第三節——絶望の舞台へ——
ふと目を開けると、暗い部屋に一つだけ灯った蝋燭のような、仄かな明かりが視界に入った。さっきまで対峙していた怪物も、全身に負っていた激痛も、不自然に消えている。明かりの向こう側を見ると、静かに座っている青年の姿があった。さっきと違って人間に近い見た目をしていたが、不思議とすぐに彼がプロメテウスだと分かった。相手は神なのだから意味のない推測だが、フォルスと同じくらいの年齢に見える。蒼い長髪を靡かせながら、こちらを睨むように見据えている。その瞳は絵の具を一滴零したように濁りのない紅色をしていて、思わず視線を吸い込まれてしまった。
「……ここは?」
『ここは、私の抱える絶望……それを体現した世界。平易な言い方をすれば、私の心象風景だ』
プロメテウスは座ったまま、やはり淡々と語った。姿が違っても、話し方は全く変わらない。何が目的で俺をここに連れてきたのか。さっきの怪物はどこに行ったのか。そもそもまだ俺は生きているのか。一つ説明を聞いても、一向に疑問は絶えなかった。
『色々と気になっているようだな、想定していたことだが』
「……お前、人の心が読めるのか?」
『そんな芸当はできん。私はあくまで行動や表情に基づいて推測しているだけにすぎない』
「そうなのか。やけに鋭いから、そういう力があるのかと思った」
『私の推測がよく当たっているのなら、それほどお前が単純な奴だということだ』
こいつは会話の度に嫌味を入れないと生きていけないのだろうか。神ともなると、性格の捻じ曲がり方も並の人間とは比べものにならない。しかし、不思議にもその言葉に悪意は感じなかった。俺のことを悪く言うためにあえてこんな物言いをしているのではなく、プロメテウスにとってはただ事実を述べているつもりなのかもしれない。
『さて、先に一つだけ教えておいてやろう。この空間は、私がお前の心中に情報を流し込んで作ったものだ。現世とは時間の流れが違うから、お前が向こうで目を覚ます前にあの異形どもに殺されることはない。だから、些事に気を払わず私の話を聞け』
「あ、ああ……分かった」
全てにおいて先回りするようなプロメテウスの言動に圧倒されながら、彼の話に耳を傾ける。人の心を読むことなんかよりもよほど凄まじいことをしているようにも思えるが、プロメテウスは特に力を使っている様子もない。落ち着き払った声のまま、彼は話を続けた。
『さて、今からお前に私の力を与える……しかし、神の力はただ与えてやれるものではない』
「……まあ、そうだよな」
人の身を超えた大きな力には、必ず何らかの代償が伴う。そういう筋書きの舞台だって少なくない。問題は、その代償が今の俺に支払えるものなのかどうかだ。
『神々に近い血縁の者なら、その限りではないのだがな。しかし、今となってはそれこそ神話の中だけの存在だろう』
「だったら、俺はどうすれば良いんだ?」
『神と縁遠い者が神の力を受けるためには、その者が持つ何らかの要素を神に近づける必要がある。一般に”儀式”や”試練”などと言われているものだ』
「……なるほど」
つまり、俺がどうにかしてプロメテウスに近い状態になれば良いようだ。しかし、具体的に何をすれば良いのか全く見当もつかない。俺がその疑問を投げかけるより早く、プロメテウスは答えを口にした。
『ここからが本題だ。お前には、私と同じ絶望を味わってもらう』
「……え?」
プロメテウスの絶望。全くもって想像のつかない言葉に困惑していると、周囲が急に明るくなった。観劇を終えて外に出た瞬間のように、視界に突き刺さってくる眩しい光に耐えかねて思わず目を閉じる。
「うわっ!?」
『私の抱える絶望……それを背負い、なおもお前が立つのなら……私の力を与えてやろう』
そう言って、プロメテウスは姿を消した。彼が絶望するほどの出来事————得体の知れない恐怖に、思わず息を呑む。何がどこから襲ってくるか分からない。ひとまず身構えてみると、見覚えのある人影が視界に映り込んだ。
「あれは……フォルスか?」
彼だと断定するには距離が遠すぎるので、近寄ってみることにした。歩くと辺りの光が波を立てるようにうねって、少し不気味な感じがする。浅い水の中を歩いて渡った時のように、明るい光が揺らめく。その不思議な感覚に慣れてきた頃には、人影との距離も十分に縮まっていた。
改めて見ても、やはりそこにいるのはフォルスだ。怪物を引きつけるのに必死で気にする余裕もなかったが、劇場の皆は無事だったのだろうか。
「フォルス!」
「……」
フォルスはこちらを向きもせず、俯いたまま黙っている。普段とは全く様子が違う。違和感を覚えて彼のことをよく見ると、少しだけ震えている腕から何本かの赤い線のようなものが指先に向けて走っていた。その奇妙な線を描く小さな雫が落ちる先には————うずくまるように倒れているエイルの姿があった。
「な、に……!?」
「————」
フォルスの形をしたものが何かを言ってきているように見えるが、その声は一切耳に入らない。辺りを照らす光が一層強くなって、エイルの周りに転がっている無数の残骸を薄闇の中から暴き出した。その中に、見覚えのない顔は一つとしてない。そこに倒れていたのは、全て"灯火一座"の仲間だった。
「どういう、ことだ……!」
『これが、私の抱える絶望……人を救うことの虚しさだ』
頭の中に、再びプロメテウスの声が響く。目の前の状況も受け止めきれていないのに、彼の言葉なんか理解できるわけがない。混乱はやがて怒りになって、闇雲に心の中を満たしてゆく。そして、どこにいるかも分からない声の主に向かってあてもなく怒鳴りつけた。
「ふざけんなよ、フォルスがこんなことするわけねえだろうが!」
『……確かに、今はそうかもしれんな。だが、時が流れれば人は変わる。これが現実になる可能性も否定はできぬ』
「そんなわけが……!」
『人を救うということは、そんな未来さえも受け入れるということだ』
プロメテウスがかつて闇夜の寒さに凍える人類にもたらした火の灯りは、やがて世界を包む激しい戦火へと姿を変えた。他ならぬ、彼が救った人類自身の手によって。哀しいほどに説得力をもったその言葉を聞いた途端、急に頭が痛くなった。視界が歪み、フォルスやエイルの幻影が輪郭から徐々に消えていく。頭を強く掴まれて全身を揺さぶられるような感覚に耐えかね、目を閉じた。
しばらく経って、ようやく頭痛と揺れが落ち着いた。恐る恐る目を開けると、今度は手足が鎖のようなもので縛られていて動かない。何もできないまま辺りを見回しているうちに、遠くから複数の黒い影が近づいてくるのが見えた。初めは点のようだった影は、次第に形を変えてゆく。翼と足が見えて、尖った嘴が姿を現し、眼前に迫る頃には鷲ほどの大きさの鳥になっていた。
「今度は何だ……!?」
鳥たちは俺の方へ向かって一斉に飛びかかった。彼らの狙いに思考が辿り着く前に、全身に走る激痛が知らしめる。無数の鋭い嘴が俺の皮膚を軽々と喰い破り、内臓をついばみ始めた。
「ッ……!!」
言葉を発することさえできない。これが現実に起こっていることではないと分かっていても、この痛みを味わった上では到底信じられなかった。喰い荒らされた内臓は瞬く間に再生し、また喰われて新たな痛みを生み出す。いつまで続くのか分からない恐怖に、肉体だけでなく精神まで磨耗してゆくのがはっきりと感じられた。
『ゼウスより火を盗み出した私は、こうして罰せられた。身体を縛られ、無数の鳥が内臓を喰い荒らす。当然、不死なる神の内臓は再生し、苦しみはいつまでも続く……』
全身を焼き尽くすような激しい痛みが続いているのに、何故か背中の辺りが急速に冷たくなるのを感じた。俺が今まで感じてきた苦しみとは全く別種のもの。前に歩き出す気力が奪われて、つい膝を折りたくなるような感覚。考えるまでもなく、その正体は既に明らかだった。
本当の絶望は、こんなにも熱を持たないものなのか。
『そしてこの苦しみは、救った命が潰し合うのを目の当たりにする代償として与えられたものだ。これに耐え、抗ってみせたとしても、そこには名誉も何もない。ただ、人間を信じた愚かな自身に対して与えられた罰……それが、私の最大の絶望だ』
口内に溢れる血の味さえ朧げになって、視界が徐々に暗く、狭くなってゆく。プロメテウスの言う通りだ。この苦しみは何の意味もない。死ぬことによってここから解放されるのなら、きっとそれが一番楽な道に違いない。
『危険を冒して誰かを救っても、良い結末へ向かうとは限らない。そして、自身は迫り来る危機に呑まれ、全てが徒労に終わる可能性すらある……それでも、立ち上がる覚悟はあるか?』
プロメテウスの問いかけにすぐさま頷くことのできる自分は、既に消え去っていた。これほどの絶望を味わって、なおも人を信じて救おうとする気は全く起きない。このまま力を得られなかったとしても、あの怪物に殺されるなら痛みは一瞬だろう。それで全てが俺の手を離れてくれるのなら、選択肢の一つとしては十分だ。
「がッ……は!!」
もう諦めると言うために声を出そうとして、痛みに思わず咳き込んだ。瞬間、薄れゆく意識とともに消えかけていた記憶が脳裏をよぎる。今プロメテウスが言ったようなことを全て背負って、座長は俺に手を差し伸べてくれた。ここで俺が諦めてしまえば、彼の決意も裏切ることになってしまう。身体がどれだけ苦しくても、前に進むことを拒んでも、それだけはできない。
「ぎ……ああああッ!!」
閉じかけていた瞼が開き、全身に力が入る。半ば絶叫するように、鳥たちの猛攻に抗いながら両方の手足を前に持っていくと、身体を縛りつけていた鎖が切れてはらはらと崩れ落ちた。鳥たちは怯えたように一瞬動きを止め、すぐに別々の方向へ飛び去っていった。
「……この先に、どんな未来が待ち受けていたとしても」
本来ならばとっくに死んでいてもおかしくないほどの傷を負った身体を起こして、亡霊のようにゆらりと立ち上がる。プロメテウスの姿は見えない。けれど、そこにいると信じて歩き出す。いつか舞台で見た生ける屍のように、今にも崩れ落ちそうなほどゆっくりと、しかし一歩ずつ着実に、歩みを進めていく。
「たとえ、いつか全てが無駄に終わったとしても……今できることを諦めたくはない!!」
再び目の前に現れたプロメテウスは、微かに笑みを浮かべていた。これまでのような、自他に対する嘲りを含んだ笑みではない。花の種に芽が出たことに気付いたような、期待に満ちた表情をしている。
『……ならば、お前のすべきことは一つだ。この絶望の舞台で————希望を演じ抜け!』
「ああ————行くぞ、プロメテウス!!」
声を上げると同時に激しい炎が周囲を包み、千切れた鎖や逃げ去る鳥の幻影を全て呑み込んで焼き尽くした。自身を閉じ込めていた檻を軽々と破壊するように、プロメテウスの炎はあらゆる絶望の残影を跡形もなく消し飛ばしてゆく。
その凄まじい力に圧倒されているうちに、いつしか辺りの光が強くなってきていた。目覚めが近づいていることを直感する。プロメテウスの言葉が正しければ、意識を失う直前と同じ状況下で目を覚ますことになるだろう。この力で、今度こそ皆を助けなければならない。再び絶望の舞台へ戻るため、一歩を踏み出した。




