獣の兄弟――あの山越えていざ王都――
ヴェヌスと王都の間には、水の国を南北に分かつポト山がそびえ立っていて、昔はその山を迂回する旧街道しか道がなかった。
しかし今は山の中腹を切り拓いて造られたポトの街を通る新街道があるため、王都に行くまでの時間が大幅に短縮された。
そのため王都へ行くには、新街道を行くのが一番早いのだが、それでも馬車で三〜四日はかかる。
ポトの街では新街道のポト山入り口と、他数ヵ所に関所を設けて、そこに馬車を停泊させ客を乗せる乗合馬車を運営していて、そこから馬車に乗るのが一般的だ。
ポトの街までは山を登らなければならないため、一頭引きの馬車では馬に負担がかかる。
そこで、街までは二頭引きの馬車を使うことになっている。
が、一頭引きの馬車と違って、二頭引きの馬車は乗車賃が高い。
そのため、歩いて山を越える者も少なくはない。
人の足で山を登るのは大変だが、整備された道を歩いていくため、半日もあればポトの街に着く。
高地にあるポトの街は涼しく、住みやすい気候であり、年々引っ越してくる住民の数は増えてきている。
そのため、今でも少しずつ山を拓いて領地を広げているのだ。
山を削って街を造るには、どうしてもそこに住まう動物やモンスターたちを追い出す必要があるのだが、今までポトがモンスターに襲われたという話は聞かない。
実はポトの街では、モンスターを寄せ付けないように、肉食獣が嫌う音を発する機械を、街の随所に設置してあるのだ。
文明の都、火の国から仕入れたもので、効果は折り紙付きだ。
それが馬車にも仕掛けてあるため、安全に山を越すことができるのだ。
乗合馬車の料金が割高なのは、その機械を使っていることもあるだろう。
ナナエとロディウスも、この新街道を使うことにした。
ヴェヌスの領主サイマスによって、ポトの領主殺害事件の正式な調査が始まることになったのだ。
つまり、サイマスが裏で手を回し、ナナエが犯人であるという誤解を解くよう手配してくれたのだ。
ロディウスが持ってきた情報を基に、例のモンスターの調査隊を編成しているのだと、ロディウスから聞いた。
これで安心して、ポトを突っ切る新街道を使うことができるというものだ。
しかし彼らは今、ポトの山を地道に歩いている。
路銀の節約のためである。
ロディウスがヴェヌスまでの道案内の礼にとナナエに渡した金は、ほとんど旅の準備資金となった。
王都までの道案内は、宿、食事代はロディウスの全額負担で、王都に着いたら礼金を渡すという条件で引き受けた。
馬車に乗りたいと言ったナナエの意見は、「ナナエに渡す礼金がなくなる」というロディウスの一言で却下された。
そして二人は晴れ渡った空の下、山登りをする羽目になったのだった。
ポト山に入ってすぐは、ピクニック感覚で歩いていたのだが、山を登って行くにつれて、次第に口数は少なくなり、ついには一言も喋らずに黙々と歩き始めた。
山道は、思った以上にきつい。
少しでも傾斜をゆるくするために、街道はぐねぐねとカーブしており、まっすぐ突っ切った方が早いのではないかと思われた。
が、一度それを実践して諦めた。
整備されていない山道は、もっときつかった。
息一つ乱さず登っていくロディウスの後ろ姿に、肩で息をするナナエが落ちていた枝を投げつけて少しだけ口論になり、やはり素直に街道を歩こうという意見に落ち着いたのだ。
初秋の日差しは意外と強い。
炎天下で歩き続けると、日射病や熱中症になってしまう。
休憩を挟みながら歩くこと三時間、やや西に傾いた日が蔭り、涼しい風が吹き始めた。
後ろから追い抜いていく馬車を見ながら、ナナエは額の汗を拭う。
「少し、涼しくなってきたな」
呟いて振り返れば、遠くにヴェヌスの街並みと海が見える。
海の方の空はまだ晴れていたが、ナナエの頭上では高速で雲が流れていく。
山の上の方から、滑り落ちるように涼しい風が吹いてきて、ロディウスはそこから雨の匂いを嗅ぎとった。
「まずいな。雨が来るぞ」
「マジで?」
ロディウスの言葉に山の頂を見上げると、確かに灰色の雲が広がっている。
ナナエは疲れた溜め息を吐いて、「だから馬車で行こうって言ったのにー」と呟いた。
「今更文句言うなよ。雨宿りできるところを探すぞ」
そう言って歩きだしたロディウスの後ろを、ナナエは仕方なくついていった。
歩き始めてすぐに薄く霧がかかり、やがてそれはまとわりつくような霧雨になった。
もっと上の方では、本格的な雨が降っているだろう。
この街道には、ポトに着くまで店も民家もなく、雨宿りするには山中の木陰に入るしかなさそうだ。
運良く街道を外れてすぐのところに大きな木を発見し、二人でその木の下に駆け込んだ直後に、大粒の雨が降りだした。
枝葉を広げた木は、雨を凌ぐのに充分な大きさをしている。
湿っぽくなった服を乾かすことはできないが、幸いこれは通り雨のようだからすぐに止むだろう。
「そういえば、この山って、昔でっかい火事があったんだってさ」
雨音を聞きながら、ふと思い出したようにナナエが言った。
ロディウスはナナエから顔を背けて頷いた。
「ああ、知ってる」
「へ? なんでロディウスが知ってんだよ。これ、十年以上前の話だぜ?」
ロディウスが街で暮らし始めたのって、最近なんだろ? とナナエが首を傾げる。
ロディウスは遠くを見るように、わずかに顔を上げて言った。
「四年前まで、この山に住んでたんだ」
予想通りすぐに雨は止み、雲の切れ間から太陽の光が差している。
もしかしたら虹でも出ているのかもしれないが、立ち止まって空を見上げるような気分ではなかった。
ナナエは斜め後ろからロディウスの顔を見上げて黙々と歩いている。
この水の国に、獣人が住んでいたとは思ってもいなかった。
ロディウスは外国から来たものと思い込んでいた。
だが四年前までここに住んでいたということは、当然十数年前の山火事も知っているだろう。
ヴェヌスで、ロディウスは十年以上前に事故で視力を失ったと言っていた。
ひょっとしたら、その山火事が原因かもしれない。
いや、恐らくその通りだ。
山火事の話をしてから、いつもより口数が減っている。
いくら昔のことだろうと、思い出したいものではないだろう。
ロディウスの正確な年齢は知らないが、見たところ二十代前半といったところか。
だとすれば、山火事が起きたのは彼が十歳前後の頃になる。
そんな子供が突然の火事で視力を失うなど、どれ程の恐怖と絶望を味わっただろう。
知らなかったこととはいえ、会話の題材としては最悪のものを選んでしまったようだ。
ナナエは、そんな自分自身に苛立ちを覚えた。
「なーんでナナエが落ち込んでんだよ」
振り向きもしないでロディウスが言った。
なんだか、ついこの前も同じようなことを言われた気がする。
「だって、オレのせいで思い出したくないこと思い出させちゃったみたいだし……」
申し訳なさそうに言うナナエの声を聞いて、ロディウスはナナエに顔を向けて微笑んだ。
「意外と優しいんだな」
「意外ってなんだよ!」
これでも一応、褒めたつもりなのだが。
だが褒め言葉になっていないことは確かで、ナナエはむっとして彼の背を軽く叩いた。
「なんで怒るんだよ。褒めたのに」
「褒めてねーじゃん」
ナナエは小走りになってロディウスを追い抜いた。
彼のより大分前に立って振り向く。
「早くしねーと、夜になっちまうぞ」
それだけ言うと、ナナエは再び前を向いて走りだした。
ポトの街から客を乗せた馬車が下ってくるのを見て、「馬車乗りてー!」と叫んでいる。
少しずつ遠ざかっていくナナエの足音を追い掛けて、ロディウスも歩みを速めた。
二人がポトの街に着いたのは、雨で足止めをくったこともあり、西の空が赤く染まる頃だった。
「あー、耳痛ぇ……」
「大丈夫かよ?」
ロディウスは耳を塞いで、宿屋のベッドに突っ伏したまま呻いた。
ポトの街に入ってからというもの、ずっとこの調子だ。
例の、モンスターが嫌う音を発生させる装置のせいである。
人間の耳だと、キーンという甲高い音がわずかに聞こえる程度なのだが、獣人であるロディウスの耳には、相当大きな雑音として聞こえているらしい。
そんなに嫌な音という訳ではないのだが、ずっと大音量の音を聞き続けていれば、体調も悪くなろうというものだ。
「まだ平気だけど……この街には長居したくねぇな……」
か細い声でロディウスが言う。
こんなに頼りないロディウスは初めて見る。
……まあ、まだ出会ってから一週間も経っていないのだが。
ナナエは、珍しいものが見れたと内心喜んでいたが、あんまりロディウスが辛そうなので、ちょっとだけ可哀想に思った。一寸だけ。
「オレ隣の部屋にいるから、なんかあったら呼べよ……って、それ以前にそんなんで今日眠れるのか?」
騒音の中でぐっすり眠れというのも無理な相談だが、だからと言って今から次の街を目指しても、街に着く前に日が暮れる。
山の中で野宿するのは危険だし、何より先程の雨で濡れてしまって、野宿できる場所などないだろう。
「あー、頑張れば。なんとか」
「寝るのに頑張るってどうよ」
少しでも音を遮ろうとしているのか、カーテンを閉めて頭から毛布を被り、両手でしっかり耳を塞ぎながらロディウスは言う。
ベッドの隣の椅子に座ったままロディウスを見下ろして、ナナエは困ったように溜め息を吐いた。
「ちょっと待ってろ、耳栓借りてくるから」
他所の街から来た客にも、装置の音が気になって眠れなくなる者がいる。
そんな客のために、宿屋では無料で耳栓を配布しているのだ。
カウンターに行けば、すぐに用意してくれるだろう。
ナナエは立ち上がり部屋を出ていった。
一階の酒場兼食堂に行くと、なにやら人だかりができ、ざわざわと騒がしかった。
しかしそれは酔っ払い同士の陽気な喧騒ではなく、どちらかというと何か事件が起きて野次馬が集まっている感じである。
どうやらその中心にいるのは、この宿屋の若女将のようだ。
耳栓どころではないらしい。
若女将はしきりに、娘が帰ってこないと繰り返していた。
所々聞き取った話を統合すると、若女将の娘と数人の子供がでかけたまま帰ってこないらしい。
もう日が暮れて辺りは暗くなっている。
遅い時間という訳ではないが、子供だけで出歩いて良い時間ではない。
しかも、つい先日領主の屋敷がモンスターに襲撃されたばかりで、皆いつも以上に不安なのだろう。
あの影のモンスターには、この機械の音も効かなかったのだ。
今日、街の役所から発表された情報では、犯人は新種のモンスターで、現在その生態について調査中とのことだった。
これでは街の中でも安心できないだろう。
ナナエはとりあえず、手近な野次馬を捕まえて詳しい状況を訊いてみた。
「なあ、子供が帰ってこないんだって?」
「あ? おお、なんでも、若女将の娘と、近所の子供が山に薬草を摘みに行ったまま帰ってこないんだと。今、旦那たちが捜しに行ってるんだが……」
「まだ見つかってないんだよ。心配だねぇ」
野次馬たちは他人事のように――実際他人事なのだが――言いながら、青ざめた若女将を取り巻いている。
若女将の隣に立っているのは母親だろうか。
よく似た面差しの老婦人が、慰めるように若女将の肩をさすっている。
やはり耳栓どころではない。
さてどうしようかと考え込んだとき、宿屋の入り口が開いて主人と思しき男が駆け込んできた。
また雨が降ってきたのか、宿屋の主人と一緒に捜索から戻ってきた男たちの服は濡れている。
「だめだ、関所の役人さんも、戻ってきたところは見てないそうだ」
「そんな……」
「役所に捜索は依頼したのか?」
「無駄だよ。こないだの事件で人手が足りないから、そんなことまで手は回らないとさ」
取り乱す若女将とそれを宥める人と、口々に言い合う男たちの声で、周囲は益々騒がしくなった。
「……どうしたんだ?」
騒ぎが聞こえたのか、それとも耳栓が待ちきれなかったのか、二階からロディウスが下りてきた。
「ああ、なんか子供たちが山で行方不明なんだって。なあ、なんとかできないかな?」
「あぁ〜?」
月の家の子供たちを思い出したのか、ナナエは助けを求めるようにロディウスの服の裾を引っ張って訴える。
初めは気乗りしない様子で頭を掻いていたロディウスだが、仕方ない、と呟き野次馬を押し退けて、宿屋の主人に声を掛けた。
「いなくなった子供の人数と名前を教えてくれないか?」
「な、なんだいあんたは?」
「子供たちを捜してきてやるよ。山の中にはちょいと詳しいんでね」
主人は突然出てきたロディウスを不信に思ったのだろう。
しかし若女将は主人を押し退け、藁にも縋る思いで矢継ぎ早に言った。
「三人よ! ミーシャとレミとエリックの三人! ミーシャはうちの子なの!」
「おい、こんな素性の知れない奴に……」
「あの子を連れてきてくれるなら、誰だっていいわ!」
金切り声で叫ぶ若女将に面食らった主人は、思わず後退りする。
それだけ子供が心配なのだろうが、周囲の野次馬たちまで思わず耳を塞ぐ程の大声を出されては、堪ったものではない。
見れば近くにいたロディウスも、手を耳に当てている。
「分かった、そんだけ聞けば充分だ。じゃあ、ちょいと捜しに行ってくるわ」
「だが、お客さんを危険な目に合わせるわけにゃいかないよ」
横から会話に加わったのは、若女将の父親だ。
とうに隠居してもいいくらいの歳なのだが、若者顔負けの快活さで宿屋を手伝っている。
娘婿である主人よりも、ずっとしっかりしていると街では評判である。
「大丈夫さ、こちとらプロの運び屋だ。必ず子供三人、無事にお届けしますよ」
ロディウスはそう言うとナナエに声を掛け、颯爽と宿屋を出ていった。
ナナエも急いでその後を追う。
残された人々は胡散臭そうに見ていたが、二人を追い掛けようとする者はいなかった。
皆、山のモンスターが恐いのだ。
一歩外に出ると、山の中特有の澄んだ空気と、街の中特有の様々な匂いが混じって不思議な匂いがする。
特に今は夕食時を過ぎた頃なので、あちこちの家から美味しそうな残り香が漂っていた。
まだ、晩御飯食べてないや。腹減ったな。
ついそんなことを考えながら、ナナエはロディウスを追い掛けた。
関所までの道は、街に入ってから宿屋までの道を逆に歩くだけだが、日が沈んでしまうと雰囲気も変わり、ともすれば道を間違えそうになる。
しかしロディウスは、まるで勝手知ったる場所のようにすいすいと前に進んでいくものだから、ナナエは驚かずにはいられない。
目、見えてんじゃねえのかコイツ。
今までにも何度か思ったことを、再度頭の中で繰り返す。
いや、寧ろ見えていないからこそ、見た目の雰囲気に惑わされずに済んでいるのだろうか。
だとしても、たった一度通った道を完璧に覚えてしまうなんて、恐れ入る。
ナナエには真似できない芸当だ。
幾度目かの曲がり角を右に折れたところで、関所に着いた。 関所の管理人が、どこに行くのかと尋ねてくる。
「子供が山から帰ってこないんで、捜しに行くんだよ」
「灯りも持たずにか? やめとけ、あんたらまで遭難したらどうすんだ」
言われて初めて気付いたのだが、慌てて宿から出てきたせいで、ランプはおろか、雨を凌ぐ撥水布も準備していない。
しかし獣人であるロディウスには、そもそも必要ないのだろう。
適当に誤魔化して、関所を通り抜けた。
目の前には黒々と山のシルエットが佇んでいる。
夜の山は、巨大な影にしか見えない。
月が出ていなくて良かったと思う。
もしこの山の影があのモンスターに変貌したらと思うと、考えるだけでぞっとする。
「行くぞナナエ。離れるなよ」
山を見上げていたナナエの手を、ロディウスが掴んだ。
ヴェヌスのときとは逆で、今度はロディウスがナナエの手を引く。
なんとなく照れ臭いのだが、ナナエ一人では無事に山を降りられる自信はない。
繋いだ手を離さないように寄り添ったまま、二人は山へと入っていった。
「…………」
「…………」
ざくざくと草を踏みしめる音と、ぱらぱらと雨が葉を叩く音だけが響く。
じっと雨を凌いでいるのだろう、野生動物の鳴き声すら聞こえてこなかった。
二人は無言で歩いていた。
山に入ってすぐに、ナナエが大声で子供たちを呼ぼうとしたのだが、ロディウスによって止められたのだ。
そんなことしなくても捜せると言って。
どう喉を使えばそんな声が出せるのか解らないが、ロディウスはまるで鳥の鳴き声のような音を口から発した。
すると周囲から動物の鳴き声や唸り声が聞こえてきて、すぐに静かになった。
「近くにはいないみたいだ。もうちょっと奥まで行ってみるか」
ロディウスはそう言って、ナナエの手を引いて歩きだした。
「ちょ、何今の? 何語? その前に人語?」
訳が分からない様子でナナエが首を傾げる。
頭上には大きな『?』マークが二つ三つ浮かんでいそうだ。
「獣人は動物の言葉が話せるんだよ。まぁ厳密には『言葉』じゃないんだが……聞きたいか?」
「……いい。難しい話になりそうだから」
早々に理解することを諦めたナナエは、ぷるぷると首を振った。
とりあえず、ロディウスは動物と喋れるということだけ解っていれば問題ない。
それから二人は、しばらく歩いては山の動物に訊ねるということを繰り返した。
そして四回目の呼び掛けに、初めて違う返事が聞こえた。
少し離れたところから、狼の遠吠えのような声が聞こえたのだ。
するとそれまで平静だったロディウスが、弾かれたように顔を上げて、声のした方を向いた。
暗くて見え辛かったが、その顔は何かに驚いているようだった。
「どした? 子供、見つかったのか?」
「あ? あぁ、いや、でもまさか……」
はっきりしないロディウスの言葉に、ナナエは表情を曇らせた。
子供たちに、何かあったのだろうか。そう思ったのだ。
しかしそうではないらしい。
ロディウスはナナエの手を引いて再び歩き始めた。
若干早足だと感じるのは、ナナエの気のせいではない。
今までは目的地がはっきりしないまま探るように歩いていたのだが、今は目指す場所を発見したように、しっかりした足取りで歩いている。
ナナエは転ばないように、足元に注意するだけで精一杯だった。
しばし歩き続けると、わずかに視界が開けた。
木々がまばらに生えているその場所には、小さな沼があった。
何度も躓き転びそうになりながら、ロディウスについてきたナナエは彼が足を止めたので、ようやく一息つくことができた。
「はぁ……ここにいるのか?」
随分街から遠ざかってしまっている。
子供の足ではここまで来るのは難しいのではないかと思えたが、山に慣れている子供たちの方が、ナナエよりはよほど上手く山を登れるらしい。
ロディウスは確実にナナエ以外の人間の匂いを嗅ぎとっていた。
本降りになった雨と風でかすかにしか嗅ぎとれないが、子供たちは確かにここにいる。
ロディウスは再度、鳥の鳴き声のような声で呼び掛けた。
返事は、予想以上に近くから聞こえた。
『……にぃ、来た! ここ!』
しかし聞こえたのは先程の狼の声ではなく、ヒトの声だった。
それも壁一枚隔てた先から喋っているように、やたらくぐもって聞こえる。
「な、何だ? 子供の声……じゃないよな?」
声の出所を探して、ナナエは周囲を見回した。
たった今返事をした声は、幼い子供の声ではなく、若い男のものだった。
大きな耳をピンと立て、声のする方向を探っていたロディウスは、更に声の場所を断定するべく、声の主に問い掛けた。
「人間の子供は無事か?」
『……うん、平気』
その声は沼の方から聞こえた。
沼に近寄って行くと、途中に段差があり、軟らかい土が崩れたようになっている。
どうやら、声の主はこの下にいるようだ。
すぐに掘り出そうとしたのだが、軟らかい土は脆く、掘ったそばから崩れていく。
「どうすんだよ。こんな軟らかくちゃ、オレたちだけじゃ穴掘るのは無理だぜ?」
雨でぬかるむ地面に辟易しながら、ナナエは濡れた額を手で拭う。
雨が降り続ける中では、いつまた土砂崩れが起きるか分からない。
このまま放っておくことはできないが、かといって力任せに掘り進めることも危険だ。
更にこういうときに限って、畳み掛けるように事態を悪化させる要因が重なる。
人の気配を嗅ぎつけたのか、モンスターが寄ってきたのだ。
まずその気配に気付いたのはロディウスで、彼はすぐさまナナエに警告を発した。
「ナナエ、モンスターだ。近付いてきてる」
「マジかよ! ったく、こんなときに!」
ナナエは苛立ちを隠そうともせず、雨に濡れて顔に張りつく髪を払いながら舌打ちする。
元から目が見えないロディウスには、夜間の戦闘も苦ではないが、視覚に頼るナナエには、モンスターの影を捉えることは難しい。
しかし、このときばかりはナナエに分があった。
「オレがやるよ。伊達にモンスター狩り専門のハンターを名乗ってるわけじゃないぜ!」
「ほぉ、それじゃ、ここはナナエに任せようかな」
面白そうに言うロディウスから一歩前に出て、ナナエは目を閉じた。
水の流れを感じるのだ。
ナナエの血が、魂が、力の扱い方を教えてくれる。
降り来る雨が、空中でぴたりと静止した。
真珠のような雨粒は、ナナエたちの周囲を囲むように漂い始める。
ようやくナナエの耳にも、近寄ってくるモンスターの吐息が聞こえた。
現れたのは、頭だけを大きくした、狼のような姿をしたモンスターだ。
害獣駆除協会の指定危険獣ランクはC。
強くもなく弱くもなく、といったところだが、一般人には充分脅威である。
その数三頭。
空中に漂う雨粒に、モンスターの鼻先が触れた瞬間、ナナエは大きく右手を振り上げた。
不規則に漂う雨粒の動きがぴたりと停まる。
モンスターが飛び掛かるのと、ナナエが手を振り下ろしたのは同時だった。
ナナエの意思に従い、雨粒が銃弾のようにモンスターに襲い掛かる。
たかが水と侮るなかれ。
高速高圧で飛来する水滴は、時に分厚い岩盤にさえ穴を開けるのだ。
まさしく弾丸と化した水滴は、次々とモンスターの身体に撃ち込まれる。
弾切れなどということは、決してない。
何しろ原料は雨粒なのだ。
雨が降り止むかナナエが止めるまで、弾丸シャワーは続く。
果たしてモンスターは、その発達した牙の威力を振るうことなく、断末魔の余韻を残して崩れ落ちた。
その間わずか数十秒。
戦闘は、まさしくあっという間に幕を下ろした。
ヒュウ、とロディウスが口笛を吹く。
「流石。こりゃもう、ナナエをからかったりできないな」
怖い怖いとおどけたように言うロディウスに、ナナエは得意げに笑った。
「あったりまえ。ナナエ様はロディウスが思ってるよりずっと強いんだぜ!」
ナナエの支配が解けた雨は、何事もなかったかのように降り続ける。
モンスターの血を洗い流すには、雨の量が足りない。
濡れた土と緑の匂いで紛れているが、やはり血の匂いが鼻につく。
その匂いにつられて他のモンスターが現れる前に、生き埋めになっている子供たちを助けないといけない。
「さて、ナナエにばっかり働かせる訳にはいかないな。ちょっと退がってろ」
ロディウスはナナエに離れるように合図を送ると、例の鳥のような声で叫んだ。
するとその声に応えるかのように、山の木々がざわりと揺らめく。
草を掻き分けて現れたのは、小さな穴鼠だった。
ポト山周辺に住む鼠で、地面に穴を掘って巣を作る習性を持つ。
それが一匹や二匹ではない。
山中の穴鼠が集まったのではないかという程、大量の鼠が押し寄せてきたのだ。
地面が見えない程の数の鼠を見て、ナナエがうっと息を呑む。
その大量の鼠はナナエには目もくれず、崩れた土の上に群がって一斉に穴を掘り始めた。
しかも穴鼠たちは、土を掻き出す役、掘った土を捨てる役など、知能を与えられたように役割分担をして効率良く地面を掘り返している。
ロディウスが鼠たちに指示を与えているからだ。
獣人は動物と会話するだけでなく、ある程度自在に操ることができるのだ。
人の手では何時間もかかったかもしれない作業を、鼠たちは一時間足らずで見事に終わらせた。
元々洞穴があったと思しきその場所に、ぽっかりと大穴が開いたのだ。
鼠たちは作業を終えると、我先に自分の巣穴へと帰っていった。
鼠が開けた穴から中を覗き込むが、中は暗くて何も見えない。
しかし穴に向かって声を掛けると、すぐに奥から返事が聞こえた。
「おーい、大丈夫かー?」
「平気。今、行く」
くらい洞穴の奥で、二つの金色が見えた。
それが目だと気付いたときには、声の主は洞穴の出口まで歩いてきていた。
「外、出た!」
「助かったの?」
「うわーん!」
声の主と一緒に出てきた三人の子供は、ずっと張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったのだろう。
ナナエとロディウスの姿を見つけると、大声で泣きだした。
そして、もう一人。
「わあああん、にぃーっ!」
見知らぬ男が、大泣きしながらロディウスに飛び付いた。
その姿に呆気にとられたのは、ナナエだけではなかったらしい。
泣きじゃくっていた子供たちまで、その光景を目を丸くして見つめていた。
抱きつかれた当のロディウスは、苦笑いしながらその青年の背中を叩く。
「こら、離せ」
「怖かったぁぁぁ!」
ロディウスに抱きついて離れないその男を見て、子供たちは可笑しそうに笑った。
「やーい、泣き虫!」
「ヴォルフはお兄ちゃんなのに、泣き虫!」
「泣き虫ヴォルフだね!」
子供たち全員から泣き虫との評価をもらったヴォルフは、まさしく泣き虫らしく、なかなか泣き止まない。
ナナエは思ったよりも子供たちが元気そうで安心したが、ひとまず怪我がないかを調べた。
「えっと、ミーシャとレナとエリック、だっけ?
皆、怪我してないか? 痛いとこは?」
「だいじょぶだよ」
「あのね、ヴォルフが助けてくれたんだよ」
「でも泣き虫なの」
ねー? と三人は顔を見合わせて笑った。
どうやらあのヴォルフという泣き虫な青年が、子供たちを守ってくれていたようだ。
そのヴォルフはようやく泣き止んだらしく、ぐずぐずと鼻をすすっている。
ロディウスは呆れたように笑いながら、自分より高い位置にあるヴォルフの頭を撫でていた。
どうもお互いに初対面ではないようだ。
昔馴染みの友人なのかとも思ったが、それもなんとなく違うように感じられた。
「ロディウス、そいつ何? 知り合い?」
ナナエが訊ねると、ロディウスはヴォルフから手を離し、言い辛そうに頭を掻いて一言こう言った。
「弟だ」