第17話 黒い市と、影を求める者たち
影の符を縫い止めてから数日。
砦の兵や村人の間で「補助師が影すら縫った」という噂は広がり、人々の眼差しは希望と畏れの入り混じったものに変わった。
だが、安堵は束の間だった。
セイルがある夜、焚き火の前で低く告げた。
「この辺境に“黒い市”が開かれる。影の都の商人が、瘴気を道具として売買する闇市だ。調律師の手先も必ず来る」
リュミナが眉を寄せる。
「瘴気を……売買?」
「人の影を刻んだ符、瘴芽の欠片、影喰いの骨。そうしたものを、力を求める者たちに流す。瘴気を力と見る者が後を絶たないからだ」
カイルが震える声で言った。
「そんなものが広まったら、世界中が……!」
俺は立ち上がった。
「その“黒い市”を潰す。放置すれば、瘴芽どころか人そのものが影に喰われる」
*
黒い市は、森を抜けた峡谷の奥にあった。
夜明け前、篝火に照らされた洞窟には、奇妙な仮面をつけた商人や、得体の知れない客がひしめいていた。
骨を磨いた笛を売る者、瘴芽の粉を小瓶に詰める者、影を封じた鉄鎖を差し出す者……。
人の欲望が、ここでは瘴気と同じ臭いを放っていた。
「ここが……」
カイルが息を呑む。
セイルは外套を深くかぶり、声を潜めた。
「騒ぐな。監視が多い。まずは調律師の手先を探せ」
リュミナが警戒の眼を周囲に走らせる。
「どれもこれも怪しい顔ばかり……」
俺は足を止めた。
人混みの向こう、白い仮面を被った者が立っていた。
調律師の使う“記譜士”――旋律を記録する従者だ。
「見つけた」
俺は符を握る。
*
だが、その瞬間。
市の中央に置かれた石板が赤黒く脈動した。
瘴気の波が広がり、客たちがどよめく。
「次の入荷だ!」
「瘴芽の欠片だ!」
仮面の商人が叫び、布を外す。
そこにあったのは――瘴芽の心臓。
昨日砕いたはずのものに酷似していた。
「なっ……!」
リュミナが目を見開く。
「瘴芽はひとつではない。無数に芽吹いている」
セイルが低く呟く。
記譜士が杖を掲げ、石板に旋律を刻んだ。
瘴芽の心臓が脈動を強め、影が市全体に溢れ出す。
「くそっ、罠か!」
俺は符を切り、叫ぶ。
「皆、声を合わせろ! ここで縫い潰す!」
*
黒い市は戦場と化した。
影喰いが客に襲いかかり、商人が悲鳴を上げる。
兵士でもない者たちが次々と倒れ、混乱が広がる。
俺は符を放ち、印を重ねた。
「《補環・声縫い》!」
リュミナが祈りを響かせ、カイルが符を連結する。
セイルは影の符を投げ込み、黒い鎖で瘴気を縫い留める。
声と祈りと影の糸が重なり、市を覆う黒い波を押し返していく。
「まだだ……!」
俺は血を噛み、最後の符を刻む。
「《補環・影光縫合》!」
光と影の糸が交わり、瘴芽の心臓を貫いた。
轟音と共に、心臓は砕け散る。
黒い市を包んでいた瘴気は、霧のように消えた。
*
静まり返る洞窟。
人々は呆然と立ち尽くし、誰かが小さく拍手をした。
やがてそれは波のように広がり、歓声に変わる。
だが、記譜士の姿は消えていた。
調律師の影は、再び深く潜ったのだ。
「これで……黒い市は散った」
セイルが言う。
「だが、またどこかで開かれるだろう。影を欲する者がいる限り」
俺は拳を握った。
「その度に縫い潰す。人の声で、必ず」
ノコが吠え、仲間たちが頷いた。
影との戦いは終わらない。
だが、今日もまた一つ縫い目を刻んだ。