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TRUE DAWN  作者: 三九
8/18

獣の兄弟――種族の違い――

 あの後、ナナエは子供たちを連れてポトの街に戻った。

 ロディウスたちの姿はない。

 彼は、弟と一緒に山に残ると言った。


 ヴォルフとロディウスが子供たちを背負い、ナナエと共に山を下りたのだが、街に入る手前でヴォルフが嫌がったのだ。

 この街は耳が痛いから嫌い、なのだそうだ。


 泣いて駄々をこねる幼子よろしく訴えられては、一緒に街に来いとは言えなかった。

 しかも、一人で帰るのも寂しいから嫌だと泣き出す始末。


 仕方なく、ロディウスがヴォルフと一緒に山に残ることで、その場を収めたのだが……


(なんであんなにガキっぽいんだか)


 聞けば、十八歳だと言う。

 ナナエが驚いたのは、自分よりも年上だったということではなく、その年齢に不釣り合いなあまりにも幼い言動である。

 ロディウスとは四つ歳が離れているそうだが、精神年齢に差がありすぎると思う。


 そんなことを考えながら歩いているうちに、いつの間にか宿屋の前まで戻ってきていた。

 宿屋の主人が角灯を持って、宿の軒下に立っている。

 ずっと待っていたのだろう。

 ナナエに連れられた三人の子供たちの姿を見つけると、主人は大声で中にいる若女将を呼んだ。


「ミーシャ!」

「お父さん! お母さん!」


 若女将は泥で汚れた我が子を両手でしっかりと抱き締めた。

 他の子の両親も宿屋に集まっていたらしく、次々に歓声が上がる。


「あのね、ヴォルフが助けてくれたんだよ」

「お姉ちゃんとお兄ちゃんが来てくれたの」


 子供たちは興奮したように事の顛末を話すのだが、その言葉だけで何があったのかを理解することは難しいだろう。

 大人たちは、ナナエに深々と頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます。何とお礼を言ったらいいのか……」


「あー、いいよそんなの」


 ナナエは照れたように頬を掻いた。

 真正面から感謝されるのは、どうも苦手だ。


「あら、もう一人は……?」


 ロディウスの姿が見えないことに気付いた人が、きょろきょろと辺りを見回した。

 ロディウスの身に何かあったのかと、心配そうにナナエに訊ねる。


「何か、あったんですか?」


「いやっ、その……」


 まさか正直に言う訳にはいかない。

 獣人がすぐ裏の山に住んでいると分かったら、街の人々がどんな行動に出るか解らない。

 ナナエは考えた末に、山に住んでいた知人の家に行ったと伝えた。


 とにかく、彼らが獣人であると街の人に知られなければいいのだ。


「あの山に、人が?」


 しかし大人たちは訝しげに眉をひそめた。

 早速ばれそうになっている。


「そ、そう! な? 山に住んでる人に助けてもらったんだよな?」


 ナナエは、誤魔化すように子供たちに話をふった。


「うん!」

 子供たちは素直に頷く。

 一応、嘘ではないのだから、返答に迷いはない。

 三人が同じように頷いたので、周りの大人たちも納得するしかなかった。


 その後、ぜひお礼をと迫ってくる人々から逃げるように、ナナエは部屋に閉じこもった。


「きょ、今日は疲れたから休みます!」


 そう言って部屋のドアを閉めたところで、ようやく一息ついた。

 とにかく風呂に入って汚れと疲れを落とし、明日からのことは明日考えよう。

 そう結論付けて、ナナエは疲れた溜め息を吐き出した。




 翌朝になっても、ロディウスは戻ってこなかった。

 まだ朝霧が立ちこめる中、ナナエはこっそり山の入り口へと向かった。


 早朝で誰もいない関所を抜ける。

 山道の手前に、二人の人影が見えた。

 まるでナナエが来ることが解っていたかのように、ロディウスとヴォルフが立っている。

 いつからここにいたのか、彼らの服も髪も、朝霧を含んで湿っぽくなっていた。


「よう、早いなナナエ」


 ナナエが声を掛ける前に、彼女の足音に気付いたのだろう。

 ロディウスが手を振りながらナナエに顔を向けた。


「よう、じゃねーよ。街の人誤魔化すの、大変だったんだぞ」


 ナナエが怒ったように眉を吊り上げると、それを見たヴォルフは慌ててロディウスの背後に隠れた。


「ナナエ、怒りんぼ。怖いな?」

「怖くねえ!」


 思わず声を荒げると、ヴォルフは大げさに驚いてロディウスにしがみ付く。


 いちいち構っていたら無駄に時間が過ぎていくだけだ。

 とりあえずヴォルフには構わずに話を進めることにした。


「んで? これからどーすんだよ」


「王都に行くのは変わらないが……ヴォルフがどうしても一緒に行くと言ってな」


 ロディウスは両手を腰に当てて困ったように溜め息を吐き、ナナエはあからさまに嫌そうな顔をした。


「まーじーでー? こんなのがついてきたら足手まといじゃん」


 兄であるロディウスを前にしながら、随分と無遠慮な物言いである。

 ひょっとしたら、二人が兄弟だということを忘れていたのかもしれない。


 しかしそれも事実だけに否定できず、ロディウスは苦笑いを浮かべた。

 ヴォルフはロディウスの背後に隠れたままで、犬のように耳を立てて話を聴いている。

 自分が悪し様に言われていることに気付いているのかいないのか、兄の背中にひっしとしがみ付き、離そうとしない。


 こうして見ると、ヴォルフの方がロディウスよりも頭半分程背が高い。

 泣き虫のくせに身長だけはでかいでやんの、とナナエはそこだけは感心した。


「とにかく、宿から荷物取ってくるからさ。ついでに飯も買ってこようか?」


「すまんな、頼むわ」


「ヴォルフ、肉が、いい!」


 飯という単語に反応したのか、それまでじっとしていたヴォルフが手を挙げて主張した。


「あー、分かった分かった。そこで待ってろ」


 ナナエは、いかにも面倒といった表情を隠さずに返事をして、朝日が差し込む街へと戻っていった。




 少ない荷物をまとめて宿を出るときにも、ナナエは若女将たちに捕まった。


 ぜひお礼を! いやいいから! と、しばらく押し問答を繰り広げたのだが、最終的には料理をいくつか包んでもらって、それを受け取ることでナナエはようやく解放された。


 朝食を買う手間が省けたのはいいが、押し問答をしている間に大分時間を浪費してしまったようだ。

 近くの店で適当に買い物した方が、よほど早かったのではないかと思われた。


 急いで街の外に出ると、同じ場所で二人が待っていた。

 ヴォルフの方は待ちきれなかったようで、どこからか採ってきた木の実を食べている。


「随分と遅かったな」


「宿屋のおばちゃんに捕まっちゃってさ。どうしてもって言うから、朝飯作ってもらってきたんだよ」


 荷物を渡しながらナナエが弁当の包みを開くと、ヴォルフが興味深そうに覗き込む。


 箱の中にはナイフとフォークがなくても食べられるように、ホットドッグや骨付きチキンが入っていた。

 昨夜の雨で地面は濡れているため、どこか座れる場所を探してから食べるしかない。

 王都側へ抜ける関所に広場があるので、そこに移動することになった。

 新街道の関所だけあって、モンスター避けの機械音がうるさいだろうが、そこは我慢してもらう。

 ヴォルフは山道を行こうとしたのだが、山側はぬかるんでいて歩き辛いので、一度街の中に入って新街道を通ることにした。


 ヴォルフは最初は嫌がったが、食べ物に釣られたようで、渋々ながらついてきた。

 初めて入る人間の街を、目をいっぱいに見開いて見渡すヴォルフは、目に映るものすべてが珍しいのだろう。

 あれはなんだこれはなんだと、一人で勝手に出歩きそうになる度に、ロディウスに首根っこを引っ掴まれて連れ戻される。


 道行く街の人々は、そんなヴォルフを見て何事かと足を止めた。

 だが物珍しそうにあちこちを見回す様子を目にすると、田舎から出てきた若者が街の風景にはしゃいでいるとでも思ったのか、すぐに興味を失って自分の仕事に戻るのだった。


 やっと関所前広場に着いて、濡れていない屋根付きベンチに陣取って弁当を広げた。

 それまで街の風景に興味津々だったヴォルフは、興味の対象が食べ物に移ったようで、ホットドッグを受け取ると美味しそうに食べ始めた。


「うまい! にぃ、これ、んま!」


「良かったな。でもなヴォルフ、食うときは静かに食え」


 食べるときでも騒がしいヴォルフは、ここでも通り過ぎる人にくすくすと笑われている。

 しかし本人はそんなこと気にしていない――寧ろ自分が笑われていることなど気付いていないのだろう。

 片手にチキンを持って、今度はライスボールを頬張っている。


 ナナエとロディウスは、ヴォルフの両脇をがっちりガードするように座っている。

 ヴォルフが急に飛び出しても対応できるように、との布陣だった。


「ひっかす、おあへらいへれーあ?」


「ナナエは飲み込んでから喋れ」


 ヴォルフに全部食われる前に、と無理矢理口に詰め込んだナナエがもごもご喋る。

 ロディウスからは冷静なツッコミが入った。

 ロディウスは余程燃費が良いのか、ホットドッグを一つ食べたところで、既に食後のお茶に口をつけている。

 この水筒も、宿屋の若女将からもらったものだ。

 ナナエは口の中のものを飲み込んでから、もう一度同じことを言った。


「……しっかし、お前ら似てねーよなぁ。ほんとに兄弟なのか?」


「そんなに似てないか?」


「おう。見た目も、中身も」


 そんなにか……と首を傾げながら呟くロディウスだが、中身はともかく互いの見た目を確かめる術を、彼は持っていない。


 褐色の肌に尖った耳という、獣人特有の外見的特徴は二人とも一致しているが、髪の色はロディウスが銀色なのに対して、ヴォルフは深い紫紺色に朝日を反射する黒だ。


 ヴォルフの金色の目が、獣人特有なのかヴォルフの個性なのかも判らない。

 何しろ、他に比較するものがないのだから。

 獣人という括りで見るならば、同様の外見であると言えるだろうが、兄弟という括りで見ると、身体的特徴はあまり一致しているように見えない。

 精神面は育った環境にもよると思うが、ヴォルフは年齢に対してあまりに幼すぎる。


 ナナエに言われるまでは、そんなことを考えたこともなかったのだろう。

 ロディウスはしばらく考え込んでから、小さく頷いた。


「んー、まぁ、あんまり似てないかもな。母親が違うから」


「え、そうなの?」


 初めて聞く話で、ナナエは思わず訊き返した。

 普通、人間社会では異母兄弟というと、再婚だとか隠し子だとか浮気だとかいう理由が一般的なのだが、獣人の社会にも当てはまるのだろうか?


 ナナエの疑問が解決する前に、突然ヴォルフが立ち上がった。

 広場を横切った野良犬と睨み合っている。


「わん! わんわんわん!」


 いきなり犬のように吠えだしたヴォルフが人々の好奇の目に晒される前に、ロディウスは思い切り弟の後ろ頭をどついて沈黙させたのだった。


「痛い……」


「あのなヴォルフ。ここは山の中じゃないんだ。人間の街なんだぞ? 動物と話すのは禁止だ」


 殴られた頭と、倒れたときにぶつけた鼻をさすって、ヴォルフは涙目で呟いた。


 なるべく人目の少ない場所にヴォルフを引っ張っていって、説教しているロディウスを見ていると、なるほど子守りが上手いはずだと、ナナエは妙に納得してしまった。

 月の家で子供たちに囲まれていた姿を思い出す。


「これじゃ、一緒には連れて行けないな」


「えぇー! やだ! 一緒、行く!」


 山に帰れと言うロディウスに、ヴォルフは駄々をこねる子供のように地団駄を踏みながら叫ぶ。


 人間に慣れていないから、危険な旅になるかもしれない、街に入ると迫害されるぞ。

 色々と言い聞かせて脅して宥めて叱って、それでもヴォルフはついていくの一点張りだ。

 一時間近く言い合っていた二人だが、いい加減ロディウスが疲れてきたのか、盛大な溜め息と共に肩を落とした。


「──っこの頑固者め」


「あーもー、連れてってもいいんじゃね?」


 二人の言い争いに飽きたナナエは、他人事のように言い放った。


「だがな……」


 最後まで渋っていたロディウスだったが、ついには折れ、三人で王都を目指すことになったのだった。


 それが苦労の始まりになるとは、ナナエは夢にも思わなかった。




 新街道の終点の街で、最初の事件は起こった。


 ちょっと目を離した隙に、ヴォルフが養鶏場の鶏を逃がしてしまったのだ。

 本人は外で一緒に遊びたかっただけなのだが、街中から鶏を集めるのに一日を要した。

 鶏にもストレスというものはあるらしく、ロディウスの召集命令を無視して逃げた連中がいたのだ。

 お陰で街中を走り回って捜す羽目になった。


 次の日には、魚屋で売っていた鱒をヴォルフが食べてしまい、弁償する羽目になった。


 さらに同日、夕食を食べに入った食堂で、絡んできた酔っ払いをヴォルフが投げ飛ばし、軽い乱闘騒ぎになってしまった。


 役人が来る前に食堂から抜け出し、宿屋に逃げ帰った頃には、ロディウスもナナエもぐったりと疲れ果てていた。



「なんなんだよ、お前の弟……」


「だから連れてくるの嫌だったんだ……」


 愚痴をこぼすナナエの横で、珍しく泣き言を言いながらロディウスが項垂れた。

 騒ぎの中心人物であるヴォルフはというと、ベッドの上でお気楽に転げ回っている。

 あんまり騒ぐものだから、「静かにしろ!」とロディウスに拳骨をもらった。


「ったく……おいヴォルフ。ヴォルフは、兄の言い付けを守るって条件でついてきたんだよな?」


「うん!」


 苛立ちを含んだロディウスの問いに頷くヴォルフには、反省の色は窺えない。

 何故ロディウスが怒っているのか、何が悪かったのかも理解していないようだ。


 あまりにも自由奔放すぎるその姿勢には、ロディウスも怒りを隠しきれないらしい。


「言い付けを全然守っていないじゃないか!

 街にあるものに勝手に触るな。人間に手を出すな。最初にそう言っただろう!」


 ついにロディウスが怒鳴りつけた。

 今まで彼がこんなに怒るるところなぞ見たこともないナナエは、自分が言われている訳でもないのに驚いて身を硬くした。


 それはヴォルフも同じだったようで、まずはびっくりして身を竦ませ、自分が叱られていることを理解すると、身体を縮こまらせて上目遣いにロディウスを見上げた。

 心なしか、耳まで力なく垂れ下がっている。


「え? え? だって、ヴォルフ……」


「そんなに兄の言うことが聞けないなら、一人で山に帰れ!」


 ロディウスの怒声の余韻が消える。

 小さく肩を震わせるヴォルフの目に、みるみる涙が溜まっていく。そして、


「うああああぁぁぁぁん!」


 大声で泣きながら、ヴォルフは開け放たれた窓から飛び出していった。

 ロディウスは一つ息を吐いて、先程までヴォルフが寝転がっていたベッドに腰掛ける。


「……いいのかよ」


 ナナエが、静かに話し掛けた。

 ロディウスは両肘を膝に乗せて、やや猫背になって俯く。


「ああ……ヴォルフは山に帰った方がいい」


 このまま人間の街で騒ぎを起こし続ければ、やがて獣人はまた、人間たちの手によって世界から排除されることになるだろう。

 そうなる前に、人間が寄り付かない山に帰った方が良い。


 項垂れるロディウスの前に立ち、ナナエは静かに首を振った。

 そしてヴォルフが出ていった窓の外、宵闇に呑まれつつある街並みを指差して。


「そうじゃなくて。ヴォルフを一人で街に出していいのかって言ってんだよ」


 ……………………


「しまったぁあ!」


 己の失態に気付いたロディウスは、頭を抱えて大声で叫んだ。




 ヴォルフは一人、民家の屋根の上を歩いていた。


 未だ止まらぬ涙を拭ってしゃくり上げつつ、山に帰るでもなく宿に戻るでもなく、うろうろと歩き続ける。


 こんなとき、人間なら反省して謝りに行くか、叱られた相手の悪口を言ったり、愚痴を呟いたりするのだろう。

 しかし、ヴォルフはただ無言で赤くなった目をこする。


 反省している訳ではない。

 ロディウスに腹を立てている訳でもない。

 ただ、叱られた理由が解っていないのだ。


 同じ年頃の、それどころか十も年下の子供と比べても、今のヴォルフの知能は低い。

 兄の言葉を半分も理解していないどころか、世の中の常識すら理解できるか怪しいくらいだ。

 もし医者に診せたなら、知能障害だと診断されるかもしれない。


 幼児と同程度の知能しか持たないヴォルフを、街で一人にさせたらどうなるか。


 親と共に街で育った人間の子供ならば、最低限のルールくらいは弁えていようが、街で暮らしていないヴォルフには、それすら知らない。


 ヴォルフは腹が減ったら、自ら獲物を捕まえて食べる。

 獣人は財産を持たないからだ。

 完全自給自足のその日暮らし。

 金で物を買う発想すらない。


 家族という群れの中で暮らしているなら、物々交換くらいはするだろう。

 だが、既に成人して群れを離れたヴォルフは、自分の餌は自分で狩るのが普通だ。

 他人が持っている獲物には手を出さない。

 それは他人が自身の力で勝ち取った、命の糧だからだ。

 他人の獲物を横取りする行為は、時に生きるために必要なことだが、どうしても命を賭けた決闘になってしまうので、好んでやろうとは思わない。


 しかし人間の街の、ミセという場所には、大量の獲物が放置されている。

 手も付けずにそこに置いてあるということは、誰かが捨てたものなのだろう。

 捨てたものを拾っても、ましてそれを食べても、誰にも文句は言われない。

 そう考えてしまうのだ。


 ヴォルフの思考は、人間よりもずっと獣のそれに近い。

 ヴォルフは、昼間盗んだ魚がその店の所有物だなどと、知らなかった。

 そんな発想もできないくらい、山での生活が常識になっている。


 実を言うと、ロディウスも四年前まではそれが普通だと思っていたのだが、人間と獣人とで生活のルールが違うこと、人間の街で暮らすなら、そこの掟に従わなければならないことを知っていたから、さしたるトラブルもなく人間の街に馴染んでいるのだ。


 ヴォルフは、それすら理解できていない。

 人間たちの掟を知らないし、そもそも掟が違うということさえ知らなければ、いつも通りに振る舞って良いものだと思ってしまう。


 不勉強などとは言えない。

 人間も身の回りの物事でしか、常識を計れないのだから。

 知識が足りないヴォルフがトラブルメーカーになるのは、必然だったと言えよう。

 まったく違う環境で生きてきた者が、互いの文化を理解するには、時間が必要なのだ。


 先程までぐずっていたヴォルフだったが、ようやく涙は止まったようだ。

 しかしこれからどうすれば良いのか解らず、民家の屋根の上に座り込んでしまう。

 宵の闇に包まれつつある街は、未だ日中の騒がしさを残しながらも、徐々に夜の静寂へと移り変わろうとしていた。


 ヴォルフは空を見上げた。

 俯いていると、また涙が出そうになる。

 頭上には大きな雲が漂っていたが、雲のない東の空から満月が昇ってくるところだった。


「……わー、月だ」


 ヴォルフが独り言を呟く。

 本人に自覚はないのだが、彼は脳内の言葉がそのまま声に出てしまうタイプなのだ。


「……昔、言ってたな。月にも、いるんだって」


 例えその場に誰かがいて、その言葉を聞いていたとしても、その意味を正しく理解できた者はいなかっただろう。

 ヴォルフが呟いたのは、獣人に伝わるお伽噺なのだから。


 ヴォルフは昇ってきたばかりの満月をじっと眺めていた。

 月がいつもより大きく見えるのは、地平線に近いところにあるからだろうか。


 泣き疲れて眠くなってきたヴォルフは、屋根の上に座ったままでうとうとし始めた。

 しかし、そんな微睡みはすぐに掻き消される。


「も、モンスターだぁぁぁっ!」


 街に住まう人間たちの悲鳴だ。


 ヴォルフは瞬時に目を覚まし、すぐに対応できるように腰を浮かして周囲の気配を探った。


 獣人は夜目が利く。

 きょろきょろと辺りを見回しながら、獣のように耳を立て、どんな小さな音も聞き逃すまいとしている。


「か、影が……!」

「ぎゃあああっ」


 逃げ惑う人の声は、通り一つ向こうの、宿屋の近くから聞こえた。

 ヴォルフは立ち上がり、大きく跳躍する。

 獣人の筋力は人間とは比べ物にならない。

 ヴォルフは易々と通りを飛び越え、宿屋から二軒離れた民家の屋根に降り立った。


 満月の灯りに照らされた影から生まれたモンスターは、猫の形を模した、歪な猛獣だ。


 この街にも街灯は多く、道に月明かりは届いていない。

 あれは屋根の上を行く猫の陰から生まれたものだ。

 だがヴォルフはそんなことは知らない。

 ただ、自分たちが今夜眠るはずだった場所で、余所者が暴れている。

 それはつまり、縄張りを荒らす侵入者だ。


 ヴォルフは異形の影を見据え、夜空の月に吠えた。




 オオオオオォォォ……


 狼の遠吠えにも似たその声は、ヴォルフを捜して街に出たロディウスたちにも聞こえた。

 二人はあの後すぐに、ヴォルフを追いかけ宿を出たのだ。


 手分けしてヴォルフを捜しているうちに、随分と離れたところまで来てしまったらしい。

 聞こえてきた狼の声は、遠い。

 しかも、今し方自分たちが来た方向から聞こえたではないか。


「行き違いかよ!」


 ナナエは吐き捨てるように呟き、急いで方向転換する。

 別の通りを捜索していたロディウスも、当然戻ってくるだろう。


 自分たちが行くまで、ヴォルフが騒ぎを起こしませんように……


 二人の願いは、叶いそうになかった。




 屋根から飛び降りたヴォルフは、影の獣に対峙する。

 両者の睨み合いは短かった。

 人々に襲い掛かっていた影たちは、皆一斉に標的をヴォルフに変えて唸り声を上げる。


 影が然程大きくなかったことが幸いしたか、怪我をした人の命に別状はない。

 怪我人の呻きが入り交じる中、先に飛び掛かったのは影の方だった。


 鋭い爪を振りかざす影を、ヴォルフは腕力で無理矢理叩き伏せた。

 肩に引っ掛けたベージュの外衣が翻る。

 叩きつけられた影は、最早ぴくりとも動かない。


 圧倒的な力を見せ付けられ、しかし影は怯むことなく向かってくる。

 ヴォルフはそのことごとくを、一撃で切り裂いた。


 どれ程の数のモンスターが生まれたのか、歪な影の猫は、次々と屋根の上から飛び降りてくる。

 しかしどれだけ数が増えようとも、ヴォルフの攻撃は衰えることはなかった。

 両手両足の爪で影を切り裂き、獣の力で叩き潰す。

 足の爪さえ武器にする獣人は、靴を履かない。

 布くらいは巻く者もいるが。

 この辺では見ない変わった服装と、鬼神のような戦いぶりは、周囲の人間に助けられた感謝よりも畏怖の念を植え付ける。

 しかも、舞うように戦うロディウスとは違い、ヴォルフは力任せに敵を叩き伏せる戦闘スタイルなのだ。

 その姿が、余計に人々の恐怖を煽ったのだろう。


 そしてヴォルフは、影を切り裂くその瞬間に、笑ったのである。

 愉しそうに、牙をむき出しにして。


 獣人の本能に刷り込まれた野生の一面。

 戦闘の高揚感が、命を賭けた闘いの中に身を置くヴォルフを愉しませるのだ。 獣人の社会では、強い雄にのみすべてを得る権利がある。

 究極の実力主義。この非常に獣じみた習性が、獣人は野蛮であると評価される原因になっていることは、想像するに難しくない。


「……なんだよ……これ」


 ロディウスよりも一足早く戻ってきたナナエは、笑いながらモンスターを殴り倒すヴォルフの姿を見て、呆然と立ち尽くした。


 これがあの泣き虫なヴォルフなのか。

 まるで別人ではないか。


 ヴォルフが最後の影を切り裂いたときも、訪れたのは人々の歓声ではなく、動揺のざわめきだった。

 そこに含まれる感情には、紛れもなく恐怖が混じっているだろう。


 ナナエでさえ、足が竦んで動けなかった。


 誰もが立ち尽くす中、悠然とヴォルフに歩み寄ったのはロディウスだった。

 どうやら、ナナエとは違う道から来たらしい。


「……あ、にぃ!」


 ロディウスの姿に気付いたヴォルフは、先程までとは打って変わって無邪気な笑みを浮かべる。


「何があったんだ?」


 ロディウスのその問い掛けは、ヴォルフにと言うよりも、周囲の人間に対して言ったように聞こえた。

 しかし人々は何も答えず、代わりにヴォルフが誇らしそうに胸を張った。


「あのな、黒いの、いっぱい敵、来た。ヴォルフ、やっつけた! 一人で! えらい?」


「そうか。よくやったな」


 兄に叱られたことなど、とうに忘れてしまったのだろう。

 舌足らずな拙い言葉で報告する弟の頭を撫でてやると、ヴォルフは嬉しそうに笑って飛び跳ねた。


「何なんだ……あんたらは……」


 野次馬の一人が、やっとのことで声を絞り出した。

 先程までの姿とはあまりにも違うヴォルフの言動に、途惑いを隠せないようだ。


「ヴォルフは、ヴォルフだ!」

「黙ってろ」


 手を挙げて答えるヴォルフを退がらせて、ロディウスが前に出る。

 二人の姿を見ていた野次馬の一人が、小さな声で呟いた。


「あいつら……獣人じゃないのか?」


 その瞬間、周囲のざわめきが大きくなった。

 あちこちから、ひそひそと話し声が聞こえる。


 二人を指差し顔をしかめる人がいる。

 そそくさとその場を離れる人がいる。

 人々の不安の声は、益々大きくなってゆく。


「なんで獣人がこの街にいるんだ?」

「嫌だわ、さっさと出ていってくれないかしら」


 ナナエは周囲のざわめきが大きくなるのを、焦った様子で聞いていた。


 獣人って人間を食べるんですって?

 こないだの事件も奴らが……

 俺たちを食いに来たのか?


 根も葉もない噂話から根拠のない不安まで、様々な憶測が囁かれる。

 そのどれもが悪い話ばかりで、ナナエは耳を塞ぎたくなった。


(なんで、そんなことばかり言えるんだよ……ロディウスも、何黙ってんだよ)


 人々の不安が増していくのが解る。

 このままでは暴動になるのではないかと、ナナエはそちらの方が心配になった。


「あんた方、悪いことは言わない。この街から出ていってくれんかね」


 野次馬たちの中から声をかけてきたのは、初老の男だった。

 その理不尽な申し出に、ついにナナエは耐えきれなくなって飛び出した。


「何言ってんだよ! ヴォルフは、あんたらのこと助けたんじゃないか! それが恩人に対する態度なのかよっ!」


 突然乱入してきたナナエに皆驚いたようだが、初老の男は構わず言葉を続けた。


「それは承知しとるがな、獣人がこの街にいると思うと、安心できんのだよ」


 獣人は蛮族である。


 その概念は、人々の中に深く根付いている。

 先程のヴォルフを見た後では、尚更獣人は凶暴であると思い込んでしまうだろう。

 その男の言葉に後押しされたのか、野次馬たちから次々に声が上がった。


「そ、そうだ、出ていけ!」

「獣の血を引くなんて、汚らわしい」

「獣人は災いを呼ぶんだろう?」

「嫌だ気持ち悪い、さっさと出てお行き!」


 野次馬たちは、今や大声で罵声を投げ付けてくる。

 こうなると、もうナナエの話など誰も聞こうとはしない。

 そのうちに、興奮した野次馬の一人が、空の酒瓶を投げ付けてきた。

 それはロディウスの足元に落ち、耳障りな音と破片を撒き散らす。


 それがきっかけになったか、人々は落ちている石やゴミを投げ付け始めた。

 しかしどれも当てる気はないらしく、足元に落ちて転がるだけだ。


「な、何すんだよ! 危ないだろ!」


 抗議するナナエと、すっかり怯えてしまったヴォルフを背後に庇い、ロディウスはその場から動かなかった。

 今は下手に動いたら危険だ。これ以上街の人たちを刺激すると、何が起こるか解らない。


 しかしそのとき、野次馬の投げたゴミがロディウスの額に当たった。

 固いものがぶつかる音と、ゴミが地面に落ちて割れ砕ける音が、続け様に響く。


 飛んできたゴミは、口が割れた瓶だったようだ。

 偶然、鋭利な部分がロディウスに当たり、彼の額から血が一筋流れ落ちてくる。


「にぃ! 血!」

「ロディウス! だっ誰だよ今投げた奴!」


 ナナエが叫んで野次馬を睨み付けると、彼らは一様にびくりと肩を震わせ目を逸らした。

 怒った獣人に殺されるのではないかと、恐怖に顔を引きつらせる。


「……助けられたのに礼もせず、これが人間の流儀なのか?」


 急に静まり返った通りに、ロディウスの淡々とした声が紡がれる。


「人間は理性ある生物だと思っていたんだが、これじゃどっちが野蛮か判らないな」


 些か笑いを含んだロディウスの声に、野次馬たちが気色ばんだ。

 獣人に見下されたと思ったのだ。

 ロディウスは、流れる血を拭いもせずに言う。


「言われなくても出ていくさ。理性の働かない連中に、寝首をかかれちゃたまらない」


 殺気立った野次馬が見守る中で、ロディウスはヴォルフの手を引いて歩いていった。

 ヴォルフだけを連れて。

 ロディウスが歩いていくと、野次馬たちの人垣がさっと割れる。

 人々の憎悪の視線に見送られながら、ロディウスとヴォルフは街を出た。


 ロディウスは、ナナエには手を差し出さなかった。

 ナナエは立ち尽くしたまま、ロディウスの背を見送る。

 その胸の裡には様々な思いが交錯していたが、今最も強く感じるこの気持ちは……


 やがて野次馬の数は減り、辺りに奇妙な静寂が訪れた頃、ナナエは両手をきつく握り締めて足を踏み出した。




 街から出てすぐのところにある、森とも呼べないような小さな森の中。

 赤い炎の内で、くべられた枝が小さく爆ぜた。


 赤い光の中、ロディウスの陰が炎に合わせて揺れる。

 ナナエを置いてきたことを、後悔はしていない。

 サイマスとの約束を反古にしてしまうが、元々気乗りしなかったことなのだ。

 それに、依頼を達成できなかったとしても、彼は怒ったりしないだろう。

 大切なのは、本人の意思なのだから。


 ガレットから預かった荷物も宿屋に置いてきてしまったが、本当に必要なものは肌身離さず持っている。

 王都へは、自分一人で行くつもりだ。

 ヴォルフのことも、人間の街から離れた森か山にでも、置いてこようと思っていた。

 こんなことがあった後ならば、ヴォルフも無理についていくとは言わないだろう。


 再び小枝を投げ込もうとしたロディウスは、誰かの足音を聞いて動きを止めた。

 ヴォルフは焚き火から少し離れたところで、炎に背を向けて眠っている。

 街を出てからも散々泣いたのだろう。

 閉じられた目許は赤い。


 足音がヴォルフのものではないとすると、街の人間が追ってきたのだろうか。

 それが聞こえたのは風下の方からで、匂いを嗅ぎ取ることもできない。

 いったい誰が来たのかと身構え、


「こっの、馬鹿――――っ!」


 ばぼすっ


 聞き覚えのある声と共に投げられた何かが顔に当たり、ロディウスはなす術なく仰向けに倒れた。


「な……ナナエ? なんでここに?」


 ロディウスが身を起こすと、いつも自分が持っていた麻の袋が、顔からぽろりと落ちた。

 それを投げ付けた人物――ナナエに向かって、呆けたような顔で問い掛ける。 ナナエは両手を腰に当てて立っていた。


「なんで、じゃない!」


 怒ったように言い放ち、ずかずかとロディウスの前に歩いてくる。


「なんでオレを置いてったんだよっ」


 逆に問われて、ロディウスは驚いたように唇を震わせた。


「そりゃ……っ、獣人と一緒に旅してるなんて知られたら、ナナエが疎外されるだろうと……」


 珍しく歯切れの悪いロディウスの言葉を聞いて、ナナエは益々眉を吊り上げた。


「オレはそんなの気にしてねえんだよ!

 獣人とか人間とか、そんな括りでしか見てねえ奴らに何言われようが、痛くも痒くもねえよ!

 んなことよりっ……そんなことより……」


 一気にまくし立てるナナエの声が、徐々に遅く小さくなって消えてゆく。

 両手を握り締めて俯くナナエの肩が、小刻みに震えていた。


 ロディウスには、ナナエの表情を窺い知ることはできない。

 彼はゆっくりと手を伸ばし、手探りでナナエの手を取った。

 ナナエははっと顔を上げ、ロディウスは真剣な表情でナナエの手を握る。


「一緒にいたら……後悔するかもしれんぞ」


 小さな声でそう言うロディウスの顔には、相変わらず布が巻いてあって表情が読めない。

 しかしその姿が、なんだか親の庇護を求める頼りない幼子のように見えて。

 ナナエは思わず膝立ちで屈み、ロディウスの頭を抱え込むように抱き締めた。


「馬鹿。オレが自分で選んだことなんだから、後悔するわけねーだろ。ちゃんと王都まで付き合ってやるよ」


「ナナエ……」


 ロディウスは突然のことに多少驚いたようだったがすぐに表情を和らげてナナエの背に腕を回した。

 こんな風に抱き締められたのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。

 少し照れ臭いけれど、とても暖かくて、ロディウスは静かに微笑んだ。


「意外と優しいんだな」


「だから意外は余計だろ」


 二人は少しの間そうしていたが、ヴォルフが寝言を呟きながら寝返りを打つのを見て、慌てて離れて座った。

 幸い、ヴォルフが目を覚ました様子はない。


 ヴォルフを起こさないように、声を殺して笑った。

 その顔が赤いのは、焚き火のせいだけではないだろう。


 その後しばらく他愛ない話をしてから、ナナエが先に眠りについた。

 ロディウスは一人で起きて見張り番をしていたが、焚き火が消える頃になると、見張り交代のためにヴォルフを起こしにいった。

 東の空は、もう明るくなり始めていた。

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