61粒目「終わりの始まり」
何事もなく年末を過ぎると、2007年を迎えた。
新しい年を迎えたという感覚はない。余程のことがなければ、今年と去年は大差ない。
区切りを大事にする人の気持ちが分からない。何かしら基準のようなものがないと、過去を振り返る時に説明がつかないのだろうか。過去のことはあまり思い出したくはない。
記憶力が良いのも考え物だし、記憶から感情を引けば、ただの記録なのに。
私は祖父母の家に赴き、親戚の集会に参加する。1月と5月と8月に行われる。8月分はある年を境にお兄ちゃんの案で9月に変わるが、それはまだ先の話である。親戚の集会はあまり記憶がない。端っこの方で大人しく空気と一体化していたし、話しかけてきたのは柚子くらいだ。
それもそのはず、特に仲が良かったのは柚子だった。柚子もまた、この世の被害者である。
学生ならどこに進学か就職を決めるか、社会人なら誰と結婚するか、定年なら老後をどう過ごすかなどで話題の絶えない人たち。さながらRPGの村人のように、常同話題をひたすら繰り返す。全く飽きずに同じ話が続く光景に慣れ、聞き流せるようになれば、晴れて親戚の集会における免許皆伝となる。
「璃子、顔色が冴えないけど、何かあったの?」
「大したことじゃないよ。ローカルアイドルも楽じゃないなって」
「ファンに追っかけ回されたとか?」
「まあそんなところ。有名になって稼ぐのが、こんなに大変だと思わなかった」
言っても信じてもらえないだろうが、私は成功者が全く羨ましくない。
成功者と聞くと、真っ先に高年収を思いつく人が多いだろう。だが年収とは人の価値ではなく、人が行う仕事に対する期待値なのだ。当然高年収の人は、支払われる分の重圧が伸し掛かるのだ。稼げるだけの実力だけでなく、重圧に耐えられるだけの精神を含めて技術だと私は思う。
なのに成功者を羨ましがる人の何と多いことか。
しかも有名税の名の下に、不当な人権侵害を受けてしまう。有名税は有名人に対する人権侵害という意識など、この頃の日本人にはなかった。無邪気にマスコットの着ぐるみに触る子供のような感覚で、他人の領域を平気で侵害し、何の痛みも感じない。
当事者感覚のない人間ほど、恐ろしいものはない。
仕事には相応の責任が伴うもの。生きているだけでも精一杯なのに、学生に仕事まで立派にこなしていかなければ、必要最低限の人権すら得られないのだから、鬱病患者が人知れず量産され続けるのは当然と言える。婚活という言葉が誕生した年でもあり、私は婚活というパワーワードに度々振り回されることになる。しかもここから数年の間に、リーマンショックや東日本大震災といった悲劇まで待ち受けているのだ。葉月家や楠木家も大きな被害を受けた。
平成日本を生きた子供にとって、まさしく終わりの始まりと言える年であった。
「世間は璃子が思ってる以上に自分勝手だから、ちゃんと距離を置いた方がいいかもね」
「柚子は大学どうなの?」
「3年生になる頃には、ほぼ全部の単位が取れると思うけど、授業がちょっと簡単すぎるのがねー」
「もっとレベルの高い大学に行けなかったのは、家の懐事情かな?」
「よく分かるねー。岐阜大行きたかったけど、奨学金は利用したくないんだよねー。ほら、うちって借金に滅茶苦茶シビアでしょ。もし就職してから取り返せなかったら大目玉食らうから、とりあえず近所のFランにしたわけ。どこの大学を出ようと、就活が始まったらまた横一線だし、それだったらあんまり変わらないかなって思ったの」
柚子の企業分析は、現代日本における新卒採用の矛盾を象徴していた。
一生懸命頑張って名門に入ったのに、それが就活でまた他の大学生と競うことになる。
じゃあ今までの努力は何だったのかと、社会全体の神経を疑いたくなる。しかも今の新入社員を見ていると、ただ指示を出されるだけでなく、自ら仕事内容を考えなければならなかったり、あるいは自分で新しい仕事や契約を手に入れなければならないなど、思った以上に頭を使うのだ。
学校では目立たないようひたすら考えないようにし、自分の意見を持たないようにしてきたが、社会に出た途端に常識が真逆になると、多くの新入社員はカルチャーショックを受けるだろう。不登校になっていなければ気づけなかった事実だ。なら私は何を目的に通学していたのだろうか。
学校は理不尽を、不登校は社会を私に教えてくれた。
「璃子は将来何やるか決めてる?」
「ショコラティエを目指してる。中学を出たら、どこかの洋菓子店で修業しようかなって。高校進学は正直心配だし、行きたいとは思わないかな」
「璃子くらい勉強できるんだったら、心配なんてしなくていいと思うけど」
「私が心配しているのは、理不尽な同級生と3年間も一緒に過ごさないといけないことなんだけど……」
「あー、璃子って傷つきやすいもんね」
的を射るように柚子が言った。ここまで把握されているとは。
お兄ちゃんも私と同様、端っこの方で大人しくしているが、リサやエマたちが甘えてくるのか、庭が見える廊下まで一緒に移動してしまう。高校のことを聞かれ、テキトーに応えているが、いつボロが出るかが心配だ。思ったことをそのまま言う性格の人にとって、日本社会はさぞ辛かろう。
凪からメールが来ると、私は衝撃の情報を得た。
明けましておめでとうと一言述べながらも、すぐに本題へと移る。
凪にとっても年はただの数字でしかないようだ。
荒井グループが虎沢グループに吸収合併され、株式会社荒井商事として虎沢グループの傘下となることが正式に決定した。多くの投資家が損をしたばかりか、虎沢グループの影響力が増す結果となった。こんな時に連絡を寄こすということは、余程の出来事があったらしい。
親戚の集会は出席自由、朝から赴いて昼に帰る者もいれば、昼から赴いて夕方に帰る者もいる。
私はお母さんに用事ができたと一言告げると、早々に祖父母の家から立ち去った。
凪に呼び出され、タレントップ2階の床下点検口からエンジェル・ウィング探偵事務所に入った。
タレントップの郵便受けにはエンジェル・ウィングのものと思われる予備の郵便受けがあり、中にはタレントップ2階用の鍵が置かれている。このことを知っているのは、私、凪、降谷社長の3人のみ。
仮に後をつけられていたとしても、2階から入ることで場所を悟られず、内側から鍵をかければいつでも集合できる安全地帯となる。梯子から下りてみれば、凪がパソコンをカタカタと鳴らしながら作業に追われている。パソコン画面に向かっている時はいつも透明の丸い眼鏡をかけている。
「鍵は机の上に置いといて。誰にも後つけられてないよね?」
凪は目線を逸らすことなく、顔色1つ変えずに指示を出した。
「それなら大丈夫。今はみんな正月祝いで実家に帰ってるから」
ソファーに腰かけ、目の前に置かれている黒いファイルが目に映る。
「あたしは帰ってないけどね。どうせ実家に帰ったところで誰もいないし」
「そんなに忙しいの?」
「サイバーモールの役員会は年中無休だから」
「で? 親戚の集会から抜け出させてまで呼び出した理由は何?」
「そこの黒いファイルを読んで」
指差した先にある黒いファイルを手に取り、左からパラパラ捲っていく。
載っていた内容は犯罪者に関する情報ばかりだ。一体これがどうしたんだろう。
「! ……これって」
目を凝らして読み込んでみる。
『荒井亮太。1992年生まれ。小学校時代から問題を起こしては指導を受け、いくつかの相談者からどうにかしてほしいと言われているブラックリストの1人。暴力や窃盗など前科多数。IQ72の境界知能にあたり、反省以前の問題である。悪行を繰り返す原因は認知機能の低さにあり。現行犯逮捕したはいいが、何故か次の日には、当たり前のように放出されるのが特徴。荒井商事との関係を調べるも決定的な関係性を掴むには至らず、今もどこかで犯行を繰り返しているのだと思うだけで怖気が走る』
最後愚痴が入っちゃってるけど、見事な分析だ。あの数日間だけで調べ上げたようだ。
本来なら少年院送致でもおかしくはない。
境界知能とは、健常者と知的障害の間に位置するボーダーラインのことである。普通の人に紛れてはいるが、中途半端に理解力があるため、簡単な読み書きはできるが、内容を把握できないという致命的欠陥を抱えている。しかも知的障害ではないため、社会福祉を受けられない。早期発見ができれば単純作業で生きていけるが、そうでなければ重圧に耐え切れず、大きなストレスを抱えることになる。
最悪の場合、非行に走り、犯罪をした挙句に逮捕され、少年院や刑務所に送られて初めて発覚することも少なくない。精神的遅滞による認知機能の欠如が目立ち、成長が緩やかであるため、IQ70なら10歳の体の中に7歳の子供がいる状態だ。小4の中に小1が紛れているのだから、そりゃ勉強し辛いはずだ。彼らを一言で説明するならば、見た目は大人、頭脳は子供だ。
いくつか説明がつくことがある。木に隠れて目立たなかったこともあるが、曲がり角に沿って隠れただけで見つけられなくなり、目標を見失った途端パニックになりながら慌ただしく走り去っていく姿、バレないだけの追跡能力の拙さ、最後に会った時はザッハトルテを三等分にできなかった。
やはり認知機能に問題があるようで、行動を起こしたらどうなるかを考えたり、相手の行動を読む力が弱いことが犯行を繰り返す要因となっている。しかも時代に合わない少年法を盾に君臨し続けている。ここまで蹂躙されて大人しくしている日本人が情けなく思える。
無論、それは私にも言えることだが……。
「よくここまで調べ上げたね」
「以前から相談者たちにどうにかしてほしいって言われてたし、住所を特定して後をつけて、徹底的に調べていたの。別人のふりをして事情聴取もしたし、病院にも協力してもらった」
「病院が情報提供したの?」
「医者の中にあたしのファンがいて、どうしてもってお願いして、検査結果を見せてもらった。まさかここにきてアイドルの肩書きが役立つとは思わなかったけど、使えるものは何でも使わないとね。手段なんて選んでいたら、これから立ち向かう巨悪になんてまず勝てない。あれだけの被害報告を受けて、少年院にも入ってないなんて、不自然だと思わない?」
「確かにそうだけど、私に知らせるほどのこと?」
「だから呼んだの。彼、あんたに惚れてるみたいだから」
「……」
思い当たる節はある。以前会った時もピンポイントでヤナセスイーツを訪れた。洋菓子店が数多くある中でわざわざヤナセスイーツを訪れるのが甚だ疑問だ。
かなり前から後をつけられているとすれば、次のターゲットは私かもしれないと凪は示唆している。
ブラックリストを更に捲ると、今度は虎沢君の情報が載っている。
『虎沢龍。1990年生まれ。小学校時代に傷害事件を起こして転校となった。この後も他の生徒とつるんでは非行を繰り返し、何人も病院送りにし、不登校児を量産している極悪非行少年。IQ128と高いが、人を甚振ることに能力を使っている。事件を起こしても処分されるどころか揉み消され、証言する者がいても警察は一切動かず、人に危害を加えても処分されない不自然さは非常にタチが悪いのだが、厄介なのは巨大グループに加え、有力な警察官にまで身内がいることだ。まさしく悪魔である』
権力を持ちながら転校するということは、後遺症が残るくらいの事件を起こした証拠だ。
被害者はどこかに醜状障害があるはず。見つけることができれば重要な証拠になるが、ここまで告発されていないということは、財力で揉み消したか、あるいは被害者自体を消したか。
いずれにせよ、流石はお兄ちゃんを不登校に追いやっただけのことはある。
1つ感謝するなら、早い段階で就職レールから外してくれたことだが、1つ嫌悪するなら、私たちの人生を大きく狂わせてしまったことだ。こんな人たちを野放しにしておけば、また誰かが苦しむ。
いくら学業や仕事が大事であったとしても、世の中には絶対に通学したり、社会に出たりしてはいけない人種がいる。本来特別な指導や支援が必要な部類の人を一般人と同列に扱った結果だ。教育側としては平等に扱っているつもりだろうが、平等と同列は全く意味が違う。
「この2人が要注意人物ってわけね」
「璃子ならとっくに警戒してると思うけど、生まれつきの身分が高いと、本来見えるはずのものが見えなくなって、まるで暴君のような人格になる場合があるの。虎沢君はあんたのお兄ちゃんに御礼参りがしたいみたいだし、璃子と璃子のお兄ちゃんが両方から狙われていることを考えれば、この2人を捕まえる絶好のチャンスなの。だから今後も、行動を共にさせてもらうね」
「囮に使うつもり?」
「囮ってほどじゃないけど、璃子と一緒にいれば、また会うかもしれないでしょ」
「私としては、こんな人たちと定期的に会うくらいなら、一生引きこもっていたいんだけど」
「気持ちは分かるけど、身近な理不尽を放置していたら、いつか自分の生活にも大きな災いをもたらすことになる。他人事だと思ったら負けなの」
凪は椅子から立ち上がり、初めて私と目を合わせた。
誰かが犯罪者を放置した結果、別の被害者が生まれ、それが自分や家族や友人だったならば、凪の説は正しいと言っていい。凪自身も犯罪に巻き込まれ、1人の恋人を失った。
何より凪の不機嫌な言葉からは私怨のようなものを感じる。
「3年前、例の女子を誘拐した犯人の1人が警察に捕まったの。でもその人は境界知能で、自分が何をしたのかも把握してなかった。誘拐した例の女子のことも、ロクに覚えてなかった。なのに……人の人生滅茶苦茶にしておいて……保護処分で済んでるの。今は釈放されてのうのうと暮らしてる。こんなことを言ったら怒られるけど、あたしは知的障害も境界知能も大嫌い。悪いことをした自覚もないし、反省もできないのに、大した罪に問われない。あんなのは特権を得た猿よ」
「言うねぇ~。まあ分からなくはないかな……」
私を殴っておいて咎められないなんて、とは思ったけど、きっと彼らも苦しんでいる。
非行は彼らなりの不器用なSOSとも言える。学業や人間関係で躓き、不良グループでの活動でしか成功体験を得られないために、受け子などの実行犯として、悪事へと手を染めてしまう。
無論、非行が許されるわけではない。反省はできなくとも、然るべき罰は受けてもらいたい。
サインならいくらでも出していた。もっと早い段階で気づき、適切な支援を受けさせるべきだった。犯罪者は不適切な教育から生まれる。これは知能指数に関係なく言える話である。
周囲から散々見下され、軽んじられている時点で、常に罰を受けているようなものだ。
凪もまた、過去に大きなトラウマを抱えていた。知性が欠如した人間から、意図せず迷惑をかけられたことで、脊髄反射で嫌悪するようになった。凪を擁護できる点があるとすれば、偏見を抜きにして考えても、やはり知的なハンデを抱えた人とは関わらない方がいいのかもしれない。IQに差があると話が通じないという話もある。意思疎通が困難で、私が荒井君と会話した時も、質問の答えが返ってこない光景には苛立ちすら覚えた。単純な知能の差ではない。根本的な生き方の差だ。
凪が落ち着いたところで、私はエンジェル・ウィングを去り、親戚の集会へと戻った。
疑われてもいいように買い物をしてから戻った。サイバーモールでチョコレートを買い、どれを買うかで迷っていたと言い訳できるが、聞いてくる者は1人もいない。
葉月家と楠木家はお節介焼きだが、無関心でいてほしいなら自然に振る舞うことだ。
柚子と視線が一致すると、柚子はにっこりと微笑み、私は隣に腰かけた。
「おかえり」
「ただいま」
「今年から中3だよね。もし気が変わって受験勉強するなら私に相談してね」
「ありがとう。でも受験はしないって決めてるから」
「今は大卒が必須条件の企業ばかりだよ」
「間に合ってる。就職なんてしたくないし、人間関係なしで済むのが、ショコラティエの特権だから」
「璃子って……段々あず君に似てきたね」
言われてみればそうだ。だが就職レール以外の道を見つけてしまった以上、行かずにはいられない。
凪のブラックリストを見て恐ろしくなった。社会に出ればあんな人たちと会うのだと思うと、足が竦んで動けない。誰にも関わらず、自己完結した仕事は限られている。
私のプランはこうだ。ショコラティエになって、チョコレート商品を製造し、人を雇って接客や販売をこなしてもらう。私は好きなように作るだけ。時折デザイナーズチョコレートを新商品として売ることで継続的に利益を出せるようになれば、ほとんど誰とも接することなく一生を終えることができる。
つき合いたい相手とだけつき合ったっていいじゃない。人間だもの。
「色々あってね。人間関係は疲れちゃうから」
「ふーん、じゃあちょっと聞かせてもらおうかな。ローカルアイドルの活動も気になるし、ショコラブリーのライブっていつ頃なの?」
「まだ分からないけど、当分は個人の活動が忙しくなるから、活動内容を縮小する予定」
「ねえねえ、凪ちゃんって彼氏とかいないの?」
「いない。アイドルは恋愛禁止だし」
「でも璃子は浅尾君とつき合ってるんでしょ?」
「仮交際だからいいの」
柚子の言葉は目が覚めるような一撃ばかりだ。
また胸が苦しくなる。凪はいつも異性愛前提の会話を余儀なくされていたんだ。それは多数派からの存在否定以外の何ものでもない。民主主義と言えば聞こえはいいが、実態は多数派による蹂躙だ。
凪自身はいつか公表すると言っていたが、いつになることやら。
あくまでも自分の身を守るための仮交際であることを説明する。
柚子はすぐに理解してくれたが、将棋教室を去った時、浅尾君を戦利品として奪い取ったと近所で専らの噂になっていたことを今になって知る。しばらく世間に触れない内に、事態はとんでもない方向へと進んでいた。迫り来る悪意が目と鼻の先にまで迫っていたのだ。
親戚の集会が終わり、お兄ちゃんと一緒に帰宅した時だった。
国道沿いの向かい側から工事の音が聞こえてくる。
「あれっ、何であんな所で工事してんだ?」
「大きい建物みたいだけど、門が大きいから飲食店かな」
「あんな城みたいな飲食店を建てられたら、目立ってしょうがねえや」
葉月珈琲の真向かいはテナント募集中で建物がなかった。
しかし、いつの間にか工事が進み、あと数ヵ月程度で完成と言える段階にまで達していた。
隠れ家カフェとして細々と過ごしてきた葉月珈琲にとっては未曾有のピンチだ。どこにでもあるような国道で、目立たないことだけがこの場所のメリットだったが、一瞬にしてぶち壊された思いだ。
自分のことだけ考えていたが、今は自分のことさえ考える余裕がない。
平和な日々を勝ち取るまで、長い道のりだった……。
読んでいただきありがとうございます。
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