境界
グラウスについて、自分が知ることは少ない。
その辺のオーガに見劣りしない厳めしい外見と、
先代の料理長に見込まれ、異例の出世を可能にした料理の腕くらいだ。
今はその男と並んで、境界近くの森を歩いている。
我々と奴らの領域の分かれ目。
万一を避けるため移動魔法は使わず、森のそばまでは原生の羽虫に乗り、降りた
あとは徒歩で進む。
グラウスは無口だ。
土を踏みしめながら、黙って歩き、黙って枝を払う。
湿った落ち葉に、靴音が吸われる。
「御下命のまず第一に、料理長が一刻も早く城に戻ることができるよう、取り計らうこと」
「料理長殿」
「はい」
呼びかけに、足を止めずグラウスが応じる。
「あまり人間にはくわしくないのだが、私のどの辺が“人間らしく”見える?
料理長殿とは、かなり違うように思えるのだが」
グラウスは少しだけ首を傾けて、答えた。
「メジト殿は人間でいうなら、七十から八十くらいの老人に見えます。
もっともそこまで生きる者はまれなので、見る機会は少ないかもしれませんが」
そういうものか。
納得しかけたところで、別の疑問が浮かぶ。
「つかぬことを聞くが……料理長殿の歳はいくつだ」
「はっきりは知りませんが、おそらく三十四から六あたりです」
「三十……? えらく大……いや、人間ならそんなものなのか」
三十年。
自分でいえば、まともに口がきけたかどうかも怪しい年頃だ。
そう考えると目の前の男いや種族が、少し違って見える様な気がしないでもない。
見えない境界をまたぎ越え、森を抜けると、そこはもうヒトの国だった。
木々がまばらになり、空が開ける。
そこから少し歩くと、ほどなく石畳の街道に出た。
幅は広くないが、手入れの跡から、頻繁に使われていることがうかがえる。
沿道には露店に宿、礼拝所や井戸らしきものがぽつぽつと見える。
こんなところまで広がってきているのか、と半ば感心しながら歩いていると、
「ようこそ、お待ちしておりました」
いささか場違いな、真新しい建物の前で、もろ手をあげて出迎える男がいる。
黒いタキシードに丁寧な笑顔が合わさり、うさん臭さに拍車をかけていた。
背後には、下働きと思しき若者たちが数名、整列して控えていた。
白衣に身を包み、手には布巾や帳面を持ち、緊張した面持ちでこちらを見ている。
給仕らしき者も二人、黒いエプロン姿で立っており、どちらも年若く、まだ場の
空気に慣れていない様子だった。
男は一歩前に出て、胸に手を当てて軽く頭を下げる。
「私、当店の設営責任者を務めました、マルク・エルゼンと申します」
その動きに合わせて、背後の助手たちも一斉に小さく頭を下げた。
訓練されているというよりは、まだぎこちない模倣のようだった。
「グラウス料理長――いや、今や支配人ですかな。お話は伺っております。どうぞこちらへ」
中に入ると、設備の紹介が始まった。
厨房は広く、床は滑りにくい石材。
調理台は高さ調整が可能で、熱源は魔力式と火石式の両方を備えている。
冷蔵庫は三層式で、湿度管理まで可能。
換気は模倣獣の擬態膜を使用し、匂いの拡散を防ぐ仕組みがある。
食材庫には、むこうから取り寄せた保存棚が並び、
水場には浄化石が埋め込まれていた。
説明を終えると、エルゼンが恭しく頭を下げる。
「一通りのものはそろえたつもりですが、お眼鏡にかなうかどうか……」
「何から何まで、殿下には……」
深々と頭を下げるグラウスに、穏やかに笑いながら、言葉を返す。
「貴殿のこれまでの功労を考えれば、当然のこと。不自由があれば遠慮なく、そこのメジトに申し付けるようにと、執事長からのお託です」
「第二に、奴の作るメニューのレシピをあまさずこちらに送ること。この二つが、お前の果たすべき至上命令だ。努々忘れることなきように」
とんだ貧乏くじだと思ったが、ものは考えようかもしれない。
こちらの知識を増やして、使えそうな素材を探すのも悪くないだろう。
悪魔が悶え苦しんで塵に還る薬草とかな。