弱小校にだってストーリーがある。強豪校にもドラフト候補にも負けない濃密な青春が、真夏のグラウンドには広がっている。
急遽マウンドに上がった真希。対するはドラフト候補の堂島。弱小県立高校野球部の夏、いよいよ完結です。
「ウォーミングアップは練習球の8球だけだ。いけるな」
マウンドにまでボールを持ってきて、浩太がそう言った。その声にコクリと肯いた真希は、膝に手を当てて屈伸運動を始めた。
何が何だかわからない。だけど、こうなった以上もう投げるしかない。
「そうだよ。やるしかないんだ」
と吐き捨てるように呟いて、ホームベースの手前に戻った浩太めがけて肩を作り始めた。
(でも、でもやっぱりここはいいな)
いつもは真っ平らな学校のマウンドだ。真希はこの三年間、一度として立つことのなかった、ピッチャープレートを中心としてせり上がった正式なマウンドを味わった。
練習級の一球ごとに、投げる度に思いが込み上げてくる。
泥だらけで走り回った日々。そして、ただ仲間のためにと無心で投げた、打撃投手の毎日がまぶたの向こうに舞い戻ってくる。
(ありがとう、浩太。ありがとう、みんな)
一球一球、許された球数を真希は愛しむように噛みしめた。
硬式のボールを手に大会に出られるなんて思ってもいなかった。予選とはいえ正式な高校野球の舞台に立てるなんて、これっぽっちも考えていなかった。
「全く、舐めたことしてくれるよな、ナメコーさんは」
ホームベースの手前では、左打席から浩太に近寄った堂島が呆れ顔でそう声を掛けていた。
「神代ってアレだろ。覚えてるそ、俺」
「黙ってろ」
徐々に熱のこもる真希の練習球を受け止めると、堂島に振り向きもせずに浩太は、平静を装ってボールを真希に戻した。
「マサキってお前、何考えてるんだよ。あの子の本当の名前は…」
「黙ってろって言ってんだろ」
審判に聞こえないように、それでいて出せる限りの大声を浩太は張り上げた。
「アイツはマサキだ。カミシロマサキ」
そう言って浩太は堂島を睨み付けた。
「それに、アイツは中学んときのアイツじゃない。万全じゃない俺の球すら打ち返せなかった今のお前に、アイツの球が打てるとは思えねーけどな」
と、続けて不敵にも、怪物を相手にそううそぶいた。
「な、何だと」
その言葉に堂島がいきり立つ。
しかし浩太は、詰め寄ってきた堂島を右腕で制し、真希からの七球目を受けると捕手の定位置にまで下がった。そして、怪我をした肘をかばいつつマウンドに強い球を投げ返すと、両腕を大きく広げた。
「神代、ラストだ。思いっ切りの真っ直ぐを持って来い」
と叫んだ。
その声に頷いたマウンドの真希は、ボールを受け取ると大きく振りかぶった。
18.44mの先では、腰を下ろして浩太がミットを構えている。高々と右膝を胸にまで持ち上げて真希は、細くしなやかなその左腕を、柳のようにしならせて力強く振り下ろした。
「ナイスボール」
外角低めに伸びるストレートだ。
野球経験者の山本や前崎でもきちんとは前に飛ばない、滑高野球部左のエースの決め球だ。
「わかったよ。あの子も同じ三年を過ごしたってわけだな。じゃあよ、俺がお前らに引導を渡してやる。初球からいくぞ、覚悟しとけよ」
汗と泥にまみれた3年間が詰まったストレートは、他校から超高校級と恐れられるまでに成長した堂島の口をも黙らせた。
一歩でも前へ、少しでも力の乗った球をと、男子投手と同等のボールを部員に打たせるためにと奮闘した日々は、変化球ピッチャーだった神代真希を、力強い本格派左腕へと変貌させていたのだった。
「バッターラップ」
堂島が打席に入って試合は再開した。
ピクリとも動かないその構えに真希は圧倒された。
これがドラフト候補の威圧なのか。ボールを持つ手が震え出す。中学での対戦とは桁違いのそのプレッシャーに、指先までが凍りつく。
「神代、ビビるな。大丈夫、思いっきりこい。全力で投げ込んでこい」
マスクを外して浩太が叫んだ。内外野からも声が掛る。セカンドの山本が、ファーストの上村が叫んでいる。センターからもライトからも、仲間たちの励ましが届いてくる。
「お前が一番練習してきたって、俺たちが一番わかってる。すっげぇピッチャーになったって、俺たちみんなわかってるんだぞ」
「そうだっ、負けるな神代。オマエの球は俺たちは誰も打てねえんだ。いくら堂島だって、簡単にはゼッテー打てやしないって」
何なのよ、それ。打てないことを自慢してどうなるの。
と、思わず真希は吹き出してしまった。
けれどもおかげで緊張が解けた。プレートを外して真希はマウンドを下りた。そして大きく深呼吸をして、グラウンドをぐるりと一周見回した。
相手校のスタンドでは、応援団が声を張り上げていた。さっきまで自分がいたベンチでは、上原と澄香が何かを叫んでいる。心配そうな顔をした澄香の目からは、涙がポロポロと溢れ出ているのが見えた。
(大丈夫だよ、澄香ちゃん。こんなチャンスは二度とないもん。相手はドラフト候補。甲子園にいる選手なんだよ)
私にとっては今が甲子園の本大会だ。そう思い直して真希は、力の漲った左足でプレートを踏み直した。
浩太の出すサインを覗き込む。ミットから出た指の形はもちろん、ストレートを示す一本指だった。
(いくよ。怖気づいてどうする。最初で最後の甲子園だ。負けない。絶対に負けないよ)
大きく息を吸い込むと真希は、ぷうっと頬を膨らませて振りかぶった。
ランナーなんてどうでもいい。バッター勝負。どのみちこの堂島を打ち取らなきゃ、次の回には進めないんだ。
空に向かって右足を持ち上げる。プレートの左足を力強く蹴り込む。そして、どっしりと構える浩太のミットをめがけ、神代真希は渾身の力でその左腕を振り下した。
「う、嘘だろう…」
初球から行くとの宣言に嘘はなかった。堂島は真希のストレートを迎え撃った。
だが、怪物の力を持ってしても快打はなかった。球速こそないものの、真希の直球は初速からほとんどスピードが落ちない。いくらドラフト候補といえども、初見で打てる代物ではないのだ。
「オイッ、何なんだよ、アイツ」
ボテボテに詰まったファールボールが、三塁側のベンチに転がっていく。芯を外した衝撃に手元が痺れたのだろう。バットを手放した堂島は、ものすごい形相で浩太に向き返った。
「だから言っただろう。オマエにゃ打てねえって」
代えのボールを審判から受け取った浩太は、真希に投げ返しながらそう笑った。
そして、堂島に顔も向けずに真希を見据えて、「ツーストライクだ。あと1球でチェンジだ」と、大きな声で叫んだ。
何も言わずにバットを拾った堂島は、無言のまま打席に戻って構えに入った。
しかし、今度はバットを一握り短く持っている。流石に超高校級だと噂されるだけのバッターだ。プライドは傷ついただろうが、たった1球見ただけで見事に対応してくる。
(きた。これが堂島雄大。この謙虚さこそが、コイツをここまでの選手に押し上げたんだ)
だがそれは真希も変わらない。女子選手とはいえ、その野球センスは浩太にも引けを取らない。体格の、性別の不利がなければ滑高二枚看板の一人として、マスコミを賑わしていてもおかしくない逸材だったのだ。
拳一つバットを短く持った堂島は、今度は慎重に、そしてコンタクトに対応してくるだろう。ならばこっちはキレだ。バックスイングを抑えてスイングスピードだけで勝負に来るだろう相手には、それをも上回るボールのキレを持って立ち向かうしかない。
再び真希が振りかぶる。満塁のランナーが一斉にスタートを切った。それでも真希はゆっくりと足を上げる。右胸に届きそうな位置にまで右膝を持ち上げると、一瞬だけ左足を沈めて、その反動をも使ってまた弓のように左腕をしならせた。
「いっけぇ~っ」
三年間の想いが詰まった、汗の結晶が白線を引いていく。
来いっ、ここまで来いと浩太は祈った。
ミットまで届けと真希も祈る。浩太の最後と同じインハイのストレート。誰も打てないんだ。その球は誰一人としてかすりもしないんだと内外野のナイン全員が、手を握り締めて固唾を飲んだ。
「カキン」
だがしかし、それでもやはり怪物はモノが違った。
コンパクトなスイングから放たれた堂島の打球は、甲高い金属音を響かせた。そして打ち上げられたボールは高々と放物線を描いて、センターの前崎を襲ったのだった。
「ズシッときたぜぇ」
そう浩太に言い残すと、バットを放り投げて堂島は一塁に向かった。走り出していた満塁のランナーは、全員が足を止めて打球の行方を追っていた。
ホームからの風にも乗って堂島の打球は伸びる。真っ白な夏の雲を突き抜けるかのように、その球は、どこまでも青い空に吸い込まれていくかのようだった。
「おい、マジかよ…」
二歩、三歩と下がっただけで、センターの前崎は動けなかった。そして、そのまま外野席のフェンスに向くと、その場で腕を組んで立ち止まってしまった。
満塁の走者が続々とホームに帰っていく。バッターランナーの堂島も、既にサードベースを回っている。
マウンドにはセカンドの山本と、ショート椛島が来ていた。永川と上村も歩いてくる。キャッチャーマスクを手に持った浩太も、吹っ切れたような笑みを浮かべて、バックスクリーンを見つめたままの真希の元へと足早に走り寄っていった。
「ゴメンね。アンタたちの夏、私が終わらせちゃった」
マウンドに集まった浩太たちに真希は笑った。
その時、気まぐれな風がセンターから向きを変えた。
砂ぼこりに交じって真希の帽子が飛んでいく。そして、束ねて隠してあった真希の長い髪が、名残惜しそうに、夏風に揺れてマウンドになびいた。
明けて翌日。朝のスポーツ新聞各紙は大騒ぎだった。
「前代未聞」「コールド直前で失格負け」
との文字が紙面に踊る。地方大会の1回戦での出来事だというのに、規則違反を犯した滑高への批判記事が特集で掲載されたのだ。
「ったく、わかってねえよなぁ。堂島以外の誰が打てるってんだよ。オレたちゃバットにも当たんねえんだぞ。浩太だって前に飛ばすのがやっとだっていうのに」
居ても立ってもいられずに部室に集まった部員たちは、口々にマスコミと大会役員に文句を言った。
中でも上原の怒りは凄まじかった。真希が女だからって何が違うんだと、女は野球をやっちゃイケナイのかと、試合後、役員室に呼ばれて失格負けを受け入れてきた浩太にまで食って掛かる始末だった。
「まあ、そう怒んなよ。ホラ、わかってるヤツはわかってるんだしさ」
とんだとばっちりに苦笑いをしながらも、浩太は新聞を机に広げて小さな記事を指差した。
幻となった堂島のサヨナラホームランの写真の下にあったその囲いには、堂島のインタビューが載っていた。
「打てたのはたまたまです。甲子園でもあんな球は見たことが無い。男とか女とか関係ないっすよ。神代選手がどれだけ練習してきたか、対戦した僕にはそれがよくわかるんです」
その言葉が契機になったのか、テレビのワイドショーでは、「これを機に女子選手の出場解禁を」といった議論も持ち上がっていた。
滑高は失格処分でしかないかもしれない。そしてもちろん、いくら選手の参加資格が論議されようとも、女子選手の出場は叶わないかもしれない。
しかし真希の投じたあの二球は、多くの人の心を動かした。高野連という高い壁に、小さな傷を付けたのだけは確かだったのだ。
「おーい、そんなとこで一人で何やってんだよ」
論争の中心はマウンドにいた。
部室を出た部員たちがぞろぞろと歩いていく。ローファーを履いた制服姿の左のエースは、バックネットに当てて戻ってきたボールを拾うと、山なりのボールを浩太に投げて寄越した。
「私も東大に行くことにしたから。あんなんで終わりになんてできない。続きは神宮で勝負。絶対にいつか、堂島クンから空振りを取ってやるんだ」
「アホ、アイツはプロだよ」
と、ボールを受けた浩太は笑いながら歩き出した。山本たちもみんなマウンドに集まっていく。
滑高野球部の夏は終った。
甲子園を目指したわけではないが、それぞれに夢を追った真希と浩太たちの三年は終わりを告げたのだ。
真希の髪がまたマウンドになびいた。
夏空に白い雲が走っていく。
汗の染み込んだ砂ぼこりの舞うグランドに、部員たちの笑い声が響いた。
いかがでしたでしょうか?
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