黒の塔
2
出口の光を最初に見つけたのは、アリアであった。
気力が残っていた者の目に、希望の光が差し込んでいく。
ハルトの、棒のようになっていた足も途端に軽くなった。
希望というものは単純だ。
力を与えたり奪ったり、簡単にやってくれる。
「急ぐんじゃねえぞ。最後まで慎重に行くんだ」
ベックが最後尾から声を飛ばした。
先頭を進んでいたジャマールともう一人の男が頷く。
皆、逸る想いを抑え、ゆっくりと進んでいった。
外から流れ込んでくる空気は、やはり暖かなものであった。
草と、土の匂いも感じる。
「どうやら砂漠のど真ん中というわけじゃなさそうですね」
「そいつぁいい。これ以上の試練は御免だからな」
ハルトの笑えない冗談に対し、ベックがにこやかに応える。
外へ出たとしても、食べ物がなければ飢えて死んでしまうのだ。
「馬鹿なこと言ってないで、早く行くわよ」
アリアの声が、ぴしゃりと冗談を叩き潰した。
ハルトは肩をすくめ、アリアの顔を窺う。
青い瞳が外から射しこまれてくる光を受け、揺れていた。
ハルトとベックを睨んでいるつもりの目であったが、ハルトはアリアの青い瞳に神々しさしか感じ取れなかった。
「どうしたの? ハルト?」
「い、いや。なんでも」
ハルトはうつむき、頭を何度も横に振る。
その様子を見て、傍にいたベックが大きな声で笑った。
ベックの笑い声と同時に、先の方から大きな声がひびいてきた。
ジャマールの声だ。
ついに外へ出たらしい。
なにを言っているのか聞き取れはしなかったが、警戒心を高めるような声でないことは間違いなかった。
ハルトの足に、さらなる力が漲っていく。
人一人を背負っているとは思えないほど、身体が軽くなった気がした。
長い石の廊下を抜ける。
直後に陽の光。風も吹き抜け、ハルトの頬を何度も叩いた。
「……外だ」
何の捻りもない言葉が、ぽつりと落ちた。
それを丁寧に拾い上げるようにして、アリアがハルトの顔を覗いてきた。
明るい笑顔。
疲労の色を拭いきれていないが、外の光がそんなものを気にさせないよう弾き飛ばしていた。
「森か」
ベックの声が後ろからひびいた。
振り返ると、背負っていた男を下ろしたベックが辺りを見回していた。
先ほどまで笑い声を上げていたのに、驚くほど真剣な顔つきに変わっている。
外に出た喜びより、新たな環境が及ぼしてくる危険を探しているようであった。
「ハルト、ジャマール」
「なんだ」
「遠くまで行かなくてもいいから、周りを見てきてくれねえか?」
「わかった、そうするよ。食べられそうなものもあるといいけど」
「それも頼む。俺ぁここで他の全員を休ませながら、近辺を見ておくからよ」
そう言ったベックが、全員に目を配っていく。
まだ何とか動ける者がベックを手伝い、気力体力がない者を休ませていった。
アリアも率先して動いている。二人の女性を休ませてから、他の者にも気を配っていた。
探索を任されたハルトとジャマールは、すぐさま森の中へ入っていった。
人の手が入っていない、鬱蒼とした森。歩けそうな場所を探して進むだけでも疲れてしまう。
ハルトは早々に息切れして、歩く速度を落とした。
ところがジャマールの進む速度が変わることはなかった。
体力があるというだけではない。
まるでここが自らの縄張りであったかのように、手慣れて見えた。
「ジャマールはなんだか……活き活きとしているね。ボクはこんな森、どうやって歩けばいいかも分からないよ」
どんどん進んでいくジャマールを呼び止めるように、ハルトは声を投げかけた。
振り返ったジャマールがはっとした表情をしてすぐ、困り顔を見せてくる。
「俺にも分からないんだ。もちろん知らない土地なんだが、どこか懐かしさを感じる。もしかすると、記憶を失う前はこういう森や山に住んでいたのかもしれないな」
「……そういうことも、あるかもしれないね」
「ああ。だから俺は出来るだけ動き回って、多くを見たい。なにかの拍子に、なにかを思い出すかもしれないから」
辺りを見回しながらジャマールが声をこぼす。
これまでの声と違い、切実で、すがるような声であった。
なるほどとハルトは頷きつつ、ジャマールがいる場所まで追いつく。
するとジャマールが面目なさそうにハルトへ頭を下げた。
「悪いな。もし俺がまた焦って進んでいたら、さっきみたいに声をかけてくれよ」
「そうするよ。でも、ボクだってちゃんと付いていけるように頑張るから」
「はは! 分かった。じゃあ、ハルト。もう少し先まで行こう。あの辺りは高いし、木が少ない。周囲を見渡すにはちょうどいいだろう」
ジャマールが進行方向を指差す。
見ると確かに、開けた場所があった。
ずいぶん前からジャマールがなにかを目指して進んでいるようであったが、あれが見えていたのかとハルトは唸る。
それから二人は、目の前の高い丘を登っていった。
進むにつれ、背の高い木も、藪も減っていく。
ようやく歩きやすくなってきたと思ったころ、二人は丘の頂上に辿り着いた。
「……こいつは驚いた」
先に声を上げたのは、ジャマールであった。
つづいてハルトも、同じ様に声を上げ、頬を引き攣らせる。
丘の上から見えたものは、巨大な黒い塔であった。
まだまだ離れているが、森の先に天を衝くほどの高い塔が聳え立っている。
塔の周囲は赤黒い霧が渦巻いていた。
「あれは……巨大な岩? それとも、建造物……?」
「どちらかというと巨大な岩のようだ。だが人工的な部分も見える」
「ジャマール、そこまで見えるの?」
「見える。どうやらハルトたちより、視力が良いらしいな。……だがそれより」
ハルト同様に頬を引き攣らせているジャマールが、塔へ指を差した。
その指がかすかに震えている。
自分には見えないなにかがあるのかと、ハルトは目を細めて塔を覗いた。
「あの赤黒い霧、ハルトには見えるか?」
「見えているよ。あれがどうしたの?」
「あれは霧じゃない。……全部、生き物だ」
震えるジャマールの声。
ハルトは驚いて目を見開き、赤黒い霧を見た。
ゆらゆらと揺れている赤と、黒。
生き物だと言われても、ハルトには霧の粒ひとつ見分けることが出来なかった。
「見えないよ」と答えると、ジャマールが目を細め、苦い顔を見せた。
「……そうか。まあ、見えないほうがいいかもな」
「危なそうな生き物なの?」
「分からないが、禍々しい姿なのは間違いない。……決して近付きたくはないな」
引き攣っていたジャマールの顔が、さらに歪んだ。
それは明らかに恐怖を宿していて、間違っても揶揄えそうな雰囲気ではなかった。
ハルトは黙って頷く。
長い沈黙を経て、二人はベックたちの元へ戻ることに決めた。
帰る間に、幾つかの木の実を見つけた。
ハルトから見て、それらが食べられるものかどうか判断できなかった。
しかしジャマールがその木の実を取り、自らの肌に擦りつけ、口にふくみ、食べられるかどうかを判断していった。
「それだけで食べられるの?」と問うと、ジャマールの片眉がくいっと上がり、頭を横に振った。
どうやら食べてからしばらくした後に腹を下すこともあるらしい。
「記憶がなくても、こういうことはなぜか覚えているんだな」
「ボクもそう思ってた。なんだか、意図的に一部の記憶だけ切り取られている気がするよ」
ハルトの言葉に、ジャマールが深く頷いた。
ところどころに真っ黒な穴が開いた記憶。
思い出そうとしてもなんの引っ掛かりも見いだせない。
歩きながら、ハルトとジャマールは自らに残っている記憶を話しつづけた。
共通点となるものはやはり、家族を含めた知人すべての記憶が消えていることであった。
そのために、目覚めるまでどこでどうやって生きてきたかをなにひとつ思い出せないのである。
逆に、目覚める前に身に着けていた技術や知恵だけははっきりと残っていた。
それが何を意味しているのか分からないが、何か理由があるはずだとハルトは考えていた。
それさえ分かれば、この混沌とした状況に多少に光が射す。
ここに居る意味も、これから生きていく意味も。
そしてそれは、目覚める前に無理やり刻まれた記憶と関係があるはずだ。
≪ 人を殺せば、黒を生み、万魔を得る ≫
≪ 人を救えば、白を生み、万聖を得る ≫
この言葉が、なにをしている時でも、ずしりと心身を締め付けている。
どんな意味があるのか。
何故、刻み込まれているのか。
どのようにすれば、この言葉を成し遂げられるのか。
まさか文字通りに人を殺したり救ったりすればなにかを得られる、などという安易なことではないに違いない。ならば――
「……ハルトはすごいな」
ジャマールの声と手が、ハルトの肩を打った。
「え?」
「ベックもそうだが、お前は今の状況を理解し、なんとかしようと考えてくれている」
「……不安だから、必死に考えているだけだよ。それに皆だってそうでしょ?」
「さあ、どうかな。……不安に怯えているだけの奴もいるし、俺みたいに怯えたくないから動いている奴もいる。不安と向き合って戦える人間なんて、そんなに多くないさ」
ジャマールが寂しげな表情をこぼす。
ハルトはすぐさま頭を横に振ってみせた。
ジャマールほど率先して行動している者など、他にはいないように思えたからだ。
少なくともハルトよりは役立つ存在に違いない。ハルトはジャマールにそう伝えると、今度はジャマールが頭を横に振った。
「ハルト。役に立つ人間と、立派と言われる人間は違う」
「そうかな」
「そうさ。きっとベックもそう思っている。あの別嬪なお嬢さん……アリアだったか、彼女も君に一目置いてそうだったな」
「やめてくれよ。ボクは何も……」
「はは! まあ、いいさ。今はな」
ジャマールの手が、再びハルトの肩を打った。
加減を知らないジャマールの腕。
痛みが肩だけでなく、胴全体にひびきわたる。
しかしそれ以上の熱がハルトの身体に流れこんだ気がした。
ハルトはジャマールに苦笑いしてみせると、帰路を行く足を速めるのだった。