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TRUE DAWN  作者: 三九
15/18

月の精霊――月の伝承――

 まるで夢の中を漂っているような感覚だった。

 果てしなく続く夢。

 終わりのない夢。

 醒めることのない、夢。

 その中で、何かに追い掛けられるような焦燥感と、何かに押し潰されるような圧迫感だけが、ひりひりと肌から伝わってくるような気がした。


 ──泣いているの? 悲しんでいるの? 心が、怖がっているの?


 どこからともなく響いてきた声は、何もないこの空間に灯った小さな灯り。

 その声のする方へと進んで行けば、この夢は終わるかもしれない。

 そう思って、足を踏み出した。




 二人が家に戻ったときには、すっかり日も暮れていた。

 赤い夕焼けの残り香だけが、西の空と山の合間に揺らめいている。

 月はまだ出ていないが、あと数刻もしないうちに顔を覗かせるだろう。


 小さな家の扉を開けると、ガレットが真剣な面持ちで二人を待っていた。

 帰りが遅いから、心配していたのだろう。

 その表情は、怒っているようにも見えた。


「ナナエ、お前さんは王都に戻った方がいい」


 ナナエとヴォルフを家の中に招き入れて、しっかり扉に施錠してから、ガレットはそう言った。

 突然そう言われて納得できるようなナナエではない。

 ナナエはガレットに食って掛かった。


「でもまだ、事件は解決してないじゃ……」


「これ以上親御さんに心配かけてどうする。戻りなさい」


「…………」


 ガレットに言葉を遮ってまで強く言われ、ナナエは何も言えずに押し黙った。

 危なくなったから、一人だけ逃げるなど、後のことは皆に任せて、自分だけ舞台から降りるなど、冗談ではない。


 だが、王都の父や母、幼い妹のこと、月の家の皆やエナのことを考えると、どうしても断れなかった。


 ガレットはヴォルフに目を向ける。

 ナナエは王都で保護してもらえば良いが、ヴォルフには守ってもらえる場所がない。

 どうしたものかと思案して、ガレットは乱暴に頭を掻いた。


「ガレット、次の満月、いつ?」


 突然、ヴォルフが口を開いた。

 いきなり関係ない話をされて、ガレットは思考を中断した。


「は? 満月って……」


「うん、満月」


 ガレットは少し考え、くわえていた煙草の煙を吐き出した。


「……確か、四日後だな」


 ヴォルフはその答えを聞くと、一つ大きく頷いた。


「解った。ヴォルフ、もう一度、聖王のとこ、行く」


 確かな決意を秘めた声に、その場にいた誰もが息を呑んだ。


「正気かよ! 何考えてんだ!」


 ナナエがヴォルフに詰め寄った。

 何故わざわざ危険を冒すような真似をするのかと、ヴォルフを見上げて問い詰める。


 ロディウスを亡くしたばかりで、今度はヴォルフまでと考えると、気が気ではなかった。


 だが、ヴォルフは本気のようだ。

 普段のへらへらした笑みが、まったく見られない。


「ヴォルフ、行く。満月の日、聖王、正体現す。もう、時間、ない」


 その言葉に怪訝そうな顔をしたのはガレットだ。

 ヴォルフは明らかに、皆が知らないことを知っている。

 最初から知っていたのか、後から得た知識なのかは知らないが、ヴォルフの話を聞く必要がありそうだ。


「ヴォルフ、お前さん、何を知っている?」


 ガレットを見下ろし、ヴォルフは静かに語り始めた。

 これは、レイオンに捕まっている間に聞いたことだという。


「聖王は、月の精霊が、乗り移ったもの。月は、世界を浄化する、もの」


 いきなり出てきた『月の精霊』という単語に、ガレットたちは眉をひそめた。


 月の精霊とは、伝説の中のみの存在で、実際に確認されたことはない。

 存在自体も定かではなく、お伽噺や聖書、伝承となり語り継がれてきたものである。


「それは、昔話かい?」


 いつの間にかダルも部屋に入ってきて、ヴォルフの話を聞いていた。

 情報通の風の民であるダルも、月の精霊が実在したという話は聞いたことがない。


 しかし、ヴォルフは首を横に振った。


「本当の、話。月が、何で光ってるか、知ってるか?」


 ヴォルフの問いに答えられる者は、ここにはいなかった。


 月を発光させている構成成分が何なのか、知る者は誰もいない。

 月に手が届かないからだ。

 調べることができなければ、知ることもできない。


 だが、ヴォルフは……獣人は知っていると言う。


「月は、月の精霊の巣。月の精霊、あそこから、世界守ってる。月は、月の精霊いるから、光るんだ」


 その話はお伽噺にしか聞こえない。

 にわかには信じられない話だった。

 誰もが訝しげな顔をしてヴォルフを見ている。


「……そりゃあ、本当に本当の話なのか?」


 短くなった煙草を灰皿に押し付け、二本目を取り出しながらガレットが問う。

 ヴォルフは順に皆の顔を眺めて、頷いた。


「ヴォルフ、嘘言う必要、あるか?」


 逆に問われてしまい、口籠もる。


 ヴォルフの話が嘘だったとして、ヴォルフが得することなど何もないのだ。


 だが、敵に騙されて嘘の情報を教えられた、という可能性もある。

 ヴォルフが勘違いしているということも、あり得る話だ。


 未だ悩んでいる彼らを見て、ヴォルフは哀しげに眉根を寄せた。


「人間は、精霊、信じないか? 精霊の声、聞こえないか?」


「精霊の声……?」


 そんなものは聞いたことがない、とでも言うように、ガレットとナナエは首を傾げた。

 だがダルだけは心当たりがあるようで、半信半疑ながらも小さく頷く。


「風の声を、聞くことはある。あれは、風の民同士でしか聞こえない信号のようなものだと、言われているが……」


 以前読んだ学術書に書いてあった内容を、記憶の中から引っ張り出す。

 そのダルの言葉に、ヴォルフは首を振った。


「それ、風の精霊の声。風の精霊、一番たくさんいる。声、聞こえるのも、一番多い」


 風の精霊の声。

 ヴォルフの言葉を反芻しるように呟き、ダルはようやく納得したように頷いた。


 今まで風の民は、風の音を信号化して捉えていると言われてきたのだが、ダルにはいまいち納得できなかった。


 風の民は遊牧民であり、精霊研究に携わる者がほとんどいない。

 そのため、風の民の能力に関する研究は、常に他国が行っていたのだ。


 実際に風の力を受け継ぐ者と、それ以外の者とでは、捉え方にずれがある。

 風の囁き、かすかな感情の変化。その違いを、研究員は正確に捉えることができない。

 風に感情があるものかと、彼らは風の民の言葉を一蹴した。


 風の声が、時々やたらフレンドリーに感じるのは、風の精霊が自分たちに好感を持ってくれていたからなのだろう。

 ダルがずっと感じていた違和感は、ヴォルフの単純な言葉のお陰で解消された。


「なーるほどねぇ……こりゃ、ガキんちょの言うことが一番正しいかもしれんぜ、旦那」


 ダルに肯定されると、ガレットたちもすべて嘘だと決め付ける訳にはいかない。

 知能に障害があるとはいえ、ヴォルフは事態を正確に把握しているようだった。

 話を聞く価値はあるように思える。


「じゃあ、ヴォルフ。お前さんは、何でそんなに精霊に詳しいんだ? 俺でも知らないことを知っているようだが」


 だがガレットの本職は精霊研究である。

 そのガレットよりも、ヴォルフの方が精霊に関する知識を持っているというのは、些か納得できないことだった。

 天才と呼ばれたダークと共に、精霊の研究をしてきたのだ。

 どの国の研究施設より成果をあげていると思っている。


 だが、次のヴォルフの言葉で、ガレットはそれがただの思い込みだったのだと知った。


「ヴォルフ、獣人だから。獣人、精霊の子。精霊の話、いっぱい聞いてきた」


 その言葉に、ガレットは目を丸くした。

 以前、ロディウスからも同じことを言われたことがあるのだ。


 当時は作り話だと思って相手にしていなかったのだが、今にして思えば、ロディウスが来てから精霊研究はぐっと捗った。

 行き詰まると、必ずロディウスが助言してくれていたように思う。


 ロディウスが立てた仮説は、どんな突飛なものであれ、最終的にはダークの実験によって実証されてきた。

 何故そんな考えが浮かぶのかと訊ねたところ、ロディウスは一度だけ、苦笑いしながらこう言った。


『獣人は精霊の子なんでね。と言っても、ガレットたちは信じちゃくれないんだろ?』


 今回の影の騒動にしてもそうだ。


 ダークが影の研究を始めたとき、ロディウスは月の精霊が関係しているかもしれないと言った。

 ガレットもダークも、お伽噺だと笑い、真剣に話を聞いていなかった。


 もしもあのとき、彼の言葉を信じていたら、事態は違っていたかもしれない。

 後悔の念が押し寄せてきて、ガレットは煙草を噛み潰した。


「くそ……そういうことか。神話や伝承は、昔の人間の作り話じゃないんだな? すべて、事実を伝えている。そうだろう?」


 ガレットは乱暴に頭を掻き、ヴォルフに視線を向ける。

 ヴォルフは彼の視線を受け止め、はっきりと頷いた。


 隣に座っているナナエは、一人事態についていけていない。

 だが、これだけは解った。

 いつか、ヴォルフが言っていたこと。


『影な、月の精霊が、作ったんだぞ』


 あれが、正しかったのだ。


「じゃあ、何? 今回の黒幕は聖王……じゃなくて、聖王に取り憑いた月の精霊の仕業ってこと?」


 ナナエは皆の顔を見回して確認する。

 誰もが一様に頷いた。


 ガレットは点けたばかりの煙草を揉み消して、席を立った。

 ばたばたと慌ただしく部屋を出ていったかと思うと、すぐに分厚い羊皮紙の束と羽ペンを持って戻ってきた。


「ヴォルフ、お前さんの知ってることを、全部教えてくれ。

 俺たちは、月の精霊のことをほとんど知らない。お前さんの知識だけが頼りだ」


 ガレットは真剣そのものといった表情で、ヴォルフの正面の席に腰掛ける。

 テーブルの上に広げた羊皮紙には、影に関することが書かれていた。


 ナナエは初めて、ガレットの研究者としての顔を見た。

 普段おちゃらけているおっさんは、これ以上ないくらい真剣な表情でペンを走らせ、ヴォルフから聞いたことを書きまとめている。

 それに応えるように、ヴォルフも知りうる限り、父に聞かされた月の精霊の話を語った。


 普段の幼児のようなヴォルフを知っている者が見たら、何事かと驚くだろう。

 実際、ナナエは呆気にとられたようにヴォルフを見つめている。


 ヴォルフは獣人に伝わる伝説を、頭の中で反芻した。

 子供の頃は毎日聞いていたのだ。

 幼少の記憶が曖昧でも、それだけは忘れていなかった。




 地の精霊が大地を支え、火の精霊が人間に文明を授けたように、月の精霊にも役割がある。


 それは、邪悪なものから世界を守るというものだ。


 月の世界はこの世界全土を庇護する、始祖の精霊なのだ。

 この世界を生み出した精霊の王と共に、この世界の理を作り上げた。

 その後は世界を見下ろす遥か天空にその身を浮かべ、常にこの世界を見守っている。


 月の精霊は、世界を脅かす邪悪な思念を吸い取り、世界を浄化していると伝えられてきた。

 その邪悪な思念が何なのか、それは知られていない。

 ただ、月の浄化作用により、この世界は均衡を保っているという。




 そこまで聞いて、ガレットは一度ペンを止めて考え込んだ。


「……てことは、恐らく月の浄化作用に、何らかの障害が発生してるんだな。それで、急に影のようなモンスターが出てきたって訳か」


 そう呟いて、ガレットはヴォルフが語った伝承を羊皮紙にまとめる。

 ダークの研究成果のレポートに、知り得た情報を新たに書き加えた。

 しかしヴォルフは小さく首を振る。


「ヴォルフ、違う思う。月が壊れたからじゃ、ない。月が、怒ってるから。だから、影作ってる」


 ヴォルフはスペアの羽根ペンを指先で転がし、ガレットが綴る文字を眺めた。

 字が読めないヴォルフは、そこに何が書いてあるのかは理解していない。

 だが、ガレットが呟いた言葉は理解できる。


 ガレットの解釈は間違っていると、ヴォルフは言っているのだ。


 ガレットは眉間に皺を寄せてヴォルフを見る。

 ヴォルフの言い方ではまるで、月の精霊が世界を滅ぼそうとしているようではないか。

 世界を守るはずの精霊が、そんなことをするだろうか。


 だが、月の精霊について解っていることなどほとんどなく、どの解釈が正しいとは一概に言えないのが現状だ。

 ヴォルフの意見も、頭から否定はできない。

 ガレットはふむと頷いてから、止まりかけたペンを再び走らせた。


 その間、ナナエはダルと一緒に、キッチンで簡単な夕食を作っていた。

 乾いたパンに、切った野菜と干し肉を挟むだけの、なげやりサンドイッチ。


 今日は買い物に行く暇もなかったのだから、有り合わせのもので我慢するしかない。


 ダルからは休んでいてもいいと言われたのだが、じっとしているとロディウスのことを思い出してしまう。

 何かしていないと、挫けてしまいそうだった。


「嬢ちゃん、あんま無理すんなよ」


 ダルに言われて、ナナエは苦笑いした。

 気を遣われると、余計に落ち込みそうになる。


 リビングにサンドイッチを持っていくと、ガレットとヴォルフはまだ話し合っていた。

 ナナエは二人の側にも皿を置き、ヴォルフの隣に座る。


 ガレットの手元を覗き込んでみると、羊皮紙は難しい単語で埋め尽くされていた。


 眺めていてもさっぱり解らない。

 ナナエはサンドイッチを口に運びつつ、ヴォルフとガレットの話に耳を傾けた。


「で、次の満月に、月の精霊がどうするって?」


 ほとんど殴り書きのように、単語の羅列や不可解な図形を書きながらガレットが問う。


「満月、月の精霊が、一番強くなる日。いっぱい、たくさん影来る。今までより、もっと。そのとき、月の精霊、姿現す」


 ガレットのペンが止まった。

 大量の影が押し寄せるとなると、各国に知らせを出して厳重な警戒態勢をとってもらわなければ。


「ダル、各国に伝令を頼む。満月の日に大量の影が出現する可能性があるってな」


「あいよ」


「それにしても、月の精霊が姿を現すってのは、どういうことだ?

 聖王に取り憑いてるのが、実体を持って現れるってことか?」


 サンドイッチに手を伸ばし、ガレットがヴォルフに訊ねる。

 ヴォルフもナナエからサンドイッチを受け取り、ぱさぱさのパンを齧った。


「聖王、人間。月の精霊が、身体、乗っ取った。聖王倒す、月の精霊、次の身体探して、出てくる」


 精霊は普段、この世界とは少し次元のずれた世界にいるのだ。

 精霊が姿を現すには、それなりの力が必要なのだという。

 満月の日ならば、媒体となる人間の身体を使わなくとも、月の精霊はこの世界に出てくることができる。

 月の精霊と直接接触できる、唯一のチャンスなのだ。


「月の精霊、人間の世界操ろうと、した。だから聖王、なりたかった。今の聖王、本物かも、解らない」


 ヴォルフの言葉に、ナナエは納得したように頷いた。


「ああ、そういえば言ってたっけ。聖王の声が、ダークの声に似てるって……ロディウスが」


 自分で言って、ロディウスのことを思い出し、ダメージを受ける。

 わずかに俯いて、もそもそとパンを齧った。


「何だって? 聖王の顔、覚えてるか?」


 ガレットはサンドイッチに齧り付こうとしていたのを中止して、ナナエとヴォルフを交互に見やる。

 ナナエは聖王の姿を思い浮かべ、あの日の記憶を探った。


「えっと……黒髪黒目の、ひょろっとした若い男だった。なんか病人みたいに、なまっ白い顔の……」


 ガレットの目が驚愕で見開かれる。

 その容貌は、ガレットが知っているダークの姿に一致するのだ。


「なんてこった……間違いなくダークだ。捕まって殺されたもんだと思ってたが……」


 ガレットは片手にサンドイッチを持ったまま、がりがりと頭を掻く。

 信じられないようなことばかり聞かされて、頭がおかしくなりそうだった。


「月の精霊は俺たちの敵なのかい……異変を知って人の姿を借り、この地に降りた救世主って訳じゃないんだな……」


 重い溜め息と共に吐き捨てたダルの言葉に、その場にいた誰もが口をつぐむ。


 未だ甘い期待が、彼らの中にはあったのだ。

 精霊は人間を庇護する存在であると、人々はそう信じてきたのだから。


 だから、月の精霊が人類の敵に回るということが、信じられなかった。

 しかし、現実はそうではない。

 月は、この世界に最後の審判を下そうとしている。

 そしてそれは、四日後に迫っているのだ。


 だが、それが解っていても、事前に防ぐ術は、まだ見付かっていない。

 ダークに取り憑いた月の精霊を退治すればいいのか、月そのものを破壊しなければならないのか。


 ガレットたちが悩む中で、サンドイッチを食べ終えたヴォルフが軽くテーブルを叩いた。


「だから、ヴォルフ、聖王のとこ、行く」


 こつこつとテーブルを指先で叩きながら言うヴォルフは、何かを決意したように真剣な表情をしていた。

 その意志があまりに強く滲み出ていて、ナナエたちはわずかに息を呑む。

 あの泣き虫ヴォルフは、どこかに消えてしまったのだろうか。


「お前さん、本気かい?

 あっちにゃ、あのデカブツだっているんだ。むざむざ殺されに行くようなもんじゃないか」


 ダルの言葉にも、ヴォルフは決意を変えなかった。

 テーブルを叩く手を止めて、静かに首を振る。


「にぃと、約束、したんだ。ヴォルフが、やんなきゃ、いけないんだ」


 いったい何を約束したのか、と訊く前に。

 ヴォルフとナナエとダル、三人は急に険しい表情で窓の外に目を向けた。

 ガレットは一人、何が起きたのか解らずに、三人の顔を見回している。


「ど、どうしたんだ皆?」


「声が……」


 最初に答えたのはナナエだった。

 何かの声を聞いて、反射的に外を見たのだ。

 それにダルが補足する。


「風の声だ……影が街を襲ってる!」


 ダルは言うなり立ち上がって、家の外に飛び出した。

 ナナエとヴォルフも、すぐに後を追う。

 一歩遅れて、ガレットも走ってきた。


 無数の黒い影が、街の中を練り歩いている。

 影たちは街灯を壊し、自らの行動範囲を広げているようだ。

 影に襲われた人たちが、あちこちに倒れている。


「ど、どうなってんだ!?」


「月が、怒ってる……」


 皆が慌てる中、ヴォルフは一人、空を見上げて呟いた。

 上空に浮かぶ月は、ぼんやりと赤く輝き、いつにも増して大きく見えた。


「とにかく、影をどうにかしないと。旦那は家の中に隠れてなよ」


 言うが早いか、ダルは騒ぎになっている街の中心へ駆け出した。

 ナナエとヴォルフも、それを追って走りだす。


 ガレットの制止の声は、夜の闇に虚しく消えた。

 一人取り残され、ガレットは壁を殴りつける。

 闘う力のない自分は、彼らについていっても足手まといになるだけだ。


「くそっ……!」


 血が滲む手を握り締め、ガレットは短く呟いた。




 街の中心部はひどく混乱していた。

 影に襲われる人々の悲鳴と、駆け付けた警備兵の号令が飛び交っている。


 切っても切っても、影は新たに生まれてくるのだ。

 植物の陰、動物の陰、人間の陰から、次々と。


 明らかに今までとは違う。

 いつもは数体の影が現れるだけで、それ以上増えたりはしなかった。


 しかし今、目の前には大量の影が蠢いている。

 理由は解らないが、とにかく街の人を助けるのが先だ。


「ちっ、くそ……何なんだこいつら!」


 ぼやきながら、ダルが鎌鼬を飛ばす。

 影はそれであっさり両断され、虚空へと消え去るのだが、新たに生まれてくる影のせいで、ちっとも数が減らない。


 ナナエとヴォルフも、手近な影から切り捨てていく。

 剣を持っていないナナエは、ダルを真似て水を飛ばし、影を屠る。

 影の対処にも慣れてきたものの、こんなに多くの影が現れたのは初めてで、表情には焦りの色が浮かんでいる。


 それは周囲に散開している警備兵たちも同じことだ。

 いくら斬っても、敵が新たに増えるのではきりがない。

 影の素となっているものをどうにかしないと、朝まで延々戦い続ける羽目になるだろう。


 空には雲が出ているが、月の周りは晴れている。

 雲が月光を遮ってくれるまで、少なくとも一時間はかかるだろう。


 住人全員が家の中に避難したとて、残った影に家を壊されれば、そこから月光が侵入する。

 そうなれば、逃げられる場所などない。

 やはり、雲で月を覆い隠すしかなさそうだ。


「ダル! あの雲動かせない?」


 ナナエが空を指差し、ダルも一瞬空を見上げる。


「できねぇこともないが、ちと時間がかかるぞ。この場を任せて大丈夫かい?」


「大丈夫!」


 ナナエが頷いたのを見て取ると、ダルは風に集中するために、影の手が届かない高さまで飛んだ。


 風に支えられて空に留まり、更に遥か上空の雲を運ぶよう、風の精霊に語り掛ける。

 ダルの意思に応えるように、上空では突風が巻き起こった。

 ゆっくりだが確実に、大きな雲が月に近付いていく。


「まだかよ!」


 地上では、ナナエやヴォルフ、警備兵たちが影を食い止めている。

 焦れたように叫びながら、ナナエは水の刃で影を切り裂いた。

 雲はまだ、遠い。


 遠巻きに眺めていた街の人々も、ダルとナナエに気付いたようだ。

 水や風を自在に操れる精霊に愛されし者は、一人でも騎士団一部隊以上の力を有すると聞く。

 そんな者が二人もいるのだ。

 きっと助かると、期待に満ちた目で二人を見守り、物陰で息を潜めている。


 それは、間近で二人を見た警備兵たちも同じようだ。

 今年入った新兵なのだろう。

 まだ年若い少年兵は、ナナエの操る水の刃に目を奪われた。


 だが、そのわずかな隙に、影の接近を許してしまう。

 少年が気付いたときには、目の前に黒いシルエットが迫っていた。

 間近に迫る死の影に、思わず目を閉じる。

 刃物で肉を切り裂いたような音がした。

 しかしそれは、自分の腹が切り裂かれた音ではなかった。


 恐る恐る目を開けると、目の前にいたはずの影は胴から上がなくなっており、その向こう側に腕を振り抜いた格好のヴォルフが立っていた。


 ヴォルフは、この中で最も成果を挙げている。

 すべて一撃で影を葬り、新たな影が動きだそうとする前に潰しに行く。

 ヴォルフの周囲だけ、他よりも影の密度が薄くなっている程だ。

 今程切り裂いた影も、崩れ落ちて虚空に消える。


 敵を前にしたヴォルフの鋭い眼光に、少年は驚いて尻餅をついてしまった。


 本で読んだ知識で、ヴォルフが獣人であるということは解る。

 ひょっとして自分は殺されるんじゃなかろうかと、水の精霊に祈りを捧げた。


 しかし、少年の想像を裏切るように、ヴォルフは人懐っこい笑みを浮かべ、少年に手を差し出した。


「平気か? 立てるか?」


「え……え?」


 事態を理解できず、面食らった様子の少年の腕を掴み、ヴォルフは彼を強引に立たせる。


「怪我、ないな。良かった」


 それだけ言って、ヴォルフは別の影を倒しに走っていってしまう。

 残された少年は、多少驚愕の余韻を残しながらも、再び剣を握り締めて市民の救助に向かった。


 影は少しずつ減ってきてはいるが、減った分だけ数を増している。

 戦い通しだった警備兵には、疲労の色が濃い。


「なあ、まだかよ!」


「慌てるなよ……! もう、届く!」


 ナナエの焦りの声を聞きながら、ダルは風を使って雲を呼び寄せる。

 空を覆うカーテンのような雲は、月の間近に迫り、徐々に月の光を遮っていく。

 やがて辺りが薄暗くなり、雲は完全に月を覆い隠した。

 月の光も星の光も届かない。

 夜闇を照らすのは、人々が持つ松明や角灯の灯りのみとなった。


 月光が遮られてすぐに影が消え去る訳ではないが、これで新たに影が増殖することはなくなった。

 ナナエたちは、暗闇の中で残った影に刃を振るう。

 影は、確実に数を減らしていった。


 街中の影を片付けるのにはかなり時間がかかったが、それでも今、ナナエが斬った影が、最後の一体だったようだ。

 街中の警備兵たちから、影消滅を報告する声が聞こえる。


 街の中に、ようやく安心が戻ってきた。

 幸い死者は出なかったが、それでも酷い傷を負っている者はいる。

 兵たちは詰め所からありったけの医薬品を持ってきて、怪我人の応急処置をしていた。


 ナナエたちも手伝いたいところだが、疲労感が強く、街の一角に座り込んでしまった。


「あー、もうだめ。俺もう動けない……」


「オレも……」


 長時間連続で精霊の力を行使したため、ダルとナナエは立つことすらままならない。


 ヴォルフだけは一人元気で、あれだけ動き回った後だというのに、街と森とを往復している。


「はい、これ、痛いの消える。噛め」


 ヴォルフがダルに差し出したのは、森に生えている薬草だった。

 街の人や兵士の怪我の治療で薬が足りないので、ヴォルフが森から薬草を摘んできているのだ。


「ありがとよ、ガキんちょ……ぅえ苦っ!」


 鎮痛効果のあるという草を食み、ダルは思い切り顔をしかめた。

 ヴォルフは余った草を、近くにいた少年兵に渡す。

 先程ヴォルフが助けた少年だ。


「これ、痛いの消えるのと、傷、早く治るの。いっぱいあるから、使え」


「はい、あのっ、ありがとうございます!」


 少年は両手にいっぱいの薬草を抱えて、怪我人を集めた大通りに走っていった。

 そこでは、ヴォルフに呼び出されたガレットも、怪我人の手当てを手伝っている。


 その光景を見ながら、ヴォルフはナナエとダルに真剣な表情で言った。


「たぶん、これから毎日、同じくらい影、来る。月の精霊、倒さなきゃ、だめだ」


 これから毎夜こんな襲撃が続いたのでは、とても対処しきれない。

 しかも、月の精霊は満月の日に最も強い力を発揮するという。

 恐らく、満月当日は今日の比ではない数の影が、人々を襲うだろう。


 今日のように大きな雲が出ていれば良いが、そう都合良くはいかない。

 精霊の力を引き出しても、世界中の国を覆い隠せるような雲は、作れないのだ。

 だからこそ、元から絶たねばならない。


「ヴォルフ、行く。ばいばいだ」


 あっさりと、まるで家に帰る子供のようにあっさりと言い切り、ヴォルフは走りだした。

 座り込んでいたナナエもダルも、突然走りだしたヴォルフを引き止めることはできなかった。


「ちょ……なっ!?」


「待て! ヴォルフ!」


 慌てて制止の言葉を口にして立ち上がったときには、ヴォルフの姿は夜闇の向こうに消えていた。


「あの……馬鹿!」


 咄嗟に走って追い掛けたのは、ナナエだけだった。

 ダルも足を踏み出したのだが、強烈な眩暈を覚えてしゃがみ込んでしまう。


 先日のナナエと同じように、過度な力を使ったため、抗えない程の疲労感が押し寄せてくる。

 意識を失いこそしなかったものの、とてもすぐには立ち上がれそうにない。


「っく……これだから、最近の若者は……」


 口でぼやきながらも、胸の裡では二人の無事を願う。

 そうすることしか、今のダルにできることはなかった。

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