恋人と喧嘩した。電話してもいつも留守電に切り変わるから、めいっぱい愛を囁いてやった
仕方のないことだと思う。
駅のロータリーで彼女に激怒されながら、俺は内心そんなことを考えていた。
俺・河内宏明には付き合って半年になる彼女がいる。
名前は舟山紫音。入学式の日に道に迷っていた彼女に声をかけたことで、交流が始まった。
紫音が言うに、皆が見て見ぬフリをする中で「大丈夫ですか?」と優しく声をかけた俺に一目惚れしたらしい。
かく言う俺も、「ありがとう!」と笑顔でお礼を言う彼女に一瞬で心を奪われたわけだが。
そんな俺たちはこの週末、デートをしようと約束していた。互いの観たい映画が同じで、だったら折角だし一緒に観ようということになったのだ。
朝一の上映回で観ようと話していたから、逆算して待ち合わせは午前9時に駅のロータリーで。しかし……
俺が駅に着いた時刻は、午前9時50分。約1時間の大遅刻だった。
「ねぇ、宏明。もうすぐ10時になっちゃうんですけど? とっくに映画が始まってるんですけど?」
スマホのロック画面で現在の時刻を俺に見せつけながら、紫音は言う。
一月の寒空の下で、小一時間も待たされたんだ。彼女が怒るのも無理はない。
「……ネットニュース見てないのかよ? 人身事故で電車が遅延しているんだよ」
「それなら私も知っているわ。でもね、駅まで徒歩で来た宏明が、どうして人身事故の影響を受けるのかしら?」
さり気なく誤魔化そうと思ったが、紫音にはまるで通用しなかった。
俺が一時間も遅刻したのは、何か特別な事情があったからじゃない。
道中で迷子の子供を見かけたわけでもなければ、他人の財布を拾って警察に届けていたわけでもない。勿論、人身事故の影響を受けたわけでも。
俺が遅刻した理由、それは……単なる寝坊だった。
7時に鳴るようセットしておいたアラームで起きることはなく、目を覚ましたのは待ち合わせ時間をとっくに過ぎた9時20分。
朝食も取らず急いで駅に来たものの、それでも大遅刻という結果は覆せなかった。
「あなたの遅刻のせいで、映画は次の上映回まで待つ羽目になる。予定が全部後ろ倒しになることについては、どう感じているのかしら?」
「それは……誠に申し訳ございません」
遅刻したことに関しては、100パーセント俺が悪い。だから言い訳もせず、ひたすら謝罪を続けた。
でも……遅刻の直接的要因となった寝坊に関しては、一概に俺だけが悪いと言うわけではなかった。
多少なりとは、紫音にも非がある筈だ。
デートに遅れてはいけないと思い、昨晩の俺は日付が変わる前に寝ようと考えていた。
ベッドに潜り、さあ眠ろうと目を閉じたその時……紫音から電話がかかってきた。
『ねぇ、聞いてよ! うちのお兄ちゃん、ホント信じられないんだけど!』
その一言から始まった紫音の兄に対する愚痴を、俺は延々と聞かされることとなった。
通話が終わったのは、午前3時。そこからようやく睡眠に入るわけだから、7時に起きられなくても仕方ないと思う。
寧ろ4時間程度の睡眠でここまで元気な紫音がおかしいくらいなのだ。
そんな事情など知らない紫音は、あたかも自分は悪くないと言うように俺を一方的に糾弾する。
その態度と物言いが、なんだか段々と苛ついてきた。
「大体寝坊って何よ? 大事な日の前は寝坊しないよう早く寝るとか、そういう工夫をするのが人として当たり前のことなんじゃないの?」
……ブチッ。
俺の中で、堪忍袋の緒が切れる音がした。
寝坊しないよう工夫して早く寝ようとしていたところに、電話をかけてきたのはどこのどいつだよ?
流石の俺も今回ばかりは「はいはい」と聞き流すことが出来なかった。
「……だろうが」
「えっ、何? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」
「だから、あんな時間にどうでも良い電話をかけてきたお前だって悪いだろうが!」
はっきり言えと言われたので、要望通りはっきり言ってやった。
突然声を荒げた俺に、周囲からの視線が集まる。
しかしこの時の俺と紫音には、周りなど見えていなかった。
「何よ、どうでも良い電話って! 彼女の悩みがどうでも良いっていうの!?」
「そうは言ってねーよ! ただ電話をするにも時間を考えろって言ってるんだ! 深夜に3時間も電話に付き合わせるとか、それこそ人として常識がなってないだろ!」
「自分のことを棚に上げて人に常識を諭すとか、恥ずかしくないの!? そういうところ、直した方が良いわよ!」
一頻り互いに不満をぶつけた後で、俺たちは「フンッ!」と顔を背け合う。
どうやらデートは中止。それどころか、破局の可能性まで芽生えてしまっている。
日曜日の喧嘩以降、俺と紫音は校内で会っても挨拶一つせず、口を利かない日々が続いていた。
◇
紫音と喧嘩して一週間、俺は未だに彼女と話せていない。
お互いに多少非があったことを自覚しつつも、それでも先に向こうから謝ってくるのが筋だろうと意固地になってしまい、依然冷戦状態が継続している。
紫音と恋人同士になって約半年、俺は毎日のように彼女と話をしていた。だから一週間も会話をしていない状況が続くと、流石に寂しくなってくる。
かといって仲直りしようと話しかけようにも、紫音の奴俺の顔を見るなり逃げ出すからな。
直接会って話せないのなら、仕方ない。ここは文明の力に頼るとしよう。俺は紫音に電話をかけることにした。
プルルルル、プルルルル。2コールでは、紫音は出ない。
……プルルルル、プルルルル。5コール目でも、紫音の声は聞こえない。もしかして、電話に気付いていないのか?
……プルルルル、プルルルル、プルルルル。15コール目に突入しても、結果は変わらなかった。
留守番電話に切り替わったので、俺は「ピーッ」という音がした後で、「折り返し電話してくれ」とメッセージを残す。
こうしておけば、都合の良いタイミングで紫音の方から電話をかけてくれるだろう。
あとは紫音からの着信を取りこぼさないように、注意していれば良いだけだ。
夜9時を回った。紫音からの電話は、まだない。
9時ともなれば、流石に帰宅している筈だ。
いつもの紫音なら既に入浴と夕食を済ませ、自室でスマホをいじったりテレビを見たりしている。彼氏なんだ、それくらいわかるさ。
だから紫音が留守電に気付いていないわけがなくて。……待っていても折り返しがこなさそうだし、もう一度俺の方からかけてみるか。
俺は改めて紫音に電話をかける。……またも電話は繋がらず、留守番電話に切り替わった。
ここまでくれば、いくらなんでも察しがつく。紫音は電話に出られないんじゃない。電話に出ないのだ。
電話口でさえ、俺の声を聞きたくない。そう考える程に、彼女は俺に激怒している。
こっちが譲歩して先に電話をかけたっていうのに、そういう態度を取るのかよ。良い度胸じゃねーか。
そっちがその気なら、俺にだって考えはある。
紫音に対抗して無視をし続ける? いいや、そんな子供みたいな真似はしない。
寧ろその逆。紫音が絶対に無視出来ないような状況を作り出して、何が何でも仲直りしてやる。
「ピーッ」というメッセージの後で、俺はまたもメッセージを残す。
折り返しお願いしますじゃなければ、ごめんなさいでもない。俺は留守番電話メッセージとして……ありったけの愛を吹き込んだ。
「紫音。俺はお前と出会って、毎日が楽しいんだ。付き合い始めた当初はお前と接する度にドキドキして、そのドキドキがなんとも言えないくらい嬉しくて。今はもう慣れたっていうか、昔ほどドキドキしなくなったけど、それ以上心地良い安らぎがある。だから……この一週間、お前と話せなくてなんだか心にぽっかり穴が空いたような気分になった。また前みたいに、仲の良いカップルに戻りたいよ。愛してるよ、紫音」
……言ってしまった。
恐らく告白した時以上に恥ずかしいセリフを、これまでかというくらい口にしてしまった。
面と向かってだったら、きっとこんなセリフ言えていない。顔が見えなくて一方的に喋るだけの留守番電話だからこそ、出来た所業だ。
さて。この留守電メッセージを聞いた紫音が、果たしてどんな反応を見せるのか?
明日の登校を楽しみにしながら、俺はベッドにダイブするのだった。
◇
翌朝。
俺は登校しながら、激しい後悔に襲われていた。
……留守番電話とはいえ、どうしてあんなこと言ってしまったんだろうか。
あの時の俺は、無視を続ける紫音に憤るあまり我を失っていた。
平常心を保っている俺なら、あんな恥ずかしいセリフ絶対に口にしない。
朝起きるなり、どれだけ身を悶えさせたことか。今日学校休みにならないかなと、何度願ったことか。
しかし世の中そんな都合の良くいかず、今日も今日とて学校はある。
しかもどんな偶然か、俺は紫音と下駄箱でばったり遭遇したのだ。
「紫音……」
「――っ」
紫音は俺と目を合わせるなり、上履きも履かずに走って下駄箱から立ち去っていく。
心なしか、彼女の顔が赤くなっていた気がした。
……今の紫音、昨日までの彼女と様子が違ったな。
俺を避けているという点では変わりないが、怒っているというより、顔を合わせるのを恥ずかしがっているような。
間違いない。紫音は俺が昨夜留守電に残した赤面必至メッセージを聞いている。
俺に「愛している」と言われたからこそ、顔を合わせることが出来ないくらい羞恥心に駆られているのだ。
……良いじゃないか。
いつも紫音に手のひらで踊らせている俺だが、今だけは違う。主導権は、俺にある。
これは使えるなと思った俺は、その日の夜も紫音に電話をかけることにした。
電話は案の定留守番電話に切り替わるが、それで良い。紫音と話すことではなく、留守番電話にメッセージを残すことこそ目的なのだから。
「紫音、結局今日もお前と話せなかったな。お前と言葉を交わせないってだけで、一日がこうもつまらないものになる。逆に言えば、紫音と話せさえすれば俺の一日は最高のものになるんだ。だから紫音、明日こそはお前と話がしたい。明日こそはこの最低につまらない日々から抜け出して、最高の一日にしたい」
そのまた翌日も、同じように留守番電話にメッセージを残した。
「今日昼休みに友達と、好きな女優について話したんだ。それそれが可愛いと思う女優の名前を挙げる中、俺は一人だけ答えることが出来なかった。何でかって? 俺にとってはどんな売れっ子女優よりも、紫音の方が魅力的だからだよ。世界で一番可愛いのは紫音で、世界で一番大好きなのは紫音で。そんな紫音の彼氏でいられる俺は、間違いなく世界一幸せな男だよ」
そのまた更に翌日も、俺は懲りずに留守番電話にメッセージを残した。
「紫音たーん! しゅきしゅき大しゅき! 紫音たんと愛を語り合えなくて、とーっても寂しいんだお。えーんえーん! 明日こそは紫音たんとイチャイチャしてラブラブしてチュッチュッしたいな。最後にもう一度。紫音たん大しゅきー!」
……最後のやつは、完全にやらかしたな。
深夜のテンションだったので、つい羽目を外してしまった。
◇
紫音と口を利かなくなって、半月が経過した。
ここまで長い喧嘩は初めてだ。もう紫音は俺に愛想を尽かしてしまったのではないかと、心配になってくる。
紫音への留守電大好きメッセージは、今なお継続していた。
彼女からの折り返し電話は来ていないが、顔を合わせれば赤面したりするわけだし、効果は着実に表れていた。
今日はどんな恥ずかしいセリフを言おうかな? 考えながら発信していると――8コール目で、なんと紫音が電話に出た。
『もしもし』
「えっ、あっ、紫音? 今夜は月が綺麗ですね」
まさか出るとは思わなかったので、つい窓の外から見える満月の話をしてしまった。
会話の引き出しの乏しいコミュ症が人と話す時、まず天気の話から入るだろう? そんな感じだ。
『いきなり愛してます宣言!? あなたに恥ずかしさってものはないの!?』
愛してます宣言? 一体何のことだ?
……あぁ。そういえば、夏目漱石は「I love you」をそうやって表現していたんだっけ。
全然頭になかった。完全に偶然というか、ミラクルだ。
「別に嘘は言っていないし、紫音を好きな気持ちを恥じるつもりもない。それより、ようやく電話に出てくれたな」
『あんな歯の浮くようなセリフを毎日聞いていたら、いつかは無視出来なくなるわよ』
「嫌だったか?」
『恥ずかしくて、死にたくなった。でも……嫌じゃなかった』
「嬉しかった?」
『嫌じゃなかったって、言ってるでしょ』
確かに嫌じゃないとは言ったが、それでは俺の質問に対する答えになっていない。俺は嬉しいかどうかを聞いたのだ。
「俺は嬉しかったのかを聞いているんだ。嫌かどうかを聞いたわけじゃない」
『それは……うっ、嬉しかったわよ!』
どうしよう。今すぐテレビ電話に切り替えたい。絶対今の紫音の顔って、茹で蛸みたいに真っ赤になっているよな。
「丁度電話が繋がっているわけだし、忘れない内に言っとくわ。あの時はごめんな」
『……あの時?』
「お前もしかして、喧嘩の原因忘れてんのかよ? あの時は遅刻して悪かったって言ってんだ」
『あぁ、そのこと。宏明の恥ずかしいセリフで頭がいっぱいになって、すっかり忘れていたわ』
「何? 俺のことで頭がいっぱいになっていたの?」
『そこ、ニヤニヤしない。あなたじゃなくて、あなたのセリフでね。全く、よくもまぁあんなセリフを平然と言えるものだわ。……あと私もごめんなさい』
紫音は最後にさり気なく付け足すように、すごい早口で謝罪を述べた。本当、素直じゃない女だよ。
でもそんな彼女のことが、俺は大好きなのだ。
「なぁ、紫音。留守電に残したようなメッセージ、直接聞きたいと思わねーか?」
『絶対に嫌。留守電ですら恥ずかしくて死にそうなのに、目の前で言われたら即死確定じゃない』
「チッ、何だよ。折角デートの約束を取り付けようとしたのに」
『別に愛の言葉を言わなくたって、デートなら出来るわよ。例えば、そうねぇ……この前見損ねた映画がまだ上映されているみたいなんだけど、一緒にどう?』
……成る程、それは悪くない。
話し合いの結果、今度の週末にデートをすることになった。半月前のデートのやり直しだ。
『それじゃあ、日曜日。楽しみにしてるわね』
そう言って、紫音は電話を切る。
「もう喧嘩するのは懲り懲りだからな。日曜日は、遅刻しないようにしないと。……ん?」
そういえば一番重要な集合時間を聞きそびれたので、俺は再度電話をかけ直した。
席を外しているのか、電話は繋がらず。懐かしの留守番電話に切り替わる。
「ピーッ」という音を確認した俺は、集合時間を聞くのではなく――「大好きだよ」と、甘い一言を残すのだった。