第16話 影の符と、新たな試練
セイルが差し出した黒い符は、冷たい気配を放っていた。
指先で触れた瞬間、まるで氷の針が皮膚を刺すような感覚が走る。
それは瘴気とは違う。もっと静かで、もっと深い――人の心の底に沈む影そのものだった。
「これが“影の符”か」
俺は低く呟いた。
「扱いを誤れば、お前自身を喰らう」
セイルの声は淡々としていた。
「だが使いこなせば、瘴芽を封じる力になる」
リュミナが険しい目で睨む。
「そんなものに頼るなんて……危険すぎるわ」
「危険だからこそ、縫うんだ」
俺は符を握りしめる。
「影を切り離すのではなく、縫い合わせる。そうすれば力になる」
カイルが不安げに言った。
「アレンさん、本当に……大丈夫なんですか?」
「補助師はもともと、人の光と影の両方を縫う仕事だ」
俺は自分に言い聞かせるように答えた。
*
翌朝、俺たちは森の奥にある古い祠へ向かった。
そこはかつて地脈を鎮めるために建てられた場所だが、今は苔むし、石像は崩れかけている。
「ここなら試せる」
俺は符を取り出し、地面に置いた。
セイルが口元を覆った布を少し下ろし、淡々と告げる。
「影の符は“影主”を呼び出す。そいつを縫い止められれば、制御は可能だ」
「影主……?」
リュミナが眉を寄せる。
「瘴気の副産物。人の影が形を得たものだ。お前自身の影が選ばれることもある」
カイルが青ざめた。
「それって……つまり自分自身と戦うかもしれないってことじゃ……」
俺は短く頷いた。
「縫う価値はある」
*
符を割った瞬間、黒い靄が噴き上がった。
祠の周囲に闇が広がり、地面に影が滲む。
やがて、それは人の姿をとった。
――俺自身だった。
血に濡れた包帯、疲れた目、震える指。
「補助は無駄だ」と言われた日の俺が、そこに立っていた。
「……これが俺の影か」
影の俺が嗤う。
「お前はただの繋ぎ糸だ。誰にも認められず、勇者の陰で消えるだけだ」
胸の奥が疼く。
リュミナとカイルが心配そうに俺を見る。
「違う」
俺は低く言った。
「確かに、俺は陰の糸だ。だが、その糸があるから布は形を成す」
符を掲げ、血で印を刻む。
「《補環・影縫止め》!」
光の糸が闇を貫き、影の俺を縫い止める。
影は抵抗し、呻き、やがてほどけるように消えた。
残ったのは、掌の中で静かに光る黒い符。
冷たさはあるが、先ほどのような棘はない。
「……縫えたな」
セイルがわずかに目を細める。
「影を制御した補助師。お前は本当に稀有な存在だ」
俺は符を見つめ、深く息をついた。
「これで……瘴芽を封じられる可能性ができた」
*
夜、焚き火を囲む。
カイルが興奮したように言った。
「アレンさん、あんな術、初めて見ました! 自分の影を縫い止めるなんて……!」
リュミナは少し不安げだった。
「でも、無理をしているように見えたわ」
「無理はしていない。ただ……縫った痕は残る」
俺は拳を握る。指先はまだ冷たい。
ノコが寄り添い、温もりを与えてくれる。
(影も糸にできる――それは希望だ。だが同時に、俺自身を削る戦いになる)
遠くでフクロウの声が響く。
焚き火の光と影の境目で、俺は新しい試練を覚悟した。