月の精霊――月の伝承――
まるで夢の中を漂っているような感覚だった。
果てしなく続く夢。
終わりのない夢。
醒めることのない、夢。
その中で、何かに追い掛けられるような焦燥感と、何かに押し潰されるような圧迫感だけが、ひりひりと肌から伝わってくるような気がした。
──泣いているの? 悲しんでいるの? 心が、怖がっているの?
どこからともなく響いてきた声は、何もないこの空間に灯った小さな灯り。
その声のする方へと進んで行けば、この夢は終わるかもしれない。
そう思って、足を踏み出した。
二人が家に戻ったときには、すっかり日も暮れていた。
赤い夕焼けの残り香だけが、西の空と山の合間に揺らめいている。
月はまだ出ていないが、あと数刻もしないうちに顔を覗かせるだろう。
小さな家の扉を開けると、ガレットが真剣な面持ちで二人を待っていた。
帰りが遅いから、心配していたのだろう。
その表情は、怒っているようにも見えた。
「ナナエ、お前さんは王都に戻った方がいい」
ナナエとヴォルフを家の中に招き入れて、しっかり扉に施錠してから、ガレットはそう言った。
突然そう言われて納得できるようなナナエではない。
ナナエはガレットに食って掛かった。
「でもまだ、事件は解決してないじゃ……」
「これ以上親御さんに心配かけてどうする。戻りなさい」
「…………」
ガレットに言葉を遮ってまで強く言われ、ナナエは何も言えずに押し黙った。
危なくなったから、一人だけ逃げるなど、後のことは皆に任せて、自分だけ舞台から降りるなど、冗談ではない。
だが、王都の父や母、幼い妹のこと、月の家の皆やエナのことを考えると、どうしても断れなかった。
ガレットはヴォルフに目を向ける。
ナナエは王都で保護してもらえば良いが、ヴォルフには守ってもらえる場所がない。
どうしたものかと思案して、ガレットは乱暴に頭を掻いた。
「ガレット、次の満月、いつ?」
突然、ヴォルフが口を開いた。
いきなり関係ない話をされて、ガレットは思考を中断した。
「は? 満月って……」
「うん、満月」
ガレットは少し考え、くわえていた煙草の煙を吐き出した。
「……確か、四日後だな」
ヴォルフはその答えを聞くと、一つ大きく頷いた。
「解った。ヴォルフ、もう一度、聖王のとこ、行く」
確かな決意を秘めた声に、その場にいた誰もが息を呑んだ。
「正気かよ! 何考えてんだ!」
ナナエがヴォルフに詰め寄った。
何故わざわざ危険を冒すような真似をするのかと、ヴォルフを見上げて問い詰める。
ロディウスを亡くしたばかりで、今度はヴォルフまでと考えると、気が気ではなかった。
だが、ヴォルフは本気のようだ。
普段のへらへらした笑みが、まったく見られない。
「ヴォルフ、行く。満月の日、聖王、正体現す。もう、時間、ない」
その言葉に怪訝そうな顔をしたのはガレットだ。
ヴォルフは明らかに、皆が知らないことを知っている。
最初から知っていたのか、後から得た知識なのかは知らないが、ヴォルフの話を聞く必要がありそうだ。
「ヴォルフ、お前さん、何を知っている?」
ガレットを見下ろし、ヴォルフは静かに語り始めた。
これは、レイオンに捕まっている間に聞いたことだという。
「聖王は、月の精霊が、乗り移ったもの。月は、世界を浄化する、もの」
いきなり出てきた『月の精霊』という単語に、ガレットたちは眉をひそめた。
月の精霊とは、伝説の中のみの存在で、実際に確認されたことはない。
存在自体も定かではなく、お伽噺や聖書、伝承となり語り継がれてきたものである。
「それは、昔話かい?」
いつの間にかダルも部屋に入ってきて、ヴォルフの話を聞いていた。
情報通の風の民であるダルも、月の精霊が実在したという話は聞いたことがない。
しかし、ヴォルフは首を横に振った。
「本当の、話。月が、何で光ってるか、知ってるか?」
ヴォルフの問いに答えられる者は、ここにはいなかった。
月を発光させている構成成分が何なのか、知る者は誰もいない。
月に手が届かないからだ。
調べることができなければ、知ることもできない。
だが、ヴォルフは……獣人は知っていると言う。
「月は、月の精霊の巣。月の精霊、あそこから、世界守ってる。月は、月の精霊いるから、光るんだ」
その話はお伽噺にしか聞こえない。
にわかには信じられない話だった。
誰もが訝しげな顔をしてヴォルフを見ている。
「……そりゃあ、本当に本当の話なのか?」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、二本目を取り出しながらガレットが問う。
ヴォルフは順に皆の顔を眺めて、頷いた。
「ヴォルフ、嘘言う必要、あるか?」
逆に問われてしまい、口籠もる。
ヴォルフの話が嘘だったとして、ヴォルフが得することなど何もないのだ。
だが、敵に騙されて嘘の情報を教えられた、という可能性もある。
ヴォルフが勘違いしているということも、あり得る話だ。
未だ悩んでいる彼らを見て、ヴォルフは哀しげに眉根を寄せた。
「人間は、精霊、信じないか? 精霊の声、聞こえないか?」
「精霊の声……?」
そんなものは聞いたことがない、とでも言うように、ガレットとナナエは首を傾げた。
だがダルだけは心当たりがあるようで、半信半疑ながらも小さく頷く。
「風の声を、聞くことはある。あれは、風の民同士でしか聞こえない信号のようなものだと、言われているが……」
以前読んだ学術書に書いてあった内容を、記憶の中から引っ張り出す。
そのダルの言葉に、ヴォルフは首を振った。
「それ、風の精霊の声。風の精霊、一番たくさんいる。声、聞こえるのも、一番多い」
風の精霊の声。
ヴォルフの言葉を反芻しるように呟き、ダルはようやく納得したように頷いた。
今まで風の民は、風の音を信号化して捉えていると言われてきたのだが、ダルにはいまいち納得できなかった。
風の民は遊牧民であり、精霊研究に携わる者がほとんどいない。
そのため、風の民の能力に関する研究は、常に他国が行っていたのだ。
実際に風の力を受け継ぐ者と、それ以外の者とでは、捉え方にずれがある。
風の囁き、かすかな感情の変化。その違いを、研究員は正確に捉えることができない。
風に感情があるものかと、彼らは風の民の言葉を一蹴した。
風の声が、時々やたらフレンドリーに感じるのは、風の精霊が自分たちに好感を持ってくれていたからなのだろう。
ダルがずっと感じていた違和感は、ヴォルフの単純な言葉のお陰で解消された。
「なーるほどねぇ……こりゃ、ガキんちょの言うことが一番正しいかもしれんぜ、旦那」
ダルに肯定されると、ガレットたちもすべて嘘だと決め付ける訳にはいかない。
知能に障害があるとはいえ、ヴォルフは事態を正確に把握しているようだった。
話を聞く価値はあるように思える。
「じゃあ、ヴォルフ。お前さんは、何でそんなに精霊に詳しいんだ? 俺でも知らないことを知っているようだが」
だがガレットの本職は精霊研究である。
そのガレットよりも、ヴォルフの方が精霊に関する知識を持っているというのは、些か納得できないことだった。
天才と呼ばれたダークと共に、精霊の研究をしてきたのだ。
どの国の研究施設より成果をあげていると思っている。
だが、次のヴォルフの言葉で、ガレットはそれがただの思い込みだったのだと知った。
「ヴォルフ、獣人だから。獣人、精霊の子。精霊の話、いっぱい聞いてきた」
その言葉に、ガレットは目を丸くした。
以前、ロディウスからも同じことを言われたことがあるのだ。
当時は作り話だと思って相手にしていなかったのだが、今にして思えば、ロディウスが来てから精霊研究はぐっと捗った。
行き詰まると、必ずロディウスが助言してくれていたように思う。
ロディウスが立てた仮説は、どんな突飛なものであれ、最終的にはダークの実験によって実証されてきた。
何故そんな考えが浮かぶのかと訊ねたところ、ロディウスは一度だけ、苦笑いしながらこう言った。
『獣人は精霊の子なんでね。と言っても、ガレットたちは信じちゃくれないんだろ?』
今回の影の騒動にしてもそうだ。
ダークが影の研究を始めたとき、ロディウスは月の精霊が関係しているかもしれないと言った。
ガレットもダークも、お伽噺だと笑い、真剣に話を聞いていなかった。
もしもあのとき、彼の言葉を信じていたら、事態は違っていたかもしれない。
後悔の念が押し寄せてきて、ガレットは煙草を噛み潰した。
「くそ……そういうことか。神話や伝承は、昔の人間の作り話じゃないんだな? すべて、事実を伝えている。そうだろう?」
ガレットは乱暴に頭を掻き、ヴォルフに視線を向ける。
ヴォルフは彼の視線を受け止め、はっきりと頷いた。
隣に座っているナナエは、一人事態についていけていない。
だが、これだけは解った。
いつか、ヴォルフが言っていたこと。
『影な、月の精霊が、作ったんだぞ』
あれが、正しかったのだ。
「じゃあ、何? 今回の黒幕は聖王……じゃなくて、聖王に取り憑いた月の精霊の仕業ってこと?」
ナナエは皆の顔を見回して確認する。
誰もが一様に頷いた。
ガレットは点けたばかりの煙草を揉み消して、席を立った。
ばたばたと慌ただしく部屋を出ていったかと思うと、すぐに分厚い羊皮紙の束と羽ペンを持って戻ってきた。
「ヴォルフ、お前さんの知ってることを、全部教えてくれ。
俺たちは、月の精霊のことをほとんど知らない。お前さんの知識だけが頼りだ」
ガレットは真剣そのものといった表情で、ヴォルフの正面の席に腰掛ける。
テーブルの上に広げた羊皮紙には、影に関することが書かれていた。
ナナエは初めて、ガレットの研究者としての顔を見た。
普段おちゃらけているおっさんは、これ以上ないくらい真剣な表情でペンを走らせ、ヴォルフから聞いたことを書きまとめている。
それに応えるように、ヴォルフも知りうる限り、父に聞かされた月の精霊の話を語った。
普段の幼児のようなヴォルフを知っている者が見たら、何事かと驚くだろう。
実際、ナナエは呆気にとられたようにヴォルフを見つめている。
ヴォルフは獣人に伝わる伝説を、頭の中で反芻した。
子供の頃は毎日聞いていたのだ。
幼少の記憶が曖昧でも、それだけは忘れていなかった。
地の精霊が大地を支え、火の精霊が人間に文明を授けたように、月の精霊にも役割がある。
それは、邪悪なものから世界を守るというものだ。
月の世界はこの世界全土を庇護する、始祖の精霊なのだ。
この世界を生み出した精霊の王と共に、この世界の理を作り上げた。
その後は世界を見下ろす遥か天空にその身を浮かべ、常にこの世界を見守っている。
月の精霊は、世界を脅かす邪悪な思念を吸い取り、世界を浄化していると伝えられてきた。
その邪悪な思念が何なのか、それは知られていない。
ただ、月の浄化作用により、この世界は均衡を保っているという。
そこまで聞いて、ガレットは一度ペンを止めて考え込んだ。
「……てことは、恐らく月の浄化作用に、何らかの障害が発生してるんだな。それで、急に影のようなモンスターが出てきたって訳か」
そう呟いて、ガレットはヴォルフが語った伝承を羊皮紙にまとめる。
ダークの研究成果のレポートに、知り得た情報を新たに書き加えた。
しかしヴォルフは小さく首を振る。
「ヴォルフ、違う思う。月が壊れたからじゃ、ない。月が、怒ってるから。だから、影作ってる」
ヴォルフはスペアの羽根ペンを指先で転がし、ガレットが綴る文字を眺めた。
字が読めないヴォルフは、そこに何が書いてあるのかは理解していない。
だが、ガレットが呟いた言葉は理解できる。
ガレットの解釈は間違っていると、ヴォルフは言っているのだ。
ガレットは眉間に皺を寄せてヴォルフを見る。
ヴォルフの言い方ではまるで、月の精霊が世界を滅ぼそうとしているようではないか。
世界を守るはずの精霊が、そんなことをするだろうか。
だが、月の精霊について解っていることなどほとんどなく、どの解釈が正しいとは一概に言えないのが現状だ。
ヴォルフの意見も、頭から否定はできない。
ガレットはふむと頷いてから、止まりかけたペンを再び走らせた。
その間、ナナエはダルと一緒に、キッチンで簡単な夕食を作っていた。
乾いたパンに、切った野菜と干し肉を挟むだけの、なげやりサンドイッチ。
今日は買い物に行く暇もなかったのだから、有り合わせのもので我慢するしかない。
ダルからは休んでいてもいいと言われたのだが、じっとしているとロディウスのことを思い出してしまう。
何かしていないと、挫けてしまいそうだった。
「嬢ちゃん、あんま無理すんなよ」
ダルに言われて、ナナエは苦笑いした。
気を遣われると、余計に落ち込みそうになる。
リビングにサンドイッチを持っていくと、ガレットとヴォルフはまだ話し合っていた。
ナナエは二人の側にも皿を置き、ヴォルフの隣に座る。
ガレットの手元を覗き込んでみると、羊皮紙は難しい単語で埋め尽くされていた。
眺めていてもさっぱり解らない。
ナナエはサンドイッチを口に運びつつ、ヴォルフとガレットの話に耳を傾けた。
「で、次の満月に、月の精霊がどうするって?」
ほとんど殴り書きのように、単語の羅列や不可解な図形を書きながらガレットが問う。
「満月、月の精霊が、一番強くなる日。いっぱい、たくさん影来る。今までより、もっと。そのとき、月の精霊、姿現す」
ガレットのペンが止まった。
大量の影が押し寄せるとなると、各国に知らせを出して厳重な警戒態勢をとってもらわなければ。
「ダル、各国に伝令を頼む。満月の日に大量の影が出現する可能性があるってな」
「あいよ」
「それにしても、月の精霊が姿を現すってのは、どういうことだ?
聖王に取り憑いてるのが、実体を持って現れるってことか?」
サンドイッチに手を伸ばし、ガレットがヴォルフに訊ねる。
ヴォルフもナナエからサンドイッチを受け取り、ぱさぱさのパンを齧った。
「聖王、人間。月の精霊が、身体、乗っ取った。聖王倒す、月の精霊、次の身体探して、出てくる」
精霊は普段、この世界とは少し次元のずれた世界にいるのだ。
精霊が姿を現すには、それなりの力が必要なのだという。
満月の日ならば、媒体となる人間の身体を使わなくとも、月の精霊はこの世界に出てくることができる。
月の精霊と直接接触できる、唯一のチャンスなのだ。
「月の精霊、人間の世界操ろうと、した。だから聖王、なりたかった。今の聖王、本物かも、解らない」
ヴォルフの言葉に、ナナエは納得したように頷いた。
「ああ、そういえば言ってたっけ。聖王の声が、ダークの声に似てるって……ロディウスが」
自分で言って、ロディウスのことを思い出し、ダメージを受ける。
わずかに俯いて、もそもそとパンを齧った。
「何だって? 聖王の顔、覚えてるか?」
ガレットはサンドイッチに齧り付こうとしていたのを中止して、ナナエとヴォルフを交互に見やる。
ナナエは聖王の姿を思い浮かべ、あの日の記憶を探った。
「えっと……黒髪黒目の、ひょろっとした若い男だった。なんか病人みたいに、なまっ白い顔の……」
ガレットの目が驚愕で見開かれる。
その容貌は、ガレットが知っているダークの姿に一致するのだ。
「なんてこった……間違いなくダークだ。捕まって殺されたもんだと思ってたが……」
ガレットは片手にサンドイッチを持ったまま、がりがりと頭を掻く。
信じられないようなことばかり聞かされて、頭がおかしくなりそうだった。
「月の精霊は俺たちの敵なのかい……異変を知って人の姿を借り、この地に降りた救世主って訳じゃないんだな……」
重い溜め息と共に吐き捨てたダルの言葉に、その場にいた誰もが口をつぐむ。
未だ甘い期待が、彼らの中にはあったのだ。
精霊は人間を庇護する存在であると、人々はそう信じてきたのだから。
だから、月の精霊が人類の敵に回るということが、信じられなかった。
しかし、現実はそうではない。
月は、この世界に最後の審判を下そうとしている。
そしてそれは、四日後に迫っているのだ。
だが、それが解っていても、事前に防ぐ術は、まだ見付かっていない。
ダークに取り憑いた月の精霊を退治すればいいのか、月そのものを破壊しなければならないのか。
ガレットたちが悩む中で、サンドイッチを食べ終えたヴォルフが軽くテーブルを叩いた。
「だから、ヴォルフ、聖王のとこ、行く」
こつこつとテーブルを指先で叩きながら言うヴォルフは、何かを決意したように真剣な表情をしていた。
その意志があまりに強く滲み出ていて、ナナエたちはわずかに息を呑む。
あの泣き虫ヴォルフは、どこかに消えてしまったのだろうか。
「お前さん、本気かい?
あっちにゃ、あのデカブツだっているんだ。むざむざ殺されに行くようなもんじゃないか」
ダルの言葉にも、ヴォルフは決意を変えなかった。
テーブルを叩く手を止めて、静かに首を振る。
「にぃと、約束、したんだ。ヴォルフが、やんなきゃ、いけないんだ」
いったい何を約束したのか、と訊く前に。
ヴォルフとナナエとダル、三人は急に険しい表情で窓の外に目を向けた。
ガレットは一人、何が起きたのか解らずに、三人の顔を見回している。
「ど、どうしたんだ皆?」
「声が……」
最初に答えたのはナナエだった。
何かの声を聞いて、反射的に外を見たのだ。
それにダルが補足する。
「風の声だ……影が街を襲ってる!」
ダルは言うなり立ち上がって、家の外に飛び出した。
ナナエとヴォルフも、すぐに後を追う。
一歩遅れて、ガレットも走ってきた。
無数の黒い影が、街の中を練り歩いている。
影たちは街灯を壊し、自らの行動範囲を広げているようだ。
影に襲われた人たちが、あちこちに倒れている。
「ど、どうなってんだ!?」
「月が、怒ってる……」
皆が慌てる中、ヴォルフは一人、空を見上げて呟いた。
上空に浮かぶ月は、ぼんやりと赤く輝き、いつにも増して大きく見えた。
「とにかく、影をどうにかしないと。旦那は家の中に隠れてなよ」
言うが早いか、ダルは騒ぎになっている街の中心へ駆け出した。
ナナエとヴォルフも、それを追って走りだす。
ガレットの制止の声は、夜の闇に虚しく消えた。
一人取り残され、ガレットは壁を殴りつける。
闘う力のない自分は、彼らについていっても足手まといになるだけだ。
「くそっ……!」
血が滲む手を握り締め、ガレットは短く呟いた。
街の中心部はひどく混乱していた。
影に襲われる人々の悲鳴と、駆け付けた警備兵の号令が飛び交っている。
切っても切っても、影は新たに生まれてくるのだ。
植物の陰、動物の陰、人間の陰から、次々と。
明らかに今までとは違う。
いつもは数体の影が現れるだけで、それ以上増えたりはしなかった。
しかし今、目の前には大量の影が蠢いている。
理由は解らないが、とにかく街の人を助けるのが先だ。
「ちっ、くそ……何なんだこいつら!」
ぼやきながら、ダルが鎌鼬を飛ばす。
影はそれであっさり両断され、虚空へと消え去るのだが、新たに生まれてくる影のせいで、ちっとも数が減らない。
ナナエとヴォルフも、手近な影から切り捨てていく。
剣を持っていないナナエは、ダルを真似て水を飛ばし、影を屠る。
影の対処にも慣れてきたものの、こんなに多くの影が現れたのは初めてで、表情には焦りの色が浮かんでいる。
それは周囲に散開している警備兵たちも同じことだ。
いくら斬っても、敵が新たに増えるのではきりがない。
影の素となっているものをどうにかしないと、朝まで延々戦い続ける羽目になるだろう。
空には雲が出ているが、月の周りは晴れている。
雲が月光を遮ってくれるまで、少なくとも一時間はかかるだろう。
住人全員が家の中に避難したとて、残った影に家を壊されれば、そこから月光が侵入する。
そうなれば、逃げられる場所などない。
やはり、雲で月を覆い隠すしかなさそうだ。
「ダル! あの雲動かせない?」
ナナエが空を指差し、ダルも一瞬空を見上げる。
「できねぇこともないが、ちと時間がかかるぞ。この場を任せて大丈夫かい?」
「大丈夫!」
ナナエが頷いたのを見て取ると、ダルは風に集中するために、影の手が届かない高さまで飛んだ。
風に支えられて空に留まり、更に遥か上空の雲を運ぶよう、風の精霊に語り掛ける。
ダルの意思に応えるように、上空では突風が巻き起こった。
ゆっくりだが確実に、大きな雲が月に近付いていく。
「まだかよ!」
地上では、ナナエやヴォルフ、警備兵たちが影を食い止めている。
焦れたように叫びながら、ナナエは水の刃で影を切り裂いた。
雲はまだ、遠い。
遠巻きに眺めていた街の人々も、ダルとナナエに気付いたようだ。
水や風を自在に操れる精霊に愛されし者は、一人でも騎士団一部隊以上の力を有すると聞く。
そんな者が二人もいるのだ。
きっと助かると、期待に満ちた目で二人を見守り、物陰で息を潜めている。
それは、間近で二人を見た警備兵たちも同じようだ。
今年入った新兵なのだろう。
まだ年若い少年兵は、ナナエの操る水の刃に目を奪われた。
だが、そのわずかな隙に、影の接近を許してしまう。
少年が気付いたときには、目の前に黒いシルエットが迫っていた。
間近に迫る死の影に、思わず目を閉じる。
刃物で肉を切り裂いたような音がした。
しかしそれは、自分の腹が切り裂かれた音ではなかった。
恐る恐る目を開けると、目の前にいたはずの影は胴から上がなくなっており、その向こう側に腕を振り抜いた格好のヴォルフが立っていた。
ヴォルフは、この中で最も成果を挙げている。
すべて一撃で影を葬り、新たな影が動きだそうとする前に潰しに行く。
ヴォルフの周囲だけ、他よりも影の密度が薄くなっている程だ。
今程切り裂いた影も、崩れ落ちて虚空に消える。
敵を前にしたヴォルフの鋭い眼光に、少年は驚いて尻餅をついてしまった。
本で読んだ知識で、ヴォルフが獣人であるということは解る。
ひょっとして自分は殺されるんじゃなかろうかと、水の精霊に祈りを捧げた。
しかし、少年の想像を裏切るように、ヴォルフは人懐っこい笑みを浮かべ、少年に手を差し出した。
「平気か? 立てるか?」
「え……え?」
事態を理解できず、面食らった様子の少年の腕を掴み、ヴォルフは彼を強引に立たせる。
「怪我、ないな。良かった」
それだけ言って、ヴォルフは別の影を倒しに走っていってしまう。
残された少年は、多少驚愕の余韻を残しながらも、再び剣を握り締めて市民の救助に向かった。
影は少しずつ減ってきてはいるが、減った分だけ数を増している。
戦い通しだった警備兵には、疲労の色が濃い。
「なあ、まだかよ!」
「慌てるなよ……! もう、届く!」
ナナエの焦りの声を聞きながら、ダルは風を使って雲を呼び寄せる。
空を覆うカーテンのような雲は、月の間近に迫り、徐々に月の光を遮っていく。
やがて辺りが薄暗くなり、雲は完全に月を覆い隠した。
月の光も星の光も届かない。
夜闇を照らすのは、人々が持つ松明や角灯の灯りのみとなった。
月光が遮られてすぐに影が消え去る訳ではないが、これで新たに影が増殖することはなくなった。
ナナエたちは、暗闇の中で残った影に刃を振るう。
影は、確実に数を減らしていった。
街中の影を片付けるのにはかなり時間がかかったが、それでも今、ナナエが斬った影が、最後の一体だったようだ。
街中の警備兵たちから、影消滅を報告する声が聞こえる。
街の中に、ようやく安心が戻ってきた。
幸い死者は出なかったが、それでも酷い傷を負っている者はいる。
兵たちは詰め所からありったけの医薬品を持ってきて、怪我人の応急処置をしていた。
ナナエたちも手伝いたいところだが、疲労感が強く、街の一角に座り込んでしまった。
「あー、もうだめ。俺もう動けない……」
「オレも……」
長時間連続で精霊の力を行使したため、ダルとナナエは立つことすらままならない。
ヴォルフだけは一人元気で、あれだけ動き回った後だというのに、街と森とを往復している。
「はい、これ、痛いの消える。噛め」
ヴォルフがダルに差し出したのは、森に生えている薬草だった。
街の人や兵士の怪我の治療で薬が足りないので、ヴォルフが森から薬草を摘んできているのだ。
「ありがとよ、ガキんちょ……ぅえ苦っ!」
鎮痛効果のあるという草を食み、ダルは思い切り顔をしかめた。
ヴォルフは余った草を、近くにいた少年兵に渡す。
先程ヴォルフが助けた少年だ。
「これ、痛いの消えるのと、傷、早く治るの。いっぱいあるから、使え」
「はい、あのっ、ありがとうございます!」
少年は両手にいっぱいの薬草を抱えて、怪我人を集めた大通りに走っていった。
そこでは、ヴォルフに呼び出されたガレットも、怪我人の手当てを手伝っている。
その光景を見ながら、ヴォルフはナナエとダルに真剣な表情で言った。
「たぶん、これから毎日、同じくらい影、来る。月の精霊、倒さなきゃ、だめだ」
これから毎夜こんな襲撃が続いたのでは、とても対処しきれない。
しかも、月の精霊は満月の日に最も強い力を発揮するという。
恐らく、満月当日は今日の比ではない数の影が、人々を襲うだろう。
今日のように大きな雲が出ていれば良いが、そう都合良くはいかない。
精霊の力を引き出しても、世界中の国を覆い隠せるような雲は、作れないのだ。
だからこそ、元から絶たねばならない。
「ヴォルフ、行く。ばいばいだ」
あっさりと、まるで家に帰る子供のようにあっさりと言い切り、ヴォルフは走りだした。
座り込んでいたナナエもダルも、突然走りだしたヴォルフを引き止めることはできなかった。
「ちょ……なっ!?」
「待て! ヴォルフ!」
慌てて制止の言葉を口にして立ち上がったときには、ヴォルフの姿は夜闇の向こうに消えていた。
「あの……馬鹿!」
咄嗟に走って追い掛けたのは、ナナエだけだった。
ダルも足を踏み出したのだが、強烈な眩暈を覚えてしゃがみ込んでしまう。
先日のナナエと同じように、過度な力を使ったため、抗えない程の疲労感が押し寄せてくる。
意識を失いこそしなかったものの、とてもすぐには立ち上がれそうにない。
「っく……これだから、最近の若者は……」
口でぼやきながらも、胸の裡では二人の無事を願う。
そうすることしか、今のダルにできることはなかった。