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第1話 微熱

「お母さん大丈夫?」

母が高熱で寝込んでいた、元旦早々に。


毎年、(かける)の家族と一緒に初詣に行くのが

通例だったのに、今年は違う——


(あおい)、大丈夫。あなただけでも初詣行っておいで。毎年初詣を楽しみにしてるでしょ」


掠れた声が空気を一つ押し下げた。

「でも……やっぱりお母さんが心配で…」


自分の想いは、

そっと胸の奥に仕舞っても良かった。

ただ、目の前のことに目を伏せ、自分だけ良ければと心が囁くのを許せなかった。


『いいよ、家にいるよ』と、言おうと息を溜めた時、家のチャイムの音が目の前を通り過ぎる。


「ほーら、翔くん来たわよ、しっかりね」

 

そう言って部屋のドアを閉める母。

居場所を失ったかのようにリビングに向かうと、

香ばしい珈琲の香りが満ちていた。

父はソファに腰を掛け、正月特番を見て珈琲を飲んでいた。


「……ああ、葵、

俺が母さんといるから行ってきなさい」


そう言ってまた一口、湯気のたったマグを傾ける。


この父に、なんだか仕組まれたような、

そんなことを邪推する。


私はこうして、

家に居るための理由を片付けられてしまった。


鏡の前で最後のチェック。


ちょっと気合い入れたメイクは濃くなったし、

前髪は決まらなかったし、

ハーフアップにしたのもなんだか痛い。

しかもお団子にして、白いシュシュとか……

ちょっとやり過ぎかなと思う。


きっと今日も上手くいく。

そう思いたくて、シュシュに一滴だけ願いを落とす。


買ったばかりのチャンキーヒールのショートブーツに、玄関の冷えを重ね、不安を冬の空気へと溶かす。


うん、多分可愛い。

――頑張ろう。


ドアを開けると、冬の冷たい風が玄関に吹き込んできた。


暖かい部屋の空気は、私と同じように居場所を失うみたいに、乾いた空気に押し出されて外へ逃げていく。

 

門扉のそばに立つ影。


仕立てのいいロングコートに、黒のハイネック。

引き締まったシルエットに長めのセンターパートの黒髪。

風に揺れる前髪からは、切れ長の目元が覗く。


その、佇まいは近寄り難い雰囲気があった。

だけどこの人は自分から近付いてくる。

残酷なまでに私のテリトリーに踏み込んでくることを私は知っている。

 

彼は、私の十九年の憧れそのものだった。


「お待たせ。……あれ? 翔、おじさん達は?」

慣れないヒールに戸惑いながら、よろけそうになって聞く。


翔はゆっくりと顔を上げ、私を翔の瞳が捉えると、ふっと口角を上げる。

 

「――おお、目が合う高さになったんだね」

クスクスと笑う翔。

私のことをまるで子供に言い聞かせるような甘い声だった。


彼はそのまま、

私の逃げ道を塞ぐように一歩距離を詰めてくる。

 

「可愛いじゃん。なに、今日のために、

おめかししてくれたの? 」

 

翔の指先が、白いシュシュを一瞬だけ弄ぶ。

コートの奥からムスクの香りがふんわりと漂う。

 

父からはしない、男の人の匂いだった。


目の奥を痺れさせるその香りに、

私の心臓は本来のリズムを忘れたように拍動した。


「……っ」

私の顔が熱を持つ。


「気づかないと思った?」

翔の視線は、私の髪、目元をゆっくりなぞるように移る。

口元まで降りた時に、翔は少し息を吸った。


「今日の葵ちゃんは……大人っぽくて可愛いよね。」

柔らかく優しい表情は私の胸の奥を絞るように掴む。

 

その、冗談めかした口調は、私を対等な女ではなく、

掌で踊る愛玩的な存在として見つめている気がした。


「あー、そうだ、親ならちょっとね。

先行ってていいって。葵んちこそ、おばさん達は?」


「そうなんだ……ウチはー…風邪で寝込んじゃって。一人でも行ってこいって、追い出されちゃった」

私は苦々しく笑ってみせる。


「そっか――じゃあ折角だし行こうか。二人で」


会話も心も、主導権はすべては彼のものだった。

 

期待して、浮き立って、頑張っても追いつけなくて。苦いけど心地いい距離感。


私はいつも、彼の一歩後ろを歩く。


でも今の視界は、いつもより八センチ高い。

その八センチは、彼に追いつくための積み重ねた一歩。


私はいつもより背筋が伸びた。


翔は「そうだ…」と言って私の方を見る。


「折角だし、並んで歩いてよ」

私は軽く頷いて、翔の肩に並ぶと、ふわりと漂う男の人の香りが私の頭の中を埋め尽くす。

 

誰の介在も許さないほどに。


「そのヒール、可愛いよね。似合ってる。

大人っぽくて俺は好きだな」

ニコリと笑うその笑顔が私の体を縛り付けた。


「色んな女の子に言ってそう」

私がポツリと呟くと、笑う翔。


「葵ちゃんの想像におまかせするよ」

そう言って流されてしまう。


翔は、葵の歩幅に合わせて歩く。

触れ合うくらいに近づく二人の肩。

不規則に鳴るヒールの音が、私の鼓動をかき消していた。


この距離がずっと続けばいいのに。

そんな声が私の中を駆け巡っていて、

神社までの道程を、私はあまり覚えていなかった。


神社に着くと、手水舎(ちょうずや)で彼がわざとらしく呟く。

「あー……そっか、清めなきゃね……。

ハンカチ忘れちゃった」


私はそっと自分のハンカチを翔に手渡しする。


彼は、差し出したハンカチには目もくれず、

私の瞳を覗き込んで言う。


「そう言ったら貸してくれるかなって…」

翔の表情は、イタズラな笑顔を浮かべていた。

いつも私はその思わせぶりな態度に弄ばれる。


「――ん、ありがと」

そして私が返事をする間も与えてくれない。


彼は私の手からハンカチを受け取る。

その時私の指に、ムスクの香りが絡みつく。

私の指をなぞる様に、その香りはハンカチを奪い取った。


翔の指が当たると、私の心臓が跳ねる。

呼吸が浅くなり、周囲の空気が薄くなって、

陽の光と混ざって二人の間に落ちる。


私の胸の奥に居る、冷静な私を追い出すように、何かが膨らんでいた。


「ね、水…冷たいよね」

やっとの思いで言葉だった。


それなのに、

「手冷たくなった? じゃあ、温めてあげようか?」なんて冗談めいた音に


「翔はいつもそんな事ばっかり言って揶揄うよねっ、本気でそう思ってるなら…温めさせてあげてもいいよ」

なんて言い返すと――


「仕方ないね」と甘い音を立てて、

私の指を翔の大きな手が包みこんでくる。


私は振り払うこともできず、熱を帯びる顔で、足元の石畳をただ見つめることしか出来なかった。


この一言を真に受けて、私は幸せだと思ってしまった。冗談だと、疑いたくはなかった。


今日は何かが変わりそうな、

そんな期待をしてしまう。


胸の中に翔の香りが居座っていた。

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