轟く
2
息切れし、ついにマリーを背から降ろしたとき。
ようやく目指していた橋が見えてきた。
谷の底から上がってくる風鳴も、断続的にひびいてくる。
最初の犠牲者が出た場所。
橋と、周辺の景色を見ただけで、ハルトは胸が締め付けられた。
アリアも同じなのか、複雑な表情を浮かべて橋を見ていた。
後方から迫っている獣の数は、逃げはじめたときよりも増えている気がした。
一斉に襲いかかられたら抵抗すら出来ないだろう。
食われる瞬間を想像して、ハルトの背に冷たいものが走った。
同時に熱さも感じ、入り乱れて吐き気を覚える。
「アリア。マリーと一緒に、先に橋を渡って」
ハルトは橋を指差す。
直後、アリアの目がハルトを睨んだ。
「ハルトは!?」
「ボクも行くよ。大丈夫」
「盾になるなんて考えたら、絶対に許さないから」
「例え盾になっても、数秒も時間を稼げないよ」
「そうよ。必ずすぐ後ろに付いてきて」
アリアの怒ったような声。しかし柔らかいなと、ハルトは思った。
盾になれるなど本気で思ってはいないが、アリアと助けられるなら多少の無理も悪くはない。
ハルトが見守る中、アリアとマリーが橋を渡りだした。
アリアの手が、しっかりとマリーの手を握っている。
しかし予想に反して、マリーが橋と谷に怯えることはなかった。
とんとんと遅れなく走っていく。
いつの間にかアリアのほうが手を引っ張られて進む形となっていった。
「ギュガガガ!! グカカカカカ!!」
後方から迫る、無数の獣の声。
振り返らずとも分かる。もうすぐそこまで来ているのだと。
幸いなのは、空を飛ぶ獣がいないことであった。
ハルトたちが暮らしていた家から離れてより、一匹も見てはいない。
というよりも村から離れてからというもの、劇的に数が減っていっていた。
「もしかすると飛んでいる奴は、ルーファウスの、黒い石からはあまり離れられないのかもしれないな」
黒い塔と黒い石、ふたつは似た性質のものか、同一のものだ。
獣が塔の近くにしかいないのと同じように、ルーファウスから生まれた獣もルーファウスから離れられない。
飛ぶ獣に至っては、活動できる範囲がさらに狭いのだろう。
アリアたちがだいぶ進んでから、ハルトも橋を渡りはじめた。
軋む踏板。以前渡った時よりも、どことなく頼りなげに聞こえる。
「ハルト! 早く!」
先を行くアリアが振り返り、大声をあげた。
すぐ後ろに付いてきていないと気付き、怒ったらしい。
「すぐ行く。ほら、前を見ないと危ないよ」
「危ないのはあなたよ。もう獣がそこまで来ているのに」
「追いつかれたりはしないよ」
返事をしながら、ハルトは手の内にあるナイフを握りしめた。
同時に、吊り橋を支えているロープを見る。
一太刀では切れそうにない、太いロープだ。
だが切れないわけではない。切りさえすれば、橋を落とせる。
獣に追いつかれる可能性をこれ以上ないほど低く出来る。
考えているうちに、アリアたちが橋の中半まで進んでいた。
ハルトは三分の一程度。
獣たちはまだ、橋に辿り着いていない。
「間に合う……か?」
アリアたちと一定の距離を保ちつつ、また一歩進む。
ハルトの内に、焦燥感が渦巻きはじめていた。
強く身を焦がしていると、はっきり自覚できる。
それでもアリアたちを焦らせないようにと、ハルトは自らを押さえつけた。
焦らせればきっと、さらに遅れる要因を生む。
「グガガ! ギャガ! ギガガ! ガ! ギガ!」
獣の声が、短く、連続でひびいた。
橋の前に到達したのだ。
どうやら渡るべきかどうか、躊躇しているらしい。
――そのまま躊躇いつづけていろ。
願う。
しかし当然甘くなく、絶望が足元から湧きあがってきた。
どんと、橋が揺れる。
縦に、横に。深く、鋭く。
恐怖したのはハルトだけではない。
先を行くアリアとマリーも震えあがり、一瞬立ち止まって叫び声を上げた。
「さあ、走って! まだ間に合う!」
ハルトは自身の声が厳しくならないように努めつつ、大声を飛ばした。
聞き取ったマリーが立ち上がり、アリアの手を引く。
二人が、振り返ることなく走りはじめた。
全力疾走ではなかったが、少なくとも先ほどまでよりは速い。
二人を見て、ハルトも駆けた。
踏板がこれ以上ないほど揺れているが、なんとか捉えて突き進む。
「ギャガガガ!! ガガアアアアア!!」
「ああ! い、いちいち咆えないでくれよ! くそっ、あ、足が震え、る!!」
咆えられるたびに、足だけでなく、全身が震える。
ザイドとブライ、ベックとレニー。
マリーの母親と、村の人々。
獣に殺されていった姿を思い出し、全身から血が引いていく。
身体が硬直し、まともに動けなくなっていく。
――間に合わないか?
奥歯を噛み締める。
目を見開くと、アリアとマリーの背が映った。
――せめてアリアとマリーだけでも、逃がさなくては。
逃がすために、やるべきことはひとつ。
手の内に握られている、ナイフを振るうことだ。
「ああ。ルーファウス。たしかにこいつを使いたくなる時が来たよ」
先を行くアリアとマリーが橋を渡り切った直後。
ハルトは翻った。ナイフを構え、迫りくる獣を見据える。
殺到してきている獣。
ハルトの身体よりも大きく、禍々しかった。
鋭い爪を持ち、激しい殺気を放っている。
ハルトに届くや否や、躊躇なく引き裂き殺すと、叫んでいるようであった。
「ああ、ベック。ジャマール。今度はボクの番だ。恐怖で手元が狂わないように、ボクの心を支えていてくれよ」
握るナイフの刃を、吊り橋のロープにかける。
ゆっくりと前後に動かすと、ロープのぶつぶつと切れていく感触が手に伝わってきた。
一拍置いて、後方からアリアの叫び声が聞こえた。
なにを言っているかは聞き取れなかったが、怒っているということだけは分かる。
――ああ、やっぱり怒られたな。
迫りくる獣を見据え、ハルトは笑った。
そうして、両手に力を込める。
向かって右側のロープ。
切れはじめていた部分を一気に切り落とした。
ぐらりと、吊り橋が揺れた。
断ち切れたロープにつられ、別のロープが次々に千切れていく。
ハルトは咄嗟に左側のロープを掴んだ。
足もロープにかけ、転落しないよう耐える。
橋に殺到してきていた獣たちが、数匹落ちていった。
落ちずに耐えきった獣は、騒ぎ、咆え、ハルトを睨みつけている。
ならば、と。ハルトはすぐさま左側のロープに刃を当てた。
「ギギャギャギャギャ!! ギャガガガガガ!!」
「騒ぐなよ! 手元が狂うだろ!」
ハルトは叫びながら、ロープを切りはじめた。
恐怖で、奥歯ががたがたと震えだしている。
ぷつ、ぷつ、と、切れていくロープ。
その細かな振動を手のひらに感じ取るたび、心臓が泣き叫ぶ。
ここへ来るまでつづいていた胸の痛みも、酷くなっていた。
最後の最後というのに、まったく情け容赦ない。
呼吸することすら難しくなっていた。
意識を保てているのが不思議なほどと、ハルトは口の端を歪ませる。
――さあ、行くぞ!
息を吸い、止めた。
胸の痛みが、これまでにないほどどくりと鳴る。
最後の一押しをするナイフの刃が、自らに向けられている気がした。
どん、と。
身体が落ちた。
ロープが切れたことを感じ取る間もなく、橋が崩れ、落ちた。
迫っていた獣たちも、ハルトと共にばらばらと落ちていく。
目の前にいた獣は、狂ったような表情をハルトに向けていた。
牙を剥き、爪を光らせ、ハルトに怒りを放っている。
「お前も落ちるんだ! ボクと一緒に!」
「グガ!! アガガアアアアア!!」
獣が叫んだ。
禍々しい形をした長い腕を振り上げ、爪をむき出しにしてくる。
そして落ちながらも、獣の腕がハルトに向け、勢いよく振り落とされた。
長い腕、鋭い爪。
ハルトの肩を打ち、ハルトを切り裂きはじめる。
「う、ぐ、あああ!!」
どうせ死ぬと分かっていても、痛いものは痛かった。
肩から胸が引き裂かれ、血が噴き出しはじめている。
自身の身体から溢れる多量の血を見て、ハルトは狂ったように叫んだ。
叫びながら、攻撃してきた獣を何度も蹴り、引き離す。
「ギガガガアアアアアアアア!!」
蹴り飛ばされた獣は、叫びながら谷へ落ちていった。
もちろんハルトも、橋の上にいたすべての獣も、落ちていく。
谷を駆け上がる風鳴が、力強くひびいた。
無数の獣の鳴き声が混ざり、轟く。
なんともすさまじい光景だ。
ハルトは落下しながら苦笑いした。
流れでる血と共に、薄れていく意識。
視界が黒に塗りつぶされるまで、ハルトはただ、眼前の光景を目に焼き付けるのだった。