第1話 追放された補助師、辺境行き
石畳の大通りに夕焼けが落ち、塔の影が伸びる。王都の冒険者ギルドは今日も酒と武勲と罵声で煮え立っていた。
その真ん中で、俺はひとつの言葉を渡される。
「――アレン、お前はここまでだ」
言ったのは勇者レオン。金髪が燃えるように赤く染まり、剣の柄に映る自分の顔を見もしない。周りには剣士ガイル、魔導師ミレイユ、聖職者セラ。三年を共にした仲間たち。
受付嬢が一瞬眉を寄せたが、すぐに慣れた笑みに戻った。「解散手続き、ですね」
「……理由は?」
俺は淡々と聞いた。胸の奥で、何かが固くなったのを自覚しながら。
「簡単な話だ」ガイルが笑い飛ばす。「お前は攻撃も回復も平均以下。できるのは補助だけ。それも地味で、見栄えが悪い」
「補助は、誰でも魔道具で代用できるわ」ミレイユがつま先で床を鳴らす。「最近の市販の『迅速の腕輪』や『集中の耳飾り』のほうが、よっぽど安定してる」
「それに……」セラは言いづらそうに袖の端を握る。「この前の古竜戦、わたしたちが傷だらけだったのに、アレンは最後まで一歩も前に出なかった。村の人は、怯えてたって……」
俺は目を閉じ、呼吸を整えた。
前に出なかったのは、彼らが崩れないために、見えないところで準備を重ねていたからだ。詠唱をずらして、効果の山をタイミングに合わせて積み上げる。相手の魔力波形の乱れに、自分の式を合わせて干渉する。
だが、説明したところで伝わらないのも知っている。
「……わかった。解散書に署名する」
紙の上で、ペン先が乾いた音を立てる。
レオンは最後まで、俺を見なかった。
ギルドを出ると、外の空気は意外なほど澄んでいた。心に穴が空いた感じより、むしろ、肩に乗っていた重りが落ちたように軽い。
王都の喧騒が背に遠のく。俺は旅装の紐を締め直し、北へ向かう馬車の荷台に乗った。
(――もう、誰の期待も背負わなくていい。育てた薬草で暮らし、朝は鳥の声で目覚め、夜は丸太小屋で眠る。そういう生き方でいい)
俺の職能は「補助師」。攻撃でも回復でもない、仲間を強化する役割。
ただし、俺の補助は少しだけ、仕組みが違う。
一般的な補助は、効果を一つ上塗りして終わりだ。しかし俺の補助は、効果を重ねる。式と式を連ね、相殺と増幅を織り交ぜ、臨界直前で止める。
見た目には地味だし、説明したところで半分は通じない。だからいい。山の端で、ひっそり畑を見ていればいい。
王都から三日。馬車は森を抜け、丘陵に開けた小さな集落へ入った。看板には「ブレイ村」とある。畑が一列に並び、土の匂いがする。
御者台から声が飛んだ。「降りるのはここかい?」
「ああ。世話になった」
荷台から降りたとたん、犬が一匹、尻尾を振って駆け寄ってきた。白と茶の斑。
しゃがむと、犬は頭をこつんと押しつけてくる。俺は笑って耳の後ろを掻いた。
「新顔さん?」
振り向くと、藍の作業着の少女が立っていた。麦色の肌、額で短く切った髪。両手に鍬。
「うち、村長の孫のコレット。あんた、旅の人? 泊まるとこ、ある?」
「見ての通り、ない。よければ、空き家でも」
「空き家はあるけど……いま、村、ちょっと困ってんの。水車が壊れた。粉挽きが止まって、小麦が残ってる。ついでに昨日から森に変な声。夜になると、山が泣いてるみたいで」
コレットは、肩からぱたりと鍬を下ろして、顔をしかめる。
「山が泣く?」
「うん。『泣き丘の精』だとか『首なし鹿』だとか、古い言い伝えがあるんだけど、そんなの聞いたの初めて。みんな怯えて、畑に出られない」
「水車と、森の異音。……見てみよう」
「えっ、いいの?」
「俺は補助師だ。壊れたものを動かすのも、怯えた心を宥めるのも、やり方はある」
コレットはぱっと表情を明るくした。「じゃ、こっち!」
村を横切る小川は、春の雪解け水を集めて勢いがある。岸には苔むした水車小屋。軸がずれて、水が羽根を空回りさせていた。
俺は軸に手を当て、目を閉じる。木、鉄、麻縄、苔。素材ごとに簡易式を重ねて強度を仮補修する。力をかけず、効果だけで支えるのがコツだ。
「《綴環》」
きしみが一瞬止み、羽根が水を掴む。ぎこちなくも、車輪が回転を取り戻した。
コレットが目を丸くする。「すご……。でも、それ、魔法? 見たことない」
「応急だ。夕方には切れる。正しく直すには、軸を削り直して、縄を換える必要がある。村に工具は?」
「あるけど、腕がない……」
「なら、教えるよ。皆を呼んで」
ほどなくして、村人が数人集まった。日焼けした手。慎重な目。
俺は手順を言葉にして渡す。軸の歪みを確認する方法、縄の撚りを締める方向、羽根の角度の合わせ方。補助式で一時的に力を乗せ、小さな体でも持ち上げられるようにしながら、彼らの手を動かす。
「こうして、こう。はい、一度止めて。深呼吸。焦ると怪我をする」
汗をぬぐう指の震えが次第に収まって、笑い声が増えた。
夕陽が水面を赤く染めるころ、水車はようやく本来の音を取り戻した。ごうん、ごうん。頼もしい音。粉挽き小屋の窓から、小麦の香りがふわりとこぼれる。
「助かったよ、兄ちゃん」
白髭の老人――村長だろう――が背中を叩く。「礼は言葉だけで悪いが、泊まる場所なら用意できる。古い小屋だが、屋根は雨を通さない」
「十分だ。ありがとう」
「ただ……夜の声は気味が悪い。日が落ちる前に鍵をかけな」
夜の声。俺は空の色を仰いだ。藍が深くなる。
案内された空き家は、村の外れの斜面にあった。丸太の壁。干した薬草の匂いが薄く残る。
荷を下ろし、枕と毛布を整え、窓の釘を確かめる。
犬がついてきて、足もとで丸くなった。さっきの白茶だ。勝手に帰る気はないらしい。
「お前、名前は?」
犬は尻尾を振るだけで答えず、代わりに低く一回、吠えた。
外の森で――応えるように、何かが鳴いた。
……泣き声だった。
赤子のようでも、鹿の鳴き真似のようでもない、湿った音だ。風が運ぶと、壁の外皮がぴりぴりと震える。
犬が立ち上がり、唸り声を喉にかすかに挟んだ。俺は犬の頭に手を置いて、「大丈夫」と言うかわりに、指先で小さな印を切る。
「《静謐》」
小屋の内部に薄い膜が張られた。音が柔らかくなる。恐怖は音の輪郭から這い込む。輪郭を丸めれば、心の尖りも鈍る。
自分の心臓の鼓動が落ち着いたのを確かめてから、俺はランタンを持った。
(――見る。見ないと、眠れそうにない)
小屋の扉を開けると、夜の匂いが鼻を刺した。湿り、葉の油、土の冷たさ。
村の北側、森の手前に、古い祠がある。丸い石が積まれ、中央に苔むした穴。誰かが供物を置いた跡が新しい。乾いた花。欠けた木皿。
そこから、また鳴いた。
近い。
俺はランタンを地面に置き、両掌を祠の前に差し出した。
目には見えないけれど、耳には、風とは別の「流れ」が聞こえる。魔力は川に似て、祠の下で渦を作っている。古い封印だ。
誰が、何のために。
問いを胸の棚に置き、今やることに集中する。
「《測環》」
音の正体が形になる。
祠の下、空洞。そこに、細い足。鹿の骨格に似た影。だが、首のところに、余計な輪がある。輪は空気をこすり、音を生む。
封印の弱りと、季節の風向きが合わさって、音が地上に漏れている。中身そのものは、まだ外へ出ていない。
(封印の補助なら、できる)
俺は深く息を吸い、式を編む。
補助の本質は、足りない部分を繋ぐことだ。壊れたものを「元通り」にする必要はない。ただ、崩れないだけの支えを、必要な場所に足す。
祠の石と石の継ぎ目、苔の水分、土の締まり具合。それぞれに薄い力を渡し、全体の歪みを平均化する。
「《補環》――《重ね六》」
見えない輪が六つ、祠の周囲に回る。
音が一段低くなり、次の瞬間、消えた。
風が梢を撫でる音だけが残る。
犬がわずかに尾を打って、ため息をついた。
「終わった……の?」
振り向くと、コレットが息を切らして立っていた。手には灯り。俺を見て、目が大きくなる。
「ごめん、気になって――。今の、何をしたの?」
「古い封じを、少し手伝っただけ。すぐに戻る。祠の基礎は崩れているから、石工を呼んで直したほうがいい」
「呼べる石工なんて、村には……」
「なら、俺がやり方を教える。二週間で十分。村の男手で、できる」
コレットは胸を押さえて、ほっと笑った。
「……ねえ、アレン。あんた、王都の人だよね。どうしてここに?」
「追放されたから、辺境へ」
自分で口にして、少しだけおかしくなった。「のんびり暮らすつもりだったんだが……のんびりは、まだ先になりそうだ」
「そっか」コレットは真剣な顔で頷く。「のんびり、させる」
「期待してる」
二人で笑って、小屋に戻った。犬は先に立ち、振り返りながら道案内をする。
夜は静かだ。膜を張った小屋の中で、俺は久しぶりに深く眠った。
*
翌朝。
小屋の扉を開けると、朝露が光っていた。空は高く、遠くの山脈の頂が薄く白い。
パンと温い牛乳をもらい、村の広場へ向かうと、既に人が集まっていた。水車が回り、粉が袋にたまる。子どもが歓声を上げる。
村長が咳払いして、俺の前に一歩出た。
「アレン殿。お前さん……いや、あんたは何者だ?」
「補助師だよ」
「ただの補助ではない。わしの目はごまかせん」
村長は顎鬚を撫でる。「礼をしてえが、金貨はない。かわりに土地をやる。村はずれの段丘に、荒れた畑がある。あそこを好きに使え」
「……本当に?」
「村のために動いてくれる者に、惜しむものはない」
心が温かくなる。土地。土と、季節と、汗の匂い。
それは、俺にとって、どんな称号よりも価値があった。
「ありがとうございます。……じゃあ、まずは土の寝起きを直すところからだ。石を取り、草をすき、溝を切る。村の若い衆を少し貸してくれ。弁当は自分で用意する」
「任せな。若いの、三人つける」
そこへ、村の外から駆け足の音。
旅装の女が砂煙をあげて現れた。白いローブ、胸には銀の徽章。腰の聖印が光る。
息を整える間もなく、彼女は俺を見つけて叫んだ。
「――あなたが、ブレイ村の奇跡の補助師?」
広場がざわめく。
俺はまぶしさに目を細めた。彼女の髪は陽の光を撥ね、瞳は澄んだ水の色。
その姿を、俺は王都の大聖堂で一度見ていた。
「聖女セラ?」
名を出すと、彼女はわずかに眉を動かし、すぐに悔いの滲む笑みを浮かべた。
「……違うわ。わたしはセラの代行――地方教会の癒やし手、リュミナ。セラ様の命で来たの。『辺境に奇跡の補助師あり』って」
セラの命。胸の奥で小さな棘が動く。
リュミナは息を整えて続けた。
「お願い。王都から救援の使いが出るまで時間がかかる。北の砦に、瘴気の波が迫ってる。わたしたちの癒やしでは、持たない。補助が必要なの」
村長が俺を見る。コレットも、若者たちも。犬までが首をかしげて、こちらを見る。
俺は空を仰いだ。青が高い。
のんびり暮らす、と決めたばかりの手が、自然に腰のポーチを確かめている。薬草、粉末、紐、符、針。いつでも動ける。
ひとつ息を吐いて、俺は頷いた。
「わかった。北の砦までの道を教えてくれ。村長、畑はあとで。コレット、工具と縄を揃えておいてくれ。帰ってきたら、続きをやろう」
「うん。待ってる」
リュミナが安堵の笑みを浮かべ、祈るように胸の前で指を組んだ。
風が、北から吹いた。
追放者の「スローライフ」は、まだ一歩も始まっていない。だが――誰かが困っている場所へ、補助は届くべきだ。
俺は背負い紐を締め直し、村の外れの道へ歩き出した。
その背中に、コレットの明るい声が飛んだ。
「帰ってきたら、犬の名前、決めよ!」
振り返ると、白茶の犬が吠えた。確かに、とでも言うように。
俺は笑って手を振る。
足もとの土は乾き、遠くの山はまだ雪を被っている。
――のんびり暮らすために、いまは少しだけ、動くとしよう。次に土を触るとき、俺はもっと上手に、村を支えられる。
そして、王都のどこかでこの知らせを聞く者がいるだろう。勇者、魔導師、剣士。彼らの胸にどんな色の火が灯るのか、俺はまだ知らない。
物語の歯車は音もなく噛み合い、静かに、しかし確かに回り始めていた。