第二節——智慧の神 プロメテウス——
「あいつ……何かあったら許さねえからな!」
フォルスの声を遠くに聞きながら劇場を離れ、怪物を森の中までおびき寄せた。この辺りは昔から座長とよく遊びに来ていた場所だから、逃げるのには苦労しない。ここまで来たら、あとは上手く撒いてしまえば無事に帰れるだろう。
だが、相手はたまたま人里に下りてきた野生動物とは違う。今回は助かるからといって放っておけば、今後も襲撃に遭う可能性が高い。できることなら、今ここで元を断ちたい。しかし、そのために有効な手立てはない。木々の間を潜り抜けながら考えを巡らせていると、目の前に見慣れない建物の跡のようなものが散らばっていた。
「何だ、ここ……?」
よく見知った場所なのに、この光景は全く記憶にない。石で造られた壁を覆うように苔が生えている。見る限りでは、最近になって建てられたとは思えない。建物というよりは廃墟と言った方が正確な気さえする。こんなところにあの怪物を止められるような何かがあるとは思えないが、少し身体を休められるだけでも十分だ。怪物の気配が遠くなっていることを確かめてから、廃墟の中に足を踏み入れてみた。
中に入ると、入口のすぐ近くに掃除用具のようなものが置いてあった。しかし、最近使用されたらしい形跡はない。大方、手入れが追いつかずに放棄されてしまったのだろう。掃除用具から目を離して、昼にもかかわらず薄暗い一本道の通路を進む。その奥には広間のような大部屋があったが、家具や設備などは一切なく、何かの残骸のようなものが一つだけぽつりと佇むばかりだった。朽ちていて元の形は分からないが、どこか項垂れて座り込んだ人間のようにも見える。調べるために手を触れようとした瞬間、いきなり頭の中に呟くような低い声が流れ込んできた。
『ここに何の用だ』
「うわっ!!」
驚いて辺りを見回したものの、声の主が新たに現れたわけではなさそうだ。相変わらず、目の前の残骸と俺自身を除いて他に何もない空間が広がっている。信じがたいが、声はこの残骸が発しているものと考える他にないらしい。
「これ、お前が喋ってるのか……?」
『……そうだ』
「ああ、悪い。先にそっちの質問に答えるべきだったな」
『不要だ。私が話せることすら知らぬ人間が、特定の目的を持ってここに来るとは考えられないからな』
……ほんの少し話しただけだが、何か嫌な奴だ。しかし、彼はきっとこの廃墟のことをよく知っている。下手に怒らせて追い出されるより、素直に聞いてみた方が良いだろう。
「そういえば名乗ってなかったな、俺はリオン。アンリっていう座長のもとで演劇をやって……たんだ」
『……アンリ、か』
「知ってるのか?」
『知っているとも。私を裏切った人間の名だ』
語る言葉とは裏腹に、男の声は淡々としていた。人間というものにまるで興味がなく、どこか超然的なものさえ感じさせるような冷たい声。その冷たさを崩さぬまま、彼は言葉を続けた。
『私の名はプロメテウス。お前たちにとっての救いの神————そうなるはずだった存在だ』
「プロメ……テウス……!?」
これまで生きてきた中で、その名を何度聞いたか分からない。本当なら、今頃俺が舞台に立って演じていたはずの神。目の前の朽ち果てつつある残骸が、そのプロメテウスだという。とても信じられないが、自分の頭の中に声が響くなんてことが実際に起こっているこの状況で疑うのもまた難しい。
しかし、それなら座長が彼を裏切ったとは思えない。プロメテウスこそ、座長が最も敬愛していた神だ。それに、彼の声がひどく淡々としているのも気にかかる。プロメテウスは夜の寒さに凍える人間を救うため、ゼウスから火を盗み出した逸話を持つ神だ。そんな彼が、こんなにも冷たい姿勢を取っている理由が分からない。
『信じられないが信じるしかない、という様子だな』
「……ああ。でも、明らかに違うことが一つだけある」
『ほう、言ってみろ』
「座長……アンリは、最期までお前のことを敬っていた。裏切ってなんかいない」
『そうか。それでは何故、突然この神殿に来なくなった?』
その問いを聞いて、確信した。やはり座長はプロメテウスを裏切ってなんかいない。彼は、座長の身にあったことを知らないだけだ。長々と話し込んでいる場合じゃないことはわかっているが、座長の名誉のためにも誤解は解いておきたい。
「……病気になったんだ。それでここまで足を運ぶことができなくなった。そして、ついこの間……亡くなった」
『……そうか』
「病気で意識が朦朧としてたんだろうな、病室で寝たきりになってた時もずっと話をしてくれたよ。そんな状態になってもなお、プロメテウス……お前の話をしてたんだ」
プロメテウスのように、人類皆を救おうとする必要はない。そんなのは神様の仕事だから。俺たち人間は、ただ目の前にいる人を助ければいい。そうしていれば、プロメテウスもきっと人間を救って良かったと思ってくれるはずだ。俺を拾った時からずっと、座長はいつもそう言っていた。そんな彼が、当のプロメテウス自身に裏切られたと思われたままでいるのはあまりにも不憫だ。
『……話はそれだけか?』
プロメテウスからは、変わらず冷たい声だけが返ってきた。明らかに納得している様子ではない。かと言って、怒っているわけでもない。彼の心の中には、ただ悍ましいほど深い空洞が広がっているのだろう。それを埋めるための術を、俺は知らない。
「……ああ。俺にできる説明は全部したつもりだ」
『言うまでもないが、お前の話はどれも確かめようがない。仮に事実だとして、代理の者を呼ぶこともできただろう。その手間を惜しみ、死んでから裏切ってなどいないと言われたところで、疑念が晴れることはない。それどころか、生前の信心さえ疑わしいな』
「てめえ、黙って聞いてりゃ……!」
初めから嫌味な言い方をする奴だと思っていたが、座長が最も敬っていた神だからと我慢していた。だが、その座長のことを悪く言うのは許せない。声は随分と厳かだが、あくまで中身は目の前に転がっている残骸だ。もう、こんな奴に遠慮する必要なんかない。そう思って駆け出した直後、入口の方から石が勢いよく崩れ落ちる音がした。わざわざ見に行かなくても分かる。怪物が追いついてきたのだ。
「こんな時に……!」
『何だ、殴って来ないのか?』
「言ってる場合か、お前の神殿が壊されてんだぞ!」
神殿と言ったものの、その実ただの小さな廃墟だ。怪物との距離は、もうそれほど離れていない。俺の力だけでは、ここを守ることはおろか逃げることもままならない。全く気は進まないが、プロメテウスの力を借りるしかなさそうだ。
『それで……あれはお前が引き連れてきたのか?』
「……舞台に突然現れたから、観客と仲間を守るためにこの森まで引きつけてきた。姿は人間みたいだが、身体は大きいし、力は物凄く強かった」
『なるほど、確かに人間の身で正面から向き合う相手ではないな』
「……神の力でどうにかできねえか?」
プロメテウスは俺の言葉を聞いて、たちまち押し黙った。さっきまで殴りかかろうとしていた相手に助けを請うているのだから、当然だろう。だが、この状況でなりふり構ってはいられない。
『ふむ……このままではお前は死に、微かに残っているこの身もろとも私の神殿は壊される。それならば、協力して追い払った方が良い……そう言いたい訳か』
「そ……こまで考えてはなかったが、そういうことになるな」
『断る』
「はあ!?」
話すまでに一呼吸置きがちだったプロメテウスだが、この話には即答だった。まるで意図が分からない。単なる俺への当てつけだとしても、失うものが大きすぎる。
「待て、どういうつもりだ!?」
『そもそも、この交渉は成立していない。私が消えたくないと考えていることが前提にあるからだ』
「それって……今ここで消えてもいいってことかよ!」
『ああ。私はもう神としての責務を全うするつもりはない』
「なっ……!」
『人を救うのは、虚しいことだ。お前に力を与えて今この場を切り抜けたとしても、詮無きこと。人の身を逸する力を得たお前がその後どんな末路を辿るのか、手に取るように分かる』
呆れるように、あるいは嘆くように、プロメテウスはそう言った。これまで感情のなかったその声に、初めて色が見えた気がした。
『……まあいい。それでもお前が生き永らえたいというのなら、こんな神殿は捨て置いて逃避行を続けることだ。助けてやるつもりはないが、時間稼ぎの囮くらいにはなるだろう』
「そんなの……!」
怪物は既に眼前まで迫っている。これ以上、プロメテウスを説得する時間はない。あいつの言う通り、俺が助かる方法はこの神殿を捨てることだけだ。プロメテウスだって、自分が消えてもいいと言っていた。その提案を改めて押し付けるかのように、怪物は動かないプロメテウスの方を真っ先に狙った。その剛腕が、朽ちた神の身を打ち砕かんと唸りを上げる。
俺がこの一撃からプロメテウスを庇ったところで、何ができるわけでもない。怪物が再度腕を振るうまでのほんのわずかな間、あいつが消えるまでの時間が延びるだけだ。だから、こんな行為に意味はない。それでも、俺はプロメテウスの前に立たなければならなかった。そうしなければ、俺は生きていられなかったから。
『何……!?』
「ぎッ……があああああッ!!」
怪物の一撃を左腕に受けた瞬間、その周辺の感覚が消し飛んだ。劇場で受けた風圧とは比べ物にならない圧力がかかり、壁まで吹っ飛ばされて背中を打ちつける。視界が大きく揺れ、全てがぼやけて何も捉えられない。手足が残っているのかどうかさえはっきり分からない。そんな状況の中で、ただプロメテウスの声だけがはっきりと頭の中に響いてきた。
『何をやっている、本当に死ぬぞ!』
「……ああ、そうだな」
倒れたまま喋ってみるが、自分の声は聞こえない。鼓膜まで破れているらしい。急所を外した一撃だったにもかかわらず、即死していないのが不思議なほどの威力だ。プロメテウスに聞こえているかどうかも分からないまま、残った力を振り絞って言葉を続ける。
「でも、ここでお前を見捨てたら……俺の全てが嘘になっちまう」
『……ッ!』
ただ目の前の人だけを助ければいい。俺はそうして助けられたから、自分もそうして生きると決めた。かつて自分を生かしたその信念を捨ててしまえば、それは自分自身を殺すことに他ならない。
「俺は……お前みたいに、世界を救うなんて大層な力は持ってねえ。それでも……ただ、目の前の人を助けたい!」
聞こえなくても、発声の感覚で自分の声が掠れているのが分かる。たった一撃で瀕死に陥るような人間が目の前の人を助けるなど、とんだ夢物語だ。プロメテウスは無駄な行為だと嘲笑いながら、消えていくかもしれない。それでも、全力で叫んだ。座長の信じた神を信じて、最後の願いを届けるために。
「だから————力を貸せ、プロメテウス!!」
『……だろう』
今、何て言った?
プロメテウスの返答を確かめる間もなく、突然視界の端で炎が揺らめき始めた。それと同時に身体の力が抜けて、眠りに引きずり込まれるように意識が薄れてゆく。全身に激痛が走る中でそれに抗うことはできず、なす術なく意識を手放した。瞼が視界に幕を下ろした後も炎は消えず、暗闇の中を紅く彩っていた。




