第19話 影の峡谷と、記譜士との再会
峡谷を抜ける頃には、俺たちの足取りは重かった。
壁に刻まれた黒い譜面は消えたが、耳の奥にはなお旋律の残響が残っている。
鼓動と重なり、ひとつの曲のように響き続けていた。
「……まだ、響いてる」
リュミナが顔をしかめる。
「人の心にまで旋律を残すなんて、記譜士の術は想像以上ね」
カイルは符を改良しながら必死に言った。
「符に“逆位相”を組み込めば、少しは消せるはずです! ……ただ、持続は短いけど」
セイルは黙ったまま外套の裾を払う。
「記譜士は近い。旋律が濃くなっている」
ノコが低く唸り、尾を逆立てた。
*
峡谷の奥――そこは異様な場所だった。
岩壁が自然の形をしていない。まるで巨大な楽譜を模したように、段差や割れ目が規則的に並んでいる。
風が吹き抜けるたびに音が響き、谷全体がひとつの楽器のように鳴った。
「ここが……影の峡谷……」
リュミナが囁く。
「記譜士が旋律を刻む舞台だ」
セイルの声は低い。
その中央に、一人の影が立っていた。
白い仮面。長い杖。
――記譜士。
「来たか、補助師」
仮面の奥から響く声は、谷全体に反響する。
「お前の糸は確かに美しい。だが、旋律は糸で縫うものではない。響かせ、完成させるものだ」
「完成させれば、人は喰われるだけだ」
俺は睨み返す。
「俺は縫う。人の声と影を繋いで、新しい布を作る」
記譜士が仮面を傾け、杖を振った。
峡谷の岩壁に再び譜面が刻まれる。
無数の音符が黒い炎となり、空を覆った。
「試してみるがいい。お前の糸が、この旋律に勝てるかどうか」
*
影の旋律が響いた瞬間、兵士たちの膝が折れた。
村人は耳を塞ぎ、子どもは泣き叫ぶ。
幻覚が視界を侵し、仲間同士が敵に見え始める。
「くそ……!」
俺は符を切る。
「《補環・耳縫い結界》《補環・心縫い結界》!」
光の糸が仲間の耳と心を縫い止める。
だが旋律は強く、糸は次々にほつれていく。
リュミナが必死に祈りを続け、カイルが符を重ねる。
「アレンさん! 僕の逆位相符を合わせて!」
「任せろ!」
俺とカイルの符が重なり、旋律を打ち消す波が走る。
一瞬、谷の空気が澄んだ。
だが、記譜士は仮面の奥で笑った。
「なるほど。縫うだけでなく、響きも操るか。ならば――二重奏だ」
杖を振ると、二重の旋律が重なり、頭蓋を揺さぶるような音が広がる。
兵士が再び倒れ、俺の膝も揺らいだ。
(持たない……!)
その時、セイルが影の符を掲げた。
「《影縫止め》!」
黒い鎖が旋律を絡め取り、一部を封じる。
俺はその隙を逃さず、血で印を刻んだ。
「《補環・大縫止め(グランド・ノット)》!」
光と影の糸が絡み合い、旋律の譜面を縫い裂いた。
轟音と共に谷が震え、記譜士が仮面を押さえて後退する。
「補助師……やはりお前は“異端”だ」
低い声が反響した。
「だが旋律は止まらぬ。次は“合奏”だ」
記譜士は闇に溶け、姿を消した。
*
戦いの後、谷に沈黙が戻った。
だが俺たちの胸には、重い余韻が残っている。
「次は……もっと大きな戦いになる」
俺は拳を握る。
「旋律を合奏する者たちが現れる前に、縫い目を広げなければ」
リュミナが頷き、カイルが符を握りしめ、セイルが外套を翻す。
ノコが吠え、谷に声が響いた。
影との戦いは、ますます深く広がっていく――。