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TRUE DAWN  作者: 三九
13/18

闇の聖王――その戦士の誇り――

 頭の中が真っ白になっていく。

 ただ彼を助けたい一心で、ナナエは立ち上がった。


「嬢ちゃん……!?」


 ダルの途惑いの声が、かすかに聞こえる。

 しかしそれもすぐに聞こえなくなり、周りの景色も見えなくなった。


 ナナエの目に映っているのは、地に伏したロディウスと、彼に致命的な傷を与えた敵の姿だけだった。


 その異様な気配を感じ取り、レイオンが振り向く。


 ナナエが怒りに染まった目で見ている。

 レイオンはそれを目にして、面白そうに笑った。


 ナナエの闘気が大きくなっていくのが解る。

 その気迫に当てられたかのように、全身が総毛立った。


 人間がこれだけの気を発することができるとは、レイオンには正直驚きだった。


 もう少し挑発してやろう。


 面白半分、怖いもの見たさでそう思い、レイオンは手に持ったままだった弟の翼を、口に運ぶ。

 断面がむき出しの傷口に牙を立て、その肉を食い千切った。


 それを見たダルは、気分悪そうに口許を押さえる。

 しかしナナエを逆上させるには充分だった。


「ぁああああああっ!」


 渾身の叫びが迸る。

 その声に応えるように、周囲に水の匂いが充満した。

 水の精霊の力を発揮したことは解るが、この大量の水気はどこから集まってきたのか?


 レイオンの足下にあった草が、かさりと乾いた音をたてた。

 はっとして周囲を見渡せば、森の木々から、草花から、大量の蒸気が発せられていることに気付いた。


 植物の中に蓄えられている水分を利用しているのだ。

 この広大な森全体が、貯水庫の役割を果たしている。


 そして掻き集められた水は、岩盤さえも撃ち抜く弾丸となる。

 噴き出した水蒸気が集められ、水の弾がレイオンに向けて放たれた。


 鎌鼬よりも数段破壊力は上だ。

 拳圧で相殺することは難しい。

 レイオンは仕方なく、ロディウスから足を除けて攻撃を回避した。


 レイオンが離れた隙をみて、ダルは急いでロディウスに駆け寄った。

 ロディウスの怪我が一番酷い。

 早急に処置が必要だった。


 ロディウスの半獣化は解かれ、力なく横たわっている。

 人型時の腕が、半獣化したときの翼になるのだろう。

 ロディウスは、左の肩から先を失っていた。


 レイオンは軽々とナナエの攻撃を躱していたが、徐々に水の弾の数が増えてくると、流石に捌ききれなくなってくる。


 高速で飛び交う水の弾は、時にその形を変え、刃のようにレイオンを切り裂こうとする。

 それを見極め、最小限の動きで身を翻す。

 直接叩いて蹴散らしても、水はすぐに集合して刃となるのだ。


 元から絶たないと意味がない。

 レイオンの目が、ナナエの姿を捉えた。


 飛び来る水の合間を縫って、レイオンはナナエに向かい地を蹴った。

 横でそれを見ていたダルは、咄嗟に鎌鼬を飛ばしてナナエを援護する。


 レイオンの爪がナナエに届く直前、その目の前を風の刃が通り過ぎ、レイオンは仕方なく一瞬だけ足を止めた。


 その一瞬で、ナナエは周囲の水分をレイオンの足元に掻き集める。

 そして一気に噴き上げた。


 圧倒的な水量に押し上げられ、堪らずレイオンの足が地を離れた。

 その隙を逃がさず、水の刃が追撃する。

 空中で一瞬身動きのとれなくなったレイオンを掠め、水の刃が脇腹を切り裂いた。


「ほう?」


 予想以上のナナエの攻撃に、レイオンが愉しそうに笑う。

 しかし傷は浅くない。

 これ以上戦闘を続ければ、負けることはないにしても、あまり面白くない結果を招くことになりそうだった。


 その瞬間に、レイオンは撤退することを決めた。

 引き際も見極めずに闘い続ける程、レイオンは愚かではない。


 背後に跳びナナエから距離を取って、大きく一声吠えた。

 すぐに先程の蝙蝠の群れが、再び飛んでくる。


 黒い塊にまとわりつかれ、ナナエの視界が奪われた。

 その間に、レイオンの足音が遠ざかっていくのが聞こえる。


「ちくしょう! 待て!」


 襲い掛かる蝙蝠を、水を使い振り払う。

 しかし、そのときにはもう、レイオンの姿はなかった。


「逃げるのか!? 出てこい! ぶっ殺してやる!」


 そのままレイオンを追い掛けて行ってしまいそうなナナエを引き止めたのは、ダルだった。


「待て! 深追いするな。今はこの兄ちゃんの手当てが先だ」


 ナナエはその言葉を聞くまで、ロディウスのことを失念していた。

 頭に血が昇りすぎて、レイオンを倒すことしか考えられなかったのだ。

 ナナエはレイオンの追撃を諦め、急いでロディウスの許に走った。


 彼の傷口にはダルの上着を巻き付けているが、あまり止血の役には立っていない。

 早くも血が染みだして、上着はドス黒く染まってきている。

 激しい出血にロディウスの顔は血の気を失っていたが、まだ息はあった。


 ロディウスを抱き起こそうとしたナナエだが、突然目の前の景色がぐらりと揺れ、強烈な目眩に襲われた。その上体が傾ぐ。


「嬢ちゃん?」


 ダルが訝しがって肩を叩くと、ナナエはその場に倒れこんでしまった。

 限界を超えて水の力を引き出したせいで、急激に衰弱したのだ。


「おい! 嬢ちゃん!」


 ダルの呼び掛けにも、目を覚ます気配はない。


 ダル自身も、肋骨を三本も折っているのだ。

 二人を抱えて歩ける体力はない。


 どうするかと悩んだダルは、はっと気が付いた。

 そういえば、ヴォルフもいるのだった。

 ヴォルフが目を覚ませば、彼に運んでもらえる。


 ダルはその姿を捜して辺りを見回すが、近くに倒れていたはずのヴォルフの姿は、何故かどこにも見えない。

 仲間を置いて、一人で逃げるような少年には見えなかった。

 敵に攫われた可能性もある。


 捜しに行きたいが、ロディウスの怪我は深刻だ。一刻を争う。

 仕方なくヴォルフの捜索は諦め、ダルは力を振り絞って二人を運び始めた。




 ナナエが目覚めたのは、翌朝のことだった。

 過度の疲労で身体は怠かったが、意識だけははっきりしている。


 そこは見覚えのない部屋だった。

 ナナエ以外誰もいない。


 あれからどうなったのだろう。

 ロディウスは、ヴォルフは、どうなったのだろう。


 二人の姿を確認したくて、ナナエはベッドから起き上がった。


 どうやら着の身着のままここに寝かされていたらしい。

 服に付着していた土が、ベッドに落ちている。

 じっとしていられなくて、ナナエはベッドから飛び降りた。


 二人の姿を確認したい。


 そう思い部屋から出ようとしてドアを開けると、目の前にガレットが立っていた。


「うおう! びっくりした……」


「おっさん! なんであんたがここに?」


「ここ、俺の隠れ家なんだよ」


 そう言ってガレットは、肩越しに親指で壁を指した。


 なんでも、昨夜のうちに、ダルがここまでナナエたちを運んできたのだそうだ。

 ダルは今、リビングのソファで眠っている。


「後で礼言っとけよ。自分の怪我も酷いのに、お前ら二人を運んできたんだ」


 一瞬、安堵の息を吐きかけてから、ナナエは眉をひそめた。


「二人……? それ、どういう……?」


 ガレットはわずかに顔を引きつらせ、決まり悪そうに頭を掻く。


 しかし、黙っている訳にもいかない。

 いずれ知られることなのだから。


「……お前さんとロディウスだよ。ヴォルフとかいうのは、姿が見えなかったんだと」


「ヴォルフ、が……?」


 ナナエの顔が青ざめる。


「まさか、死んで……!?」


 ナナエの震える声を聞いて、ガレットは慌てて首を振った。


「いや、気付いたら姿を消していたそうだ。

 まだ森の中にいるのか、敵に攫われた可能性もある」


 ガレットの話を聞いても、絶望的な気持ちは変わらない。

 あの男に捕まっているのだとしたら、最悪な可能性として、もう殺されているかもしれないのだ。

 ナナエは首を振って挫けそうになる気持ちを振り払った。


「ロ、ロディウスは? あいつは、無事なのか?」


 今にも泣きそうな顔で、ガレットの白衣を掴む。

 ロディウスも酷い怪我を負っていたのだ。

 それを思い出すだけで、嫌な想像が広がる。


「ロディウスは……なんとか、一命を取り留めた。今は隣の部屋で眠っているが……」


 ガレットの言葉を全部聞き終わる前に、ナナエはガレットを押し退けて部屋を出た。

 すぐさま隣の部屋のドアを開ける。


「ロディウス!」


 部屋に入りかけて、その足が止まる。


 ロディウスの手足や胴は、ロープでベッドに固定してある。

 その胸から上は包帯に包まれており、そして左腕は、肩から先が無かった。


 震える脚で、転びそうになりながらロディウスのベッドに駆け寄る。

 静かに眠っているロディウスの顔を見て、ナナエはひっと息を呑んだ。


 普段顔を覆っている布が外れていて、彼の素顔が露になっている。


 その顔は、額から目の下辺りまでが、酷く焼け爛れて皮膚が引き攣れていた。

 目は潰れたのか抉られたのか、閉ざされたまま焼かれていて開くこともできない。

 赤黒くなった額は、ケロイド状になった皮膚のせいで、いびつに隆起している。


 大分古い火傷の痕だ。

 彼がいつも布を巻いていたのは、これを隠すためだったのだ。


「あ……あ、何で、これ……」


 ナナエは力なくその場に膝をついた。

 ガレットが背後から近付いてくる。


「今は、鎮静剤打って眠ってる。目が覚めると暴れるんだ」


 ロープで縛り付けてある理由がそれだった。

 無意識のまま獣人に暴れられると、人間の力では取り押さえることも難しい。


 ガレットはナナエの腕を掴んで立ち上がらせる。

 ナナエは力が抜けたように中々立てなかったが、ようやく立ち上がり、ガレットに連れられ部屋を出た。




 隣の部屋に移動して、ガレットはナナエをベッドに座らせた。

 ナナエはゆるゆると顔を上げガレットを見上げる。


「ロディウスは……」


「出血が酷くてな。だが、獣人ならばすぐに回復する。心配な……」


「違う! あの、顔の火傷! オレ、あんなんなってたなんて、聞いてない!」


 ナナエはぶんぶん首を振って叫んだ。


 今まで一緒に旅をしていて、ロディウスからそんな話は聞いたことがなかった。


 隠し事をされていたというのが、少なからずショックではあった。

 自分は信用されていないから、話してくれなかったのだと。


 そして、それも当然だとも思った。

 彼の容態を心配する前に、そんなことを気にしている自分など。


 精神的に不安定になっているのだろう。

 ナナエは急に黙り込んで俯いてしまった。


「お前さんにも、もう少し休息が必要だな。もう一回寝とけ。安定剤でも打とうか?」


 溜め息混じりでガレットに言われ、ナナエは小さく首を振った。

 疲れてはいたが、目が冴えてしまって眠れそうにない。


 しかし、ガレットに力ずくでベッドに押し込まれてしまった。


「いいから寝てろ。それと、ロディウスの火傷の痕は、後で本人に訊いてみな」


 ガレットはそれだけ言って、部屋を出ていった。


 ナナエは横向きに背を丸めて、膝を抱えるように身体を縮める。

 毛布の端をぎゅっと握って、手が震えるのを鎮めようとした。


 だがそれだけでは鎮まりそうにない。

 目を瞑ってみる。

 そうすると浮かぶのは、ロディウスのことばかりだった。


 あのまま死んでしまったらどうしよう。

 目覚めたとき、何と言えばいいのだろう。


 自分がレイオンに捕まったりしなければ、ロディウスが怪我をすることもなかったのに。

 嫌われたらどうしよう。

 罵られたらどうしよう。


(嫌だ、ロディウス……ロディウス……!)


 とても恐くなって、全身が震えているような錯覚を覚える。

 きつく閉じた目から涙が溢れ、頬を濡らした。




 夕方になって、ようやくナナエが起きだしてくると、リビングのソファにダルが座っていた。


「あ……あの……」


 遠慮がちにナナエが声をかけると、ダルはゆっくり振り向いた。


「なんだ、嬢ちゃんか。もう具合はいいのかい?」


 ナナエは一つ頷いて、ダルの正面に回った。

 低めのテーブルを挟んで、向かいのソファに座る。


「あの、ありがとう。迷惑かけて、ごめん」


 ナナエは静かに言って、頭を下げた。

 ダルは笑いながら顔の前で手を横に振る。


「いいって、困ったときは、お互い様だろ」


 それきり、二人とも黙り込んでしまう。

 夕陽が差し込む部屋の中、しばらくの間は何も喋らなかった。


 夕焼けの赤い太陽が山に沈みかけた頃、ようやくダルが口を開いた。


「あのガキんちょは、役所に頼んで捜してもらってる。だが、まだ発見の報告は来てないようだ」


「……うん」


 ナナエはぼんやりと頷いた。

 ロディウスの姿を見てからというもの、ヴォルフのことをすっかり忘れてしまっていた。

 ダルの話でそのことに気付き、軽く自己嫌悪に陥る。


 心配していない訳ではない。

 ただ、ロディウスのことを思うと、他のことを考えられなくなるのだ。

 自分はいったい、どうしたというのだろう。解らない。


 静かに目を閉じて考えてみるが、その思考は強制的に中断させられた。

 ロディウスが寝ている部屋の方から、物音が聞こえたのだ。


 壁を叩くような音と、激しく叫ぶ声も聞こえてくる。

 ロディウスの声だ。

 時折苦痛に呻く声も聞こえる。


 ナナエは思わず立ち上がり、不安そうな表情を隠すことも忘れて、胸の前で手を握り締めた。

 やがてガレットの声も交じり、その後は急に静かになった。


「ここに連れてきたときも、あんな感じだったぜ。奴さん、腕を斬られたのが相当堪えたようだ」


 独り言でも呟くように、ダルは小さな声で言った。

 それでも近くにいたナナエには、しっかり聞こえている。


 夕陽も既に沈み、部屋の中は薄暗かったが、ナナエの顔が青ざめているのは解る。

 それが疲労のせいではないことも。


「行ってやんな。ガレットの旦那も、一日中兄ちゃんの世話してたんじゃ、まいっちまうだろうさ」


 ダルの言葉で後押しされて、ナナエはロディウスの部屋へと走った。




 ナナエがロディウスの部屋に入ると、ロディウスはベッドの上で静かに眠っていた。

 その隣には、疲れた様子のガレットが椅子に座っている。


「おっさん、ロディウスは……」


 ナナエに声をかけられて、ガレットはようやくナナエの存在に気付いたようだった。

 俯けていた顔を上げ、背後のナナエを見上げる。

 その顔には爪で引っ掻いたような傷があった。


「お前さんか……傷自体の治りは早いだろう。だが、問題は精神的な方だな」


 ガレットはそう言いながら、ロディウスを固定しているロープを結び直す。

 先程少し暴れただけで、ロープが千切れていた。

 ガレットの傷も、そのときロディウスの手が当たったのだろう。


 ベッドの柵に手足を括り付けられ、血の滲んだ包帯を巻き付けたその姿は、酷く痛々しい。

 黙って見ているだけでも苦しくなってきて、ナナエは遠慮がちに口を開いた。


「おっさん、オレ……ロディウスの側にいてもいいかな?」


 自分の服の裾を握り締めて言うナナエの足は、前に踏み出すのを躊躇っているようだったが。


 再びロディウスを固定し終えたガレットは、よろけながら立ち上がる。


「また暴れたら危ないから断りたいとこだけど、正直、代わってくれると有難い」


「大丈夫だよ。オレがちゃんと看てるから」


 ガレットは軽く頭を掻き、ポケットから煙草を取り出し一本くわえた。

 疲労を滲ませた足取りでナナエに近寄り、肩に手を置く。


「じゃあ、ちょいと付いててやってくれ。少し休んでくる。何かあったらすぐに呼べよ」


 ナナエが頷くのを確認してから、ガレットは部屋を出ていった。


 ナナエはしばらくその場で立ち尽くしていたが、やがて恐る恐るロディウスが眠るベッドに近付き、先程ガレットが座っていた椅子に腰掛ける。

 死んだように眠るロディウスの顔を見つめていると、再び涙が零れてきた。

 手で拭ったそれは、とても冷たかった。


「ロディウス、ごめん……オレは……」


 もう一度、その手で触れてほしい。

 もう一度、その声で名を呼んでほしい。

 もう一度、二人で話をしたい。

 もう一度、手を繋いで歩きたい。

 もう一度、一緒に旅をしたい。

 もう一度……


(そうだ。だってオレは……)


「いつの間にか、好きになってたんだ……」


 ロディウスの失われた腕に触れるように、ナナエはそっとベッドに手を置いた。

 ようやく理解できた自分の想いが、痛みを伴い胸の中で疼く。

 そんなナナエの心を拒絶するかのように、ロディウスが目覚める気配はなかった。




 暗い闇の中で漂っていた意識が、ゆっくりと浮上するのを、ロディウスは感じた。

 夢と現の狭間にある意識に、真っ先に訪れたのは、先程までと変わらぬ闇だった。


 自分はまだ眠っているのか、それとも目覚めたのか。


 解らなくなって、右手を動かしてみた。

 何かに縛り付けられているようで、思うように動かない。

 それは両足もだった。


 自由に動くはずの左手でそれを外そうとするが、上手くいかない。

 肩から先の腕の感覚が、ないのだ。


 何故? どうして?

 考えて、ようやく思い出す。


 兄に捻じ切られた、左腕の痛み。


「ぁ……っ、がっ、うあ……っ!」


 思い出すと、途端に傷口が疼いた。

 そして痛みと共に鮮やかに蘇る、恐怖と絶望。


「ああぁ、ぐぁ、ああああっ!」


 堪らず悲鳴を上げる。

 いつもならここで、ガレットが鎮静剤を打ってくれるのだが、今回は別のものがロディウスの意識を現実に引き戻した。


「ロディウス! ロディウス落ち着け!」


 聞き慣れた、少し低めの少女の声。


 ああ、ナナエだ。ナナエが傍にいる。


 荒い呼吸をしながら、唇を噛む。

 力任せに暴れて、ナナエを傷付けてはいけない。


 ロディウスは半分眠ったような状態だったが、ナナエの声を聞くと意識が回復するようで、すぐに暴れるのを止めた。


 何度かナナエが呼び掛けているうちに、ロディウスは血が滲み始めた唇を開いた。


「は……っあ、ナナエ……?」


 ロディウスの声が、小さくナナエを呼ぶ。

 それを聞いた瞬間に、ナナエは泣きだした。

 実に三日ぶりに、ロディウスがナナエの名を呼んだのだ。


 あれからずっと、ナナエはロディウスの傍に付いていた。

 そして今日、ロディウスはようやく意識を取り戻したのだ。


「何で……泣いてんだ……?」


 ナナエの啜り泣く声を聞いて、ロディウスはナナエの方に顔を向ける。


 ナナエの顔が見える訳ではないが、ナナエの声は正面から聞きたかった。


「泣いてないっ! ロディウスが、目ぇ覚めたから、嬉しいんだっ。だから泣いてない!」


 思い切り目許を拭い、鼻声でしゃくり上げながら言われても、すぐに嘘だとばれてしまうだろうに、どうしてこうも意地っ張りなのだろうか。


 ロディウスは頭の隅でそんなことを考えながら、「そうか」と呟き手を動かした。


「何で……縛られてんだ?」


 それはなんとなく、自分が暴れていたからだということは、認識できているのだが。


 ロディウスはナナエにロープを解いてくれと催促する。

 テーブルに果物ナイフがあったので、ナナエはそれでロープを切った。


 ようやく自由になった右手で、左腕があったはずの場所に触れる。

 眠りの中では目を背け続けていた現実が、急に形を成して襲ってきたような気がした。


 自分は、すべてを失くしたのだ。


 そう思うと、自嘲の暗い笑い声が、ロディウスの口から零れた。


「く……はは……ははは、情けねえな……」


 呟いて、包帯に包まれた肩を押さえる。

 鋭い痛みが走りぬけ、それはやがて鈍い疼きに変わった。


「やめろロディウス、傷が開いちまうだろ」


 ナナエがロディウスの手を外そうとするが、ロディウスはナナエの手を振り払った。

 ナナエは手を弾かれ、驚いたようにロディウスを見下ろす。


「……触るな。出ていってくれ」


 ロディウスは一瞬だけ後悔したように口をつぐみ、ナナエから顔を背けた。


 ナナエには、一番傍にいてほしかった。

 だが、こんな無様な姿は見られたくなかった。



 肩の傷よりも胸が痛くなってきたように思えて、呼吸するだけでも苦しい。


 ナナエはそんなロディウスを励まそうと、笑みを浮かべる。

 努力して作った笑顔は、とてもぎこちなかった。


「ロディウス、あのさ……オレ、ロディウスが生きててくれて、良かった。辛いかもしれないけど、元気出そうぜ」


 出てきたのは拙い言葉。

 こんなときに、何を言えば良いのか解らない。

 ナナエは、ロディウスを少しでも励ましたかったのだ。

 しかし、その言葉だけではロディウスの心を癒すことはできない。

 寧ろ、不安や苛立ちを煽ってしまったようだった。


「何言ってんだ? こんな、片腕失くして、もう飛ぶこともできないんだぞ。それなのに、元気出せだって?」


 ロディウスは暗い声で、吐き捨てるように言いながら起き上がる。

 右腕一本で支える身体は重く、貧血で頭がくらくらした。


 片手で頭を覆い呻くロディウスを、ベッドから落ちないようにナナエが慌てて支える。


 だがロディウスは、右手でナナエの肩を掴み、引き離そうとした。

 それでもナナエは、ロディウスの傍を離れようとしなかった。


「動くなよ! じっとしてなきゃだめだ!」


「黙れよ! 何故助けた? こんな傷を負って……死んだ方がマシだ!」


 血を吐くように言ったロディウスの言葉を聞いて、ナナエは俯いて眉根を寄せた。

 自分を離そうとしてくるロディウスの腕に、必死でしがみ付く。


「本気、なのかよ?」


 ナナエは恐々訊ねてみた。

 それがロディウスの本心だと、認めたくなかった。

 それがロディウスの本心だと、認めたくなかった。

 しかしロディウスはなおも言い募る。


「そうだ! 光を失って、皆に蔑まれて、群れにいた頃は爪弾きにされてた。

 でも! 空では兄弟にも引けを取らなかった。誰より速く空を駆けることができるのが、唯一の誇りだった!

 それなのに、それも全部奪われた! これでどうやって生きろと言うんだ!」


 まるで心のすべてを吐き出すように、ロディウスが叫ぶ。


 その声を聞き付けて、ガレットが部屋に向かってくる足音が聞こえた。

 しかし二人とも、そんなことには気付いていない。


 ナナエは激しく首を振って、ロディウスの手を握り締めた。


「それでも、ロディウスに生きててほしいんだ!

 ロディウスが死ぬなんて、嫌なんだ……」


「何故そんなこと! ナナエはっ……」


「好きなんだ! オレと一緒に、生きてほしいんだよ……!」


 ナナエの心からの声を聞いて、ロディウスは次の言葉を呑み込んだ。

 部屋に入ってきたガレットも、入り口で呆然と二人を見ている。


 ナナエの目から再び涙が溢れ出して、頬を伝い零れ落ちる。

 握り締められたロディウスの手に、暖かい雫が落ちていった。


 小さく肩を震わせて泣き続けるナナエの肩を、ガレットが叩く。


「泣くなよ。このバカ、目ぇ覚めたばっかで頭が働いてないだけだ」


 そう言ってナナエを椅子に座らせる。

 ナナエはおとなしく従って、ロディウスの手を離して椅子に腰掛けた。


 ガレットは咎めるようにロディウスを見下ろし、その首筋に手の甲を当てる。


「レディを泣かせちゃダメだろうよ……あー、ちっと熱があるな」


「触るな」


 ロディウスは嫌そうに身を捩る。

 ガレットはすぐに手を離したが、その目は未だ怒ったようにロディウスを見ている。


「ったく、お前が寝ぼけて暴れるから、傷が治らなくて化膿しちまったんだぞ。解熱剤飲んどけ」


 ガレットは棚から薬の箱を取り出す。

 水差しが置いてあるテーブルの上に箱を置き、その中から紙に包まれた粉末を選んだ。


「ほれ。飲めるか?」


「いらん」


 ガレットが薬を投げ渡すが、ロディウスは受け取る気もないらしく、包み紙は虚しくベッドの上に落ちた。


「ああ? 医者の言うことは聞いとけ。それとも、口移しじゃないと飲めませんかぁ?」


 笑い声を含んだガレットの言葉に反応したのは、ナナエの方だった。

 ばっと手を挙げて立ち上がる。


「だめっ……いや、オレが看てるから、おっさんはまだ寝てろよ! さっき交代したばっかだろ!」


 慌てて言い直すナナエに、ガレットは横を向いてこっそり笑った。

 にやけた顔をなんとか戻して、真面目な表情を作り、ナナエに向き直る。


「そんならお前さんに任せるよ。こいつは一回悩むと後引きずるから、しっかり励ましてやってくれや」


「おいガレット!」


 非難するようなロディウスを無視して、ガレットはさっさと部屋の外に出てしまう。

 残されたナナエとロディウスは、何から喋って良いものか迷い、少しの間気まずい沈黙が部屋を支配した。


「あ、あの、さ……」


 最初に口を開いたのはナナエだった。

 ロディウスはナナエの方を向こうとはせず、黙って俯いていた。


「薬、飲めよ。熱があるって……」


 ベッドに落ちた包みを拾い、水差しに手を伸ばす。

 だがロディウスは何もせず、薬を差し出されても受け取ろうともしない。


「ロディウス、ほら、ちゃんと飲まないとだめだろ?」


「なんで……」


 顔は俯いたそのままに、ロディウスがぽつりと呟いた。


「何故、ナナエはそんなに強いんだろうな」


 突然そう言われて、ナナエは目を瞬いた。

 ロディウスは下を向いたままで、小さな声で囁くように言う。


「ずっと、ナナエに助けられていたんだ……」


 この旅の間中、ロディウスは何度もナナエに救われた。


 獣人であっても、変わらずに接してくれたこと。

 目のことで、悲しんでくれたこと。

 人間に街を追い出されたとき、追い掛けてきてくれたこと。

 獣人の扱いが不当だと、代わりに怒ってくれたこと。

 ナナエとは水王の城で別れるつもりだったのに、一緒に来てくれたこと。


 それがどんなに嬉しかったか、どんなに救われたか。


 今だってそうだ。

 酷いことを言ったのに、こうして手を差し伸べてくれる。

 どうしたらそんな風に強くなれるのだろう。


「オレは……そんな強くないよ。ただ、ロディウスと一緒に居たくて……一緒に、生きたいから……だから」


 水差しと薬をテーブルに置いて、ナナエはロディウスのベッドに身を乗り出した。

 ロディウスの身体に縋りつくように抱き締める。


「ごめん……全部オレの我儘なんだ。ただ、ロディウスの傍に居たかったんだ……」


 黙ってナナエの言葉を聞いていたロディウスが、片腕でナナエの背を抱き締め返す。


 ナナエがぐっと背を伸ばし、顔をロディウスに近付ける。

 唇が触れ合った。

 今度は拒絶することなく、ロディウスはナナエを受け入れた。

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