稀人種
1
渇いた音が、床で鳴った。
見ると、椀がひとつ落ち、ふたつに割れていた。
椀を落としたのはザイドであった。
土気色の顔に無気力を加え、力なく肩を落としている。
「ザイド、大丈夫か?」
ブライが声をかけると、ザイドの頭がぐらりと前へ垂れた。
無気力になっているのは、ザイドだけではない。
トゥイもレニーも、声をかけたブライでさえも、表情に力を宿してはいなかった。
無気力となってしまう原因のひとつは、辿り着いた村にあった。
驚くほどに閉鎖的で、よそ者のハルトたちを避けているためだ。
村にはふたつの種族が住んでいた。
ひとつは月人種と呼ばれる人々で、ハルトたちよりもやや背が高く、色白の種族であった。
特徴的なのは耳が長いことだろうか。顔立ちは鋭く、鼻は尖っている。
もうひとつの種族は、小人種と呼ばれる人々であった。
それはハルトたちが森で最初に出会った背の低い男の種族で、誰も彼も背が低く、手足だけが大きかった。
小人種はともかく、月人種の人々はハルトたちを露骨に嫌っていた。
どれほど恭しく接しても、月人種の人々が態度を変えることはなかった。
――とはいえ、まだ村を離れられはしないし。
ザイドから目を逸らしたハルト。
隣の部屋で眠っているベックに目を向ける。
どれほど村の人々に嫌悪されても、ベックの怪我が治るまでは耐える他なかった。
医術の心得がある月人種が看たところによれば、ベックの怪我はやはり悪く、少なくとも十日は安静にするべきとのことであった。
月人種の医者もまたハルトたちを嫌悪しているようであったが、嘘を言っているようではなかった。
ならば仕方ないと、ハルトたちは言われた通りにベックを休ませつづけていた。
「とにかく食費と薬代と……家賃は稼がないと」
ハルトはぽつりとこぼす。
間を置いて、ザイドとブライが深いため息を吐いた。
ハルトたちは今、村から離れたところにあるあばら家で寝起きしていた。
村人の目が届かない場所にいようという一致した考えがあったためだ。
しかしこのあばら家も誰かの持ち主であり、少々の家賃を払う必要があった。
薬代を含む生活費を稼ぐ手段は、さほど多くなかった。
日払いの肉体労働が主で、女性が働ける場所などほとんどない。
仕方なくアリアとトゥイ、レニーの三人は家事兼あばら家周辺での食物採集をし、生活を支えてくれた。
「私は働くのが苦手だよ」
ルーファウスがため息混じりに言った。
いつも通りの涼しげな声ではあるが、彼もまた顔色が良いとは言えない。
「酒場の雑用だっけ?」
「そうとも。毎日掃除ばかり。手荒れがひどくて、がっかりするよ」
「ボクも似たようなものだけど。でも毎日の荷運びのせいで体力が付いてきたよ」
「前向きだね。私もそう思えたら良いのだがね」
再びルーファウスがため息をつき、席を立つ。
テーブルには彼の分の料理がまだ残っていた。あまり食欲がないらしい。
それはルーファウスだけでなく、ザイドとブライ、ハルトでさえそうであった。
働きたくないわけではなく、自分たちに嫌悪感を持っている村人と共に働くのが辛いからだ。
それでも生きるため、ベックを治すため、ハルトたちは働きに出た。
もしかするとジャマールが生きて合流してくれるかもしれないという、希望も含めていた。
そうやって一日一日が過ぎ、七日ほど経ったころ。
ハルトはひとつ、奇妙なことに気が付いた。
――普通の人間って、ボクたちだけなのか?
ハルトは首を傾げ、村人と、村へ訪れる人々を見る。
村人は月人種と小人種で構成され、村へ訪れる人々には、土人種と火人種もいたが、ハルトたちのような普通の人間の姿を見つけられたことはなかった。
とすれば、ハルトたちのような人間は希少種なのか。
珍妙に過ぎるため、遠ざけたくなるような存在なのか。
最悪の場合、劣等種として虐げられる存在という可能性もある。
どちらにせよ、生きづらいことに変わりないが。
「……ぼうっとするんじゃねェ!」
後ろから威圧感のある声が飛ぶ。
はっとして振り返ると、火人種の男がこちらを睨みつけていた。
彼もまた日雇いの荷運びで金を稼いでいた。
ハルトたちと違うとすれば、ただ路銀を稼いでいるだけということだ。一定量稼げばまた旅へ出るらしい。
「分かっているよ」
「稀人種ってェのは、やっぱりひョろっひョろだな。もうへばったのかァ」
「へばったわけじゃないよ……、って、稀人種って?」
「おめェたちのことさ。知らねェのか?」
火人種の男が怪訝な表情を向けてくる。
ハルトは頭を横に振り、世間知らずな体を装った。
今のところ月人種相手でない限り、低姿勢を貫けば余計な虐げを受けることはない。
「まァ、おめェらは数が少ねェって聞くからなァ。ひョろっひョろだから生命力ってェのが足りないのかもしれねェなァ」
「おまけに嫌われているみたいなんです。どうしてかは知りませんが」
「そうらしいなァ。おれァも詳しいことは知らねェがなァ? 稀人種と仲良くしてる奴がいるってェ話は聞いたことがねェ。おおかた、ひョろっひョろで弱っちィからにちげェねェぜ」
「……はは、確かにそうかもしれないです。でもあなたは特別強そうだし、頑張って鍛えても叶いそうにないな」
「はっはァ! そうとも! おめェは俺の邪魔にならねェよう、付いて来いよォ! はっはァ!」
途端に上機嫌になった火人種の男。
ハルトを追い越し、荷を運んでいく。
稀人種に対して優劣をはっきりと教え込んでくる姿勢はどの種族も変わりないようだが、火人種は総じて気風が良いらしい。
ハルトは働きながらもこうやって世界の情報を集めることに努めた。
多くの記憶を失い、生きるための知識が不足している今、世界の情報を得ることが急務であった。
そのためならば自分の自尊心などいくらでも犠牲にしてもいい。
情報収集は、ルーファウスも手伝ってくれていた。
ハルトよりも巧みに立ち回り、毎晩知り得たことを多く教えてくれる。
しかし酒場の環境が悪いのか、ルーファウスは時折殴られたような怪我をして帰ってくることがあった。
「……ルーファウス、少し休んでもいいのよ。今日は特にひどいわ」
頬を腫らしたルーファウスに、アリアが寄り添う。
ルーファウスの片眉がかすかに上がり、口の端が緩んだ。
「大丈夫さ、アリア。君は優しいね」
「優しくしてるわけじゃなくて、心配しているの」
「それが優しいっていうのだけどね。とにかく嬉しいよ」
ルーファウスが笑う。
直後に腫れた頬に痛みが走ったらしく、歪んだ笑いになった。
それを見てさらに心配したのか、アリアの手がルーファウスの頬に振れる。
青紫色になっていた頬。わずかに紅潮して、青色が薄れていった。
どうやらルーファウスはアリアに好意を持っているらしい。
ハルトは照れているルーファウスの表情をひとしきり眺め、愉しんだ後、彼からの情報を加えてテーブルの上をじっと睨んだ。
現在いる場所は、≪東足の国≫の≪緑の谷の火≫という地域であるらしい。
東の足というからには、西の足という国が他にあるのだろうか。
火人種の男に尋ねたところ、「それはわからねェ」と返された。
話が出来そうな別の者に聞いても、答えは同じであった。
どうやら世界を密接に繋ぐ情報網が無いか、少ないらしい。
谷の火が何を意味するのかも伝わっていないようで、情報の記録そのものも無頓着であるらしかった。
稀人種と呼ばれる存在を遠ざけようとする理由も、知らない者ばかりであった。
誰も彼もただ単純に、稀人種を嫌うように育て上げられている。
稀人種が災いを生むとしているおとぎ話すらあるらしい。
まるで世界を束ねるなにかが存在して、意図的に稀人種を排除しようとしているかのようであった。
「なにを考えているの? ハルト」
アリアの声が凛と鳴った。
顔を上げると、いつの間にかアリアの顔が近付いてきていた。
心配そうにハルトの顔を覗き込んでいる。
「なんでもないよ。早くベックが治ればいいと思って」
「そうね。薬が効いているみたいで、傷の状態はだいぶ良いわ」
「それだけでも良かった。少し痩せたことも」
そう言うと、アリアが困ったように笑い返してきた。
身体が大きかったベックは、筋肉とともに脂肪も減り、一回り小さくなっていた。
とはいえハルトに比べれば依然大きく、太い。
このまま順調に痩せていっても、腕比べでベックに勝つことは出来ないだろう。
眠っているベックに目を向ける。
昼間は起きているらしいが、ハルトたちは夜遅くにあばら家へ戻ってくるため、目覚めた状態で会うことはまずなかった。
もし目を覚ましていても、すぐに疲れて寝てしまう。
しかし数日前に比べれば顔色が良くなっていた。
アリアの言う通り、薬が良く効いているのかもしれない。
「なあ、ルーファウス」
「なんだい?」
「アリアも言っていたけど、あまり無理はしないでよ」
ハルトが言うと、アリアが同調して深く頷いた。
間を置いてルーファウスが両肩をすくめる。
「わかっているとも」
ルーファウスは短く答え、涼しげに笑った。
どことなく、影のある笑顔だとハルトは思った。