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⑤「支払いと瞬き」

 二日が経過した。そろそろ術式譲渡の回答が来る頃だろう。通らなければ手錠が降ってくる。


 私が中庭へ出ると、詰め所の男が顔を上げ、瞬きを一つしてから、視線を落とした。


 中庭の端には小さな池があって、セラはしゃがみ込んで水面を覗きながら、指先で縁の石をなぞっていた。


 表情を変えることなく、一心に見つめていて、水面に映る空を見ているのか、底の石を見ているのかは分からなかった。


 私は何も言わずにセラの隣にしゃがみ込んで、膝に手を置いた。冷えた空気が頬の産毛を起こす。草の匂いと土の湿り気が混ざって、どこかで金属音が鳴った。


 セラは指で水面を何度かつついた。それから、池の縁に落ちている小石をいくつか見比べてから、一つを親指と人差し指でつまみ上げた。


 水面に影が写って、指を開く。


 ぽちゃん。


 沈む音は小さいのに、耳の奥底まで届く。波紋が丸く広がっていき、輪が輪を追い越し、壁に当たって返っていくのを、セラはただ見つめている。


 隣から「さん……し……」と囁くような声が聞こえる。


 私も水面を眺める。波紋が小さくなるにつれて、胸の奥のざわつきも少しずつ沈む気がした。


 輪がだんだん薄くなっていき、最後の線がほどける頃——


「こちらへ」


 振り返ると治安局の制服に身を包んだ男が立っていた。


 声は柔らかい。それでも、有無を言わせない硬さがあった。私が膝を伸ばして立ち上がると、セラもそれに倣った。


 前回と同じ部屋の前まで案内され、ここで待つように言われた。


 中から声が漏れてくる。レオンの声だ。低く抑えているのに、苛立ちが混ざる。


「落下させたのは事故だ。俺たちは――」


「設計側にも過失がある。だが、手順の雑さは別だ」


 ケナードの声は平坦で、言葉の角だけがはっきりしている。扉の向こうで紙がめくられる音がした。


「帳簿改竄の痕跡も——」


 空気が止まる気配がする。喉が鳴るところだけが想像できた。


「規定に基づき、権利の再審査を行う。審査の間は参画権を凍結――」


 しばらくして、レオンが部屋から出てきた。


 首元にあるはずの札が消えていて、彼の指がそこを探り、空だけを掴んだ。指が震えていたのは、見ないふりをした。


 レオンと視線が交わる。彼は私の指先を見て、何か言いかけて言葉を飲んだ。札のない首元を隠すように襟を正してから、視線を切って歩き去った。


 私も言葉を飲み込んだ。彼らの成果と効率が、全部間違いだったとは思わない。ただ、私が守ろうとしたものを削っただけだ。


 入れ替わるように部屋に通され、私とセラ、ケナードだけが残った。


 ケナードが私に視線を寄せる。


「確か、君は魔力不足だと言ったな。ならなぜ術式を行使できた」


「私が術式を描いて、発動は彼女です」


 ケナードは「そうか」とだけ言って紙にペンを走らせた。


 ほどなくして、別の人間が入ってきた。


 薄い水晶板を何枚か抱えている。髪に白いものが混じり、眼鏡の奥の目が細い。上席の人間だと思えた。


 短く挨拶をしてから着席し、ケナードと視線を交わして、小さく頷く。板が机に置かれる硬い音が、静かな部屋に響いた。


「結論から言う。術式譲渡を受理する」


 ケナードの言葉を受け、胸の奥がふっと軽くなりかけたが、すぐに重くなる。


「正式採用ではない。まずは、国家の審査へ回される」


 続けて、条件が読み上げられる。


「術式は王国に帰属する。君は権利を主張できない」


 「はい」と返そうとしたのに声が出なくて、代わりに頷いた。


「事件に関して、今回は酌量する。しかし次はない」


 私たちの元へ、書類を一枚ずつ滑らせる。


 以後、王都インフラへの干渉を行わないという覚書。指の腹に紙の毛羽が引っかかり、違反した場合は罪が重くなるという文言がやけに冷たく見えた。


 その冷たさを飲み込むように署名したところで、ケナードが眉を寄せて呟いた。


「どうした?」


 顔を上げると、セラは紙を見つめたまま短く言った。


「数字しか書けない」


 同じ年くらいなのに文字が書けない。知りたいことが増えた。でも、今聞くことじゃない。


 私は、すこし迷ってから、椅子を寄せる。余白に綴りを書いて見せ、セラがそれをぎこちなく真似して署名した。


 ケナードは眉を寄せたまま「……よし」とだけ言って、次の手順へ移った。


「原本の提出を」


 鞄を膝の上へ引き寄せて、術式ノートを取り出した。付箋だらけの私の一部が、机の上に置かれると、ずしりと重く見えた。


 表紙をひと撫でして、ページをめくっていく。


 書きかけの線、途中で消した跡や夢中になっていた証。つい、視線が他のページへ寄る。


 その線の向こうに、学院の匂いが走馬灯のように駆け抜ける。乾いた木の床と雨の日の石畳、インクの匂い。


 魔力が伸びればと何度も言われ続けたが、結局その日は訪れていない。それでも、楽しかったのだから余計に可笑しい。


 思わず、笑いが漏れかけてしまうのを、唇の端を噛んで止めた。


 目的のページを見つけだして、大きく息を吸ってから、継ぎ目に沿ってゆっくりと歪まないように破いていく。


 びり、と小さく鳴って、紙が分かれる。一枚、二枚と裂ける音は小さいのに、胸の奥で大きく響いていた。


 破ったページを重ねて、整えてから差し出した。指先が離れた瞬間、手の中が軽くなってしまった。


 上席研究者は受け取った紙束を、水晶板の上に置き、転写の術式を当てた。薄い光が走り、紙の上の文字が水晶板に写る光景をページの枚数だけ見守った。


「こちらは原本として、保管される」と言いながら、紙束をファイルに入れ、封がされた。ぱちんと金具が噛み合う音は思ったより乾いていた。


 私は頷きながら、残ったノートへ手を置いた。指先の体温が吸われたみたいで、さっきより冷たく感じられた。


 ケナードが書類を回収して、一枚ずつ指でなぞって確認し、束ねていく。紙の端を揃え、朱肉の乾いた音だけが重なっていく。


 生まれた僅かな空白に、上席研究者が転写した板を眺めながら、私へ言葉を投げた。


「研究所の採用試験を受けてみないか。術式だけでも、十分に――」


 私は目を見開いた。最新の研究、が頭をよぎる。それに収入や文献も。


 セラを見ると、机の角を撫でていた指先が、止まったまま固まっていた。不思議に思いながらも、ノートの破った跡を指で撫でてから、首を振った。


「やりたいことができたので」


 深追いはなかった。「そうか」とだけ言い、机に置かれた水晶板を持ち上げて、セラを一瞥してから呟いた。


「濃いな。……活かせる術式があればといったところか」


 セラは返事をしない。研究者も特に気分を害した様子もなく、紙に何かをメモしてから、机の上を片付け始めた。


 ケナードが机を指でひとつ叩いてから、呟く。


「譲渡はこれで受理した。術式を担保として、監督は解かれる。なお、本件に関して濫りに公言することを禁ずる」


「また、ゴーレムの件に関しては、治安局を代表して御礼申し上げる」


 立ち上がりかけた私を、ケナードが手のひらを上げて止める。視線はセラに向いていた。


「君もだ。王都の地下に、許可なく入るな」


 セラはケナードを三秒ほど見つめて、一つ瞬きをしてから、こくりと頷いた。


 治安局の廊下を並んで歩いた。鞄から身分証を取り出して裏面を見ると、小さな点が刻まれていた。治安局で取り調べを受けた印。


 扉を出た瞬間、蒸気の街の匂いが鼻の奥に刺さり、喉が苦くなる。数日しかいなかったはずなのに、外の空気が重く感じた。


「アーデル」


 セラが、足を止めて振り返った。


 急に名前を呼ばれて、肩が一段上がった。鞄の紐を握って、彼女を見上げる。軽くなった重みが、まだ馴染まない。


 セラの視線が数秒、鞄を捉えてから、目が合う——逸らした。初めて彼女が目を逸らした。それからもう一度、視線を交わす。


 彼女の淡い金の目に、束ねた赤茶の髪が風で揺れる姿が写った。


 セラが何かを言おうとして、口を開けたまま止まる。止まって、閉じる。


 しばらく見つめ合ってから、彼女の瞬きが強くなって、言葉を短く落とした。


「……次の水の日、正午に城門前」


 ぽちゃんと頭の中で鳴った気がして波紋が広がっていく。


 水の日……三日後だ。


「特等席、探しにいく」


 それだけ言って、セラは踵を返す。迷いもなく、振り返りもしない。


 何を言いかけたのだろうか、それを見つけるには、彼女のことを知らなさすぎた。代わりに、鞄の紐をもう一度強く握りしめた。


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