励ましは
2
殴られた瞬間というものは、時の流れが異様になる。
緩やかなようでもあり、激しくて速くもある。
「大丈夫かよォ、ハルト」
火人種の男が、手を差し伸べてきた。
ハルトは男の手を掴み、上体を起こす。直後に頬と頭が強く痛んだ。
「……っ痛……くっ」
呻く。口の中が熱く、痛い。
もう一度呻くと、唇から血が滴り、地面に落ちた。どうやら口の中が切れたらしい。
「……いっ……つつっ……身構える間も、なかったよ……」
「災難だったなァ。まァ腹の虫が悪かったんじゃァねェかァ」
「……そうかもね」
「まァ、上手くやっていけよォ、ハルト。おれァもう、行くからよォ」
「そう言えば今日で最後だったね」
ハルトは口まわりの血を手で拭うと、よろよろ立ち上がった。
心配そうに火人種の男が窺ってくる。
ずいぶん仲良くなれたものだ。
ハルトは残念な気持ちを抑えきれず、つい寂しい表情をこぼした。
路銀を稼ぐためだけに働いていた火人種の男は、その後村を発った。
気風のいい空気が消え、ハルトの環境は少し息苦しくなった。
理不尽に殴られる回数も増えていく。
思いのほか火人種の男が守ってくれていたのだと気付き、さらに息苦しくなった。
ザイドやブライ、ルーファウスも殴られたような怪我をして帰ってくることが多くなった。
村へ来てから、すでに十五日。
生活に慣れるどころか、共同生活をしているあばら家の空気は重くなっていくばかり。
「俺もそろそろ働くぞ」
ベックが両腕を動かしながら言った。
しかしまだ痛むようで、動かした直後に顔をしかめる。
「まだ無理をしなくていいよ。というより、ベックがちゃんと動けるようになれば、この村から去ることを考えたほうがいい」
「そうかもしれねぇな。……本当にすまねぇ」
「謝らないでよ、ベック。ベックと……ジャマールがいなかったら、ボクたちはあの獣に殺されていたかもしれないんだから」
「獣か……。村を出るなら、あの獣に出くわさねぇようにしねぇとな」
ベックの言葉に全員が頷く。ブライとレニーの肩がわずかに震えだす。
無理もない。彼らの目の前で二人、無惨に死んだらしいからだ。
人を恐れない獰猛な獣。
しかし村の人々に聞いてみると、獣がこの村に襲いかかってきたことはないようであった。
ジャマールが言った通り、黒い塔から離れていれば大きな問題はないらしい。
極稀に旅人が襲われることもあるようであったが、そのたびに道を作り直し、対応しているとのことであった。
「少しずつ荷造りでもしておこうか。村の連中も出て行く奴らに石を投げつけたりはしねえだろうさ」
「そう信じたいよ」
ハルトは苦笑いする。
ブライとザイドも同様に苦笑いして、寝床へ入っていった。
ルーファウスはというと、いつの間にか寝床に入って眠っていた。
日を追うごとに言葉数が少なくなっている。
アリアが心配しても、涼しげな目を細め、かすかに笑うのみ。
休むように促しても固辞してくるので、皆、ルーファウスに対してどうすればいいか分からなくなっていた。
そうして次の日。
ルーファウスは何事もなかったように涼しい顔をして、村の酒場へ働きに出て行った。
仕方なくハルトも村へ向かおうとする。
すると後ろからアリアに呼び止められた。
「アリアも村へ行くの?」
「ええ。買いたいものがあるの」
「ボクたちが買ってくるのに」
「いつも頼んでばかりだから、悪いわ。それにちょっと気になることもあって」
「気になること?」
「ちょっとね。まだ話せないけれど」
アリアが笑う。
心身ともに疲れ切っていたハルトにとって、アリアの笑顔はやはり活力の源となっていた。
とはいえ、ルーファウスのようにアリアに対して明確な好意を持っているというわけではない。
どちらかといえば、奇妙な神々しさを感じるがために崇敬の念を持っていると言える。
ハルトはアリアにそれ以上尋ねず、静かに歩いた。
アリアもまた静かに、ハルトの傍に付いて歩いていた。
息が詰まりそうな感覚。
しかしなぜか、不快ではない。
むしろ崇敬の念のようなものが増していくばかり。
「……あ」
突然、アリアが声を漏らした。
「どうしたの?」
「……いたわ。あの子よ」
「あの子って……え? っと、ん? あれのこと?」
アリアの視線が向く先を懸命に探し、ようやく小さな人影を見つける。
それは子供であった。おそらく月人種の子供。
まだ遠くて分かりづらいが、女の子だろう。こちらをじっと見つめている。
「知っている子なの?」
「もちろん知らないわ。でも、私たちがいる家の近くまで何度か来ていたの」
「そうなんだ。ボクたちが珍しいからかな。……って、もしかして気になることって、あの子のこと?」
「そうよ」
アリアが笑いながら頷く。
もしも敵意がないのであれば、ちゃんと会って仲良くなりたかったらしい。
それならばと、ハルトはアリアの考えを手伝うことにした。
あの月人種の女の子も村人であるならば、仲良くなって損をすることはない。
仲良く出来なくても、今まで通りだからやはり損はない。
月人種の少女に、アリアが近付いていく。
月人種の少女は少し怯えた様子であったが、逃げることはなかった。
好奇心が強いのだろう。もしかすると、稀人種に対する嫌悪の情を抱くための教育が、まだ為されていないだけかもしれないが。
「こんにちは」
アリアが優しくふわりとした声を送った。
途端に月人種の少女の目が丸くなる。驚きと安心を同時に得たような顔だ。
「……こ、こんにちは」
「話しかけることが出来て嬉しいわ。私はアリアよ。隣にいるこの人は……気にしなくていいわ。木か、野菜だと思っていいから」
「えええ……や、野菜って……」
ハルトはがくりと項垂れる。
その仕草が面白かったのか、間を置いて少女の小さな笑い声が聞こえた。
納得いかないが、好印象を持ってもらえる礎になったならば受け入れざるを得ない。
ハルトは野菜らしく静かに佇み、アリアと少女の様子を見守ることにした。
マリーと名乗った少女は、すぐにアリアと仲良くなった。
次いでハルトとも一応仲良くなってくれた。
というのも、ハルトが毎日のように村へ働きに来るため、表立って仲良くするのは難しいのだという。
それでも自らの意思で近付いてきてくれたことに、ハルトは感謝した。
「ところで、一人でここまで来たの?」
「えっと……そうです」
「お母さんかお父さんは、心配していないかい?」
「お父さんはもういないの。お母さんは、すぐ近くにいます」
「近くに??」
ハルトとアリアは驚き、周囲を見回した。
しかしマリー以外の人影など、どこにもない。
「どこかに隠れているの?」
「隠れていないの。えっと、その……アリアさんたちは、ホシの光の力を知らないの……?」
マリーが首を傾げた。どうやら世界の一般常識であるらしい。
ハルトとアリアは正直に知らないと伝え、マリーに教えを乞うことにした。
するとマリーがほんの少し胸を張り、まるで先生にでもなったように話しはじめた。
曰く、星月の光の力というものは、この世界で一般的に用いられている力のひとつであるらしい。
名前通り、夜間に星月の力を受けて蓄え、蓄えた分を徐々に使用していく。
「つまり魔法みたいなことが出来るんだね」
ハルトは感心し、もう一度周囲を見回した。
マリーの母親は星月の光の力を使い、マリーを遠方から見ているらしい。
もしも良くないことが起これば、さらに星月の光の力を用いて、悪いものを退けることが出来るのだという。
「すごいでしょ」
「すごいよ。ボクにも出来ると良いんだけど」
「きっとできないわ。ホシの光を貯める石は、すっごくコウカなんだって。だからみんな、自分の親からもらうのよ。私もいつかお母さんからもらって、自分の子供にあげるの」
「残念だったわね、ハルト」
「すごく残念だ……」
ハルトはがくりと項垂れる。
見かねてしまうほどひどい落ち込み方だったのか。間を置いて、アリアと、マリーの手がハルトの頭を撫でてくれた。
それからというもの、マリーは毎日のようにあばら家へ来るようになった。
もちろん日中だけなので、ベック以外の男たちがマリーと出会うことなどほとんどない。
しかし新しく吹きこまれた風のおかげで、あばら家を満たしていた空気は幾分軽くなっていった。
あまりに頻繁にマリーが来るので、ハルトは一度、マリーの母親へ会いに行った。
もしかするとマリーが嘘をついていて、母親はなにひとつ知らないという可能性もあるからだ。
しかし杞憂であった。
マリーの母親はずいぶんと穏やかな性格で、驚くほどにハルトたちへ嫌悪感を抱いていなかった。
そしてマリーが言っていた通り、星月の光の力を使ってしっかりとマリーを見守っていたようであった。
「どうして、あなたとマリーは、ボクたちに良くしてくれるんです?」
ハルトは直球で尋ねた。
すると何か愉快に感じたのか、マリーの母親が小さく笑った。
「ふふ。そうね。教えてあげられないこともあるけど、教えてあげられることもあるわ」
「それはどういう意味です?」
ハルトは首を傾げる。
もしかして、揶揄われているのだろうかと。
しかしマリーの母親の表情を見る限り、意地悪をしているようではなかった。
何かしらの理由があって、言葉を選ばなくてはならないのかもしれない。
「少なくとも皆は、怯えているの。分からないことに対してね」
「じゃあ、分からないことを教えることが出来れば、怯えないでくれますか?」
「そうね。知ることが出来ればだけど。でも、上手くは出来ないでしょう。そのことを私があえて言わなくても、あなたは少し気付いているみたいね」
マリーの母親が声をこぼす。寂しく、虚しそうな声。
ハルトを見つめる瞳も、どこか虚ろであった。
ハルトはそれ以上尋ねることが出来ず、口を噤んだ。
マリーの母親もそれ以降、言葉数が少なくなった。
きっとそれ以上は、「教えてあげられないこと」に含まれるのだろう。
しかしマリーの母親は「上手くは出来ない」と言うに止めてくれていた。
もしかすると出来ることが残されているのかもしれない。
別れ際、マリーの母親がハルトの背を叩いた。
「大丈夫よ」
囁くような声が、優しく揺れる。
ささやかであったが、ハルトにとっては力強い励ましに聞こえた。
昨日殴られた頬の傷の痛みも吹き飛ぶほどに。
ハルトは励ましに応えるよう、マリーの母親に深く頭を下げた。
夕暮れの赤い陽。
笑顔を向けてくれているマリーの母親の顔が、しっとりと赤に染まった。