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おはようの時間 2

「まゆこさーん」

「なにー?」

「髪の毛乾かすよー」


 着替えて歯を磨いていると、陽治くんがソファに座ってタオルを持った手を広げている。にやりと口元だけで笑う陽治くんに、苦笑い。

 そうだった。陽治くんも私と同じくらいには、私を行かせない方法を編み出しているのだ。


「…う」

「いいじゃん、乾かすだけなんだから」

「分った分った。ちょっと待って」


 口の中をすすいで、心の中で言い訳をしながら急ぎ目にソファへ舞い戻る。

 浅く腰を落とすと陽治くんが背後に立った。

 タオルドライをして、弱くしたドライヤーを遠くから当てる。

 大きな掌と長い指が、髪の毛の水分を奪っていく行為が私は大好きだった。


「今日は一緒にお風呂はいろう?」

「髪?」

「うん、シャンプーしたい」


 髪のため、というのもあるけど、こうして会話をするためでもあるのだろう。弱いドライヤーの風は陽治くんと私の声を控えめに遮る。

 一通り乾くと、ヘッドオイルの塗られた指が地肌をマッサージするように動く。


「…きもちいい」

「まゆこさん、好きだよね」

「うん。陽治くんの指がマッサージするの、凄く気持ち良い」

「まゆこさん、いやらしい」

「は? …ばかねぇ」

「バカじゃないよ!」

「はいはい」


 笑いながら目だけで見上げる。

 むと頬を膨らます。拗ねてますのポーズ。

 小さい子しか許されないよ、と思いながらもそんな表情を素直に見せる陽治くんが可愛らしいと目を細めてしまう。


「はい、終わり」

「ありがとうございます」

「どういたしまして」


 にっこり、目がなくなるくらいの笑顔になった彼の頭をいいこ、と撫でる。

 気持ちよさそうに手に擦り寄ってくる陽治くんを見ていると、暖かい気持ちになる。でも同時に、言いようのない不安が過ぎる。最近になって気付いたこと。昔からだったのかは、よく分からない。

 

「行きたくなくなっちゃった?」

「ぜんぜん」


 手の下で、伺ってくる陽治くんに意地悪な笑顔を返して思う。

 分っていることは。

 それは私の問題で、向き合うことが怖い問題ということ。

 

「陽治くんのお陰で、行きたくない気持ちがなくなった」

「えー」


 あまりに情けない声がおかしくて声を立てて笑うと、陽治くんも笑い出す。

 本当は、このまま陽治くんと居たかった。


◆◆◆


 結局、ほとんど時間通りに出発できた。

 ごそごそと着替えている陽治くんに玄関から声だけで挨拶を済ます。施錠は後から出る陽治くんに任せて。私の部屋の鍵は、ずいぶん前に彼に渡してあるのだ。

 玄関ホールで管理人さんに会釈して、ビニール傘を開く。買ったばかりの匂いのキツイビニールが雨を遮断した。

 マンションの前の一通の道路を渡りきってから、自分の部屋を振り向く。

 いつも通りにベランダでいってらっしゃいをしてくれる陽治くん。ホームドラマでも見なくなったその光景は、私たちが大切にしている習慣。

 

「いってきます」

 

 彼には聞こえない声で呟いて、ビニールの下から手を振った。

 学校までは、ゆっくり歩いてもだいたい20分あれば余裕でいける。

 お昼ごはんはどうしよう。腕にはめた時計を確認すると、まだコンビニに寄るくらいの猶予は残されていた。

 一瞬だけ考えて、でもそのまま駅に向かうことにした。

 今日は講義だから、友人がいるという補償はない。一人で食べるのだったら、いっそ家に帰って食べてもいい。

 取り留めのないことを考えながら、のんびりした速度で雨の道を歩く。

 橙色の小さな花を落としきった金木犀。残っている濃い緑の硬い葉を横目に路地を曲がると、急に人の往来が激しくなる。

 こんな時間だからか、制服を着た学生やスーツ姿の人たちは少ない。代わりに買い物帰りの主婦やキャリーバッグを引いたお婆ちゃんとすれ違う。

 

「まゆこ?」

「あ、おはよ」


 一本の傘を2人で差して歩いていく老夫婦の後ろ姿を見送っていると、真後ろから呼ぶ声。


「浩介も学校だったんだ」

「橘先生に呼ばれて」

「卒論で?」

「たぶん」


 浩介は細い肩を寒そうに縮めながら、小さな折り畳み傘の下に収まっている。学科が違うから、会おうと思わなければ会わない。3ヶ月ぶりくらいに会う。顔付きがやつれて見えた。


「さみーな」

「そうだね。去年の今頃はもうちょっと暖かかった」

「だなー」


 私の傘に、浩介の雫が垂れている。

 ビニール傘の上に差されている折り畳み傘。

 私は雨からずいぶん遠いところに居るような気分になる。


「会うの、久しぶりだよね」

「そうだな。…就職先、結局あそこにしたんだ」

「うん」


 大学院に進む浩介は、就職活動はまったくせずに院試を受けた。

 まだ3年だったときに、焦る気持ちはないのかと聞いたら、あるわけないだろ。と笑っていたのを思い出す。


「浩介は」

「俺も」

「そっか」


 大学通りに差し掛かると、同世代の学生たちで道がいっぱいになる。

 ざわざわともがやがやとも聞こえるたくさんの喋り声に、私たちの小さな会話は簡単に押しつぶされてしまった。

 途切れた会話は再び始まることがない。

 浩介も私も、それを気にはしない。しょっちゅうあることだから。

 2人で居ても、無理に会話を続けようとは思わない。外的要因がなくっても二人の間に沈黙が訪れることはままにあった。

 傍から見ると、たまたま横を歩いている人たちみたいだ、と友人に言われたことがある。私は言いえて妙だと返した。

 言葉にするなら、知り合い以上友達以下の関係。


「教授棟?」

「あぁ」

「私は一号館だから」


 ばいばい、と別れの言葉もなく、人の波に乗って別の方向に進む。

 教授棟と一号館は正門から入ると、真逆に位置している。

 別れてすぐに、腕を見て時計を確認する。

 人が多いので、授業が終わった時間だと思ったが、予想以上に開始時刻が近づいている。3階の教室へ向かうのにエレベーターをちらりと確認して、すぐに階段を目指した。

 息切れを整えながら教室に入ると、すでに先生が居てプリントの用意をしている。いつも遅めの先生に遅れをとったことが、何となく悔しい。

 扉を閉めた音で私の入室に気付いた先生に、早々に名前を呼ばれる。

 当たり前のように差し出される分厚いプリントの束。


「はい、森さん」

「はいじゃないでしょ、先生」

「ほらー。授業始まっちゃう! 早く配って!」


 愛想の良い笑顔とフランクなノリが人気の彼女は、2年からずっと私の指導教授。研究対象が合致しているせいか、他の同期よりも仲がよいと自覚している。


「話があるの。終わったら研究室に来てちょうだい」


 しょうがなく伸ばした私の手の平にプリントを乗せながら、先生は声を落とした。

 好きな先生の、人を見透かすような目。唯一、彼女の苦手に思う部分。


「はい」


 コピーしたてのプリントが掌を暖めた。

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