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TRUE DAWN  作者: 三九
16/18

月の精霊――再戦――

 声は何もない空間から聞こえてきた。

 元より目の見えない彼には、そこに何があるのか、誰がいるのかなど、解るはずもない。

 しかしなぜか、彼にはそこに、白く小さな少女が佇んでいる姿が視えたのだ。


 ──誰だ?


 彼は問う。


 ──識っているでしょう?


 少女は答えた。


 白く輝く少女は、彼にすべてを包み込む優しい笑顔を向ける。

 しかしその微笑みは、すぐに憂いの表情に変わる。


 ──ごめんなさい。本当なら、私が最後まで責を負わなければいけないのに、私にはもう、支え続けられる力がない……


 白い少女の嘆きに呼応するように、世界が揺れた。

 少女の身体が、黒い何かに蝕まれてゆく。

 痛みの色に蝕まれる少女を前に、彼は選択を迫られる。




 ナナエは必死に走っていた。

 ヴォルフの背を追っているはずなのだが、大分距離を空けられてしまい、その姿は森の奥に消えている。

 始めのうちは足音を頼りに進んでいたのだが、いつしかそれも聞こえなくなってしまった。


 獣人であるヴォルフの脚に、人間が追い付けるはずもない。

 しかも、ここは夜の森の中である。

 月明かりも星明かりもなく、慌てて追ってきたため角灯も持っていなかった。


 目の前すら闇に染まっていて、ナナエは張り出していた枝に気付かず、枝の先で頬を切る。

 じんと痺れるような痛みが走り、少し鉄臭い水が頬を伝った。


 それでも足を止めずに走り続けたのだが、今度は木の根に足を取られ、前のめりに倒れてしまった。

 咄嗟に受け身はとったが、強く地面に擦れた腕や膝を擦り剥いてしまう。


「い……って」


 小さく呻き、ナナエはふらつきながら立ち上がった。

 軽く土を払い、流れ落ちる汗を乱暴に拭う。


 影の襲撃で疲労したナナエの脚は、最早限界に近い。

 再び走りだそうとしても、震えてしまって上手く歩けなかった。


 まるで獣の息遣いのようだと、どこか他人事のように思いながら、肩を上下させて荒い呼吸を繰り返す。

 それでも、ナナエはヴォルフを追いかけなければならなかった。

 追い付いて、連れ戻さなければ。


 このままヴォルフを行かせたら、彼もまた、ロディウスのように殺されてしまうかもしれない。

 それだけは、絶対に嫌だった。


 ロディウスがいなくなって、ヴォルフまで……そう考えるだけで、全身が震える程に恐い。

 思わず、目に涙が滲む。


「やだよ……そんなの……」


 嫌な考えを振り払いたくて、ぎゅっと目を瞑り首を振る。


(誰か、助けて。ヴォルフを一人で、行かせないでください。お願い、誰か……ロディウス、先生、精霊様……!)


 ナナエは初めて、心の底から祈った。

 いつもの形式だけの祈りとは違う、思いのすべてを捧げる祈りだ。


 そのとき、心の中で、小さな水の泡が弾けたような音を聞いた。


 ――大丈夫だよ。こっちにおいで。


 まるでそう言っているように聞こえて、ナナエはゆっくりと顔を上げる。

 どこからもそんな声はしていないのに、何故かどの方角から聞こえたのか、はっきりと解る。

 ナナエはその声なき声を頼りに、鉛のように重くなった脚を前に進めた。


 それからいくら歩いただろうか。

 疲労も限界を迎えていたナナエは、自分の足に躓いて転びそうになる。


 だが、ナナエが地面に倒れる前に、誰かがナナエの身体を支えた。


(ロディウス?)


 一瞬そう思ったが、違う。


「ナナエ、なんで、来た!」


 怒ったようにそう言ったのは、ナナエを抱き留めたヴォルフだった。




「ナナエ、帰れ。危ないんだぞ。来たら、だめだ」


 途中でナナエが追ってくることに気付いて、迷った末に引き返してきたらしい。

 ヴォルフは眉根を寄せてナナエを見下ろし、その口調は怒っているようでもあり、どこか嬉しそうでもあった。


「だって……危ないなら、尚更だろ。ヴォルフ一人で、行かせられる訳、ないじゃん」


 途切れ途切れになりながらも、ナナエは言葉を紡ぎ出す。

 立っていることも困難で、ほとんどヴォルフに身を預けているような状態だ。


 ヴォルフはナナエが倒れないように、その身体を支えている。

 お互いに抱き合っているような格好になってしまった。


「ヴォルフは、ナナエ連れてく、できない。ヴォルフ、ナナエ好きだ。ナナエ、守りたい」


 思わぬところで急に聞かされたヴォルフの本心に、ナナエは少し恥ずかしそうに頬を染め、至近距離からヴォルフを見上げる。


「オレも、ヴォルフ好きだよ。友達だもん。でも、オレだけ守られてるなんて嫌だ。ヴォルフが帰らないなら、オレも一緒に行く」


 ヴォルフは困ったように唸っていたが、やがて諦めたのか、息を吐き出しながら頷いた。


「ナナエ、我儘。ヴォルフが、言ったって、全然聞かない」


「うん。ごめんな」


 可笑しそうに笑って、ヴォルフの顔を見上げる。

 暗闇の中で、ヴォルフの黄金の瞳だけが光って見えた。


 やがて全身の疲労から、ナナエはヴォルフに身体を預けたままうとうとし始めた。

 もう目を開けていられない。

 ヴォルフはそんなナナエを抱き締め、小さな声で囁くように言う。


「ほんとは、嬉しい。来てくれたの、ありがと……ナナエ、大好きだ」


 それが聞こえたのか聞こえなかったのか、ナナエは静かに眠っていた。




 ナナエとヴォルフは、聖王国を目指して歩き続けた。


 その途中、ダルが風を使って状況を報告してくれた。

 まずは思い切り怒られ、必ず無事に帰ってくるようにと、一方的に約束させられた。


 水の国では、影の襲撃に備えて、水王が騎士団を各街に派遣させたそうだ。


 風の国は、ほぼ全員が戦闘に長けているということで、他国の護衛のために、皆故郷を離れたという。


 火の国には火の戦士団がいるし、他に類を見ない文明大国である。

 聞けば一般人でさえ、火薬を使った武器を持ち歩いているそうで、戦う力は充分にあるだろう。


 平和主義の地の国には、影を迎え撃てるだけの軍事力はない。

 昨夜はどうやら水の国だけでなく、各国にまで影の襲撃があったらしく、地の国はかなり被害を受けているそうだ。


 風の民の多くは、地の国で救助活動を始めている。

 ダルも遅れ馳せながら、地の国に向かっているとのことだ。


 だが、最も被害を受けているのは、地の国ではなかった。




 水の国と聖王国の国境を越えて、ナナエたちは小さな村を訪れていた。

 水や保存食の他、色々と必要なものを入手するためだ。

 何も待たずに飛び出してきてしまったため、森で採った果実や獣肉を売って、金を稼ごうと思っていたのだが……


 その村には、むせる程の血臭が漂っていた。


 役所も置いていないような小さな村だ。

 聖王国内とはいえ、こんな小さな村には、兵を派遣すらしなかったのだろう。


 無惨に倒れている遺体には、どれも切り裂かれたような傷痕がある。

 中には必死に戦おうとしたのだろう、鍬や斧を握り締めたまま倒れている者もいた。


 余りにも悲惨な光景に、ナナエは思わず口元を押さえた。

 吐き気がこみ上げてくる。


「ひでぇ……」


 村の真ん中に立ち、ナナエは小さく呟いた。

 生存者がいないかと、村中を捜して回ったのだが、淡い期待はすぐに打ち砕かれた。

 ヴォルフも顔をしかめて押し黙っている。


 本来ならばきちんと埋葬してあげるべきなのだが、生憎そんな時間はない。

 あと三日のうちに、首都ヘリグまで行かなければならないのだ。


 心は痛んだが、そのままにして村を出た。

 彼らの魂に、精霊様からの慈悲があるようにと祈りを捧げ、ナナエとヴォルフは先を急いだ。




 やがて見えてきた次の街も、酷い有様だった。


 街の入り口付近に、影に襲われたと思われる死体が積み上がっている。

 これから火葬するのだと、疲れた顔の役人が教えてくれた。


 この街にはまだ生存者がいたが、皆どこかしら怪我をしているようだった。

 ヴォルフが持っていた薬草をすべて渡し、代わりに旅に必要な荷袋や防寒布、水筒などを用意してもらう。


 その間に、街の人に話を聞いたところ、驚くべき情報が出てきた。

 世界一の強さを誇る聖騎士団が、一人も助けに来てくれていないと言うのだ。


「騎士団が来ないって……何で?」


「そりゃこっちが聞きたいよ。騎士団さえ来てくれれば、こんなに被害が出ることもなかっただろうに……!」


 手足に包帯を巻いた恰幅の良い女性は、憤慨してテーブルを叩いた。

 宿屋の女将である彼女は、部屋を怪我人に貸しているのだそうだ。

 施療院だけでは入りきらず、余った部屋を急遽、仮の収容所にしているのだ。

 彼女は比較的軽傷だったため、怪我人のために食事の用意をしてやっている。


「まったく、こんなときのための騎士団だろうに、聖王様はいったい何を考えてるんだろうね!」


 怒りの冷めやらぬ女将に、今夜は灯りを消して部屋から出ないようにと忠告してから、ナナエたちは首都を目指した。




 次の街も、その次の街も、同じように影の被害に遭っていた。

 被害者の数は、日を追う毎に増えている。


 ナナエやヴォルフも、泊まった街で影の襲撃に遭い、撃退するのを手伝ったのだが、本当に聖騎士団が応援に駆け付けることはなかった。


 月は赤く、丸くなっていく。

 本来の大きさは、親指と人差し指で輪を作ると、その輪にすっぽり収まる程度の大きさだったのだが、今では一回り近く大きく見える。


 まるで本当に、月が怒っているようだ。


 満月の日まで、あと一日。

 この日も、影の襲撃は容赦なく続いた。


 首都ヘリグに程近いこの街にも、騎士団の姿はない。

 連日の襲撃に、こちらの体力も限界だった。


「ナナエ、無理、だめだ。ここに、いろ」


「何、言ってんだよ! 街の人を、見殺しにできないだろ!」


 暗い宿屋の一室で、ヴォルフがナナエを押さえつけている。

 宿の外では、数体の影が暴れていた。

 生き残った住民は皆、家の中に隠れている。


 生き物の陰がなければ、影は生まれない。

 しかし街の外にいる野生動物や、辺りに生えている植物は沢山あるのだ。

  影は次々と、街の外から現れる。

 この通りもじきに、影に埋め尽くされてしまうだろう。


 知恵をつけた影は、家の壁を打ち壊し、中の人間を外に引きずり出している。

 既に数人が影の犠牲となり、通りに打ち捨てられていた。


 ナナエが咄嗟に飛び出そうと窓を開けると、階下の少年と目が合った。

 見ただけで解る。

 彼もまた、ナナエと同じく精霊に愛された人間だと。


 数多の精霊のうち、彼の背後に佇むのは小さき雷。

 恐怖に引きつった顔でナナエを見上げる少年の唇が、かすかに動いた。


 た す け て


 そう刻んだ唇は、しかし声を発する前に、影の刃で切り裂かれた。

 赤い飛沫が宙に踊る。


 ナナエは思わず飛び降りようとしたのだが、ヴォルフがそれを止めたのだ。

 聖王国に入ってからというもの、毎晩このような襲撃があり、ナナエとヴォルフはその都度影と戦ってきた。

 獣人であるヴォルフはともかく、人間の少女であるナナエには、戦うだけの体力は残されていない。


 明日の満月の日まで、体力は温存しておかなければならないのだ。

 ここでナナエを行かせる訳にはいかない。


「離せよ! 放せ!」


「だめ。できない。ナナエ、ごめん」


 ナナエを押さえつけるヴォルフの力は強く、とても振り払うことができない。

 ナナエは唇を噛みしめ、聞こえてくる幾多の悲鳴から目を背けた。




 翌朝、ナナエとヴォルフは静かに宿を出た。

 聖王の住まう王宮は、次の街、首都ヘリグにある。


 今夜、月の精霊をどうにかしなければ、影の襲撃は止まらない。

 二人は今朝からほとんど喋らずに、首都ヘリグに足を踏み入れた。


 最初に来たときは賑わっていた首都は、今や廃墟と化していた。

 最後に見たときからたった一週間で、こんなにも変わってしまうなど、誰が思っただろう。


 賑やかだった大通りに人の気配はなく、あちこちに放置された死体から血の匂いが漂っている。

 中には、腐臭が混じっているものもあった。


 二人はこみ上げてくる吐き気を堪えて、王宮を目指した。


 以前は沢山の警備兵がいた王宮の前には、誰もいなかった。

 不気味な程に、静まり返っている。

 ナナエとヴォルフは顔を見合わせ、王宮の正門を開けて中に入った。


「…………!」


 真っ先に飛び込んできたのは、一面の赤。

 庭も壁も門も柱も、処構わず赤一色に染められている。

 そして庭中に散乱している、騎士たちの肢体。

 土の上に、石畳の上に、芝生の上に、所狭しと打ち棄てられていた。


 ナナエもヴォルフも、言葉もなく立ち尽くしていた。

 騎士団が街に派遣されなかった理由が、やっと解った。

 皆既に、ここで息絶えていたからだ。


 太陽が、西に傾き始めている。

 この時季の日暮れは早い。

 あと数刻もしないうちに、夜になるだろう。


 王宮の中には灯りもなく、不気味な静けさだけが漂っていた。

 使用人も、警備兵も誰もいない。

 否。ほんの数日前までは、確かにここにいたのだ。

 今はもう、生きて動いている人間は一人もいない。


 影に襲われたのは、騎士団だけではなかった。

 王宮の中にも血と死体が散らばっている。


 死臭を紛らわすためだろうか。

 香木を焚いたような匂いが充満していて、異様な空気が荒れた王宮内を包み込んでいた。


 思えば、以前訪れたときも、同じような香りが漂っていた。

 今回程強い匂いではなかったが、この匂いのせいでレイオンがいたことにも気付かなかったのだろう。


 血に染まった白亜の王宮の中を、二人は進んでいく。

 聖王が城のどこにいるのかは知らないが、なんとなく、そこにいるような気がした。

 ナナエとヴォルフは互いに目を見つめて頷き合い、謁見の間の扉をゆっくりと押し開けた。




 赤い絨毯が敷かれた広い部屋の奥、大きな玉座に小さな影が座っていた。


 黒い髪、黒い瞳、それとは対照的に青白い肌。

 聖王クリストフ……否、ダークの身体に取り憑いた月の精霊は、優雅に脚を組んで座り、軽く頬杖をついて微笑みを浮かべている。


 ナナエは知らず流れ落ちた汗を拭う。

 掌も湿っぽくなっていて、自分の服へ雑にこすり付けた。


 ちらりと隣を見れば、ヴォルフは眉間に皺を寄せ、牙をむき出しにして聖王を睨んでいる。


 一段高いところに設置されている玉座の上で、聖王は静かに微笑んだまま、二人を見下ろしていた。


「やあ、よく来たね。生を司る者獣人の血を引く子と、水の精霊の加護を受けた子だね。

 そんなところにいないで、こちらにおいでよ。歓迎するよ」


 まるで遠方から参拝した年若い信者を労うような口振り。

 本来ならば喜んで傅く場面なのだろうが、ナナエとヴォルフは険しい表情でその場を動かなかった。

 聖王は肩をすくめてくすりと笑う。


「そんなに緊張しなくてもいいだろう?

 月が昇るまで、もうしばらく時間はある。それまでは、一緒に遊ぼうじゃないか」


 組んでいた脚を崩し、聖王が立ち上がる。

 そして玉座の背後からは、レイオンが姿を現した。


 レイオンは口許にかすかな笑みを浮かべ、聖王の隣に並ぶ。

 言い様のないプレッシャーが、ナナエとヴォルフに襲い掛かった。


 だが、今度は覚悟をしてきた分、まだ口を開く余裕があった。

 ナナエは気力を振り絞って声を張り上げる。


「どうして、影を使って街の人を襲わせるんだ!」


 ナナエの叫びを聞いても、聖王は笑みを崩さない。


「やだなあ、そんなに大声出さなくても聞こえるよ。世界を浄化するために決まってるじゃないか」


 くすくすと笑いながら言う聖王は、ナナエをからかっているようでもあり、嘲っているようでもあった。


 ナナエは怒りに任せて聖王を殴り倒したくなったが、なんとかその衝動を堪えた。

 闇雲に飛び出していったら、横にいるレイオンに殺されるだろう。

 ナナエはぐっとその場に留まり、再び聖王に問い掛けた。


「世界の浄化って何なんだ!? 何で人間を襲う必要があるんだよ!」


 聖王は未だ、微笑みを崩さない。


「何も知らないんだね。一緒にいた獣人の男に教えてもらわなかったのかな?」


 聖王は視線を隣にいるレイオンに向け、軽く小首を傾げる。


「獣人の中にも、正確には伝わっていなかったのかな?」


「……ああ」


「そっか。なら仕方ないね」


 口許に手を当て、くすくすと可笑しそうに笑う聖王の姿を見て、ナナエは両手を握り締めた。


「何笑ってんだ!」


「ふふ、ごめんよ。きみたちが余りにも無知だったのが可笑しくて」


 聖王はひとしきり笑った後、目に浮かんだ笑い涙を拭った。

 小さく息を吐いてようやく笑いが治まった聖王は、ナナエとヴォルフを見下ろし、すっと一歩前に出る。


「知らなくてもいいことだよ。どうせ人間は皆、今夜この世界からいなくなるのだから」


 聖王のその言葉が、長い夜の始まりだった。

 聖王の言葉が終わると同時に、レイオンとヴォルフが床を蹴った。

 二人は部屋の中央で互いに右の拳を打ち出し、左手でそれを受けとめる。

 思い岩盤を巨大な槌で叩くような音がした。


 鳥型のロディウスよりも、ヴォルフの方が力は強い。

 しかし、それでもレイオンには劣る。

 じりじりとレイオンの力に押されながら、ヴォルフは右足を振り上げた。


 ほぼ同時にレイオンも蹴りを放つ。

 二人は互いの脇腹を蹴り合って、左右に吹っ飛ばされた。

 すぐさま身を捻って受け身をとり、起き上がり様に床を蹴る。

 再び中央でぶつかり、鋭い爪を振り回す。


 互いの攻撃を受け、流し、反撃に転じる。

 息もつけぬ程の凄まじい攻防が応酬されるのを横目に、ナナエは聖王に向かって走りだした。


 腰から提げていた水筒の口を外し、水をぶち撒ける。

 水はナナエの意思に従って、その手の中に収束した。

 それはまるで一振りの剣のように、壁に灯された蝋燭の炎を反射している。


 水の剣を手にしたナナエは、大上段から剣を振り下ろす。

 聖王は半歩身を引いて、その一撃を躱した。


「何なんだよてめえ! 月の精霊は、人間たちを守るのが役目じゃなかったのかよ!」


 叫びながらナナエは剣を翻した。

 素早く突き、薙ぎ払い、振り下ろす。


 そのことごとくを、聖王はわずかな動きで避けている。

 その顔からは、先程までの微笑みは消えていた。

 代わりに、ナナエを小馬鹿にしたような表情を張り付け、すいと目を細めてナナエを見やる。


「月の精霊が人間を守る?

 それは面白いね。誰がそんなことを言ったのさ」


 聖王は玉座を盾にしてナナエの剣を躱す。

 水の剣は、玉座の一部を切り飛ばした。


「何言ってやがる! 神話とか、伝承とか、ずっと伝わってきたことだろうが!」


 切り落とされた玉座の端が、ごとりと重い音をたてて床に落ちる。

 磨けば映り込めそうな断面が、剣の切れ味を物語っていた。


 その切り口にちらりと目を向け、聖王はさも愉快そうに笑う。

 わずかに首を傾け、細く開いた目でナナエを見据える。


「ふふ……人間たちは本当に面白い解釈をするね。その伝承のどこに、月が人間を守るものだなんて書いてあるんだい?」


 聖王の言っていることの意味が解らず、ナナエはきつく剣を握り締めた。

 聖王の虚言だと決め付けて、再び聖王に斬りかかる。


「訳解んねえこと言ってんじゃねえ!」


 ナナエの剣の切っ先が、聖王をかすめる。だがわずかに届かない。

 聖王は軽々と身を翻し、ナナエの攻撃を紙一重ですべて避けている。

 否。ナナエが、すべての攻撃を寸前で止めているのだ。


 月に身体を乗っ取られただけで、ダーク自身はまだ生きている。

 その事実が、ナナエの剣を鈍らせていた。

 できることならば、救けたい。

 しかし手加減していては、月の精霊を追い詰めるだけの一撃は与えられない。


 ナナエが次第に焦れてくるのが解る。

 聖王はナナエの目を見て、凶悪な微笑みを浮かべた。


 すべてを吸い込むような闇の瞳が、ナナエの姿を捕らえる。

 その闇に囚われそうになり、ナナエはまとわりつく闇を振り払うように、声を張り上げた。


「月の精霊! さっさとダークって奴を解放しろ!」

「やだね。この身体は気に入っているんだ。容姿もまあまあだし、何より頭がいい」


 玉座を挟んでナナエの正面に立ち、聖王は両手を広げる。

 事実、ダークの知識と知恵の深さは、月にとって驚異でもあった。

 あのままダークが研究を進めていたら、遠からず真実に辿り着いていただろう。


 更にロディウスという獣人の協力者がいることも、月には面白くなかった。

 人間だけならば解けないことも、獣人の持つ知識があれば解けてしまうかもしれない。

 そうすれば、月が充分な力を蓄える前に、ダークたちによって月は消されていたかもしれない。


 そこで月は当時の聖王を操り、嘘の情報に踊らされたふりをしてまで、ダークを捕らえたのだ。


「身体は誰のものでもよかったんだよ。いちいち殺して新しい媒体を探すのが面倒だったから、この身体を使ってるだけさ」


 先代の聖王は病を患っており、長くは生きられなかった。

 月は先代の遺言という形で、ダークを新たな聖王に仕立て上げた。


 完全に力を蓄えるまで、影の存在を人間に気付かせたくなかったのだ。

 そのための隠蔽工作をするには、大国の頂点にいた方が都合が良い。


「ダークの身体を返せよ! もうお前には必要ねぇだろ!」


 ナナエの剣が振るわれ、聖王の眼前に突き付けられる。

 それでも聖王は微動だにしなかった。

 ナナエにダークを攻撃する意思がないことを解っているからだ。


「その剣で、切り裂けばいいじゃない?

 そうすればこの人間は死ぬけど、僕も傷を負うよ」


「てめぇ……っ!」


 ナナエがぎりと歯を食い縛る音が聞こえる。

 聖王はナナエを嘲笑うように、眼前にある水の剣の切っ先を指で摘む。


「がっかりだなぁ……もう少し敵意むき出しで斬り掛かってきてくれると思ったのに。こんな風にさ」


 そう言った聖王の眼が、ナナエの瞳の中で妖しく光る。

 その光を見た瞬間、突然ナナエの目の前にレイオンが迫ってきた。

 高らかに咆哮し、鋭い爪を振るう。


「なっ!?」


 余りに突然の出来事で、ナナエは反射的に剣を引き、レイオン目がけて突き刺した。

 手応えはあった。

 ナナエの剣は、確かにレイオンを貫いたはずだった。

 しかし、ナナエの目に映ったのはレイオンでも聖王でもなく。

 水の剣に貫かれた、ロディウスの姿だった。


「……え?」


 目を見開き、呆然と呟く。

 ナナエの目の前で、ロディウスは血を吐き出し、その身体がぐらりと傾ぐ。


「いっ、嫌ああああっ!」


 思わず剣から手を離し、ナナエは頭を抱えて狂ったように叫んだ。

 水の剣はナナエの支払を解かれ、ただの水となり床に飛び散る。


 ゆっくりとロディウスの身体が倒れ、床に真っ赤な血が広がっていく。

 ロディウスの背後に立った聖王の目が、金色に輝いていた。




 窓の外では、大きな赤い月が浮かび上がってくるところだった。




 ヴォルフの身体が、白い壁に叩きつけられた。

 衝撃で息が詰まり、ヴォルフは苦しげに呻く。


 レイオンは酷薄な笑みを浮かべ、ヴォルフを見下ろす。

 自分よりも一回りは大きな兄を見上げ、ヴォルフは口の中の血を吐き出した。


「どうした、ヴォルフ。そんなことでは、このレイオン=レザフォードを殺すことはできぬぞ」


 兄の声に応えるように、ヴォルフは起き上がり口許の血を拭う。


 レイオンは異形の姿となっていた。


 半獣化しているのだが、その姿はヴォルフが知っているものとは大分違っていた。

 レイオンは獅子型だったはずなのだが、今のレイオンには獅子の面の他に、山羊の角が付いている。

 その背には蝙蝠の翼と猛禽類の翼が一つずつ生え、尾はまるで蛇のようだった。

 よく見れば、手足もそれぞれ少しずつ違っている。

 初めてその姿を見たヴォルフは、驚きのあまり足を止めてしまい、レイオンの一撃で壁に叩きつけられてしまったのだ。


「どうしたヴォルフ。真の力はそんなものではないだろう」


 レイオンがゆっくりと近付いてくる。

 ヴォルフは人型のまま戦っていた。

 母親が人間であるヴォルフは、半獣化するには、獣人の血が薄すぎるのだ。

 もし無理に半獣化すれば、獣人の血が暴走し、破壊衝動を抑えきれずにすべてを壊すまで暴れ回るか、身体が負担に耐えきれずに崩壊してしまうだろう。

 ヴォルフもそれを解っているから、半獣化できないのだ。


「レイオン……どうしても、だめか? ヴォルフ、こんなの、やだ」


 荒く息を吐き、ヴォルフはゆるゆると首を振る。

 だが、レイオンは弟の言葉にも耳を貸さず、鋭い爪を振り上げた。


「甘えるな、愚弟め」


 重く冷たい声と共に、太い腕が振り下ろされる。

 ヴォルフは咄嗟に両手で受け止めるが、その瞬間、がら空きになった脇腹をレイオンが蹴り飛ばした。


 ヴォルフはごろごろと床を転がって立ち上がる。

 鈍い痛みが身体中を襲った。

 無理矢理苦痛の声を呑み込んで、ヴォルフは拳を構える。


 レイオン相手では、一瞬の隙でも命取りとなる。

 全身に細かな傷を作り、必死の形相でレイオンを迎え撃つヴォルフに対し、レイオンは余裕そのものといった表情だ。

 迫り来るレイオンに応戦しようと一歩を踏み出したそのとき、ナナエの悲鳴が聞こえた。


「ナナエ!?」


 その声に、一瞬ヴォルフの意識がレイオンから離れる。

 剣を手放して震えるナナエと、その向こうで血を流しながら狂気の笑みを携えた聖王。

 ヴォルフが二人の姿を確認したその瞬間、レイオンは一気に距離を縮めた。


「戦っている最中に余所見をするな、愚か者」


 レイオンの大きな拳が、ヴォルフの腹を抉った。

 骨の折れる嫌な音が、ヴォルフの耳に届く。

 せり上がってきた血の塊を吐き、ヴォルフはまたしても壁に叩きつけられた。


 ずるずると崩れ落ち、腹を押さえて蹲るヴォルフを見下ろしていたレイオンが、ふと窓の外に目を向ける。

 真っ赤な月が、夜空を仄赤く染めていた。


「月が光り始めたか。今頃、世界中に影が溢れ出していることだろう」


 レイオンは静かに呟いた。

 まるでヴォルフに聞かせるように。

 ヴォルフがゆっくりと、顔を上げる。

 歯を食い縛って自分を見上げる弟を、レイオンは冷ややかに見下ろした。


「ヴォルフ。お前の名はただの飾りか?」


「ち……がう!」


 両手で身体を支え、ヴォルフは荒い息を吐きながら起き上がる。

 赤い絨毯が敷き詰められた床を両足でしっかりと踏みしめ、戦闘の構えをとった。


「ロディウスはその名の通り、切り裂く風の如く挑んできた。

 お前はこのまま、約束も守らずに死ぬのか?」


「違うっ!」


 獣の咆哮の如く、ヴォルフは叫んで頭を振った。

 獅子の面をしたレイオンの口が、耳の方まで吊り上がり笑みを形作る。


「ならば名を懸けて挑むがよい。

 我が名はレイオン=レザフォード。名が冠するは、誰よりも強き絶対の王なり!」


 獣の咆哮を上げたレイオンの闘気が、より一層高まった。

 空気を震わせる程の力を、その身から感じる。


 未だ人型のヴォルフには、ほとんど勝ち目はない。

 ヴォルフが大きく息を吸い込んだ。心臓が一際大きく鼓動を刻む。


「ヴォルフは、約束、守るんだ!」


 ヴォルフの全身が、力強く脈打った。

 手足の爪が、牙が鋭く伸び、全身を獣毛が覆う。

 その身体が一回り大きくなった。

 レイオンが面白そうに見守る中、ヴォルフは徐々にその姿を変貌させる。


「我が名、ヴォルフ=レザフォード! 冠するは、真の勇気!」


 もう一頭の獣が、レイオンを睨み付ける。

 黒い毛並みの狼が、ヴォルフの声で叫んだ。


 今、二頭の獣が、地を蹴った。




 ナナエの悲鳴が、奇妙な反響を残して消える。

 目の前に倒れたロディウスから、目を逸らすことができなかった。


「う、嘘……嘘だ……こんなの、ある訳ない。だって、ロディウスは……」


「きみが殺したの?」


 ナナエの耳元で、聖王の声がした。

 いつの間に接近を許したのか。

 ナナエの背後に立つ聖王は、金色の瞳でナナエをねめつけるように見下ろす。

 その腹からは、ボタボタと血が流れ落ちていた。


 ナナエはまるで聖王の接近に気付いていない様子で、ゆるゆると首を振り後退りするばかりだ。

 倒れ臥す青年の姿。彼を刺した手応え。そして血の匂い。

 そのすべてが、ナナエの混乱に拍車をかけている。


「違う……ちが……オレじゃない。だって、ロディウスはあのとき……」


 震える声で、力なく否定する。

 そんなナナエに追い討ちをかけるように、聖王は再び耳元で囁いた。


「ああ、きみは彼を見捨てたんだったね。あのとき、きみが彼を行かせなかったら、彼が死ぬこともなかったのに」


「あ、あ……オレは……っ」


 聖王は徐々にナナエの心を追い詰めていく。

 聖王の言葉が、ナナエの心に影を落とす。

 混乱しているナナエは、聖王の言葉の魔力から、逃れることができなかった。

 聖王の言葉に、瞳に、ナナエの心は喰われていく。


「そう、彼が翼を失ったのも、きみを助けるためだったね。

 すべてはきみが招いた事態なのさ。きみさえいなければ、彼もこんな惨い死に方はしなかっただろうにねぇ」


「あ……う……」


 ナナエには、既に反論する気力もなかった。

 聖王の言葉が心を蝕んでいくのに抵抗すらできない。


 ナナエの目から、堪らず涙が零れ落ちた。

 聖王が、ナナエの目を覗き込む。

 ナナエの中から何かが抜け出して、聖王の許へと集約しているようだった。

 まるで、ナナエの生命力そのものが、聖王の中に流れ込んでいるかのよう。

 何かを食らったように、聖王が真っ赤な舌で唇を舐め上げた。


「きみの負の心、確かに頂いたよ。ごちそうさま」


 聖王の言葉が終わる前に、ナナエの身体が大きく傾ぐ。

 涙に濡れた目を見開いたまま、ナナエはゆっくりと仰向けに倒れた。

 その瞳に月の光を宿した聖王は、昇りゆく月を見上げて口の端を吊り上げる。


「後は、僕が貴女の跡を継げば、この世界は救われる……」

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