水の剣士――宵月夜の事件――
簡単な仕事のはずだった。
いつも通り屋敷に忍び込み、金目の物をいただいて逃げてくるだけの、よくある儲け話。
夜も更けて人通りの少ないこの路地には、人の姿はナナエ以外にいない。
そう、『人』の姿は。
(どうなってんだよっ)
ナナエは声に出さずに、心の中で舌打ちをした。ぞわぞわと影が蠢く街路樹の下で。
ナナエはここ、水の国の街で育った。
歳はまだ十六だが、中々の剣の使い手で、懸賞金のかかった指定危険獣……所謂モンスターを倒して金を稼ぐ、ハンターをしている。
そのハンターがなぜ屋敷に忍び込もうとしているのか?
ナナエには、どうしても金が必要だったのだ。
実を言うと、懸賞金のかけられたモンスターなど、早々見付かるものではない。
そのほとんどを、国の討伐隊が狩ってしまうからだ。
それでも討伐隊の取りこぼしや、群れから離れて街を襲うモンスターがいるため、ナナエのような個人のハンターは重宝されている。
指定危険獣を狩ることができなくなったときや、急に金が入り用にになったときなどに、ナナエはこうして、盗賊紛いのことをしている。
今までにも、盗んだ金で生活したことは少なからずあった。
やってはいけないことだと解ってはいたが、今回だけ今回だけと言い訳をして、何度も盗みを働いた。
盗みをすることに対しての罪悪感はあまりない。
それよりも、恩人との約束を破ってしまっているということの方が、ナナエにとっては重罪のように思えた。
黒いものが視界を横切った。
ナナエは思考の海に沈みかけていたところを、ぶんぶんと頭を振って現実に意識を戻す。
今回も、盗み自体は楽な仕事だと思っていた、のだが……
いつも通りに隠れて屋敷の中を窺っていると、薄汚れた白衣を着た一人の男が、屋敷に入っていった。
来客の予定はなかったはずだ。しかも、こんな真夜中に。
今回は失敗かと思ったその矢先、月明かりに照らされた影が、ぐにゃりと曲がったのだ。ナナエが隠れていた、街路樹の影が。
(なんだっ!?)
声が出そうになるのを慌てて抑え、ナナエはその光景を凝視した。
その間にも影は街路樹から切り離され、ひとりでに動きだし、徐々に立体的になってゆく。
それは見る見るうちに姿を変え、ヒトの姿を真似て作られた、不恰好な人形のような姿に変貌した。
だがそれだけではない。
ナナエの周りにあるすべての街路樹の影から、同じような異形のモンスターが生まれてきたのだ。
そのすべてが、手の先が鎌のように鋭く変貌している。
影のモンスターは、ナナエには目もくれずに屋敷の方へと移動を開始した。
いったいどうなっているのかとナナエが街路樹の陰から飛び出したのと、影のモンスターがテラスに続く大きな窓を割ってリビングに侵入したのは、ほぼ同時だった。
ガシャンと硝子の割れるけたたましい音が、夜の静寂に響く。
屋敷の中からは、家人の悲鳴が聞こえてきた。
(おいおいおい! 何なんだよいったい!)
ナナエは咄嗟に腰に佩いた剣を抜き、影を追って屋敷へと駆け出した。
「とにかく、中の人を助けねえと!」
盗みがどうのなどといっていられない。今は人命が優先である。
ナナエは勢いよく割れた窓から中に入った。
窓を通り抜けざまに、一番後ろにいた影を切る。
ガツッ! と、何か堅いものに当たったような手応えがした。
まるで木に剣を叩きつけたような感触だ。
(なんだこいつ!)
ナナエは影のモンスターが硬いと解ると、すぐに剣を引っ込めた。
どれ程頑丈な皮膚でできているのか知らないが、剣が効かないならば無理に戦っても意味がない。
ナナエの剣は、名刀と呼ぶには若干拙い。
女の細腕でも振るえる細身の剣だけあって、力任せに斬ろうとすると、折れてしまう。
屋敷の中の人を、できるだけ避難させることの方が重要だ。
ナナエはすぐに思考を切り替え、影のモンスターから離れて部屋の中にいる人間を捜した。
しかし、床には既に大量の血が流れており、生存者がいることは絶望的に思えた。
影がようやくナナエの存在に気付き、向きを変えて迫ってくる。その瞬間に、ナナエは見た。
影たちの向こうに倒れている男の姿を。
ナナエはその顔を知っていた。
この屋敷の主にして、この町の領主のものだ。
とんだ修羅場に首を突っ込んでしまったと、ナナエが後悔し始めたそのときだ。
「きゃあああああ!」
知らない女の悲鳴が、耳から脳天に駆け抜けていく。
超音波のような甲高い声に眉間を寄せ、ナナエは声のした方向に目を走らせる。
廊下へと繋がる扉が開いて、そこに女中の服を着た若い娘が立っていた。
そのメイドは床に倒れている主の姿を見つけたのか、真っ青な顔で何事か叫んでいた。
混乱しているのか、足が竦んでしまったのか、その場から逃げようとしない。
影のモンスターが彼女を標的とするのは必至だ。
「逃げろ馬鹿野郎!」
ナナエの叫び声でメイドはようやく我に返り、悲鳴を上げて走っていった。
それを追い掛ける影の足を止めようと、ナナエは挑発するように剣を振り回す。
この全身真っ黒な影のモンスターに目が付いているのか、付いていても見えているのかどうか疑問だったが、影のモンスターは標的をナナエに変更して一斉に襲い掛かってきた。
ナナエの得物は小振りな剣が一振りのみ。
これだけでこの影のモンスターの相手をしていては、
「こっちが先にやられちまうかもな!」
しかし、まだ屋敷内に残っているであろう使用人たちを、見捨てる訳にはいかない。
ナナエは部屋の中央にある大きなテーブルに飛び乗り、更に高く跳躍して影のモンスターを飛び越えた。
そのまま先程メイドが開けた扉から廊下に出る。
影の動きが然程素早くないのが幸いした。
訓練をしていない普通の人間にとっては脅威だが、ナナエにとっては遅すぎる。
このまま、影たちを足止めしながら、屋敷の人間を避難させることができればそれでいい。
モンスター退治は正規の討伐隊にやらせればいいし、盗みはまた明日にでも違う屋敷に入ればいい。
ナナエは廊下に出てすぐに、屋敷の使用人たちに聞こえるように声を張り上げた。
「みんな逃げろ! 殺されちまうぞ!」
ナナエの声を聞き付けたのか、モンスターが暴れる音を聞いたのか、すぐに人が集まってきた。
屋敷の警備兵らしき格好をした男たちだ。
その中に、先程のメイドが交じっていた。
「おい何してんだ早く逃げ……」
「あいつですっ!」
ナナエが言い終わる前に、メイドがナナエを指差して叫んだ。
「あいつが旦那様を殺したんですっ」
「へ? ええぇぇぇぇえ!?」
あまりにも突然の言葉に、ナナエも思わず足を止めた。
「なんてことだ!」
「貴様よくも!」
警備兵たちがざわめきながらも武器を構える。
ナナエは何故そんな解釈になるのか訳が分からず、狼狽して首と両手を横に振った。
「ちょ、ちがっ! 何言ってんだお前!」
「何が違うものか! その剣は何だ!」
「これはモンスターを……」
そのとき、ナナエの話を遮り、扉が吹き飛んで廊下の壁に激突した。
やたら景気の良い音をたてて、扉が粉砕される。
分厚い樫の扉が破壊される様を見ると、このモンスターは中々力があるようだ。
ナナエを含む全員が、音に驚いてそちらを見る。
部屋の中から、影のモンスターが一斉に飛び出してくるところだった。
「何だあれはっ!」
「あいつの使い魔では!?」
「何でそうなるっ!」
警備兵とメイドとナナエと、三者三様に叫びながら、モンスターの襲撃を避けた。
ナナエが身を引く目の前を、黒い枝のような腕が横切る。
メイドは他の使用人たちと一緒に、ようやく避難を始めたようだ。
狭い廊下は、大量の影が溢れて一気に乱戦となった。
木のように堅いモンスター相手では、ナナエも警備兵も役者不足だ。
徐々に追い込まれ、ナナエは隙を見て手近な部屋に滑り込んだ。
一度部屋に隠れて態勢を立て直すためだ。
影の隙間を縫って巧く警備兵たちの目を盗んだようで、誰もナナエが廊下から消えたことには気付かなかった。
ナナエが入ったその部屋は、皓皓とランプの明かりが照らしていたリビングや廊下と違い、蝋燭の灯り一つなく、真っ暗だった。
ふぅと詰めていた息を吐き出すと、部屋の奥で何かが動くような気配がした。
「誰だ!」
幾分潜めた声で誰何すると、その誰かは力なく答えた。
「……敵じゃねーよ。一応、な」
とりあえず襲ってくる気配はないことを確認し、ナナエは声の主に近付いていく。
そこにいたのは、見慣れない無精髭の男だった。
屋敷の使用人ではないようだ。
よれた白衣に安っぽい服。 そして漂う、濃厚な血の匂い。
顔色が青白いのは、月明かりの所為だけではないだろう。
腹の辺りを押さえて蹲っている。
その男の薄汚れた白衣を見て、先程屋敷に入っていった人物なのだとナナエは思い至った。
「……あんた、怪我してんのか」
「見りゃ解るだろ……それより、ちと頼まれてくれないか」
男が取り出したのは、小さな筒状の金属だった。
先端と側面に小さな穴が開いていて、まるで笛のようだ。
「何だこれ」
ナナエが訝しげに首を傾げると、男は荒い息を吐きながら言った。
「犬笛みたいなもん、だな。思いっきり吹いてくれ……今の俺じゃ、息が続かないんだ」
その男は苦しそうに眉根を寄せる。
ナナエはその犬笛を受け取って、しげしげと眺めた。
暗い部屋の中で、窓から差し込む月明かりを反射して、鈍く光っているように見える。
「これを吹くと、愛犬が助けに来てくれるとでも?」
「そうだよ……いいから吹け」
ナナエは小さく肩をすくめて笛を口に当てた。
すぅと息を吸って強く笛に流し込む。
犬笛の音は人間の耳には聞こえない。
その笛が正しく鳴っているかどうか、ナナエには判らなかった。
言われるままに数回繰り返して吹くが、彼の愛犬がやって来る気配はない。
ちゃんと吹けているのだろうか。
それとも壊れているのでは?
そんな疑念が頭を過り、ナナエは笛から口を離して男に顔を向けた。
「これ、壊れてんじゃねえの? なんも来ないじゃん」
「…………」
しかしナナエの声に男は答えなかった。
いや、もう答える気力も尽きていたのか、彼は苦悶の表情を浮かべて浅く呼吸を繰り返すだけだ。
そんなに傷が酷いのかと、ナナエは断りもせずに白衣を捲った。
自分で応急処置はしたようだが、深いところまで斬られているのか、止血のために巻いた布は、既に赤く染まっている。
このまま放っておけば、確実に死んでしまうだろう。
彼を背負ってでも安全な場所に連れて行こうかと思案したとき、ふと窓から差し込んでいた月明かりが翳った。
何事かと顔を上げたナナエの目に、窓の外で羽を広げる大きな鳥の姿が飛び込んできた。
しかしそれもほんの一瞬で、鳥は窓を突き破って部屋の中に文字通り飛び込んでくる。
かなり大きな音をたててガラスが割れ、ナナエは飛び散った破片から咄嗟に怪我をしている男を庇った。
鋭利な破片がむき出しの腕や脚に小さな傷を作るが、そんなことがどうでもよくなるくらいに、ナナエは目の前に現れた得体の知れない巨鳥に見入っていた。
なぜかその身にぼろ布を巻いたような服を纏っていたが、猛禽類を思わせる褐色の羽根に覆われた身体はしなやかで、翼の先端の白銀の風切羽が月光を反射している。
人間よりも一回りは大きなその鳥は、いきなりナナエごと男の身体を足で掴み、入ってきたときと同じように窓から飛び出した。
窓が割れた音を聞き付けた警備兵が部屋に入ってきたのは、その直後だった。
警備兵がナナエの許に駆け付けるよりも早く、巨鳥はナナエと怪我をした男をを連れて空高く舞い上がった。
「えっ、待っ、うわああああ何だこれ!」
足元に広がる街並みがどんどん小さくなっていく。
ナナエは慌てて逃げようとするが、がっちりと身体を掴まれており、外そうとしてもびくともしない。
それにたとえ外れても、この高さから落ちたらひとたまりもないだろう。
人が豆粒に見えるような高さまでくると、流石にナナエも逃げ出すことを諦めて口を閉ざした。
顔に当たる夜風が冷たい。
どこに連れていかれるのかも心配だったが、男の容体も心配だった。
早く適切な処置ができるところに連れていかないと、本当に死んでしまうかもしれない。
やがて数分もしないうちに、眼下に広がる街並みが見慣れないものになってきた。
どうやら違う街まで飛んできたらしい。
すると鳥は街のはずれの方にある、一軒の家の前に降り立った。
ようやく地に足を着けることのできたナナエは、ほっと胸を撫で下ろす。
とにかく、今日は散々だった。
文句の一つも言ってやろうと、鳥に目を向けたときだ。
大きな鳥が突然ぶるぶると震えだし、甲高い声で鳴いて蹲った。
驚いたようにナナエが見守る中で、その鳥は急激に小さくなり、全身の羽毛も抜け落ちて人の姿へと変貌していく。
それはほんの数瞬のうちに、完全な人間の姿になった。
ナナエが呆然と見ていると、鳥だった人は近くに倒れていた怪我の男を抱き上げて、家の中へと入っていく。
途中でふと足を止めて、鳥人間はナナエを振り返った。
「何してんだ。早く来い」
言われて、ナナエはぽかんと口を開けた。
巻き込まれただけの自分は、この場に放っておかれるか、運が悪ければ始末されることもあるかと思っていたのだが。
しかし、鳥人間にはナナエに対する殺気は微塵もない。
だがそれよりも何よりも一番驚いたのは、
(喋った!)
ということである。
いくら鳥人間とはいえ、今は人間の姿をしているのだから喋ってもおかしくはないのだが、如何せん先程までの巨鳥の姿が強烈すぎて、目の前の青年が人の言葉を喋れるなどとは考えもしなかったのだ。
ナナエは慌てて鳥人間の後を追い掛けた。
あまりのことに頭が混乱して、この場から逃げるという選択肢がすっぽ抜けてしまったのだった。




