第五節——蜘蛛糸の強襲——
突如飛んできた無数の糸を避けきれず、身体を縛りつけられてしまった。近くに来たのはフォルスではなかったらしい。想定外の危機を前にして、背筋が冷たくなるのを感じた。
「何だ!?」
『……まずいな』
深刻な声色でプロメテウスが呟いた。訳も分からないまま必死にもがいていると、目の前に見知らぬ男が現れた。その傍に控えているのは、亡霊のように淡い輪郭をした女。彼女はこちらを見ながら、男の無造作に散らされている髪を弄ぶように触っている。明らかにただの人間ではない。
「あれは……!」
『間違いない……奴もこちらと同じ、演者の一人だろう』
プロメテウスの言葉が本当なら、さっきの怪物を遥かに上回る脅威だ。あの男の傍にいる女が、俺にとってのプロメテウスのような存在なのだろう。そうだとすれば、男の使う力から、奴に宿っている女の正体を見抜くことができるはずだ。
今まで座長から聞いてきた神話を必死に思い出す。咄嗟に思い出すことのできたものの中では、糸と関係のある女性は二人。そして相手の身体を縛るような糸の使い方は、獲物を捕らえる蜘蛛を思わせる————
「アラクネか……!」
「……知っているのか」
俺の言葉に反応して、男が歩み寄って来る。どうやら推理は当たっていたらしいが、状況は全く好転していない。むしろ、相手の力を見抜いたことで警戒心を高めてしまったようだ。避けられる衝突はできる限り避けたいが、こうなった以上は対話を諦め、炎で糸を強引に焼き切ることも考えなければならない。
「……何でいきなり襲ってきたんだ」
「わざわざ答える義理はないな」
「それなら……お前はさっきの化け物の味方なのか、敵なのか……それだけでも教えてくれ」
男はやはり無言を貫いた。だが、それはどんな言葉よりも明白な答えだった。
俺の手が紅く光ったのを見逃さず、男は一部だけ糸を引き戻した。俺の手に触れている糸だけを離すことで、即座に燃え広がるのを防いだのだろう。しかし、こちらから身体を縛る糸に触れて燃やせば問題なく拘束は解ける。
「効くかよ!」
『リオン、罠だ!』
プロメテウスの言葉は間に合わず、俺は手から出した炎で全身の糸を焼き払った。糸についた火が自身に迫る前に、男も手から糸を切り離す。その隙に追撃を叩き込もうと構えた瞬間、無意識のうちに膝が曲がった。そのまま姿勢が崩れ、うなだれるようにして視線が下がる。
「なっ……!?」
何の前触れもなく、急に動き出せなくなってしまった。身体が強張り、息が上がる。もしかしたら、糸に毒が塗ってあったのかもしれない。糸が燃えることによって、それが表面から滲み出てしまったのだろうか————
『莫迦、体力切れだ!』
プロメテウスが突き止めた原因はもっと単純だった。言われてみれば、と目を見開く。いつまでも舞台に立ち続けられる演者など存在しない。まして、今日初めて演者になったような人間なら尚更消耗が激しくても不思議じゃない。
身に余る大きな力をいきなり手にしたことで、そんな簡単なことさえ見落としてしまっていた。無力な俺を嘲るように、男は冷たい微笑を浮かべながら見下ろす。
「やはりコロスとの戦いで消耗していたか。悪いが、これで終わりだ」
「……ッ!」
男は再び糸で俺の身体を捕らえた。その目つきから、今度は単なる拘束ではなく殺すことを目的としているのが見て取れる。糸自体に殺傷力がなくても、持ち上げて高所から落下させたり、力尽きるまで振り回して木々にでもぶつけたりすれば良い。
単に体力切れで動けないのなら、動けるようになるまで持ちこたえればまだ勝機はある。糸が簡単に焼き切れたのを見るに、力の相性は悪くないはずだ。歯を食いしばり、顔を上げて男を睨みつけた。
その時、聞き慣れた声が風を切って耳に届いた。
「────よう、リオン。やっと見つけたぜ」
声のした方に目を向け、その姿が今度こそ幻でないことを確かめるように瞬きをする。再び目を開けた時には、既に男の腕から伸びていた糸は跡形もなく切り刻まれていた。
「フォルス……!」
「……説教は後だ。そいつを倒せばいいんだな!」
駆けつけてきたフォルスの手元に、透明な線のようなものが伸びているのが見える。男が彼に向けて糸を放つと同時に、フォルスはその線に指をかけた。
「無駄だ!」
竪琴の弦を爪弾くように、フォルスの指が線を弾く。瞬間、そこから放たれた音は無数の衝撃波となって、彼に迫る糸をばらばらに切り裂いた。明らかに人間離れした力だが、彼の傍にはプロメテウスやアラクネのような存在がいるようには見えない。不可解な力の前に、男はたじろいだ。
「ッ……!」
『……ついてる』
男が苦い顔を浮かべる一方、これまで言葉を発することのなかったアラクネが呟いた。おぼろげな姿でも、彼女の口角が上がっているのが分かる。しかし、それは喜びの笑みではなく、怒りに顔を引きつらせているように見えた。
『神の演者が二人も……ああ、なんて幸運なの!』
「どこが幸運だ、形勢が一気に傾いたんだぞ。ここは退却するしかない」
闘志を露わにしたアラクネに構わず男はそう言って、フォルスから逃げるように後ろの木に向かって糸を引っ掛けた。
彼はあくまで冷静に、その場から退こうとしていたはずだった。だが、突如こちらに向き直り、再び糸を放ってきた。予想外の攻撃に反応が遅れ、フォルスが衝撃波を放つ前に糸が彼の身体に届いてしまった。
「フォルス!」
「ちっ、くだらねえ真似しやがって……!」
フォルスを捕らえた男の表情は、ぞっとするほどアラクネとよく似ていた。さっきまでの落ち着いた様子は完全に消え、口角をつり上げながら力の限り糸を締めて、フォルスを強く縛りつけている。さっきプロメテウスが俺の身体を動かしたように、アラクネが奴の身体を乗っ取ってしまったのだろう。仮にそうだとしたら、もはや相手はただの演者ではない。フォルスが危険だ。
「プロメテウス!」
『……この状況だ。まだ動けぬと言っても動くのだろう、お前は』
「当然だ!」
『いいだろう、ならば止めはしない。だが……炎は使えてもあと一度だけだ。使い所をよく考えろ』
呆れた様子のプロメテウスから再び力を借り受けて立ち上がる。糸を焼き切ってフォルスを助けるために、彼のもとへ駆け出した。瞬間、男のもう片方の手から糸が飛んでくる。身体を乗っ取っているからか、奴の方は体力が切れるどころか初めよりも攻撃の激しさを増している。炎を自由に使えない今、向かってくる糸を焼き払いながら進むわけにもいかず、近づくことさえままならない。
「く……!」
『させるものか、お前が立ち上がることも織り込み済みよ!』
冷静さこそ失っているように見えるが、戦況はアラクネの思い通りに動いている。このまま妨害が続けば、直接糸を燃やそうとしても間に合わない。だが、だからと言って遠くから炎を放つ余力も残っていない上、外せば今度こそ終わりだ。必死に打開策を考えるが、ひっきりなしに飛んでくる糸が思考を遮るせいで何も思い浮かばない。
「プロメテウス……!」
『駄目だ。お前が助けると決めたのなら、自ら智慧を絞ってみせろ』
文字通りの神頼みも、すぐさま突っぱねられてしまった。正面から助けようとするには、力も智慧もあまりに足りない。だから自分以外の何かの力を頼るしかないが、周りにはあてになりそうなものもない。残された猶予を確かめるように、アラクネの顔を見る。傀儡のように力なく動いている男の傍で、彼女はしきりに何かを呟いていた。
『神の演者が二人もいるのよ。今度こそ、私の力を認めさせてやる……!』
「二人……」
これまでの様子から、フォルスも演者なのは明らかだろう。恐らく、怪物が劇場に襲ってきた時にエイルがまず彼を頼ったのもそれが理由だ。その一方で、俺や男とは違って彼に力を与えている者の姿は見えない。アラクネにも同じように見えているのなら、彼女自身と同じように神ではない存在が演者に力を授けている可能性だって考えられるはずだ。
しかし、アラクネは俺だけでなく、フォルスも含めて神の演者と呼んだ。それは、彼の傍にいる者をはっきりと知覚していなければ説明がつかない。俺には見えないものが、彼女には見えている————
『ふむ、悪くはないだろう』
「……そうだ!」
策を思いついた俺自身よりも先に、プロメテウスは納得したように呟いた。さっきは人の心を読むことはできないと言っていたのに、こんなに早く反応ができるのは変だ。嘘をついていたのだろうか。
『心外だな、あくまでお前は例外というだけだ』
「いや、まだ何も言ってねえよ……」
『それより、今はすべきことがあるだろう』
プロメテウスに言われて、はっと我に返る。せっかく思いついた策を危うく忘れてしまうところだった。木々の合間を縫ってアラクネの糸を躱しながら、少しだけフォルスとの距離を詰める。直接炎が届く距離ではないが、これだけ近づいたら十分だろう。
そして、ありったけの炎を拳に乗せて————目の前の巨木を殴り倒した。
『外した……!? いや、違う!』
当然アラクネは燃えながら倒れてくる木に気付き、その向かう先を目で追う。そして、即座にそれがフォルスを縛る糸を断ち切る形で倒れてくることを見抜いたはずだ。大きな幹を丸ごと包む凄まじい炎の塊が、斧のように上から降ってくる。それが当たれば、いくら強靭な糸でも間違いなく焼き切れるだろう。
リオンは、フォルスを助けるために足りない力を大木の重みで補った。彼女がそう理解したならば、取る行動は一つだ。糸を動かしてフォルスの位置をずらし、倒れる木が当たらない場所に移すしか避ける方法はない。
『……確かに、アラクネならばそうするだろうな』
気が遠くなるほどの時が流れてもなお語り継がれる機織りの名手。そして女神アテナとの対決で自身の作品を壊され、失意の中で自ら命を絶たんとした悲運の女性。それが、アラクネという人物だ。今、男の身体を彼女が乗っ取っているのだとするなら、その背景から自ずと行動も読める。
微細な綻びも許さない優れた眼を持ち、自身が紡いできたものを壊されることを何よりも嫌うアラクネは、倒れてくる大木を避けるようにフォルスを移動させるしかない。そして、彼を持ち上げるために上へ力をかけた時、縛りつける力は弱まる。その一瞬間、避けようのない綻びが生じた。そこから瞬きも終わらぬ間に、アラクネが紡いできたものは跡形もなく切り刻まれた。
俺は、自分に足りない力を大木で補ったんじゃない。
俺が本当に信じ、頼ったのは────
「全く、とんだ大恥をかいたぜ。格好良く助けてやるつもりだったのによ」
『な……何が起きたの!?』
「悪いが、もう容赦はできねえな」
驚くアラクネに構わず、フォルスは続けた。沈みかけた陽光に照らされて、弦を構える指先が紅く煌めく。それと同時に、彼の傍に靄のようなものが浮かび上がった。正体は分からないが、それが何なのかはもう明らかだ。
「来い————オルフェウス!」
フォルスが叫ぶと彼の周りの靄が晴れ、一人の青年が姿を現した。青年は何も言わず、ただ冷ややかに翡翠色の眼をアラクネに向けている。オルフェウス————元は人間の身でありながら、竪琴の技を冥界の神に認められ、やがては神聖視までされるようになった傑物だ。アラクネと直接の関わりはないが、正反対の背景を持つ彼女にとって彼がどう映るかは想像に難くない。
その視線だけで、アラクネは明らかに気圧されていた。苦し紛れに糸を飛ばしているが、速度も威力も弱まっている。もはや、再びフォルスを捕らえることはできない。結局、彼は息切れ一つすら見せずにアラクネの糸を全て捌き切ってしまった。
『く……!』
「いよいよ限界ってとこだな。覚悟はいいか?」
『覚悟……覚悟ですって?』
地に膝をついて動かないアラクネはしかし、フォルスの言葉を聞いて嘲るような笑みを浮かべた。
『覚悟をするのはお前たちの方でしょう。私たちの目的————世界の崩壊は、もはや達成したも同然。こんな小競り合いは余興にすぎないわ』
「なっ……!?」
アラクネの話はあまりにも突飛で、すぐには飲み込めなかった。この世界が滅亡する————普通なら到底信じがたい話だが、人間離れした演者の力を目の当たりにした以上、単なる出まかせとも思えない。
『それじゃあ、今度こそ退くわ。またどこかで会いましょう……それまで、この世界が残っていればね』
「……」
フォルスはアラクネの発言に一切動じることなく弦に指をかけていたが、逃げ去る男とアラクネに追撃はしなかった。一瞬、さっきプロメテウスに見せられた光景が脳裏をよぎる。やっぱり、あれは単なる幻にすぎないのだろう。自分や仲間を襲った相手さえ見逃すような彼が、仲間を傷つけるようなことをするはずがない。
『おい、リオン。考えごとをするのは良いが……』
「なん————」
言い終わらないうちに、こちらに向き直ったフォルスに両手で胸ぐらを掴まれた。突然のことで理解が追いつかず、なすがままに揺さぶられる。そのまま、立ち直るより先に身が竦むほどの怒声が飛んできた。
「このッ……馬鹿野郎が!!」
「い、いきなりどうしたんだよ!」
「どうしたじゃねえ、一人で勝手に無茶しやがって! 皆がどれだけ心配したか分かってんのかよ!」
「あ……」
そう言われて、劇場を飛び出した時のことを思い返す。改めて考えれば、あまりの無謀さにぞっとする。演者の力など存在すら知らず、気持ちだけで駆け出してしまった。実際、フォルスが来てくれなければ俺は助からなかっただろう。
「ただでさえアンリの旦那がいなくなったばっかだってのに、お前まで死んじまったら、俺は……"灯火一座"の皆は……!」
「————ごめん」
声を震わせながら俺を一層強く掴むフォルスに、力なく謝ることしかできなかった。全くもって彼の言う通りだ。返す言葉もない。俺が目の前の人を助けたいと思うのと同じように、俺の無事を願う人も確かにいる。俺の代わりに誰かの命が助かったとしても、それは人を助けたことにはならない。
『フォルス、その辺りにしておこう。今は急いで皆のところに戻るべきだ』
「オルフェウス……」
『それに、リオンの気持ちも僕にはわかる……当然、君だって同じだろうけれどね』
オルフェウスの言葉を聞いて、フォルスは俺を掴んでいた腕を下ろした。平気なつもりでいたが、少しだけ息が詰まっていたらしく、思わず咳き込む。フォルスは俺が立ち上がるのを待って、踵を返して街の方へ歩き出した。
「帰るぞ。皆が待ってる……色々説明するのは今度にしようぜ」
「……ああ」
フォルスの後について街へ戻る途中も、疑問で頭がいっぱいだった。アラクネ達に"コロス"と呼ばれていた怪物のこと、演者という存在、もっと言えばそもそもプロメテウスやオルフェウス達がこの世界にいることも不思議だ。そして、この世界が崩壊するという話……フォルスはどこまで知っているのだろうか。
陽の落ちた街の中を歩き、薄明かりの灯る一座の宿にようやく辿り着いた。普段は走ればすぐに着く距離だが、疲れた身体で歩けば途方もない道のりだ。
フォルスの肩を借りながら一緒に仲間たちの前に顔を出した途端、一人ずつ順番に説教を喰らう羽目になったが、そのおかげで皆無事だったことも確かめられた。安心したせいか、全身の力が一気に抜けてその場に倒れ込む。帰る時に抱えていた疑問を再び頭の中で思い浮かべる余裕もなく、そのまま眠りについてしまった。




