4人
「……よし、あとは出来るだけ獣を足止めすれば――」
そう声をこぼした直後。
眼前が真っ暗になった。
「グガアアアアア!! ガッガ!! グガガギガガガガ!!」
耳元で、獣の声がひびいた。
数瞬、ハルトはなにが起こったのか分からなかった。
しかし獣がハルトの身体を掴んだことで、獣が置いて、ハルトは自らが獣に襲われたのだと気付いた。
強い力がハルトの身体を掴み、何度も揺さぶってくる。
ついには押し倒され、獣に組み伏せられた。
「ぐ! く!! こ、の!! 離れろ!!」
巨大な手を持つ獣が、ハルトを押さえつけている。
しかし殺傷能力がないのか、それともルーファウスの意思が宿っているためか、それ以上のことをしてくることはなかった。
ハルトは暴れまわって抵抗し、何度も抜け出そうと試みる。
だが、獣の力を退けることは出来なかった。さらに強く押さえられ、ハルトの顔面を地面に擦りつける。
「くそ!! ど、どいてくれ!!」
喚き、暴れる。そのたびに獣の手の力が強くなった。
全身の骨が折れるのではないかと思うほどの圧迫感。徐々に恐怖が思考を染めていく。
「グ、ガガ! ガカカカカ!!」
「ブプルルル、バッパッパパ!!」
別の獣の鳴き声が聞こえる。
押さえつけられているので辺りを見回すことは出来なかったが、四、五体ほどの獣が集まっているようであった。
じわじわとハルトを取り囲み、圧迫感を強めてくる。
――アリアたちは逃げられただろうか。
なぜか迫る危機よりも、アリアの笑顔が脳裏に過ぎった。
もう一度会えたなら、あの柔らかい笑顔を向けてくれるだろうか。
「グキャキャキャ!! ギャキャッキャ!!」
「フー! フー! ブフー!!」
鳴き声と、荒い息。
ハルトの顔の傍まで近寄ってくる。
ハルトは恐れて、ぐっと目を閉じた。
目を開ければ、ルーファウスに命乞いをしてしまいそうな気もした。
アリアとマリーに対して格好つけてみても、ハルトにはなにか特技があるわけでもないし、強いわけでもない。ただの人間なのだ。魔人や獣に比べれば、虫けらのようなものだろう。
全身が震えだした。
肉と骨が、悲鳴をあげている。
口を開けばきっと、泣き叫んでしまうに違いない。
――ああ、情けないな。
自嘲した瞬間。
全身が軽くなった。
死んだのだろうか。
そう思ったが、どうも違う。
獣に押さえつけられている感覚がない。
周囲で騒いでいた獣の声も聞こえなくなっていた。
「よくやったぞ、ハルト!」
力強い声が、ハルトの肩を叩いた。
咄嗟に目を開ける。
身体の大きな男が、目の前に立っていた。
「ベ、ベック!?」
ハルトは何度も瞬きする。
間違いない。目の前に現れたのは、ベックであった。
どうやら勢いよく駆け寄りつつ、獣を蹴り倒してくれたらしい。
遠くのほうに、先ほどまでハルトを押さえつけていた獣が倒れていた。
集まっていた他の獣も巻き込まれ、ふらついている。
「ああ、俺だ! 待たせちまったみてぇだな!」
「ど、どうしてここに!?」
「あの、背中と首の痛みさ。あの獣がどっかに出やがったんだって気付いちまった瞬間、家を飛び出してきた。まあ、こんなにわんさかいやがるとは思ってなかったがな。はっはっは!」
ベックが大声で笑う。頼り切ってしまいたくなる、大きな存在だ。
ハルトは立ち上がると、ベックに礼を言いつつ周囲の獣に向けて身構えた。
「多勢に無勢ってやつだ。逃げるぞ、ハルト」
「分かってる。村のみんなはどうなったかな」
「はっは! こんな状況で、お人好しだな! 村の連中はそこそこ逃げてるさ。後は運に任せろってとこだな」
「じゃあ、ボクたちも運に任せて行こう」
「そういうこった! さあ走るぞ!」
ベックが号令を出す。直後、ハルトは弾け飛ぶようにして駆けだした。
多くの村人が逃げているであろう方向からは、念のため逸れていく。
出来る限り多くの者が生き残るために。
しばらく駆けてから振り返ると、遅れて走るベックの姿が見えた。
ひどく疲れた顔をしている。走り方もどことなくぎこちない。
「無理をして来たの!? ベック!?」
「まあ、ちょっとはな」
息切れしながらベックが応える。
ハルトは走る速度を落とし、ベックの寄って走り直した。
周囲に視線を送る。
獣の数が増えていた。
これまでハルトをただ監視していただけの獣より、敵意を向けている獣が多くなっているように感じる。
しかし辛うじてか。
ハルトを殺さないように指示しているルーファウスの意思が、すべての獣に残っているらしい。
威嚇するような目をしつつも、わずかな理性が自らを制しているようであった。
「やつら、なかなか襲ってこねぇな?」
「……ルーファウスがそうしているんだ。ボクを弄んでるんだよ」
「ルーファウスだと? なぜあいつが、獣と関係するんだ」
ベックが首を傾げる。
家から駆け付けてきただけのベックは、なぜこうなったのか知らないのだ。
ハルトはルーファウスが魔人となり、獣を生みだしつづけていることを説明した。
そして、ザイドとブライが死んだことも。
仲間の死を聞いた瞬間、ベックの顔が歪んだ。
ルーファウスや村人を憎むわけでもなく、ただただ悲しむ様であった。
「ルーファウスをを追い詰めた一因は……俺だな」
「関係ないよ。もしそうだったとしても、それを理由にするなんて」
「だからこそ、魔人になっちまったんだ。人間の枠を超えなければ、逃げられねぇからな」
確かもそうかもしれないと、ハルトは唸った。
ハルトも、ベックも、あともう少し追い詰められ、絶望すれば、魔に堕ちたくなるかもしれない。
堕ちれば、逃げなくてもいいし、悩まなくても良いのだ。
だが、そうなりたくない理由がハルトの胸にしっかりと根付いていた。
アリアやマリー、ベックたちと共に人として生きていきたい。そう願い、歯を食いしばってきたのだ。
「ボクは魔人になんてならないよ」
「俺もさ。最後まで足掻く。ジャマールがそうしたようにな」
ベックの言葉に、ハルトはジャマールの後ろ姿を思い出した。
獣を引きはがすために囮となってくれた友人。
生きていれば、ベックと同じの言葉でハルトを励ましてくれただろう。
「さあ、今度は俺の番ってわけだ」
「……どういうこと?」
「左右を見てみろ。俺たちと並走している獣どもがいる。あいつらを俺たちをただ見ているだけじゃねぇ。殺意を持って睨んでやがる」
「でもルーファウスは――」
「お前を殺さないって? そうかもしれねぇな。弄んでるっていうのが俺から見てもはっきりとわかる。だがな。俺は別さ。ルーファウスと獣どもはお前を弄ぶために、俺を殺すだろうよ」
「ま、まさか!」
「――ああ。だから、ハルト。前だけを見ていろよ」
そう言ったベックが、突然立ち止まった。
全身が汗に濡れ、肩を大きく揺らしている。
ハルトを見据える顔面は蒼白で、今にも倒れてしまいそうであった。
「ベック!!」
ハルトは叫び、立ち止まったベックへ駆け寄ろうとする。
しかしすぐにベックが両手のひらを向けてきて、ハルトを制した。
「ハルト。アリアたちのところへ行け。後は頼む」
「なにを言ってるんだ!」
「はっは! 実はな、俺はもう走れねぇ。ここへ来るだけで精いっぱいだったのさ。だがな、お前の背ぐらいなら押せる。出来るだけ強く押してやる。このくそったれな世界に負けねぇようにな」
ベックが言った直後、両脇から獣が飛びだしてきた。
立ち尽くしているベック目掛けて、牙と爪を立て、襲いかかる。
「さあ行け! ハルト! 俺の分も走っていけ! ザイドとブライ、ジャマールの分も!」
ベックの大きな身体が揺れる。
獣の牙が、ベックの肩に食いこんでいた。
続けて大きな爪が、ベックの胴を貫く。
大きな身体は何度も揺れたが、倒れなかった。
ハルトを見据えたまま、苦痛の声ひとつ上げなかった。
「ベック!!」
ハルトは叫んだが、ベックが応えることはなかった。
すでに瞳から光が消えている。
大きな身体がゆっくりと千切れていく。
ベックの死を前にして、ハルトは目の前が暗くなった気がした。
同時に胸の奥がひどく痛む。
恐怖や絶望。言葉では言い尽くせないほどの負の感情。
心身が食い荒らしているようで、息苦しい。
それでもハルトは、思考を停止させることはなかった。
ベックの言葉が、ハルトの背を支えてくれていた。
次いで、ジャマールの顔が思い出される。ブライと、ザイドの顔も。
彼らは皆、仲間のために進んで動いていた。
そして次へ託してきた。
ハルトがそれらを受け取り、今、ここにいる。
駆けた。
役割を終えたように倒れたベックを背に、ハルトは懸命に駆けた。