2人と
村を出ると、逃げ延びた村人が幾人か見えた。
どこへ逃げればいいか悩んでいるらしい。
ハルトは罵詈雑言を受ける覚悟をして声をかけ、さらに遠くへ逃げるよう伝えた。
「もっと逃げろって言うのか!?」
「ルーファウスは黒い石を持っていました。きっとあれは、そこら中に建っている黒い塔と一緒です」
「つまり……黒い塔と、その周りにいる獣どもに対するように、やり過ごせってことか?」
「そうだと思います。腹が立つならボクを好きなだけ殴ってくれてもいい。だけど殴ったら、すぐに逃げてください」
ハルトは深く頭を下げる。
しかししばらくしても村人の手が伸びてくることはなかった。
ハルトを罵る言葉も吐きだされてこない。
「……今はお前を殴ってる場合じゃない。殴りたくないわけじゃないがね。それよりも生きる方が大事だ。俺たちはさっさと逃げる。お前もどっかへ行け!」
「……あ、ありがとうございます!」
「さっさと行け! ルーファウスと仲間だったお前らを許したわけじゃあないぞ!」
そう言い放ち、村人たちが逃げはじめる。
ハルトは離れていく村人たちをしばらく見守ってから、再び自分の家へ走っていった。
途中、前方に人影が見えた。
アリアとマリーだと気付くのに、さほど時間はかからなかった。
マリーの走る速度に合わせて進んでいたから、時間がかかったのだろう。
ハルトが近付くと、必死の形相でアリアが振り返った。獣が追い付いてきたと思ったらしい。
アリアはハルトの姿を見ても、しばらく疑うような目で見てきた。
しかし隣にいるマリーが「ハルトお兄ちゃん!」と声を上げると、ようやく表情を緩ませてくれた。
「人間に似た獣もいたのよ。ちょっと驚いてしまったの。ごめんなさい」
「分かるよ。まともじゃいられないくらい、怖い思いをしたんだ」
「……そうね。全部夢であればいいのに」
アリアがうつむく。
マリーの手が、アリアの服の裾を引っ張った。
母親が死んだマリーのほうが辛いはずなのにと、アリアが歯を食いしばり、顔を上げる。
ハルトは、ベックが死んだことをアリアに言えなかった。
今言ってしまえばどうなるか。
少なくとも精神的に追い詰められることは明らかなのだ。
とはいえ隠し続けるわけにもいかないと、ハルトは苦悩した。
悩むうちに、三人は村からずいぶん離れたところまで進んでいた。
皆で暮らしていた家は、もうすぐそば。周囲に獣の足跡などはない。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんの家まで行けば、もう大丈夫?」
マリーが前方を窺いながら訪ねてきた。
「そう信じたいけど。でも飛べる獣もいたから、気を抜いてはいけないよ」
「気を抜いたりしないわ。お母さんの分も頑張らないといけないもの」
マリーが頷く。
アリアが少女の小さな頭を撫で、同意するように頷いた。
その直後。前方から嘶きのような獣の鳴き声が聞こえた。
三人ははっと顔を見合わせる。
次いで、すぐさま道の端へ移動した。
木々の狭間に潜み、そっと前方を窺う。
嘶きのような鳴き声が、さらに数回ひびいた。
聞こえてくる方向は同じで、ハルトたちが暮らしていた家の方角であった。
「獣がここまで来たの??」
アリアの顔が真っ青になる。
「獣じゃないといいけど。アリアたちは村を出てからこれまで、獣に追いつかれたり、先回りされてないだろう?」
「追われたけど、追いつかれてはいないわ」
「じゃあ、空を飛ぶ獣が……? ボクたちよりも先に……?」
「もしかしてルーファウスが指示したんじゃないかしら……。だって私たち全員を殺すつもりだったみたいだもの」
「……っ! そうとしたら、レニーとトゥイを避難させないと!」
ルーファウスの歪んだ表情が目に浮かぶ。
更なる絶望を与えようと、段階を経て追い詰めてくる姿が。
ハルトは大声をあげながら、木々の狭間から飛びだした。遅れてアリアとマリーも立ち上がる。
駆けだすとすぐに、ハルトたちが過ごしてきた家が見えてきた。やはり獣らしき影はない。
杞憂だったのだろうか。
そう思った直後、再び嘶きのような鳴き声がひびいた。
間を置いて、家の戸口からなにかが飛びだしてくる。
「獣だわ!」
アリアが言うよりも早く、ハルトはアリアとマリーの手を掴んだ。
二人の手を引き、道の端へ飛び込み、隠れる。
「静かに」
「……ハルト、あれって」
「わかってる。あの獣が咥えていた物は、人間の一部だ」
ハルトは言いながら、自身の顔色が青くなっていくのが分かった。
仲間の死を見つづけるたことで、全身が冷えていく。
唇だけでなく、歯も舌までも震えている気がした。
「あの獣がどこかへ行ったら、ボクだけ中に入るよ」
「私も行くわ」
「ダメだ。マリーもそこから動かないで」
ハルトが言うと、マリーが静かに頷いた。
アリアはしばらく納得いかない表情を見せていたが、ついに折れて、マリーと共に木々の狭間に身を潜めた。
二人の様子を横目に、ハルトはゆっくりと家へ近付いていった。
戸口から飛びだしてきた獣は、とうに飛び去っていてどこにもいなかった。
空を見上げてもそれらしい影はない。
しかしどこかに隠れ潜んでいるかもしれないと、ハルトは慎重に歩いて行った。
家の木戸周辺には、夥しい血だまりがあった。
血の滴った跡が、家の中へ続いている。
間違いない。家の中で誰かが殺されたのだ。
ゆっくりと家の中へ入ったハルトは、むせかえりそうな血の匂いに眩暈を覚えた。
普通に呼吸することも辛い。胃の中のものがすべて出てしまいそうであった。
「……誰か、いないのか」
声をこぼす。
床や壁にまき散らされた血が、ハルトの声をじわりと吸い取った。
「……レニー……トゥイ……」
家にいたはずの二人の名を呼ぶ。
瞬間、ハルトのつま先になにかが当たった。
「わっ……!? っと……!?」
驚き、半歩下がる。
するとつま先に当たったらしいなにかが、ぐらりと揺れた。
それは人の頭部であった。胴に繋がってはいない。
茶色の髪がいくらか残っていて、誰の頭部であるかはすぐに分かった。
「……レニー」
変わり果てたレニーの遺体の前で、ハルトは崩れ落ちた。
床に手を突くと、レニーから流れでたであろう血がべシャリと跳ねた。
周囲には、レニーの身体がばらばらになって転がっていた。
食べられたような形跡はどこにもない。ただ無惨に殺されたのだと見て取れた。
「……トゥイは、どこだ?」
ハルトははっとして、再び周囲を見る。
床に転がっていたのは、どう見てもひとり分の身体しかなかった。
粉々にされてしまったのなら分かりようもないが、どうやらトゥイの遺体はここにはない。
「……捜さないと!」
ハルトは翻り、家を飛び出した。
遠くで隠れていたアリアとマリーの姿が見える。
勢いよく飛びだしてきたハルトを見て、何かがあったと思ったのだろう。
必死の形相でハルトの方へ駆け寄ってきた。
「どうしたの!? 獣が中にいたの!?」
アリアが早口で尋ねてくる。
ハルトは頭を横に振って否定すると、間を置いてアリアの身体から力が抜けていった。
「トゥイの姿はなかった。どこかに逃げているのかも。早く捜そう!」
「……待って、ハルト。レニーは?」
「……レニーは……死んでた」
「じゃあ、ベックは」
「ベックはもう、村で死に別れてきた」
「……そんな」
アリアの悲痛な声が、地に落ちた。
弱々しく弾け、散り、消えていく。
人の命とは、これほどに軽く、儚いものなのか。
そう想った瞬間、ハルトの胸の内が一瞬、痛んだ。
心労とは少し違う痛み。
身体の内にあるなにかが跳ね動いたような、奇妙な痛みであった。
「……っく、つぅ」
痛みにというより、不快な驚きに声がこぼれる。
その声に、落ち込んでいたアリアが気付き、ハルトの顔を覗き込んだ。
「ハルト。どうしたの?」
「……っ、なんでもないよ。ちょっと息苦しくなっただけ」
「そう……。そうよね。もう、私たちだけになってしまったんだもの」
「まだ、トゥイは生きているかもしれない。ジャマールだって。諦めないで」
「……わかった。行きましょう、ハルト。マリーも、行ける?」
「平気よ、お姉ちゃん」
マリーが頷く。
それを見てハルトとアリアが頷き、全身に力を込め直した。
三人は村から離れるように道を進み、トゥイを捜した。
獣の気配がするたびに身を隠し、ゆっくりと。
歩き進むたび、ハルトは何度も胸に痛みを覚えた。
やはり、身体の内でなにかが跳ねるような痛み。
徐々にではあるが、頻度が増えていくようにも感じる。
――いよいよ倒れる直前なのかもしれないな。
痛む胸を押さえ、ハルトは苦笑いした。
走り回り続けている身体が悲鳴をあげているだけではない。
精神的に酷く追い詰められている。
レニーの遺体を見た時など、悲しむ気持ちも湧きあがらなかった。
死に対して、心が麻痺しているのだ。
麻痺した心が元に戻った時、どうなるのだろうとハルトは思った。
悲しみや怒り、苦しさに耐え切れず、心が砕け散るのではないか。
その瞬間、自身の命は千切れて無くなるのではないか。
「ハルト」
アリアの声が鳴った。
ほんの少しだけ、柔らかさを帯びている。
胸の痛みがわずかに和らいだ気がした。
「……なに?」
「抱え込んだら駄目。あなただけで抱えられることじゃないんだから」
「そんなつもりはないよ」
「本当? とてもそうは見えないけど」
「……はは、ごめん。本当は……だいぶ限界だ」
「そうよね。私もそうだもの。……だから後でいっぱい、三人で泣きましょう? 一人で泣くんじゃなくて、三人で。それから三人で抱え込んで、生き残った人を捜すの」
「……そうだね。ありがとう」
「どういたしまして」
アリアの声が柔らかくひびいた。
とはいえ、アリアの表情に余裕は無さそうであった。
精一杯気丈に振舞い、慰めようとしてくれている。
ハルトはもう一度アリアに礼を言うと、唇を強く結んだ。
直後。
後方から地鳴りのような音がとどろいた。
なんだと驚き、ハルトたち三人は振り返る。
「……う、わっ、そん、な、あ!!!???」
思わず叫んだ。
同時にアリアとマリーも、言葉にならない叫び声をあげた。
叫び声の向く先。無数の黒い影が迫っていた。
それらはまだ遠く離れていたが、間違いなく獣の群れであった。
身震いするほどの圧迫感。地を揺らす足音とともに、荒い息遣いも聞こえてくる。
これまでとは違って確かな殺気を持ち、ハルトたちを狙って追ってきていた。
「走って! アリア! 走って!! マリーはボクが背負っていく!!」
ハルトは震えながらも叫んだ。
同時にマリーの手を掴み、握る。
「逃げ切れるかしら!?」
「まだ遠い! 逃げ切ろう! マリーも行くよ!」
「う、うん!」
返事を聞くや、ハルトはマリーを背負った。
アリアに目配せし、森へ飛び込む。
「道を行かないの? 森の中だと走りづらいわ!」
「分かってる。でも考えがあるんだ。今は付いてきて!」
自信あり気にハルトは言う。
アリアが怪訝な表情でハルトを覗いてきた。
しかし言い争う間もないと分かっているようで、それ以上なにか言ってくることはなかった。
ハルトは、橋を目指していた。
この世界へ来て初めて獣に遭遇したあの時、直前に渡った橋だ。
ハルトたちが暮らしていた家と橋までは、意外と近かった。
あの時、橋から村へ辿り着くまでに時間がかかったのは、曲がりくねった道を辿って歩きつづけていたためだ。
直線で駆け抜ければ、大した距離ではない。
「グガガガガ!! ギャガガガガ!!」
獣の声。
笑っているようにも聞こえた。いや、実際笑っているのかもしれない。
ルーファウス同様に、ハルトたちがどうなるのか愉しんでいるのだ。
そうでなければもっと速く追ってきているだろう。
「きっと逃げ切れる。マリー、もうちょっとこのまま我慢できるかい?」
「出来るよ。疲れたら下ろしても構わないから。私だって走れるわ」
「分かった。じゃあ、ボクが疲れちゃったらその時は頼むよ」
ハルトの背で、マリーが頷く。
次いで、マリーの小さな手がハルトの身体をぎゅっと掴んだ。
せめて振り落とされないよう、努めてくれるということか。
ハルトは奥歯を食いしばる。
橋までもう少し。
もうひと頑張りすればきっと、アリアとマリーだけは逃がすことが出来るだろう。
手の内に握られたナイフが、ちんと鳴る。
胸の内の痛みも呼応して、どくりと跳ねた。