第5章:別れの晩餐
食堂の空気は湿っていた。
天井の苔が夜露を吸い、壁の石はじっとりと冷たい。
テーブルに最初の皿が並ぶと、料理長グラウスは大公に一礼し、壁際に下がった。
一皿目:泥鰌と苔のゼリー寄せ
沼地で獲れた泥鰌を発酵させ、岩苔とともにゼリー状に仕立てた前菜。
皿の上は、湿った地面を切り取ったような色合い。
大公はスプーンで掬い、ぬるりとした感触を楽しむように口に運んだ。
「懐かしい味だ。沼で遊び疲れた日の夕餉を思い出す。苔の香りが、水辺の朝に似ておる」
二皿目:羽虫の燻製と粘菌ソース
湿原で採れた羽虫を低温で燻し、粘菌から抽出した紫色のソースを添えた一品。
翅の光沢が残り、ソースは皿の縁でゆっくりと流れていた。
大公はひとつ摘み、翅ごと噛み砕く。
「翅の香ばしさに、粘菌の甘みが後を引くな……遠征の夜に食った干し虫より、
ずっと丁寧な仕上がりだ」
三皿目:焼き根菜と腐乳のグラタン
地中から掘り出した根菜を焼き、腐乳と熟成チーズを合わせてグラタン風に仕立てた料理。
表面はこんがりと焼け、湯気が立ちのぼる。
匙で崩し、熱を感じながら口に運ぶ。
「塩気と甘みの釣り合いが見事だ。焼き加減も申し分ない。こういう柔らかな味は、春の祝祭を思い出すな」
四皿目:焼き蛆と香草のクレープ
地中蛆を香草とともに薄焼きの生地で包み、軽く焼き上げた料理。
見た目は美しく、食堂にほのかな草の匂いが漂う。
ひと口かじると、蛆の柔らかさと香草の刺激が流れ込んでくる。
「華やかな皿だが、味は繊細だ。蛆の旨味を香草がよく包んでおる。余韻が、実に上品だ」
五皿目:黒茸のリゾット
古森の奥で採れた黒茸を、米とともに煮込んだリゾット。
香りは控えめだが、味は深く、舌を楽しませる。
大公は匙を口に運び、しばらく目を閉じた。
「静かな皿だ。味わうほどに、余計な音が消える。初めてお前が作ったのも、確かこれだったな……あの夜の空気まで思い出す」
食後、大公は器を静かに置いた。
「……どれも見事だった。余の舌も心も存分に満たされた。だが……」
グラウスは黙って大公を見つめる。
「本当に行くのか。この家を離れて」
静かな問いだった。
沈黙の中、グラウスはゆっくりと一歩前に出て、深く一礼した。
それが、答えだった。
皿を片付ける手をとめ、ふと視線を上げる。
グラウスの広い肩と節くれだった腕が目に入った。
物好きなものだ。料理長の地位を捨て、わざわざヒトの国に行こうなどと。
そういえば、これも同族だったか。
「故郷とはいえ、ひとりでは心もとないこともあるだろう。しばらくの間、信頼できる配下をひとり、帯同させたいと思うのだが、どうだ?」
主の言葉に、グラウスは「御心のままに」と、深く頭を垂れる。
大公は満足げに頷き、視線をわきに控えた背の高い悪魔に向けた。
「ラザリオよ、誰か相応しい者はおらぬか」
執事長は一礼し、答えた。
「メジトが良ろしいかと思います」
手が滑り、杯が乾いた音を立てて揺れた。
「何をやっている」
冷ややかな声が言った。
執事長ラザリオ。
大公に代わり家事を取り仕切る執政であり、この緑淵城の実質上の主。
角は短く、顔は痩せているが、声に刃のような重みがある。
「……申し訳ありません」
内心の動揺を抑えながら、崩れた食器を整え、赤黒い肌の上司に向き直る。
「……おそれながら、なぜ私のような……」
ラザリオが淡々と答えた。
「お前なら、そのままでもヒトに見えなくもない。つまり、術を使う手間も気取られる心配もない」
「ですが、私は戦う力など皆無に等しく――」
今度は、大公が口を開いた。
「争いに行くのではない。グラウスが存分に腕を磨けるよう、手助けをするのだ」
「しかし……」
言葉の続きを探していると、執事長が一歩近づき、声を落とした。
「大公直々の御下命だ。お前を是非にとな」
御下命。
その三語が、すべてを封じる。
選択の余地などない。
「案ずるな。首尾よくこなせば、すぐにでも戻れる。褒美は望むがままだぞ」
肩に手を置く執事長に、私は返す言葉を持たなかった。