お人好し
4
橋を渡ってから、三日。
ハルトたちは石造りの建物で過ごしていた。
村へ戻りたくても、橋が落ちている上、獣もいる。
帰る手段も、帰って生き残る手段も、ハルトたちには無かった。
しかしそれは昨日までのこと。
ハルトたちは突然、想像もしなかった方法で村へ帰ることが出来るようになった。
「……ハルト。重くないの?」
アリアの声が震えている。
それもそのはず、アリアは空高く飛んでいる最中であった。
というより、手作りの荷台に乗っているアリアをハルトが抱え、ハルトが飛んでいるのだ。
「不思議だけど大丈夫。すごく軽いよ」
「突然落ちたりしないでね。すっごく高いんだから」
「そんなことしないよ。まあ、ちょっとスリルを味わいたいなら急降下してみても良いけど」
「や、やめて! そんなことしたら許さ、な! あっ、わっあっ!! きゃああああ!!」
アリアが喋っている最中、ハルトを急降下をはじめる。
真下にはマリーがいて、羨ましそうにハルトたちを見上げていた。
叫び声をあげるアリアの声を聞いてもなお、早く変わってほしいと言わんばかりの表情を向けてきている。
空を飛べるようになったのは、昨日、マリーの些細な一言を受けてからであった。
「谷を飛んで戻ってきたのだから、今も飛べるんじゃない?」と、何気なく聞いてきたのだ。
たしかにそうかもしれないと、ハルトは手の内にある白い石を覗き込んでみた。
すると突然、身体が浮きだしたのである。
空を飛ぶことは、訓練する必要もないほど簡単に覚えることが出来た。
まるで昔から飛べていたかのように、どうすれば高く、速く飛べるのか、ハルトの身体が知り尽くしていた。
「次は絶対許さないからね!」
地面に降りたアリアが、何度もハルトの身体を叩く。
本当に怖かったらしく、目元が潤んでいた。
しかしすぐ傍へ駆け寄ってきたマリーが「私もやってほしい」と騒いだことで、アリアはそれ以上怒鳴ることが出来なくなった。
危なくないように、マリーと一緒にアリアも荷台に乗る。
荷台の上部に取り付けた取っ手を握り、ハルトは再び空を飛んだ。
ふわりと荷台が上がり、マリーが楽しそうに黄色い声を放つ。
三人は瞬く間に森の木々より高く飛んだ。
これまで見たことがないような景色が一望できる。
森の周囲には、いくつもの黒い塔が建っていた。
いずれの塔の周りにも、赤黒い霧のようなものが渦巻いている。
空を飛ぶことが出来る獣の群れだ。
さらによくよく見渡すと、石造りの建物周辺には黒い塔が建っていないことに気付いた。
まるで大きな結界を張られているかのようだと、ハルトは首を傾げる。
「あの黒い塔が全部……ルーファウスから生まれた黒い石と同じものなの?」
「たぶんそうだ。時間が経てば黒い石が成長して、あんな風になっちゃうのかもね」
「森の向こう、ずっと遠くのほうにも黒い塔があるわ」
「……ああ」
「ねえ、ハルト。この世界って……もしかして、ほとんど安全な場所がないのかしら」
「そうかも……しれないね」
至るところに建っている黒い塔に、ハルトたちは目を細める。
まるで世界が、黒いカビに侵されているようだとハルトは思った。
すべてのカビが徐々に拡大し、人が住める土地を減らし、じわじわと人を殺していく。
そしてその黒いカビの一部を、友人だったルーファウスが作りだした。
――村へ行かなければ、良かったのか。
虚しさが、胸を穿つ。
虚しさを増す理由は、ハルトたちの下、森の中に広がっていた。
石造りの建物を取り囲む森の中には、多くの食料があった。
まるで用意してあったかのように、木の実や果実、穀物まで自生していた。
ハルトたちが初めて食べた木の実などはごく一部で、熱を加えなくても食べられるものが多かった。
しかしそれらが食べられるものだと分かったのは、村へ行って知識を得たからだ。
村へ行かずとも生き延びられたかどうかは、やはり分からない。
「……ハルト。もしも、なんて。私たちにそれだけの力なんてないわ」
ハルトの心を見透かしたように、アリアが言った。
ハルト同様に、息苦しい表情を浮かべている。
豊かな森を見下ろしながら、同じことを考えていたのだ。
「……そうだね。その通りだ。だけど考えずにはいられないよ。あまりにも多くの人が死んでしまったから」
森をぐるりと飛び、ハルトはゆっくりと下降していく。
いつの間にかマリーが大人しくなっていた。
地面に着いても変わらず静かで、なにかを考えているようにも見える。
ハルトたちが落ち込んでいるせいでそうなったのかもと思ったが、どうやらそれだけではないようであった。
「……ハルトお兄ちゃん。村に戻らない?」
寂しげな表情をマリーが向けてきた。
飛べば橋がなくても村へ帰れる。
獣がいても、飛んで逃げればなんとかなる。
食料も水も、石造りの建物まで定期的に戻ってくれば問題はない。
生き残っている人がいれば分け与えて回るのも良いだろう。
「……そうだね」
「お母さんも、ちゃんとお墓に入れたいの」
「そうしよう。ベックたちもちゃんと弔わなきゃ」
ハルトは村の方へ向き、唇を結ぶ。
アリアが頷き、ハルトの手を握ってきた。
柔らかい温もり。生きているのだという実感が胸を打つ。
同時に、生き残ってしまったのだという苦しさも胸を締め付けてきた。
それからハルトたちは、食料を荷台に積めるだけ積み、村へ向かった。
逃げに逃げた地上を見下ろしつつ、空を飛んでいく。
橋が落ちた谷を越えると、村の方向から幾筋か煙が上がっていた。
火事というわけではなく、炊事かなにかによる煙らしい。
食料の隙間で座っているマリーの表情が明るくなった。生きている人がいるのだと。
アリアの手を握りつつ、マリーの指が煙を数えていく。
「でも、少し村から離れている気がするよ……? ほら、ハルトお兄ちゃん。あそこの煙なんて、森の奥から出ているの」
「……本当だ。もしかして村にはまだ獣がいるのかもしれないな」
「どうするの?」
「このまま村へ行こう。ゆっくりと、慎重にね。飛んでいる獣がいたらすぐに逃げるから、二人は後ろも警戒しておいてくれ」
「うん。じゃあ、アリアお姉ちゃんはそっちを見ていてね」
「分かったわ」
手分けして全方位に警戒しつつ、飛んでいく。
村へ近付くにつれ、ハルトは首筋が痛みはじめた。
獣が近くにいると現れる症状だ。
アリアもまた、首を手で押さえて眉根を寄せていた。
恐怖もあるのか、かすかに肩が震えている。
奇妙なことに、飛んでいる獣を見つけることはなかった。
村から逃げようとしていた時は、飛べる獣と飛べない獣の数が半々であったが、今は全く見当たらない。
地面を徘徊している獣の数もずいぶんと減っていた。
「ルーファウスがいなくなったからか……?」
「彼はもういないの?」
「そんな気がする。というより、感覚的に分かるんだ」
「私には獣の気配しか分からないわ」
「……でも用心しよう。ボクたちには、戦う力がないし」
地を這う獣たちが、ハルトたちを見上げている。
唸り声をあげている獣もいた。
その声を聞くたび、マリーとアリアが縮こまる。
飛ぶ獣さえいなければ安全圏だと分かっていても、死を身近に感じてしまうのだ。
「あれを見て」
村を見下ろして飛びつづけているうち、マリーが震える手でなにかを指差した。
「どれ?」
「あそこよ。道の真ん中に、ほら、黒い塊が落ちてるの」
「……本当だ。そこにも、あそこにもある」
「きっと悪いものよ。あんなのがあるから、怖い化け物がたくさん残っているんじゃない?」
「う、うーん……獣が少なそうなところにある塊を拾って、捨ててみようか」
恐る恐る、村の端へ飛ぶ。
黒い塊が道端に落ちていて、その周囲に幾匹かの獣がいた。
しかし他の場所に比べれば少なく、降りてすぐ拾い、飛んで逃げてしまえばなんとかなりそうに思えた。
獣に警戒しながら下降していく。
周囲の獣たちは、降りてくるハルトたちに気付いてはいたが、寄ってくる様子はなかった。
むしろハルトたちよりも警戒し、遠巻きに様子を窺っているようにも見える。
「ボクが拾う。アリアたちはそこにいて」
荷台を下ろし、ハルトは黒い塊に近寄る。
塊の正体は、黒い石であった。
ところがルーファウスが持っていた黒い石に比べると、ややくすんでいるようであった。
拾おうとして触れてみると、黒い塊の表面がボロボロと崩れはじめ、ついにはすべて砕け散り、消えた。
「……どういうことだ?」
ハルトは首を傾げる。
その直後、周囲にいた獣たちが大きな声を上げた。
「見て! ハルト! 獣が逃げていくわ!」
「言った通りだったわ。ねえ、ハルトお兄ちゃん。他の塊も今みたいに壊せない?」
「……ううーん、一応やってみよう。でも、少しずつだよ。壊せるかも分からないし、獣たちだって本当に逃げているのか分からないから」
慎重すぎるに越したことはない。
ハルトたちは再び飛び、空から塊を探した。
獣が少ない場所を探しては、塊を壊していく。
手で振れただけでなぜ壊れるのか分からなかったが、壊すたびに獣たちが逃げていった。
ついには村中の黒い塊を壊しきり、獣の気配が薄れていく。
ハルトとアリアに現れていた首が痛くなる症状も、さっぱりと消えていった。
村に静寂が広がる。
満ちていた血はすべて乾いていて、漂ってくる匂いは腐臭のみ。
ハルトたちはまず、マリーの母親を埋葬した。
人の形を残してはいなかったが、出来る限り拾い集め、深く、丁寧に弔った。
マリーは、母親を埋葬した直後にひどく泣いた。
これまで溜め込んでいたものを吐きだすように、泣きつづけた。
アリアが傍に寄り、マリーが落ち着くまで一緒に泣いていた。
ハルトもしばらく二人と共にいたが、マリーが落ち着く前に離れた。
他の遺体も弔ってやらなくてはならないのだ。
そしてそれは、ハルトたちだけで出来ることではない。
「村の人たちを捜してくる」
「……そうね。きっとみんな、戻ってきたいと思っているわ」
アリアに背中を押され、ハルトは飛び上がった。
飛んでいる間、ハルトの身体はずっと光を放っていた。
それは遠目にも目立つらしい。
森の中に潜んでいた村人たちを見つけると、彼らもまたハルトを見つけていて、驚き騒いでいた。
しかも稀人種を見る目ではなく、まるで神様でも見つけたかのような目でハルトを迎え入れた。
「お、お前……本当に、ハルトなのか」
「ボクです。間違いなく。それよりも、もう村へ戻れますよ。獣たちはもういません」
「ほ、本当か!?」
「本当です。もしまた戻ってくるようなら、追い返しましょう。ボクも手伝いますから」
「あの獣を追い返すだって? そんなこと、できっこない……」
「でもたしかに逃げていきました。どうしてかは分かりませんが、なにか方法があるはずです。いろいろと試してみませんか」
「そ、そうか……。そこまで言うなら……」
ハルトの言葉に、村人たちが素直に応じていく。
数日前ならばあり得ない反応であった。
「稀人種どもの話など聞けるものか」と怒鳴る者もいない。
その様子を見て、ハルトは胸の奥が苦しくなった。
なぜ、今までも良く接してくれなかったのか。
いや、良くなくてもいい。
普通の扱いを受けていれば、ルーファウスが凶行に走ることはなかっただろう。
「……本当に、これでいいのか?」
光っている自分の身体を見て、ハルトは息をこぼす。
村人が話を聞いてくれたのは、ハルトが人ならざる姿になったからだ。
しかも魔人となったルーファウスとは違い、ハルトの姿は神々しく見えなくもない。
そして、これまでの酷い扱いがあったから、この姿になったのだ。
ハルトは生き残っていた村人すべてを捜し、村へ誘導していった。
その間も念のため、獣が潜んでいないか警戒しつづけた。
しかしついに獣が現れることはなかった。
黒い塊も、黒い石もない。
ルーファウスの気配さえも。
「亡くなった人が、まだそのままになっています。埋葬するのを手伝ってくれませんか」
「……ああ、……もちろんだ」
「ボクの仲間も、います。出来れば、彼らも」
ハルトは声をこぼす。
少し離れたところに、ベックの遺体があった。
千切れて腐敗がはじまっていたが、間違いない。
ハルトを生かしてくれた、尊敬すべき男の残滓だ。
「……ああ、……分かっている」
村人の一人が頷いた。
その瞳に、畏れの色が混ざっている。
ベックの無惨な姿を見たからではない。
白い石を持ち、人間離れした力を持つハルトを畏れているようであった。
その畏れにハルトは気付いていたが、なにも言わなかった。
とにかく今は、どんなことを利用してでも速やかに事を終えたかった。
埋葬の作業は、夜中までつづいた。
すべての遺体が腐敗していたため、休むわけにはいかなかった。
身元が分からないほどバラバラになっていた遺体は、ひとつに集めて埋めることとなった。
「ベックたちのお墓は、谷の向こうの石造りの建物あたりに作ろう」
「……そうね。きっとそのほうが、みんな休まるわ」
アリアが寂しそうに目を細める。
ベックの遺体をかき集めたあと、ザイドとブライの欠片を前にして、二人は涙を落とした。
枯れ果てたと思っていた涙であったが、数日で尽きることはないらしい。
乾ききった骨と肉の欠片を拾うたび、二人の涙が地面を打った。
「マリーは……? お母さんのところにいるのかい?」
「……ええ。ずっといるわ」
「大丈夫かな」
「村の人たちが時々様子を見てくれているわ。……それ以外、私たちに出来ることはないもの」
他人からの慰めや助言など、たいして意味はない。
傷付いた本人が乗り越えようと思わなければ、立つことすら出来ないのだ。
そしてそれは、ハルトとアリアも同じであり、村人たちにとっても同じであった。
傍にいてたしかに意味があることは、乗り越えてほしいと願っている者が心身を支えて、見守ることだけだ。
ハルトたちは次の日も、村人たちを手伝った。
出来る限りのことを、互いに支え合い、全員で進んでいく。
ハルトに与えられた役割は、ふたつ。
怪我をしていた村人たちの手当てと、食糧の運搬であった。
白い石の力で出来る最たることは、やはり怪我を治すことであるらしい。
手をかざし、光を流し込むだけでどんな怪我も治すことが出来た。
しかし失ったものを治すことまでは出来なかった。
失った手足は生やせないし、人を生き返らせることも出来ない。
村人の失意すべてを取り戻すことは出来なかった。
食糧に関しては、ハルトが空を飛び、輸送を繰り返すだけであった。
石造りの建物周辺には、まだまだ多くの食べ物がある。
生き残った村人全員が生き抜くには十分な量があった。
村の外にいる獣の心配をしなくてもいいという事実は、村人たちの心身の負担を大きく取り除くことになった。
「……ねえ、ハルトったら!」
怪我の治療と、食糧の輸送をはじめて四日目の夜。
アリアが大声をあげた。
ぐったりとして床に寝転んでいるハルトを睨みつけている。
「もう! 明日は休むべきだわ!」
「はは……、まあ、そうみたいだ」
「治療も、飛ぶ力も……石の力でしょう? その白い石の。ハルトは昨日からずいぶん元気がないけど、石の光もずいぶん弱いわ」
「万能感があったけど、限界があるみたいだね」
「とにかく。お人好しも今日までよ。明日は絶対に働かせないから」
アリアがハルトの顔を覗き込んでくる。
ハルトは気圧され、申し訳なさそうに頷いた。
それを見て、アリアの片眉が少しだけ上がる。
嘘をついていないか、じっくり観察しているらしい。
谷の吊り橋で約束を破って以降、ハルトの言葉の信用は地に落ちているのだ。
「でも、そろそろ手伝いは終わろうと思っていたんだ」
ハルトはアリアに両手のひらを向けて言う。
その言葉に、アリアが怪訝な表情を見せた。
「そうだったの?」
「ああ。村を離れようかなって」
「……それは、ここにいるのが辛いから?」
「それもある。でもそれだけじゃない」
ハルトは自身の隣に置いてある白い石を見た。
アリアの言う通り、輝きが弱まっている。
しかし一晩眠ればある程度回復することも分かっていた。
白い石とハルトの体力は、密接な関わりがあると見ていいだろう。
決して万能ではない。
有限であり、この後にどんな副作用があるかも分からない。
「この奇妙な石のせいで、ボクたちは生きていられる。村の人たちがボクたちになにもしてこないのも、この石のせいだ」
「石の、おかげ、じゃないの?」
「違うよ、アリア。この石の力はきっと良いものじゃない。この石はルーファウスの黒い石と似ているって君も言っていたじゃないか。ボクもそう思う」
「なにか悪いことが起こる前に、村を去るっていうこと?」
「そうだよ。……もう、あんな地獄は見たくないから」
村人たちも、再び地獄を見たいとは思わないだろう。
奇妙な力を持つハルトが去ると言えば、止める者などいないに違いない。
「……マリーはどうするの?」
アリアの声が寂しさを混ぜて落ちた。
「きっと村の人たちが良くしてくれる。ボクたちよりも、村の人たちのほうが長く一緒に居たんだから」
「……寂しく、ないの?」
「寂しいよ」
マリーとその母親は、ハルトたちに唯一優しく接してくれた村人だ。
別れるのは寂しいし、虚しい。
しかし優しくしてもらえたからこそ、残されたマリーは大事に扱わなければならない気がした。
返しきれない恩を仇で返すわけにはいかない。
『大丈夫よ』
ふとハルトは、マリーの母親が自分の背を叩いてくれたことを思い出した。
息苦しさが、胸に広がっていく。
――白い石の力で、すべて無かったことに出来れば良かったのに。
深まる夜。
アリアが眠ったあと、ハルトは一人で声を押し殺し、泣いた。