦り切れて、角が丸い。
十年前——六歳の頃に、初めて手にした一冊。
術式の線やルーン文字が、初めて「意味」に見えた本。
開くと、ページ端には、火の術式が書かれている。基礎の式だけなのに、文字はヨレヨレで背中がむず痒くなる。
結局、この炎を発動する日は来なかったが——それでも、微笑んでしまった。
それを、胸の前で一度抱く。
口を結んでから、ゆっくりと入門書を箱へ入れた。ぱたん、と鳴る音が、小さいのに、やけに大きく響いた。
手を離したのに、一度だけ手のひらを置いてしまった。深呼吸をしてから、手を離して梱包を続けた。
本を詰め終わって、書類を書いて同封し、封をする。
そのまま、配送局まで抱えて歩き、窓口で「お願いします」とだけ言った。
職員は頷き、必要事項を確認してから判を押し、箱を裏へと運んでいく。
運ばれていくのを、角を曲がって見えなくなるまで、目で追った。名残惜しさが指先に残り、それを隠すかのように袖口を被せて、配送局を出た。
相変わらず外の空気は、蒸気が混じってまずかった。
その日の夜。
椅子に座り、机の上のランプだけを点けると、硬くなっていた肩がほどける。肩を左右に振って、足先を揺らしながらペンを指先で回す。
鼻歌が零れていることにも気づかないまま、机の上でノートの新しいページを開いていた。旅先で使えそうなもの——火の術式を描いていた。
火を起こすだけなら、魔力を熱に変換して出す基礎式だけで十分だ。
だが、私は成立している火が欲しい。必要な熱量が、必要な範囲に、必要な時間だけ生まれ、余計な余波を残さない火。
円を一つ書いて、ルーン文字で条件を付け足していく。魔力を炎へと変換し、吸気と排気の通り道を分け、炎が暴れないように楔を刺す。
それに、魔力は借り物——セラのものを使うことになるのだから、変換効率も重要だ。
重い荷を手放した直後なのに、線を引く手は軽い。軽いのが腹立たしくて、腹立たしいのが嬉しくて、また足先を揺らした。
指が動いて、止まって、消して、引き直す。別の線で覆って整える。線のせいで線が汚れるのは嫌だ。最後に輪を閉じて、完成した火の術式を眺める。
無駄がない、美しい。ひとりで発動できないが、設計としては成立している。
ふと、ノートの隅が空いているのが目に入って、何も考えずペンを走らせた。丸い輪郭。短い髪。淡い目——描いてから気づいた。
頬に熱が昇って、ペンを握り直してからペン先を、その上にそっと置いた。塗り潰すのではなく、撫でるように重ねていく。力を入れたら紙が凹んで痕が残るのが嫌だったので優しく、少女の輪郭が、丸い黒に変わっていった。
何をしているんだ、と心の中で呟いてから、ページを閉じる。
紙の擦れる音が小さくなって、それが部屋の静けさに溶けた。
ランプの光の中で、広くなった部屋を見回す。空いた空間が何かを言いたげに黙っている気がしたが、ただ椅子の背に肩を預けた。
しばらくしてから、台所の隅にある魔導コンロへ向かった。起動させると、導管に流れる魔力が、末端で発火してくれる。
やかんを置いて茶葉を量る。湯が沸くまでの間、火を眺めた。安定していて、揺れもない。街が動いている限り、この火は誰にでも点く。
湯を注いで、両手でコップを包んだ。滲んだ熱が、指先を温めてくれた。
温かいものが、胃へとゆっくり滑って、体内を撫でてくれた。そっと息を吐いた。
——コップを落としそうになってしまった。
指先が、震えている。
寒いから震えているわけじゃない。手の中が軽くなってしまったから。でも、それだけとも言い切れない。
手のひらを見つめる。
支払ったものは、もう戻ってこない。あの選択は間違っていなかった……はずだ。
手のひらをぎゅっと握りしめた。
翌日は、硬貨を机の上に並べて数えた。お金があれば文献を買ってしまうから、貯蓄は多くない
数えてから、乗り合い馬車も確認した。路線が複数あって、護衛がつく便は高い。
それからの日は、特別なことはしないようにした。いつも通りに生活してノートを開く。そんな普通が流れていった。
違ったのは、出発の前日の夜に王都の高台に行ったことだけだ。
見下ろすと、都市が呼吸しているようだった。蒸気が白く伸び、街灯が連なって、あちこちで小さなルーンの光が点滅している。
片目を瞑って、親指と人差し指を合わせ、手で四角を作って景色を切り取った。
王都が、一つの巨大な術式に見えた。無数の線が重なり合い、無数の管が熱を受け渡している。雑さもある。汚さもある。一つとして美しくないのに、全体では動いている。
この景色を、何度も見てきたはずなのに、なぜだか今日は輝いているように見えた。
そこで、ほんの少しだけ思った。セラがいたら、この景色を「特等席」にしただろうか、と。
最後にもう一度、景色を焼き付ける。冷たい風が、煤と蒸気の匂いを連れて通り過ぎていって束ねた髪が揺れた。
水の日の正午前。
ノートをたくさん詰めて、実際の荷は大したことがないのに、少し重くなった鞄を肩にかけ、城門へ向かった。
城門前へ行くと、すでにセラがいた。大門の隅に立ち、手を上げながら、つま先で何度も跳ねている。届くわけがない高さを確かめて、うんと満足そうに頷いていた。
その姿を見て、手のひらの中に何かが乗った感触があった。
セラは私を見ると、少しだけ目を細めた。笑ったのではなく、確認したのだと思う。荷は私より簡素で、背負い袋が小さい。
「アーデル」
名を呼ばれるのが、少しくすぐったかったので「おはよう」とだけ返して、私たちは城門をくぐった。
乗り合い馬車の乗り場は城門を出て、城壁沿いに歩いたところにあった。行き先の違う馬車が三台並び、御者が声を上げている。
表示板に書かれている、行き先と運賃を確認しようとした私の横を、セラが迷いなく通り過ぎた。三台のうち一番端の、幌の色が褪せた馬車の前で足を止める。
行き先は、海運都市——王都から三日ほどの海岸沿いにある街。
「これがいい」
選んだ理由は、聞かなかった。
馬車の中は、長椅子が中央の通り道を空けて並んでいて、先客が数人、すでに座っていた。
御者に運賃を支払おうとした矢先、隣でセラが革袋の底から銀貨を二枚取り出して、迷うこと無く御者へ手渡した——二人分。
手を止めた。お金、持っていたのか。そもそも荷の出所すら知らない。暮らしの当てがどうなっているのか、一度も聞いていなかった。
勝手に——何も持っていないのだと思い込んでいた自分の浅さが、苦く胸を突いた。
運賃を支払っている姿を見て、申し訳ない気持ちが沸き立ってきたが、謝るのも違うと思って「ありがとう」とだけ言って、心のなかで謝っておいた。
セラは何も言わずに、駆け足で馬車に乗り込んでいく。
借りができた感覚、それも今は嫌じゃなかった。
私は、馬車に乗る直前に、一度だけ王都を振り返った。
学院のある方角へ向けて、短く礼をする。言葉はいらない。礼だけで十分だ。
馬車に上がる段差へ足をかけた時、ふと、自分が重なった。あの時は、潜っていた。今日は、上がる。
馬車へ乗り込み、セラと並んで座った。
セラは窓の外を見て、ほんの少しだけ身を乗り出した。嬉しいのだろうか、目の動きが軽い。
そんな、セラを見ながら、鞄から新品のノートを取り出し、膝の上で開いた。これが最初の一冊。
【目標:二人の旗を立てる。魔術を集める】
書いてからすぐに閉じて、ノートを胸に抱えて、セラへ尋ねた。
「まずは、何を探しに行きましょうか」
馬車が動き出し、車輪が城門の外へ進んだ。王都の匂いが背中に残り、前の道の空気が少しだけ乾く。
「海、見てみたいな。キラキラらしい」




