第一歌 第一節——幕が上がる——
時が止まったように、静寂が辺りを覆い尽くしている。陽の光も当たらないような、狭くて暗い場所。そういう部分だけを見れば、ここもかつて自分がいた場所と大して変わらない。
だが、決定的に違うのは————ここにいる誰もが、希望を抱いていることだ。そばにいる仲間たちも、布一枚を隔てた向こう側にいる人たちも、そしてもちろん俺自身も。一人の例外もなく、これから始まる物語に皆が期待を寄せている。だから、俺はこの場所が好きだ。重苦しく張り詰めたこの空気さえ心地良く感じる。
「よう、リオン」
「うわっ……何だ、フォルスか」
「ははっ、流石のお前も緊張してるみたいだな」
「まさか。何回練習してきたと思ってんだ」
外に聞こえないように声を抑えながら、話しかけてきた仲間と軽口を叩く。もちろん、緊張していないというのは真っ赤な嘘だ。今この瞬間も向こう側で膨らみ続けている期待はまるで巨大な魔物のようで、意識するだけで足が竦みそうになる。
フォルスはそんな俺を見て、子どもを見守るような微笑を浮かべていた。歳の違いはせいぜい兄弟くらいのものなのに、彼は何故か父親のような振る舞いをすることがよくある。お互い半端な時期に出会ってしまったせいかもしれないが、今となってはかなり違和感がある。
「それにしても、お前がここに立つ日が来るなんてなあ……」
「いくら何でも感傷に浸ってる暇はねえだろ……ほら、始まるぞ」
父親面をやめないフォルスをたしなめて、役者と観客を隔てる布————緞帳に目を向ける。十数秒ほどの間に、緞帳は天井の方へゆっくりと巻き上げられて視界から消えてゆく。空間を仕切っていた境界が音もなく取り払われ、張り詰めた空気が一気に流れ込んで来るのを感じた。
幕が上がる。そして、皆が待ち望んだ物語が始まる。
『————女神よ、我らにかの神の物語をしてくだされ!』
雷の矢のような甲高く強い声が、劇場の静寂を一気に突き破る。いよいよ舞台が動き出した。今この瞬間から、俺たちはこれまで目を逸らしていた魔物と向き合わなくてはならない。皆さっきまでとは打って変わって、険しい表情を浮かべている。だが、フォルスだけは普段の調子を崩すことなく俺の肩を優しく叩いた。
「相変わらず、エイルの声はよく通るよなあ」
「おい、もう開演してるんだぞ」
「これぐらいじゃ聞こえねえから大丈夫だよ」
「全く……」
「まあ、お前も色々思うことはあるだろうが……難しいことは考えず、気楽にな」
刻一刻と出番が近づく中、返事を言葉にする余裕は既になく、頷きだけで返す。上演が始まっているのにわざわざ声をかけてくれたのは、彼なりの気遣いなのだろう。
思うことは、もちろんある。この公演は、俺が初めて主演を担う舞台だ。行き場のなかった俺を拾って育ててくれた座長への恩返しだと思って、これまでの舞台よりも一層真剣に練習を重ねてきた。しかし、いよいよ公演の日程が決まって間もないうちに、座長は病に倒れた。だからこの舞台は、一番届けたい人には決して届かなくなってしまったのだ。
それでも、俺たちは公演を実施することに決めた。座長......アンリという男なら、きっとそれを望むはずだから。
『凍てつく闇夜に怯える我らを救うため、雲を集める大神をも恐れず偉業を為した、かの智慧と希望に満ちた神の物語を!』
続く言葉を合図に、舞台袖から駆け出す。瞬間、舞台の魔物が牙を剥いた。劇場全体を渦巻く期待や関心が一身に降りかかってくる。舞台に立つこと自体はもう慣れたものだが、主演として背負う重みは今までのそれとは比べ物にならない。想像を遥かに上回る強大な魔物を前にして、息が詰まりそうになりながらも正面を見据えた。
俺がこの舞台で演じる役は、プロメテウス————異国の神だ。
座長は神話が好きだった。劇団を作って色々な場所を巡ってきたからか妙に詳しくて、俺も昔から御伽噺がわりに色々な神話を聞かされてきた。その中でも、彼が特に好んでいたのがプロメテウスだ。だから、俺が最初に演じる役に選んだ。
舞台に上がる自分の姿は、さっき鏡で確かめてみた。灰を被ったような白い髪に、海の底のように昏く光る蒼い瞳……他の仲間たちとは違う部分を見ると、俺は本来なら皆とは違う世界に生きる人間なのだと突きつけられているような気分になる。だが、それも今だけは都合がいい。普通の人間ではなく神を演じるのなら、このくらいはっきりと違っている方が分かりやすいというものだ。
結局、座長にこの姿を見せることはできなくなってしまったが、この役を選んだことを後悔してはいない。初めての大舞台にもかかわらず、その重圧に真っ直ぐ向き合えるような気がするのは、きっと彼の敬愛していたプロメテウスを演じているからだ。
『————』
全ての観客の目線が、一点に集まる。人気劇団"灯火一座"の座長、アンリがこの世界に遺した最後の役者。そしてこの舞台の主演……俺の姿を見た観客たちが、リオンという人間に対してより一層はっきりと期待を持ち始めたのを感じて、元々動きの悪かった足がさらに竦む。
極度の緊張の中、最初の台詞を発するために息を吸い込んだその時、突然観客席の方から轟音が響いた。
「なっ……!?」
急な物音に驚いて視線を移すと、客席の壁が破壊されているのが目に映った。辺りを覆う土煙の向こう側に、何かの影がうっすらと浮かび上がっている。大まかな輪郭だけは人間のようにも見えるが、遠目に見ても明らかに身体の大きさが違う。それはまさしく————怪物と呼ぶべき異形だった。
俺よりもずっと近くでこの異常事態を目の当たりにしているはずなのに、観客席の大部分は不気味なほど静かだった。その理由も分からず立ち尽くしていると、舞台袖から突然フォルスが飛び出してきた。俺が声をかけて止めるよりも早く、劇場全体に彼の怒鳴るような声が響く。
「あれは演出じゃねえ、全員今すぐ逃げろ!」
その言葉を聞いて、観客席が静かだった理由がようやく分かった。彼らはあの化け物を舞台演出の一環だと捉えてしまっていたのだ。考えてみれば、それも当然だった。そもそも、舞台は観客に非日常を届けるために作られたものだ。そこで何か異常が起こったとしても、それが自分自身に降りかかってくることはきっとない。彼らはそう思って、すぐに動き出そうとしなかったのだろう。フォルスはその考えを見抜き、声を上げることでそれを粉々に打ち砕いたのだ。
観客たちは慌てて立ち上がり、大波のように出入り口の方へ押し寄せた。付近に立っていた警備員たちが必死に誘導を試みるも、ほとんど効果はない。一瞬にして変わり果てた目の前の光景に理解が追いつかないまま、エイルに手を引かれて走り出した。彼女も俺と同じようにさっきまで舞台に立っていたはずなのに、俺よりもずっと動き出すのが早い。
「エイル、そのままリオンを頼む!」
「フォルスはどうするの?」
「大丈夫だ、全員の避難が確認できたら俺も逃げる」
「……わかった、無理しないでよ!」
体勢を立て直す余裕もなく、エイルに引きずられるようにしながら出口へ向かって走り続ける。その最中、ふと後ろを振り返った時、一つの人影が目に飛び込んだ。警備員が一人だけ雑踏から外れて、怪物の正面に立っている。観客の誘導に気を取られて、自分は避難できなかったのだろう。恐怖で言葉を失い、到底効くとは思えない警棒を逃げ腰になりながら振り回している。
「エイル、あれ……!」
「フォルスが何とかしてくれるから、今は逃げることだけ考えて!」
エイルはそう言うが、フォルスだけでこの状況を解決できるとは思えなかった。ただの暴漢とは訳が違う。立ち向かうことが死を意味するのが、俺にもわかる。あの警備員を助けるには、エイルが俺にしてくれたように彼のもとに駆けつけ、一緒に逃げるしかない。そのための隙を作ることぐらいなら、俺にもできるはずだ。
「……悪い!」
「ちょっと、リオン!」
エイルの手を振り払って、警備員のもとへ駆け出した。千人近く入れるような大きい劇場だが、客席にもかなり空きができていたので、人波に呑まれなければ戻るのは難しくない。空いた客席を跳び移って、怪物の眼前まで一息に差し迫る。そのまま背後から警備員の襟首を掴んで引き寄せ、まずは一歩退いた。
「リオン、お前何やってんだ!?」
「こいつは俺が引きつける! フォルスは他の観客を————」
言い終わらぬうちに、怪物が吼えかかるように絶叫しながらこちらへ駆け寄ってきた。見かけによらず、かなり速い。歩幅の差も相まって、警備員を連れたまま避難するのは難しそうだ。彼を出口の方へ突き飛ばすようにして放り出し、怪物が振るった腕の一撃をどうにか躱す。一切当たっていないはずなのに、風圧だけで身体が自ずと三歩退がった。熊か何かと対峙しているのかと錯覚するような凄まじい威力だ。決して正面から受けていいものではないと全身で実感する。
「ッ……!」
「そこで待ってろ、今行く!」
フォルスの声が聞こえたが、従うつもりはない。座長に拾われただけの俺と違って、フォルスにはエイルがいる。危険な相手だと身をもって分かった以上、尚更彼を近づけるわけにはいかない。それに、怪我をしたわけではないから身体の動きも鈍っていない。俺一人なら、人の少ない街はずれの森まではどうにか逃げられるだろう。
「来い、こっちだ!」
「おい、聞こえなかったのかよ!」
叫ぶフォルスに構わず、近くの客席から回り込むようにして怪物の脇を抜け、背後を取った。そのまま奴がさっき壁に空けた穴から劇場の外に出る。怪物が俺を追ってきているのを見てから、森へ向かって走り出した。
「フォルス、リオンは!?」
「……すまん、止められなかった。悪いがこっちの後始末は頼む」
「そんな……!」
「あいつ……何かあったら許さねえからな!」
既に遠のいた劇場から、微かに漏れた声が聞こえる。予想はしていたが、やはりフォルスも追ってくるようだ。怪物をフォルスに近づけないために劇場を離れたのに、彼がこちらに来たら本末転倒だ。歯噛みしながら逃げる足をさらに速め、まずは目指していた森まで辿り着いた。




