5人
1
恐怖と言うだけでは生温い。
地獄のような光景が、広がりつつあった。
阿鼻叫喚が、ここそこに飛び交う。
引き裂かれ、食い千切られ、捻りつぶされる音も。
「ルーファウス!!」
地獄の只中で、ハルトは叫んだ。
魔人と化したルーファウスの耳が、かすかに動く。
しかし聞こえないようにしているのか、聞こえていてもそれを楽しんでいるのか。
ルーファウスの歪んだ顔が、愉快そうにしてさらに歪んだ。
隣にいたアリアも、ハルト同様に呼びかけている。
それでもルーファウスの行動に変化が起こることはなかった。
魔人となったルーファウスは、次々と禍々しい獣を生みだしていった。
かつて森で出会ったような獣だけでなく、空を飛ぶことが出来る獣も生じている。
いずれも姿形だけで人に恐怖を抱かせるには十分であった。
「ハルト、ここにいては危ないわ!」
ルーファウスの説得を諦めたアリアが、震えながらハルトの腕を引く。
アリアの傍らにはマリーもいて、気が狂いそうなほどにガタガタと身を震わせていた。
理性を保てているのは、アリアがマリーの手をしっかりと繋いでいるからだ。
「だけど、ルーファウスが!」
「あれはもう、……ルーファウスじゃないわ」
アリアが声をこぼす。愉快そうに笑っていたルーファウスの肩が小さく揺れた。
睨むようにしてアリアを覗き、背に生えた黒い翼を大きく広げていく。
「そうとも。私は君たちが知るルーファウスではない」
ルーファウスが睨みつつも、歪んだ笑みをこぼした。
「私から、私以外のすべての手のよってルーファウスが奪われたのだよ」
「違うわ。ルーファウス。少なくとも私とハルトは、こんなこと望んでいなかった」
「ああ、アリア。君は優しいが、愚かだね。望まなければ奪わずに済むと思っているのだから。逆もまた然りと、思わないのだから。ああ、今はただ、蒔いた種より出でたものを刈り取る時。ハルト。君なら分かるだろう」
「……分かったとしてもボクは諦めたくない。ルーファウス。ボクたちと帰ろう」
「諦めることだ、ハルト。先ほども言っただろう。時が来たのだと。さあ、もう、結末を描く時なのだ」
黒い紋様で飾られたルーファウスの手。妖しい光が巻き付いていく。
手の中には黒い石があり、その石もまた妖しい光を放っていた。
ルーファウスが黒い石を高く掲げると、光が増し、大きな獣が生まれでた。
その獣はこれまで現れたものよりもさらに大きかった。
人間のような腕が八本あり、鷲のような足が六本あった。背には翼と無数の棘が生えていて、身を動かすたびに棘が擦れ合い、耳を塞ぎたくなるような不快音が鳴った。頭は人間に近かったが、口が大きく、何十もの牙が生えていた。
「この獣は、私からの情けだ。ハルトたちだけは苦しむことなく、終わらせてあげよう」
生まれでた大きな獣の頭を撫で、ルーファウスが再び歪んだ笑みをこぼす。
ハルトは生まれたばかりの大きな獣に向け、身構えた。
――本当に、ここで終わるのか。
先に生まれでていた数百の獣など、比べ物にならない。
八本ある腕のひとつひとつは、人間の胴よりも太いのだ。
ルーファウスの言う通り、無防備で襲われたなら一瞬で殺されてしまうだろう。
「まずは、ザイドと、ブライだ。まだ気を失っている。今のうちに止めをさしてあげよう」
身構えているハルトを横目に、ルーファウスが自身の足元を指差した。
ザイドとブライが自らの首筋を抑えるようにしたまま倒れている。
さきほどの痛みに耐えかねて気を失い、未だ意識を取りもどしていないのだ。
「やめろ!!」
ハルトは震えながら叫んだ。
「やめるべきなのかい、ハルト」
「当たり前だ! ルーファウス! 彼らに手を出したらどうなるか! もう取り返しがつかないんだ!」
「そうとも。ありがとう、ハルト」
「……なにが、だ!?」
「取り返しがつかないと、教えてくれたことだよ。実のところ、私はまだ悩んでいた。ザイドとブライに手を下したところで、なにも変わらないのではないかとね。ああ。だけどそうではないらしい」
「……な!?」
「さよならだ。ザイド。ブライ」
ルーファウスの声が落ちる。大きな獣の、太い腕が振りあがった。
真下に、ザイドとブライの身体。まだ気を失っていて、動かない。
助けに飛びだすべきか?
一瞬悩んだ直後、獣の太い腕が振り落とされた。
大地が弾ける音。ひびく。間を置いて、砂埃と血しぶきが吹き荒れた。
離れていたハルトに、多量の砂と血が浴びせられる。
顔を伏せてうずくまっていたアリアと、アリアに抱きかかえられていたマリーには、ほとんど血が付かなかった。
それでも周囲に、血の匂いが満ち、溢れた。
アリアのうめき声が、ハルトの背にじわりと届く。
振り下ろされた獣の腕が、ゆっくりと上がった。
血溜まり。赤く染まった土。その他の、なにか。
ザイドとブライを思わせるものは、なにひとつ残っていなかった。