第2話 余香
「どう? 温まった?」
翔の少し低くて甘い声が、耳元で弾ける。
手水舎の冷たい水の感触は、暖かい翔の手に包まれて、もうどこにもいなくなっていた。
「……まだ」
葵は顔を上げられず、視界の端で翔のロングコートの裾を見つめる。
「そっか、今日は欲張りさんなんだね」
翔の手のひらに僅かに力が入るのが分かった。
私は逃げるように手を離す。
「翔……冗談だよ、もう大丈夫…だから」
笑って誤魔化すと。
「そっか…」と優しく微笑んだ。
手が離れる瞬間、
翔の指は少し名残惜しそうな表情をしていた気がした。
二人はゆっくりと本殿への列に並ぶ、私は翔の右を歩く。
その一歩一歩が、まるで特別な約束を交わしているような錯覚を私に与えた。
やがて順番が巡ってきて、私たちは賽銭箱の前に並んで立つ。
お賽銭を投げ入れると私は目を閉じ、胸の前で手を合わせる。
――どうか、この人の隣にずっと居られますように――
隣に立つ翔からは、静かな衣擦れの音と、
微かに甘いムスクの香りがする。
「……どう?お願いできた?」
不意に声をかけられ、私は慌てて目を開ける。
翔はもうお祈りを終えていて、優しく私を待っていた。
「どんなお願いしてたの、随分熱心だったけど…」
小さく笑う翔の姿に思わず喉を鳴らしてしまう。
「……内緒だよ。翔こそ、何をお願いしたの?」
「俺? 俺は……葵ちゃんの願いが叶うように、ってお願いしておいたよ」
またそうやって、
背伸びしても追いつけないような場所に行く。
いつも、私の頭を撫でるような、そんな距離を取る。
でも、今日の私の手には、まだ彼の熱が残っている。
その熱があるから、私は今日こそ、
その言葉を「愛着」以上の意味で受け取ってもいいんじゃないかって、傲慢な希望を抱いてしまう。
「それじゃあ、おみくじでも引いて帰ろうか…」
参拝を終え、冬の乾いた空気の中で私たちは同時におみくじを引いた。
お互いが結果をじっと見る、沈黙が二人を優しく包む。
「……翔、翔のも見せてよ」
自分でも驚くほど、弾んだ声が出た。
「いいよ」
翔は事もなげに自分の紙を差し出した。
代わりに、私のそれを指先で器用に奪い取る。
――その瞬間。
私たちの指がまた触れ合う。
指先から、翔の温度を感じる前に、私の心臓が跳ねる。
翔の香りが、私の意識を強く揺さぶって、
視界を白く曇らせていく。
この距離と、体温が
今日は何かが変わることを告げている気がした。
翔は私の結果に目を落として、柔らかく口角を上げた。
「縁談……『早ければ成る、誠意を尽くせ』、か。いいこと書いてあるじゃん、葵ちゃん」
「翔のは?」
「俺? 俺のは…」
私の手元にある翔の結果を二人でのぞき込む。
急に横顔が近くなる、
動けば肩が触れるほどに――
翔の長い睫毛に視線が奪われた。
睫毛の先に光が当たる。その光は私の網膜の奥を焼く。
胸が高鳴って、周りの音を攫っていく。
翔の呼吸の音が私の鼓膜に張り付いていた。
胸の中は居心地が悪く、
私の居場所はどこにもなくて大人の香りが肺を埋めいく。
「『待ち人――来ず』、だって。まあ、そんなもんだよ」
おどけるように笑っていた翔、
興味なさそうに自分の結果をポケットに突っ込む。
そして、私の「縁談」の項目を指先で一文字、一文字をなぞった。
「そっか…じゃあ、葵ちゃんがそれくらい『尽くせる』彼氏を見つけなきゃね」
――え?
心臓が、氷水をかけられたみたいに一気に冷えていく。
私が「尽くせる」相手は翔だけなのに……
手に残っていた翔の温度が離れていく。
それは、
笑顔のまま差し出された、動きようのない事実だった。
周りの音が離れていって、空気が一段重くなる。
僅かに目頭に熱を帯び、視界が滲んで光を暈す。
ずっと隣を歩いていると思っていた。
ヒールを履いて、背伸びをして、
同じ目線で笑い合っていると思っていたのは私だけ。
翔は最初から、私が一生かかっても届かないような、もっと高い場所から私を「可愛い存在」として見下ろしていたんだ。
「……っ、そんなの、まだ先の話だよ」
必死に声を絞り出す。
視覚が冬の光を滲ませて、輪郭を歪ませようとする。私は奥歯を噛み締めて堪える。
「そう? もう大学二年生でしょ?
俺も、こんなに可愛い妹に彼氏ができたら、さすがに寂しいけどさ」
――妹。
翔が、一歩踏み込んでくる。
彼はその大きな手で、私の頭を優しく、
子供をあやすようにポンポンと撫でた。
そして、その手をそのまま滑らせて、私の頬を包み込む。
「……ちゃんと、葵ちゃんに相応しい奴か、俺がチェックしちゃうかもな」
慈しむような顔をした、独占欲に満ちた仕草。
そこにあるのは、女としての私への熱ではなかった。その熱は、私を飼い慣らす男の余裕――
頬に添えられた手のひらから、
彼の体温がじわりと流れ込んでくる。
その温度が、これ以上の関係はないと、
この場に縛り付けるような表情を浮かべ、鎖に変わる。
嬉しいはずのに、狂おしいほどにまで息苦しい。
翔は、全部わかっているんだ。
私の覚悟も、熱も、その勘違いまでも――
すべてを理解した上で、
彼はこの慈愛のような優しさを使って、
私を、ただの幼なじみという場所に押し留めた。
昏い胸の奥に、ぼとりと何かが落ちる音がした。
白く儚い花弁が、首元から散るように――




