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TRUE DAWN  作者: 三九
17/18

月の精霊――精霊に愛されし者――

 頭の中に、この世界の情景が流れ込んでくる。

 精霊が創り上げた世界。

 徐々に生まれ出でる生命たち。

 そして、知恵をつけた人間たちによる、争いの日々。


 人々は恨み、憎み、嘆き、絶望する。

 人々の心の叫びが、彼女を蝕んでいくことも知らず。

 人々の心の叫びが、彼を狂わせていったことも知らず。


 ──私は、生まれるべくして生まれたあの子たちを、怨んでいない。


 少女は痛みに蝕まれながらも、穏やかに言う。

 その言葉は、少女の前に立つ彼にも向けられた。


 ──あなたはすべてを許すことができる? すべてを愛することができる?


 ──……解らない。


 彼は静かに首を振る。

 だが彼は、彼には兄と交わした約束があった。

 それだけは遵守すると、この名に誓ったのだ。


 ──幾千の棘にその身を絞められ、幾億の刃に切り裂かれるような痛みを伴うことよ。それでもあなたは……


 少女の問いにも、彼は揺るがない。

 その瞳は真っ直ぐに少女を、世界を、その中にいる彼女たちを見つめていた。




 心の中が、酷くごちゃごちゃしていた。

 何かとても悲しいことがあって、それから目を逸らしたかった。

 だからナナエは現実に目を背け、こうして横たわっている。


 大切な人も、大好きな人も、ようやく知った自分の思いもすべて呑み込んで、この世界は終わりを迎えようとしている。


(だから何だって言うんだ。オレはもう、何も見たくない。だから、このままでいいんだ)


 ナナエの心で、悲痛な声が鳴り響いた。

 それが自分の声だということに気付いたナナエは、それすら聞きたくなくて耳を塞いだ。


 大切な人たちが待っている。

 でも、大好きな人はもういない。

 ならば、この世界で生きる意味なんて、あるのだろうか?


 ――だめだよ、そんなんじゃ。


 ナナエの心の中に、別の声が響いた。

 聞き覚えはあるが、誰の声なのか解らない。

 どこかで聞いたことのある、とても懐かしい声。


 ――きみが必要なんだよ。だから、起きて。


 先程からその声が、ナナエの中で扉を叩いている。

 ナナエの眠りを妨げるように、何度も、何度も。


(うるさい。もうあんな思いしたくないんだ。放っておいてくれよ)


 ナナエはその声から逃げるように身を縮めた。

 それでもその声は、ナナエにしつこく語り掛けてくる。

 あまりしつこいものだから、ナナエは堪らず目を開いた。


(しつこいなあ! お前ら誰だよ!)


 真っ暗な空間に、一筋の光が差し込む。

 淡い水の色をした光だ。

 ひどく懐かしいその光から、その声は聞こえた。


 ――酷いよ。ずっと一緒にいたのに、私たちのこと忘れちゃったの?


 透明な光の中で、水の泡が弾けた。

 小さな水紋が徐々に広がり、ナナエのいる場所を揺らし濡らす。

 温かな水の波動を感じ取り、ナナエはゆっくりと瞬きした。


(水の、精霊?)


 ――そうだよ。はじめまして。


 ナナエが再び目を開いたとき、その光は人の姿になっていた。

 ややきつめの大きな瞳、背中まで伸ばした長い髪、男顔負けの勝ち気な笑みを携えた口許。

 そのすべてが透き通っていたが、その姿は間違いなくナナエ自身だった。


(オレと同じ……)


 ――そうだよ。精霊界での姿は人間には見えないから、きみの心を借りたんだ。


 初めて見る水の精霊は、ナナエとよく似た姿と声でお辞儀する。

 ナナエはその光景を、ただ呆然と眺めていた。


 ――お願い、月の精霊を止めて。彼は、この世界の人間を滅ぼして、精霊の王になろうとしている。


(どういうことだ?)


 訝しげに眉をひそめるナナエは、水の精霊からすべてを聴いた。

 そしてようやく、この事件の本当の意味を知ったのだ。




 月の精霊は、この世界のあらゆる負の感情を取り込み、浄化する存在だった。

 それがいつしか、人間が垂れ流す大量の負を抱えきれなくなってしまったのだ。

 月の浄化さえ間に合わない程、人間は日々争いを繰り返し、その度に大量の負の感情を撒き散らしている。


 負が世界に溢れれば、この世界そのものが死滅しかねない。

 精霊たちが創ったこの世界が、後から生まれた人間によって壊されてしまう。


 最も身近に負を感じていた月の精霊は、この世界を守るために、人間を根絶やしにすることを決意した。

 少しずつ力を蓄え、己の力を分け与えた影を生み出し、人間たちを襲わせる。

 必要以上に負を撒き散らす人間さえいなくなれば、この世界が安定すると思い込んで。


 或いは、月の精霊は既に狂ってしまったのかもしれない。

 生物の最も陰湿な感情をその身に取り込み続け、次第に己の存在自体が負となったか。


 何がきっかけになったのかは定かではないが、月はすべての人間を憎むようになった。

 己のしていることが、更なる負を生み出す原因となることすら、解らない程に。




 ――でも違うんだ。人間だってこの世界を構成する魂の一種。人間がまったくいなくなってしまったら、それこそ世界が滅んでしまうかもしれない。

   月はそれに気付いていないんだ。私たちが言っても、まるで聴いてくれない。もう力ずくででも止めなきゃいけないのに、精霊は精霊に直接危害を加えることはできないんだ。


(だから、オレたち人間が、月の精霊と戦うしかないってことか)


 ナナエの呟きに、水の精霊は眉根を寄せて苦々しく頷いた。


 ――ごめんね。きみたちに押しつけてしまって……


(仕方ない、だろ。元々、世界を脅かしていたのは人間なんだから)


 ナナエは小さく首を振り、遠い目をして虚空を見つめた。

 人間が争いを重ね、負の感情を撒き散らしたことを罪として、月の精霊はその罪に対し罰を下そうとしているのだ。

 罪を犯したならば、相応の報いを受けて当然だ。


 しかし彼は……ナナエの大好きな人は、こう言った。

 罪に与えるべきは罰ではなく、償いだと。


 知らなかったこととはいえ、この世界を滅びに向かわせたのが人間ならば、人間が責任を持って世界を再生させなければならない。


(お前なら、そう言うはずだよな、ロディウス……)


 その呟きと共に、一面暗闇だった景色が一変する。

 仄かに明るくなり、足元にはナナエを支えるように温かな水がたゆたう。

 水の精霊に愛された少女は、しっかりと前を向いて立っていた。


 ――ありがとう。ナナエ、大好きよ。


 水泡が弾けるような、独特の余韻を残して水の精霊は姿を消した。

 だが、透明で暖かな光が自身の中に宿るのを、ナナエは感じる。


 精霊はとても近くにいて、ナナエを、人間たちを、この世界を見守ってくれているのだ。

 その思いに応えるべく、ナナエは前へ足を踏み出した。




 気が付けば、窓の外には大きな赤い月が浮かんでいた。

 天地が逆さまに映っていることから、自分が仰向けに倒れていることが解る。

 頬が濡れていることに気付いた。

 どうやら泣いていたらしい。


 覚醒直後で高ぶる心を抑えると、直前までの記憶が一気に押し寄せてきた。

 目の前で倒れたロディウスに驚くあまり、不覚をとったのだ。

 そのときの光景を思い出し、心の奥が激しく痛む。


(落ち着けって。あれはきっと幻だ。ロディウスはもう、死んだんだから)


 少なくとも、自分が刺し殺した訳ではない。

 ナナエは冷えた空気を思い切り吸い込む。

 ようやく、頭も冷えてきた。


 自分はこうして倒れているが、聖王から昏倒するくらい強烈な攻撃を受けた覚えはない。

 しかし身体全体が鉛のように重く、手足を動かすのでさえ容易ではなかった。

 まるで、生気をすべて吸い取られてしまったかのようだ。


 ナナエは目だけを動かして周囲の状況を確認した。

 少し離れた場所から、黒い狼がこちらに向かって吠えている。

 あれが誰なのか解らないが、何を叫んでいるのかは解る。

 狼は、ヴォルフの声でこう言っているのだ。


「ナナエ、立て!」


 その声に鼓舞されるように、ナナエは手足に力を入れた。




 ヴォルフは謁見室の中央で、レイオンとぶつかり合った。

 半獣化した今、二匹の獣は今までの数倍の力で互いを殴り合う。


 それぞれの拳を反対側の手で受け止め、互いに片足を上げて腹を蹴り合い、間合いをとる。

 一撃の重さが、先程までとはまったく違う。

 二人が地を蹴るだけで、絨毯に埋もれた大理石の床には亀裂が入り、二人が拳を打ち合うだけで、空気が震えて窓にはめ込まれたガラスが振動した。


 二人の力は互角か、否、ややレイオンが上回るか。

 倒れたナナエを目にしたことで、ヴォルフの中に生じた焦りが、その差を生んでいた。

 何度目かになる殴打が互いの顔を打ち据え、二人の身体が床に転がった。


「何を遊んでいるの、レイオン。せっかく強化してやったのに、使えない子だね」


 レイオンの背後から、二人の闘いを傍観していた聖王の声が割って入った。

 レイオンは聖王には顔を向けず、苦々しく舌打ちする。

 聖王の言葉に動揺したのは、ヴォルフの方だった。


「強化……? どういう、こと?」


 ヴォルフの問いに答えたのは聖王だ。

 ナナエにも見せた意地の悪い笑みを浮かべて、ヴォルフの目を見据えている。


「レイオンはね、僕が拾ってあげたんだよ。強くなりたいって言ってたから、強くしてあげたんだ」


 ほら。と、そう言ってレイオンの頭に生えた山羊の角を指差した。


「これは弟の角」


 続いて右の背中に生えた蝙蝠の翼を指差す。


「これは妹の羽」


「……やめろ」


 レイオンが小声で抗議するが、聖王は構わずレイオンの蛇のような尾を指差した。


「これは母親の尾」


 続いて少し毛色が違う左腕を指差す。


「これは弟の腕」


「よせ」


 レイオンが、先程よりも大きな声で言う。

 しかし聖王は耳を貸すつもりはないらしい。


「これは母親の脚」


 聖王は言いながらレイオンの右脚を指差した。

 ヴォルフが声もなく凝視する中で、聖王は左の背中に生えた猛禽類の翼を指差した。


「これは弟の翼。一番新しいパーツだよ」


「黙れ!」


 レイオンの叱責が飛ぶが、聖王は素知らぬ顔でヴォルフの反応を見ている。

 見ていると言うよりは寧ろ、観察していると言った方が正しいだろうか。

 ヴォルフが目を見開いて鳥の翼を見つめる様を、まるで実験動物を見るような目で眺めているのだ。


「それ、まさか……」


 ヴォルフの声がかすれている。

 血塗れでナナエに抱かれていた兄の姿が、脳裏を過ぎった。


 失われていた左腕。そしてレイオンの背に生える、左の翼。


 聖王は笑顔でもって、その考えを肯定した。


「タギウス、マヤ、メイラ、アリキス、タルラ、ロディウス……皆、きみの家族だったね」


「ダーク!」


 レイオンの怒りが込められた声が、聖王の言葉を遮る。

 鋭い瞳が、聖王を捉えていた。


「余計なことを言うな。これは決闘だ」


 喉の奥から低い唸り声を発し、聖王を威嚇する。

 聖王はひょいと肩をすくめ、レイオンを見上げた。


「ダークじゃなくて、聖王って呼んでよ。

 それに僕は手伝ってあげようとしたんじゃないか。心を壊してしまえば、生き物なんてただの呼吸する肉の塊になるのに。その方が、楽に殺せるだろう?」


 レイオンはわざと大きく舌打ちして、聖王から顔を背けた。

 蛇の鱗に覆われた尾が、忌々しげに床を叩く。


「そのような卑怯な勝ち方は望んでおらん。全力で闘うことこそ、獣人の喜びよ」


 レイオンの言葉を聞いて、聖王は満足そうに頷いた。


「流石。腐っても獣人だね。生みの親として鼻が高いよ」


 くすくす笑いながら、聖王はレイオンから数歩離れた。

 どうやら観客役に徹するつもりらしい。

 余計な邪魔が入らないのは良いが、既に散々茶々を入れてくれたお陰で、先程までの高揚感は失せてしまっている。


 それはヴォルフも同じようで、動揺を隠すこともできずにレイオンを見つめていた。


「そんな……何で、にぃ……?」


 ヴォルフの呟きを遮り、レイオンは大きく一歩踏み出した。

 それだけで容易にヴォルフに接近する。

 ヴォルフが驚愕の表情を刻む前に、レイオンの拳がヴォルフの腹を打ち据えた。


 重い音と共に、ヴォルフの身体が吹き飛ばされる。

 したたか背中を打ち付けて、息が詰まった。


 無理矢理に息を吐いて立ち上がると、口の中に血の味が広がる。

 ヴォルフの顔に苦悶の色が浮かんだ。

 痛む腹を押さえ、呻き声を呑み込み、レイオンと聖王を睨む。


「油断するなと言ったはずだ」


 レイオンは静かな重低音の声で言い、ゆっくりとヴォルフに近寄ってくる。

 ヴォルフは反射的に身構えて、迎撃の姿勢をとった。


「レイオン、なんで、皆は……何故だ!」


 ヴォルフの悲痛な叫びが、辺りの空気を震わせた。

 レイオンの静かな声が、その振動を掻き消す。


「ヴォルフが勝ったら、教えてやろう」


 その言葉が終わると共に、ヴォルフとレイオンは同時に床を蹴った。


 それは瞬きする間の攻防。

 ヴォルフの爪が、一瞬速くレイオンの胸を抉り、それよりも一瞬疾くレイオンの左翼がヴォルフの視界を遮った。 羽に遮られながらも振るった爪は、レイオンの胸に鋭い裂傷を作る。


 だがレイオンはそれを予測していた。

 敢えて自らの身体を囮に使い、一歩深く踏み込んだのだ。


 レイオンの爪が、ヴォルフの腕を切り裂く。

 レイオンの爪は骨まで届き、腱や神経さえも切断され、ヴォルフの右腕は鮮血を噴き出し肩からぶら下がった。


 こうなってしまうと、自由に動かすこともままならない。

 ヴォルフは瞬時に己の不利を悟り、左足を軸に身体を捻り右足で蹴りを放つ。


 しかしレイオンの首に届く直前でガードされた。

 その足をレイオンが捕まえる。


 レイオンの狙いを理解して咄嗟に足を引こうとするが、遅かった。

 今度は足の腱を切断される。

 再び鮮血が舞った。


 右手右足が自由に動かせなくなった今、倒れたら起き上がることさえ容易ではない。

 ヴォルフは残った左足で思い切り床を蹴り、レイオンに掴まれた右足を支点に飛び上がる。


 それを許すレイオンではなかったが、半獣化したことで生えたヴォルフの尾が、レイオンの視界を奪った。


 レイオンの爪はわずかにヴォルフの左脚を掠める。

 ヴォルフはそれに構わずに、レイオンの肩を踏み抜くように蹴り下ろした。

 鈍い音と共に、レイオンの右肩が下にずれる。


 その瞬間に、レイオンがヴォルフの左脚に噛み付いた。

 鋭い牙が肉に食い込み、骨にまで到達する。

 強い顎の力だけで、脛骨と腓骨がみしりと悲鳴を上げた。


 脚が完全に折れる前に、ヴォルフの左手がレイオンの顔を切り裂く。

 右目を潰されて、レイオンも思わずヴォルフから口を離した。

 ヴォルフの身体が床に落下する。


 レイオンの顔とヴォルフの手足から鮮血が飛び散るが、それは真っ赤な絨毯に吸い取られて消える。

 ヴォルフはまだ動く左腕一本で身体を支え起き上がろうとするが、それよりも速くレイオンがヴォルフの頭を踏み付けた。


 まさに獣のような悲鳴を上げて、ヴォルフはそれきり動かなくなる。

 踏み付けられた頭部から血が流れ、絨毯に染みを作っていく。

 倒れた弟を見下ろし、レイオンは薄く笑った。

「レイオン=レザフォードの勝ちだ。これで文句はないだろう」


 レイオンは傷を押さえることもなく、残った左目で聖王を見据えた。

 聖王はまるで心のこもっていない拍手をレイオンに贈る。


「凄い凄い。流石最強の獣人は伊達じゃないね。

 これなら、約束通り僕の跡を任せられるよ」


 聖王は高らかに哄笑する。

 その姿を、レイオンは忌々しげに見ていた。


 聖王は己の腹から流れる血を掬い取り、その手を舐める。

 ナナエに刺された傷だ。

 この身体ももうすぐ、動かなくなってしまうだろう。


「あの小娘にやられたのか」


 レイオンの呟きが耳に入り、聖王は血で汚れた口許に笑みを浮かべる。


「現実味を持たせないとね。いくら幻を視せたって、他の感覚器官に刺激がなければ、心を支配するのは難しいんだよ」


 そうして幻を現実だと思い込ませ、ナナエの心に多大な負荷をかけたのだ。

 聖王の狙い通り、ナナエはありもしない幻を現実だと思い込み、聖王に生気を奪われて動けなくなっている。


 レイオンは片目で聖王睨み付け、ふんと鼻を鳴らした。


「面倒なことをするものだな。理解できん。

 それより、さっさと継承の儀を始めてくれ」


「僕の継承の儀は他と違ってキツいよ? 耐えられるかな?」


「吐かせ」


 己を睨むように見下ろすレイオンに、だが聖王は怒りもしないで笑った。

 聖王が軽く手を振ると、室内に闇が現れる。

 精霊界とこの世界を繋ぐゲートだ。


 精霊は普段、この世界から薄紙一枚隔てた空間に存在している。

 他の生物たちとの共存ではなく、この世界を支える役目を選んだ、精霊という種族の世界。

 異世界と言っても過言ではないが、そこは確かにこの世界と繋がっている。

 そこを自由に行き来できるのは、精霊だけだ。


 聖王はレイオンを引き連れて、その闇の空間へと足を踏み出した。


「さあ、いよいよだ。母なる精霊王、貴女に代わり、この僕が世界を支える柱になる」


 聖王とレイオンの身体が、闇に呑まれて消えた。

 二人を包んだ闇も、やがて虚空に融けていく。

 後に残されたのは、倒れたナナエとヴォルフのみ。


 闇が完全に消えた頃、ヴォルフの身体がわずかに震えた。

 ヴォルフは薄く目を開く。

 しかし、頭から大量に流れる血が目に入り、周囲の景色がよく見えない。


「や、約束……守る……!」


 再び遠くなりかけた意識を呼び戻そうと、ヴォルフは必死に声を絞り出す。

 兄と交わした約束を守る。

 その決意だけが、ヴォルフの身体を動かした。


 必死に起き上がろうとする。

 しかし右手と両足が思うように動かせず、立ち上がることもできない。

 ヴォルフは左手の爪で床を引っ掻きながら、少しずつ這っていった。

 先程、闇が消えたその場所へと。




 闇の中、レイオンは奇妙な感覚に襲われた。

 決して生ける者が入ることはできないという精霊界に、生身で侵入したためだ。

 獣人の身体だからこそ耐えられるが、人間がここに迷い込んだら、凄まじい圧力で潰されてしまうだろう。


 獣人の血は人間のそれよりも、ずっと精霊に近い。

 獣人は死してなお精霊へと転化し、この世界を巡ると伝えられてきた。


 何故、獣人だけが精霊に転化できるのか。

 今まで、疑問に思ったことなど一度もなかった。

 己の識っていることだけが真実だと、疑いもしなかった。


 ――さあレイオン、きみの魂を精霊に返すときが来たよ。


 闇の中で聖王の……いや、月の精霊の声が聞こえる。

 精霊には、基本的に特定の姿はない。

 核と呼ばれる本体はあるが、それも精霊界に隠してあるため、人の目に触れることもない。


 しかしここは精霊の住まう場所。

 普段は決して見ることのできない精霊の姿も、レイオンは捉えることができた。

 レイオンの前に、黒光りする宝石が現れる。

 虚空から突然出現したそれは、かつてダークが影の残骸から発見した鉱物に似ていた。

 それこそ、月の精霊の核だったのだ。


 大きな黒い宝石から、月の声が聞こえる。

 器としていたダークの身体は、この世界に入ったときに潰れて消えてしまっていた。

 今、月の精霊はダークではなく、この核の中に宿っている。


 月の精霊から、凄まじい圧力が放たれ、レイオンの身体を襲った。


「ぐ……っ」


 ――きみが僕の代わりに月の精霊になりたいって言ったときは驚いたけどね。

   さあ、儀式を始めようか。


 月の精霊の言葉と共に、レイオンを押さえ付ける力は益々強くなっていく。

 通常ならば死した獣人の魂が、自然と精霊になるのだが、月の場合は違う。

 月になれるのはこの世界にたったひとり。

 月の精霊が世代交代するには、次代の月となるべき者の魂を、生きたまま精霊に転化させなければならないのだ。


 それは生きながらに全身を磨り潰される苦痛。

 常人ならば転化を果たす前に死滅してしまうだろう。


 だが、レイオンはここで倒れる訳にはいかなかった。

 レイオンが精霊界に足を踏み入れたのは、精霊になるためではない。

 それとは別に目的があったからだ。


 レイオンの身体は徐々に実体を失っていく。

 精霊への転化は、少しずつ始まっていた。


 身体が消滅し、魂がすべて精霊と化してしまえば、レイオンの立てた計画は上手くいかなくなる。

 すべてはこのときのため。

 そのために、弟すらも手にかけた。

 失敗は許されない。


 レイオンの身体が半分以上転化したとき、その声は届いた。


 ――待たせたな。だが、約束は守ったぞ。


 その声が聞こえた瞬間、月の精霊の核がぬらりと黒い輝きを放った。


 ――な……バカな! 何故お前が!?


 月の精霊の声には、動揺の色が窺える。

 それとは対照的に、レイオンは不敵に唇を吊り上げて笑った。


「上出来だ」


 レイオンは見えない声の主に向かって呟いた。

 闇ばかりが広がる精霊界。

 しかしそこに、彼が存在しているのが視える。

 月の精霊は狂ったように声を張り上げた。


 ――何故だ! 何故貴様がここにいる!? 何故!


 月の精霊は、核の中から彼を見上げた。

 未だ精霊になりきれていないレイオンには見えずとも、月の精霊には彼の纏う輝きがはっきりと見えている。

 精霊たちの中で一際強い輝きを放つ者。それは……


 ――何故! 貴様が精霊王の光を纏っているんだ! ロディウス=レザフォード!


 月の精霊に答えるように、精霊王へと転化したロディウスが笑った。




 ロディウスが精霊の王の座を継いだのは、ほんの数瞬前のことだった。


 ロディウスの前に立つ純白の少女の問いに、ロディウスは力強く頷く。

 あのとき、兄と対峙したあのときに、もう決めていたのだ。


 ──そう……あなたなら……最期の時までこの世界で生きたいと願ったあなたなら、任せられる。


 ──……守りたい人がいるんだ。だから、あいつが……あいつの血筋が生きていくこの世界を守りたい。


 ロディウスの言葉を聞いた少女は、嬉しそうに微笑んだ。

 その姿は、少しずつ常闇の中へと崩壊していく。

 滅びゆく少女は最期まで、笑みを絶やさなかった。


 ──私が創った世界、愛してくれた?


 ──勿論だ。


 ロディウスの言葉に満足そうに微笑み、小さな純白の少女は……精霊の王は、完全にこの世界から消え去った。

 その眩い輝きを、ロディウスに託して。




 ――月の精霊。お前が核を空けて人間界で遊んでいる間に、精霊の王は消滅した。その跡を継いだのが、ロディウス=レザフォードだった。それだけのことだ。


 ――……!


 月の精霊は言葉もなく、新たな精霊の王を見上げている。

 その背後でレイオンが低い笑い声を零した。


 月の精霊ははっとしたように振り向く。

 月は、ようやくレイオンが精霊になりたいと言い出した本当の理由に気付いたのだ。




 月の精霊が人間界で活動を始める直前、レイオンたちはヴォルフを含む数人の弟たちをポト山に残し、新たな住み家となる地を探しに旅立った。

 ところが聖王国に入ったとき、レイオンたちは聖騎士団から奇襲を受け、レイオン以外皆死んでしまったのだ。

 獣人が街を襲いに来たのではないかという、人間たちの疑心暗鬼が、この奇襲の原因だった。


 レイオンはたった一人で騎士団を殲滅したのだが、自身も手足を失う重傷を負った。

 死の間際だったレイオンが放ったのは、この世界を、人間を、己の無力を呪う強烈な呪咀だった。


 その強い負の感情が、月の精霊に最後の楔を外すきっかけを与えたのだ。

 折しも満月の日、月はレイオンの前に姿を現した。


 月の精霊は、強い肉体をレイオンに与える代わりに、己の手足となって働くように命じた。

 人間への復讐心からその条件を飲んだレイオンだったが、与えられた肉体を見てから後悔した。

 こんな形で望んだ訳ではない、と。


 人間への復讐心と、月の精霊への恨みと、自分自身への嫌悪。

 それらに苛まれながら、月の精霊に仕えていた二年半という時の中で、レイオンは様々なことを知った。


 月の精霊の意志、他の精霊たちの嘆き、人間の醜さと、この世界の在り方。

 そして、獣人の存在理由。


 遥か昔、この世界に人間が生まれて間もない頃、一体の精霊が人間の男性との間に身籠った子。

 それが獣人の始祖だった。

 生を司る精霊である生命の精霊。

 死を司る生物である人間。

 決して交わることのない二人から生まれた禁種、獣人。


 その身に流れる精霊の血が、獣人を精霊へと転化させている。

 それを知ったレイオンは、己のとるべき道を選んだのだ。


 レイオンは表面上従順な態度を見せながら、密かにこのときを狙っていた。

 己の肉体を保ったまま精霊界に足を踏み入れ、月の精霊の核を破壊できる瞬間を。


 月の精霊が負の力を溜め込む程、精霊王はその負に蝕まれ弱っていく。

 精霊王が消滅したときには、レイオン自ら命を断ち、精霊に転化するつもりだった。

 しかし、精霊は精霊を直接滅ぼすことができないということを知り、協力者を捜すことにした。

 そこで白羽の矢を立てたのが、ポト山に置いてきた弟たちだ。


 動物を使って密かにポトの様子を探らせたのだが、既にヴォルフ以外の弟たちはポト山から姿を消していて、いくら捜しても見つからなかった。

 別の国に移り住んでいたのか、人間たちに狩り殺されてしまったのか。

 そうなるとヴォルフしか所在の判る者がいないのだが、知能に若干障害があるヴォルフでは不安だった。

 どうしようかと思案していた矢先、とうの昔に群れから追い出したロディウスが、ヴォルフと水の民を連れて来たのだ。

 もう、ロディウスにすべてを賭けるしかなかった。


 月の精霊を欺くため、レイオンはロディウスと戦い深手を負わせた。

 自らも故意にナナエの攻撃を受け、ヴォルフを人質にロディウスを誘き寄せるような演技までしてみせた。

 そしてあの日、ロディウスにすべてを話したのだ。

 月の精霊に悟られないように、何事も慎重に。

 ヴォルフと本気で闘ったのも、月の精霊を油断させるためだ。

 すべては、このとき、この瞬間のための布石。




 月の核が怒りに震える。

 そのままレイオンを押し潰そうとするが、一瞬速くレイオンが月の核を掴み取った。

 黒い宝石が、みしりと軋む。


 ――おのれ、レザフォード!


 月の核から怒りの声が谺する。


 ――何故だ! 貴様も人間を憎んでいたはず! 僕はその人間を滅ぼしてやろうとしているんだぞ! 何故邪魔をする!


 月の叫びに、レイオンの手がぴくりと震える。

 月の精霊は一瞬笑みを浮かべたが、それも次のレイオンの言葉で掻き消された。


「人間が滅ぶのは構わぬ。が、貴様のやり方ではこの世界そのものが死滅する恐れがあるのだろう。我が一族を、獣人を危機に追いやるような真似は許さぬ」


 レイオンは月の核を握り締めた。

 黒い宝石の表面に、細かな罅が走る。


「精霊が精霊を殺せないなら、他の誰かが壊せば良い。

 安心しろ。貴様が消滅したあかつきには、約束通りレイオン=レザフォードが月の精霊になってやる」


 ――やめろぉぉぉ!


 レイオンがその手に力を込める。

 ぱきん……とやけに軽い音を立てて、黒い宝石が砕けた。


 ――おおおおぉぉぉおぉ……


 月の精霊の絶叫が迸る。

 核の破片が、レイオンの手の中からすり抜けていく。

 レイオンは完全に肉体を失い、精霊界の闇の中へと融け、消えた。


「兄にできるのはここまでよ。後は、任せた……」


 レイオンの最後の言葉が、闇の中で波紋となり広がった。

 その声は、ヴォルフへと届いただろうか。

 レイオンは最期まで、不敵な笑みを崩すことはなかった。


 レイオンが消え去った空間に、黒い宝石の破片が舞い落ちる。

 月の欠片たちは、怨嗟の声を上げながら、ある一点へと集まっていく。


 精霊は、決して精霊を滅ぼすことはできない。

 月の欠片がこれから取る行動を予測しつつも、精霊王はただ、それを見守ることしかできなかった。


 砕けた月の欠片が、精霊界から人間界へと逃げていく。

 恨みを晴らすため、月の欠片が向かった先は……




 先程闇が消えた場所から少し離れたところ、玉座の前に禍々しい闇が現れた。

 床の上に這い蹲ったヴォルフが見つめる中、それは人間の形を歪に模倣する。

 それは苦しそうに呻きながら、憎しみに染まった目で、近くに倒れているナナエを見下ろした。

 はっとしてヴォルフが叫ぶ。


「ナナエ、立て!」


 その声と同時に、歪な人型を模した月の欠片の成れの果てが、奇妙に大きな拳をナナエへと振り下ろす。

 必死に起き上がろうとするナナエが、その闇を視認した。

 月の手がナナエに届く直前、飛び散った水が再び集まり、ナナエを守るように取り囲む。


 ――ナナエ、立って。


 ナナエによく似た水の精霊の声が、ナナエの頭の中に響いた。


 一撃を弾かれ、歪な闇はバランスを崩して大きく揺らぐ。

 その間に、ナナエはようやく立ち上がった。

 全身が鉛のように重い。

 しかし、今動けるのは、ナナエしかいないのだ。


 ナナエは、自らを守る水の膜を解き、手の中に収束させる。

 そこに一振りの水の剣が生まれた。


「……どうなってんだよ、まったく」


 ナナエは怠そうに闇を見上げる。

 状況は把握できていないが、何となくなら理解できる。

 あの歪な闇こそが、月の精霊なのだろうと。

 あれを倒しさえすれば、この戦いは終わるのだろうと。

 そしてナナエは、ゆっくり水の剣を構えた。


 ――お、おおぉぉお、人間は、この世界にとって、毒にしかならない! 僕は、この世界を、人間を滅ぼして、守るんだぁ!


 闇の中心から、月の精霊の声が谺する。

 ノイズが混じり、最早声にさえなっていなかったが、その言葉はナナエとヴォルフの、世界中の生ける者の頭の中に響いていた。


 歪な闇は、ナナエを押し潰そうと腕を振り上げる。

 頭上から振り下ろされた腕を、ナナエは水の剣で受け止めた。


「く……っ」


 一撃が重い。

 全身に力が入らない今、あまり持ち堪えられそうになかった。


 水の剣を通して、ナナエの中に月の思いが流れ込んでくる。

 この世界を思うあまり、道を違えてしまった月の精霊。

 その思いは強く、ナナエ一人では支えられそうになかった。


 ――どうした。そんなもんか?


 そのとき、暖かく懐かしい声が、ナナエの中に届いた。

 はっとして辺りを見回すが、その姿は見えない。


「……ロディウス?」


 ナナエは、その声の主の名を呼んだ。

 あれは確かに、ロディウスの声だ。

 腑甲斐ない自分を、叱りに来たのだろうか。


 一瞬そう思ったが、違う。

 ロディウスが他の精霊たちと共に、ナナエの背中を支えてくれているのが解る。


 ――見せてくれよ。お前たちの力を。


 背後で、ロディウスが微笑んでいるような気がした。


「……ああ、任せとけ」


 ナナエは、力強く頷き返した。




 床の上を這っていたヴォルフは、血で霞む視界の中で、必死に立ち上がろうとしていた。

 月の精霊が再びここに現れたということは、レイオンが止めを刺せなかったということだ。

 レイオンに捕まっていたあのとき、ヴォルフは彼と約束したのだ。

 もし、自分が月を消すことなく死んでしまったら、後を頼むと。


 そしてもう一つ。

 幼い頃、ロディウスを焚き付けて人里へ向かわせた罪。

 あの日自分がイシャの話をしなければ、あの山火事は起こらなかった。


 その約束と、償いを果たしたい一心で、ヴォルフはここまで来たのだ。

 なのに、手足に力が入らず、立つことさえできないでいる。

 何もできない自分が悔しくて、涙が溢れそうになってくる。


 そのとき、ロディウスの声が聞こえた。

 幼い頃から何度も聞いた、己を叱咤し励ましてくれた、兄の声。


 ――見せてくれよ。お前たちの力を。


 ヴォルフは獣の咆哮を轟かせ、力強く床を踏みしめた。




 ナナエの剣が闇を押し返し、ヴォルフが渾身の力で床を蹴る。


「終わりだっ!」

「終わらせる!」


 同時に叫んだ二人は、闇を突き抜けて交差する。

 ナナエの剣とヴォルフの爪が、闇の中にあった月の欠片を粉々に打ち砕いた。


 ――うあああぁぉおぉぉぉ……


 世界を震わせるような月の叫びが、かすかに余韻を残して消える。

 上空に浮かんでいた赤い月は、光を失って虚空に霧散した。


 それと同時に、世界中で暴れ回っていた影のモンスターも、次々と世界に融けて消える。

 沢山の屍を積み上げながらも、この世界を、ヒトを、護りきった瞬間だった。


 ナナエとヴォルフはバランスを崩し、同時に倒れる。

 荒い息を吐き、全身にとてつもない疲労を感じながら、それでも二人は笑顔だった。

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