何のために書くのか?
ひとは何のために書くのか。私はこれ以上、バカにならないためである。
年を取ればとるほど、日常は繰り返しの集合体となっていく。新たに経験するような局面は日増しに減少し、大半は過去の類似体験との照合・選択だけで成立すようになってくる。そこに新たな思考が入り込むような余地はほぼなく、脊髄反射的なリアクションだけで物事が進行する。
さて、こうなってくると私は本当に「個としての人間」と言えるのか否か。単なる「(出来損ないの)プログラムの集合体」に過ぎない存在なのではないのか、と自分自身からも疑いの目が向けられる。常に新たに思考し続けるからこその人間であり、この作業を止めてしまうとそれは「私自身であるということ」の必然性すら失いかねない事態を招く。AIも日々進化し続けている中、人間はおろか、AI以下のプログラムロボットに自分自身が成り下がらないためにも、考えて生きるということの習慣化としての書くという作業に再起動をかけてみる。
今回、非常に読みにくい文章になっているのも、書くという作業がいかに鈍りきっていたのかの証左でもある。どれだけ感覚を取り戻せるかは分からぬが、ひとまずはしばらく書き続けるとしよう。