①「煤まみれの特等席Ⅱ」
梯子を降りきって見上げると、丸い口から街灯の冷えた光が滲み、すぐ上で誰かが蓋を踏む乾いた音がした。私は壁に貼られた保守用の札を睨んでから彼女の背を追った。
数歩歩き出してから、彼女が振り返る。
「光、つけないの」
足が止まった。喉の奥に言葉が詰まって、舌の上で一度転がしてから、押し出した。
「……使えません」
灯りに照らされた横顔が、よくわからないと言いたげにこちらを見ている。
「でも直してくれた」
まっすぐだった。まっすぐすぎて、受け取り方が分からない。分からないから、視線を足元へ逃がして、軽く聞こえるように言った。
「描くだけなら、人類みな出来ます」
彼女は首を傾げてから、何も言わずに、前を向き直して歩き出した。
地下は地上と違って、鉄と熱の匂いが濃かった。
先を歩く煤まみれの彼女は、蒸気配管と魔力を運ぶ管——魔導管を見上げたり、壁に刻まれた淡く脈打つルーン文字を「ほう」と眺めていたりと事あるごとに止まる。
「そんなに珍しいですか。インフラ系は学院で——」
途中で言葉が詰まった。学院、という単語が自分の胸を叩いたからだ。一年前に卒業したばかりなのに、遠い昔のことのように思えた。
彼女は返事もせずに、夢中な様子で壁の刻印を追っている。関心が、私に向いていないのが分かる。不思議と腹が立たなかった。
しばらく進むと、通路は広場みたいに開ける。天井は二階分ほど高く、上を見上げると配管の密度が上がっていた。
彼女は立ち止まって外套の懐から紙を取り出した。
なにか書いてあることはわかったが内容は見えなかった。それと天井を何度か往復してから、曖昧に言う。
「ここらしい」
私は口を開きかけて、閉じた。喉の奥で、乾いた息を一つ飲み込んで、眉だけが寄る。
「ここに魔力を流せば、オーロラ」
軽い声で言いながら、彼女は壁際へ寄って配管に手を伸ばし、魔力を流しかけていた。
私の背筋が冷える。慌てて、彼女の手首を掴んで止めた。
「待って。流すだけだと導管が逆流して上に影響が出る」
言ってしまってから、声の硬さに気づく。「口だけ」に後頭部を殴られた気がして、掴んでいた手を離して自分の手首を握った。
彼女は素直に手を引く。それから、横の縦穴——地上へ抜けるマンホールの方を、数秒間見つめて「ごめん」と呟いて振り返った。
何か言いたそうなのに、言葉が出口を見つけられないまま、淡い金の目が、左へ、右へ、泳いだ。
縦穴の上——マンホールの蓋を気にしていたのだろうか。どちらにしろ、魔力を流すだけじゃ成立しない。
「一番キレイなやつがいい」
その言い方が私をくすぐる——綺麗を作りたい。それは誰からも求められなかったもので、私が求め続けたもの。
インフラへの侵入に加えて、導管の流れを乱すようなことをする。捕まれば罪に問われ、投獄は避けられないだろう。何かが重なるように胃が重くなっていく。
それでも、答えは最初から決まっていた。
ぽちゃん、と滴が落ちる音を合図に手を動かし始める。
直すのとは違って一から作成する必要があるので、配管を見上げて術式を思案する。輪を描き、そこにルーン文字で条件を肉付けしていく。魔力を光へ変換して形作り、導管と共鳴させる。
輪を閉じて初めて、口角が上がっていることに気づいた。顔を上げる前に慌てて引き締める。
「……これで、いけます」
彼女は頷きながら、輪へ魔力を注いだ。
それと同時に、頭上の刻印がいっせいに痙攣するみたいに明滅し、配管のどこかで金属が鳴って焼けた匂いが混じる。天井の継ぎ目から黒い粉が落ちて、髪と肩に乗った。
私が組んだ術式が、魔力に押し広げられて歪む。手順は合っていたし、想定していた中では破綻しないはずの組み方だ。なのに、通る魔力の圧が桁違いだ。
まずい、と思う前には、指を動かしていた。圧力を分散するために、細い線を一つ、もう一つと描き足していく。冷たい水を浴びせるみたいに、熱を散らす。
背中に冷たい汗が走って、外套の下がじわりと濡れた。
輪を閉じると、圧の手触りが徐々に変わっていく。指先に伝わる振動が細かくなり、通路の空気が一瞬だけ軽くなる。
暗闇が裂け、極彩色が柱になって立った。
帯が何本も、天井へ向かって薄く伸び、配管の影をなぞりながら壁面を昇っていく。格子の隙間で切れたはずの流れは、切り口から別の流れを生み、裂け目が連鎖する。
粒は雨みたいに降り、降りながら逆に昇り、渦をつくって集まり、散って、また別の模様になる。音も匂いも、いまは光に塗り替えられている。この地下に巨大な筆で、空を描いているみたいだった。
帯の光は、地下だけで終わらない。格子の隙間から漏れて、地上のマンホールの縁まで淡く照らしている。
彼女は一歩、また一歩と弾むような足取りで立ち位置を変える。見上げる角度を変えるたび、帯の重なりが違う模様になるのが分かるのだろう。
煤だらけの頬を上げたり下げたりして、黙ったまま場所を探した。そして、ぴたりと足を止める。
「ここがいい」
それだけ言って、胸の前で小さく息を吸った。まるで、席を確保したみたいに。
「……キレイ」
彼女の目が輝いた。肩が僅かに上がり、視線が帯に吸い寄せられて離れない。
私は、光と外側の煤を見ていた。口だけ——その言葉が頭をよぎって、すぐに星の奔流が上塗りする。
美しい術式と、圧倒的な魔力。これだ。これこそが魔術だ。光を見上げて、指先で空中に線をなぞる。止めようとしても、手が止まらない。
息を吸うたびに紙の匂いが欲しくなって、鞄の中の術式ノートを出しかけたが、止めた——まだ見ていたい。
夜明けが近づくにつれ、魔導管の流量の変動はゆっくり落ち着いていく。
それに合わせて帯は薄くなり、最後に粒がひとつ、ぱちんと弾けるみたいに消えた。残ったのは鉄の匂いと、粉塵のざらつきだけだった。
彼女は、空を見上げたまま胸元へ手を入れて、小さな銀色のペンダントを引き出した。鎖が小さく鳴って、掌の中に隠すように握りしめた。
そのときの表情が苦しそうに見えたのはきっと、気のせいではない。
「うん。これだ」
呟いてからペンダントを戻して、名残惜しそうに空へ手を伸ばした。そこから、現実に戻るように足元を確認して、踵を返す。近い出口へ行こうとしたので、咄嗟に止めた。
「そこから出たら目立ちます。煤まみれだし」
彼女は一瞬だけこちらを見てから、自分の姿を見て、呟いた。
「黒いね」
その言葉がおかしくて、私は「いまさらですか」とだけ返した。
最初のマンホールへは戻らずに、地下を横切って真逆の方向、人の少ない方へ歩いた。
通路の壁際、赤く跳ねたルーンがまだ微かに脈を打っていた。私は目だけで追って、喉の奥で乾いた息を押し戻す。
彼女はどこ吹く風で、配管の継ぎ目を見つめながら、頷いていた。眉をひそめてから、気になっていたことを尋ねてみた
「そもそも、なんでこんなことを?」
期待していなかったが、意外にもすぐに答えは返ってきた。
「特等席を探してる」
「特等席?」
喉に引っかかったまま問うと、そこで初めて、彼女の視線が私を掠めた。しかし、すぐに彼女は小さく息を吸って、天井の配管へ顎を上げてしまう。
「誰も見たことない角度で、見たい」
結局、よくわからなかった。どういうことかと考えているうちに、出口へ到着していた。
地上へ戻ると、空が白み始めていて、蓋を押し上げた瞬間、外気が一段冷たく感じた。
通りへ出るまでの間、彼女は上機嫌だった。
煤まみれなのに、まるで祝福されたみたいに見えるのが腹立たしくなって、私は自分で笑いそうになった。
腹立たしいわけでも、羨ましいわけでもない。ただ、純粋だった。
別れ際、彼女は立ち止まった。自分の掌を見下ろして親指と人差し指をすり合わせてから、消えたはずの名残をなぞるかのように、朝の空を見上げる。
見上げながら「明日は、城壁」と思わずこぼれたような手触りで呟いた。
視線を下げたところで——初めて私と目が合った。それから私の手の辺りを見て数度瞬きをしてから「またね」と次があるみたいに言って、彼女は通りの向こう側へ歩き出していった。
私は、鞄から付箋だらけの術式ノートを引っ張り出して、迷うことなく煤のついた親指をページの端へ押し当てる。黒い指紋が一つ紙に残り、指の腹にはさっき書き換えた術式の感触だけが残る。
遠くで声が重なり、走る音が増え、甲高い笛が鳴った。「謎の光」や「封鎖」という声と共に、靴音が増えていく。
あの漏れは、放っておかれないだろう。確実に調査される。それでも、後悔はない。
「特等席」の言葉が舌の裏に残って、口の中だけで転がした。
城壁の方角を一度だけ確かめて、王都の蓋の位置を思い浮かべた。また彼女と特等席を形にしたいと、体がもう動き出していた。




