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女は全てを許さない

作者: 村岡みのり

 その日、迎えに来てくれた婚約者、デネル様の様子はどこかおかしかった。

 具体的になにかと問われると答えに迷うが、長年の付き合いだから分かる、些細な変化。違和感。そういったものを感じたので、尋ねた。


「なにかありましたか? お体の調子が悪いように見えます」

「……いえ……。ただルル殿、どうかこれまでの私を信用してほしい。けしてそれを、忘れないでもらいたい」

「はあ……」


 説明してもらえないが、なにかが彼の身に起きたのは確かなようだ。これまでの自分を信用してほしいとは、どういう意味だろう。それを尋ねたくても、それ以上の質問は受け付けない。無言だが、彼をまとう空気がそう物語っていた。

 この時の会話を二人きりの場ではなく、お父様も同席する場で行っていたら……。私の未来は、違うものになっていたのかもしれない。



◇◇◇◇◇



 招待してくれた主催者に挨拶し、各方面の皆さまにも挨拶をすませると、デネル様は上司に声をかけられ離れた。その間に私も友人と会話を交わし、過ごす時間を楽しんでいた。


「……あ」


 ホールに目を向けた一人の友人が、ふと漏らした声で振り向くと、驚き私の目は大きく開かれた。

 まだ私と踊ってもいないのに、デネル様がとある令嬢とダンスを踊っているではないか。彼は時おりなにか彼女の耳元で囁き、それを受けた彼女が微笑む。その親しげな様子に、手からグラスが落ち、割れた音で我に返る。


 気がつけば周囲の人から視線を向けられていた。それはグラスを割ったから? それとも婚約者に放っておかれている、哀れな女と見ているから?

 動揺していると、一人の友人が思わず知らず、ぽつり、漏らす。


「……あの噂、本当だったのね」

「噂?」

「その話は……!」


 私と別の友人の声が重なる。

 数人気まずそうに目を伏せたりし、視線を合わせようとしてくれない。他の皆は意味が分からないのかきょとんとしたり、不安そうにおろおろとしたり、彼女たちへ視線を送ったりと様々な反応を見せる。

 これはなにかある。確信をもって問いかける。


「お願い、教えてちょうだい。噂って、なに?」

「私が教えて差し上げましょう」


 そう言いながら、新たなグラスを私に差し出してきたのは、王子の友人であるロン様だった。


「ロン様、その話は……!」


 友人が声をあげるが、踊るデネル様へとロン様は視線を向ける。


「直にご覧になられたのだ。教えてもらえず、やきもきさせるより、思い切って伝えるのも優しさだ」


 なにかを知っている友人たちは俯いた。知らぬ私たちはロン様へ注目し、割れたグラスを片付けられている横で、新たなグラスを受け取る。


「それで? 噂とは、どういう内容なのでしょう」

「ご覧の通りです。貴女の婚約者であるデネル殿が、心変わりをされたという話ですよ。近頃の彼はダンスのお相手である、あちらのご令嬢に入れこんでいると。なんでも二人で市井を出かけたりしている場面も、幾度と目撃されているとね」


 そう言うと、ロン様はご自分のグラスに口をつける。その優雅な所作を見ながら、引きつった笑みを浮かべる。


「そんな……。あの方が……」


 真面目。その言葉が似合う彼が、私を裏切るような行為など……。でも、今まさにホールで……。それは真面目と言える? 不誠実ではなくて? グラスの中の液体が揺れる。


「結婚前に本性が分かり、良かったではありませんか。どうでしょう、ルル殿。今夜は、よろしければこの私が慰め……」

「お止めになって下さい!」


 腰に回されたロン様の手を音をたて、強く払いのける。


「貴方こそ、なにをお考えですか! 私はデネル様と婚約をしております! このような人前で、婚約者のいる女性につけこむように誘い、振舞うなど、紳士として恥ずべき行為です!」


 目上の者に対し不躾だと、友人たちが顔を青ざめるが気にしなかった。それはロン様も同じらしく、不問の態度を見せる。


「確かに不謹慎でしたね。では、また」


 グラスを持ったまま両手をあげ、降参のように表現すると、その場を去った。


 あの男に一瞬でも触れられた腰の辺りが気持ち悪い。渡されたグラスにも手をつける気になれず新しいグラスと交換し、それをあおった。


 これまであの男が熱を持った嫌らしい目で、全身を舐めるように見ていることには気がついている。そのたび、嫌悪感を抱く。

 それでも我慢し会話を交わし、ダンスに誘われたこともある。身分や立場から断れず、何度か躍ったことはある。それなのに、このような場で……! 友人や周囲に大勢がいる場で、断りもなく腰に手を回すなど……!

 なんて男! なんて男‼ ああ、気持ち悪い! おぞましい‼

 このような辱めを受けているのに、守ってくれるはずの婚約者は他の女とダンスに夢中で、私を気にかけている素振りがない。


 惨めだった。

 流しこんだグラスの中身は、ただ苦かった。



◇◇◇◇◇



 デネル様が他の女性に入れこんでいるという話は、お父様の耳にも届いた。


「あの真面目な男が、信じられん」


 お父様も実際その場を目撃しても、すぐには信じられなかったようだ。彼は軍に所属しているので、なにか密命で動いているのではないか。当初、お父様もその可能性を捨てていなかった。しかし令嬢に近づく密命とはなにか。私たち親子には、その答えなど分かるはずもなかった。

 お父様は何度もデネル様の実家へ通い、説明を求めた。私もデネル様に、それとなく令嬢とのことを尋ねたが、いつも言葉を濁され、憂い(うれい)は晴れなかった。


 すでに社交界では、デネル様の心が私から離れ、あの令嬢へ執心していると周知のように話題となっている。それほど二人の距離は近く、デネル様が微笑み、甘い言葉を囁く場面も多く目撃され……。彼女もまた、それを受け入れていると。

 あの令嬢も令嬢だ。デネル様に私という婚約者がいると知りながら、なんて女……! はしたない、汚らわしい!


 今日もひそひそ。周りから好奇の眼差しを向けられ、会話されている……。

 暗い色で、心が染められていく。

 それなのに、またあの男が話しかけてくる。ああ、嫌だ。なにもかも嫌だ。好奇の的になり、愛する人に棄てられるのも時間の問題だと噂され……。惨めな立場に追いやられた上に、嫌悪する男が近づいてくる。


「困りましたね。彼は貴女のことなど、少しも心配していないようだ。皆から噂話の的にされているのに、全く気にかけていない」

「……なにをおっしゃりたいのですか、ロン様」


 どろどろとした感情に、さらに苛つきが加わる。なにもかも嫌で、今にも叫びたい衝動を堪える。


「私なら、貴女になにがあろうとお守りするということですよ」


 その日の彼は積極的だった。強い力で腰に手を回すと、自分の元へ引き寄せる。


「お止めになって!」


 叫んでも力を緩めず、無視される。むしろ自分の胸へ私を押し当て、耳元で囁くように言われる。


「本当にデネルでよろしいのですか? 貴女を放って、他の女性にいれこみ……。ご存知ですか? すでに彼は、彼女の家にも頻繁に訪れていると。つまり彼女の親から、公認の仲と認められているということですよ。貴女との関係が壊れるのも時間の問題ということだ」


 粘りのある声、その内容に怒りで顔が赤くなる。

 私だけではない。愛するデネル様を侮辱する発言、私たちの仲を否定する言葉。触れられたくない話題。この男のあらゆる言動が、我慢ならなかった。


「……お放し下さい」

「ん?」

「お放しなさいと言っているのです」


 睨みつけながら言う。


「いくら貴方様が王子の友人である公爵家の嫡男とはいえ、婚約者のいる女性に対し、なんと不作法な! 恥を知りなさい!」

「こ、これ! ルル! お前こそ、なんてことを……!」


 友人の誰かが教えたのか、慌てて駆けつけてきたお父様の顔は青かった。一瞬力が抜けたので、急いで助けを求めるよう抜けると、お父様の胸に飛びこむ。


「いいえ、いいえ、お父様。婚約者がいる身でありながら、他の男性と疑われるような行為を私が行うとでも? あの御方は、私をふしだらな女だと周りに見せるような言動を取られました。身分など関係ありません。権力を振りかざし、欲のためだけに行動するのは、貴族の矜持を棄てた、ただの醜い生き物の行為です」

「ルル! ロン殿に対し、言いすぎだ! お前こそ、貴族の矜持を忘れたのか!」

「ではお父様は、私に男性なら誰でも構わない。そんなふしだらな女になれと、そう周りから見られろと、そうおっしゃるのですか?」

「そういうことではなく……っ」


 なにごとかと、周囲がざわめき始める。

 それでも私を見る男は、少しも動揺がなく、むしろどこか愉快そうな顔を作っている。そのことが、またひどく腹立たしい。


「どうした、ロン。なにかあったのか」


 騒ぎを聞き登場したのは、男の友人である王子だった。


「いえ、王子。ルル嬢が、誤解をされているだけです」

「誤解?」

「はい。私は婚約者を放って他の女性と親しくしている男と結婚しても、幸せになれるのか、そう質問しただけです。それをルル嬢がうがった捉え方をし、騒いでいるだけですよ」


 肩をすくめ、おどけたように答える、

 その発言。大勢の人が注目する中で、デネル様の品位を貶める内容でますます怒りが湧く。また私にも対し、皆へ誤った認識を与えるようなことを……! どうして許せよう。


 私は不安や疑いを抱きながら、まだデネル様を信じようとしている。彼自身からも、これまでの自分を信じてほしいと言われているから。だからきっと、あの令嬢と親しくしているのは、今は言えないけれど裏があるのだと。

 私はこれまで信じていたデネル様を、信じればいい。だけど……。

 限界があるのよ……。信じたいのに、信じると思っているのに……。周りが……。なにより貴方自身が、私を揺らがせる。


 ほら、この騒ぎを見ている方々が、確かにと頷いたり、最近のデネル様の行動は目に余ると言ったりし……。それは今までのデネル様を否定する言葉ばかり。

 お願いよ。どうかこれ以上、あの人を疑わせることを言わないで。私の彼を信じる心に、すき間を与えないで。


 怒り、悲しみ、疑心。あらゆる負と呼べる感情の波に飲みこまれそうになる中、必死にお父様の胸の中で耐える。


「デネル殿は、真実の愛に目覚められたのかもしれぬな」


 誰かの言葉に体が強張る。


 いいえ、いいえ。そんなことはない。デネル様は信じてほしいと言った。それを私が疑ってどうするの。でもそうやって己に言い聞かせる時点で、デネル様に対し疑いを持ち始めているのでは? いいえ、いいえ、そんなことはない。そんな、疑うなんて……。私は……。


 私の本心は、どこ……?


 ずるり……。

 はしたなくもお父様の体から滑り落ちるよう、床に膝をつく。


「ルル!」


 ああ、分からない。なにも分からない。なにを信じればいいの? なにが真実なの? 私を見下ろしている、この男が余計なことを言わなければ、こんなに苦しむことはなかったのに……!


 帰宅すればお父様は不機嫌そうに肘掛け椅子に座り、両腕を預けると荒々しい口調で酒を頼む。


「全く……。これも全てデネルが、あの令嬢と誤解を招くほど親しくしているからだ。私も今夜それで、様々な方から笑い者にされた。私だけでなく、娘まで馬鹿にして……! あいつらときたら……!」


 お父様は運ばれてきたお酒を一気に飲み干す。それはお母様も同じだった。酒のせいか、怒りからか、顔を赤らめ吐き捨てるように言う。


「私はルルの婚約者を、デネル様からロン様にされてはと言われましたわ。ロン様の方が誠実だと。あんな人目のある場所で、突然特別な間柄でない女性の腰を引き寄せるような男が、誠実だと! 皆様の目は節穴なのかしら! 爵位で品位は測れないというのに! ご自分の娘が同じことをされたら、どう思うのか考えてほしいものだわ!」

「お母様……」


 嬉しくなり、ついお母様の片手を握ると、お母様はさらに手を被せてきた。


「安心なさい、ルル。お母様は分かっていましてよ? あの公爵家の嫡男が、以前よりお前を狙っていることは。嫌らしい目つきでお前の全身を眺め……。まるで舌なめずりをしているようで、気色の悪い男だということも」

「ええ、ずっとあの人が私を欲していることには気がついておりました。だけどこれまではデネル様が誠実だったからこそ、あの人も手出しはできませんでした。私自身、あの人には嫌悪感しか抱いておりません。だけど最近のデネル様の振舞いにより、積極的に絡んでこられ……」


 ことん。二杯目のグラスをテーブルに置く音が響く。


「……明日、デネルの実家へ向かう。そこでもう一度、説明を求める。納得のいく回答が得られなかったら、婚約解消を提案する。そうすれば、少しは態度を改めてくれるだろう」

「お父様、上手くいくかしら。もし失敗すれば……」

「お前たちには悪いが、私はもうデネルを信用していないのだよ。大事な娘を、婚前から公然と浮気をするような不真面目な男と結婚させるのは、不安でしかない。そういう意味では他の方と同意見で、まだロン殿の方がましだ。ロン殿はルルにしか夢中になっていない」

「あなた、なんていうことを! ルルの気持ちを聞きながら……! なによりあのような男との結婚なんて、この私は認めませんよ!」


 酒の入った両親の言い争いが始まった。

 幼子のようにうずくまり、両耳を塞ぎたかった。だけど意外にも両親の叫びは耳を素通りし、なによりデネル様と婚約緩解が解消されるかもしれない。そのことに怯えていた。

 確かに今はあの令嬢と親しくされている。けれど結婚すれば、きっと以前のように、誠実に私だけを見つめて下さるはず……。それなのに婚約が解消されれば、その可能性すらなくなる。彼との結婚を夢見ていたのに、どうしてお父様は自分の考えだけで、勝手に話を進めるの? 私は婚約解消を望んでいないのに……。


 翌日、願いはむなしく、霧散した。

 私とデネル様は、他人になってしまった。

 納得のいく回答はなかったからと、お父様が勝手に決めてしまった。そのことが悲しく、あっさり受け入れたデネル様の実家が憎かった。

 信じてほしいと言ったのは嘘だったの? 嘘でなければ、なぜ婚約関係を解消したの? 信じてほしいのなら、それ相応の姿勢を見せてほしかった。


 もちろんお母様は憤慨した。


「今はまだ説明できないということは、やはり理由あってのことではありませんか! それを貴方という人は、なんと浅はかな……!」

「毎日のように、我が家がどれだけ馬鹿にされているのか考えろ。これも全て、あの家が不誠実だからだろう? 少しはあの令嬢との関係を改めると約束してくれれば、私も考慮した。だがついぞ、そんな言葉は出なかった。どう信用しろと言うのだ」

「まあ、なんと頭の硬いことでしょう! あの家の殿方は全員、軍へ所属されているのですよ? 密命を受ければ、いくら家族や婚約者など親しい間柄とはいえ、打ち明けることはできません。私たちはただ、これまでのデネル様から、彼を信じれば良かったのです」


 どちらも主張を通すよう強く言い返し、治まりそうにない両親のやり取りを黙って聞く。


「では、ひたすら耐えろと言うのか? いつまで私たちが我慢すればいい。散々馬鹿にされ、笑われ……! そもそも本当に密命で動いてのことなのか? あんな真面目という言葉が擬人化したような男が、あそこまで入れこんでいるのだぞ? 本気である可能性が高いではないか!」


 お父様の言葉が、心を貫いた。


 お母様が一晩付き添い、慰めてくれる。泣いて止んでも、また涙は流れる。その繰り返しで一夜を明かした。


 デネル様との縁が切れてしまった。愛する方との縁が切れてしまった。そんな決断を下したお父様が、恨めしかった。

 そして、お父様が言った『本気』という言葉を否定できない己にも、嫌気がさした。



◇◇◇◇◇



「ロン殿から求婚があり、受け入れた」


 そうお父様から告げられ、目眩がした。ついに……。ついに恐れていたことが……。あんな男と、夫婦に……?


「あなた、あれほど私はルルとあの男との結婚に、反対していると言ったではありませんか」

「そうは言っても、公爵家の嫡男。加えて王子の友人であり、側近でもある。これ以上、好条件の男がいるか? しかもルルは一度、婚約が解消した身。下手をすれば誰からも求婚されず、未婚のまま生涯を終える可能性もあるのだぞ?」

「婚約解消を決めたのは、あなたでしょう? さてはロン様から求婚されると計算し、それで安心してデネル様との婚約を解消したのですね? 好条件? いますとも、純粋にルルを愛する男性が。その方からの申し出を待てばよいのです」

「好条件? 誰のことだ?」

「デネル様ですとも」


 お母様はいまだ、デネル様との復縁を諦めていない。だけど無理なことは、私にも分かっている。デネル様は婚約が解消された途端、枷が外れたように、ますます令嬢との親しげな仲を周りに見せつけるよう動いている。


『これまでの自分を信じてほしい』


 あの日、そう言われたけれど、二人を見かけるたび、本当にデネル様が令嬢を愛しているようにしか思えない。

 でも時おり、まるで歪みに苦しまれているようにも見える。一体どちらが本当のデネル様なのか、分からなくなっていた。お母様に申し訳なく打ち明けられないが、私自身、この時点では疑いの気持ちの方が上回っていた。お父様のように、信頼が薄れつつあった。


「馬鹿を言うな。今やデネルは堂々とあの令嬢と一緒にパーティーへ出席し、共に行動し、常につかず離れず。お似合いだとまで言われているのだぞ?」

「馬鹿を言っているのは、あなた様ですよ? お似合いだと言い始めたのこそ、ロン様だと一部の婦人方の間では有名ですとも。あの男、ルルを手に入れるため、きっとデネル様をはめたに違いありません! まったく……。まんまと策略にはまって困った人だこと」


 両親は強い言い争いを始め、私も黙ってそれを聞いている様は、あの晩となんら変わらない。


「馬鹿を言っているのは、お前だ。大体ロン殿がデネルと会話を交わしている場面など、男連中はほとんど知らんぞ。会話を交わさない相手を、どうやってはめると言うのだ」

「話になりませんわね。会話など交わさなくても、やりようはいくらでもあるというのに。あなたもこういう世界で生きながら、それを見抜けないとは……。殿方というのは本当、どうしてこうも……。それとも逃避されているのかしら。頭が痛いわ」


 結局お母様が反対したまま、当主であるお父様の権限によりロン様との婚約を強行された。そこから結婚は驚くべく早さで執り行われ、お母様は結婚式当日になっても、祝福の言葉を口にしなかった。


 嫌いな男との結婚と思えば苦痛だが、実家にとってはこれ以上ない良縁であることに間違いない。これから家を継ぐ弟、実家やその治める領にとって、有利な未来に繋がる政略結婚。多くの女性も同じ思いをしているからと、受け入れることにした。


 公爵家の一員となれば、やることも覚えることも多く、夫婦関係を築くより、夫人としての立ち振る舞いを義母から教わることで精一杯だった。疲労した体で夜、夫から求められても終えて眠りたいと思うばかりで、一日でも早く妊娠をしたかった。


 幸せといえない日々を送っている中、デネル様が都を去り、あの令嬢の実家が王の怒りを買い、取り潰されたと耳にした。


「最近、あの人の様子が変でね」


 妊娠の報告で実家へ顔を覗かせた時、沈んだ顔でお母様が切り出した。


「訳を聞いても教えてくれないのよ。ただ自分は節穴だったとか、やたら懺悔の言葉を口にして……。それに足しげく教会へ通い、話を聞いてもらっているようで……」

「お父様が? なにかあったのかしら」


 お母様にも言わないとは、よほどのことだろうと思った。

 結局お父様は死ぬまで、その訳を家族に話さなかった。ただ手紙を遺していた。


 その手紙にはデネル様が王子から密命を受け、他国へ我が国の機密情報を流していると疑いのある、あの令嬢の家から証拠を見つけるため、令嬢へ近づいていたという真実が書かれていた。王の怒りではない。あの一族は、国家反逆罪で処刑されていた。それを表向き、王の怒りと理由をつけたのは、夫の主人である王子だったとも記されていた。当時、その事実は国家の恥だから公開せぬよう、言いつかったとも。

 だから余計にお父様は苦しんだのだろう。


 手紙にはひたすら、妻の言う通りだった。信じれば良かった。娘に悪いことをしてしまった。すまない、すまない。全て王子たちの企みだった。ロンがルルを欲しがっていたから。あの頃はデネルより、ロンと結婚すれば幸せになると思っていた。デネルが不誠実な男になったと思いこんでしまった。すまない、すまない。謝罪の言葉が並んでいた。


「だから……。だから、言ったではありませんか……!」


 花を掴むと、お母様は棺に横たわるお父様の亡骸へ、叩きつけるよう投げる。


「それをあなたという人は……! なぜ分かった時点で……! 言いにくかったことは分かります! だけど私たち……。夫婦だったではありませんか……‼」


 投げることを止め、お母様は泣き崩れた。


 幸か不幸か、外交へ出かけた王子の共で夫は留守にしていた。その間に私は夫の書斎を漁り、お父様の手紙の裏付けを探した。残念ながらそれは見当たらなかったが、現在デネル様がどこに住んでいるのか。私と連絡を取り合っていないか。そういった調査報告書は見つかった。


「私たちを監視しているの⁉」


 子どもたちを乳母たちに預け、夫が帰宅したら書斎へ来るよう伝えるよう、使用人に命令した。夫は私の愛を求めているからか、言うこと聞く。だからどんなに疲れていても、書斎に来ると確信していた。予想通り、夫は来た。


「ただいま、ルル。すまなかったね、大変な時に留守をして。お父上の葬儀は無事、済んだかい?」

「無事? いいえ、とんでもございません。お父様が手紙を遺されており、その内容にお母様は泣き崩れました」

「なんだ。隠し子でもいたとか?」


 笑うその顔に、お父様の手紙と報告書を叩きつければ、音をたて、書類が部屋を舞う。


「この卑怯者! 私を手に入れるため、わざと真面目なデネル様をあの令嬢へ近づけさせたなんて……! お父様はまんまと引っかかり、貴方の願いは叶った訳ね! でも私は貴方との結婚など、嫌だったのよ! 貴方が嫌いだったから! 婚約前もやたら勝手に触れ、ふしだらな女だと周りに思わせたのは、他の男をけん制していたつもり⁉ いつも嫌らしい目で見ていたわね! 気持ち悪くて仕方なかったわ!」

「な……。こ、これ……。読んだのか⁉」


 床に散った紙を拾い、目を通すと夫は慌てる。


「読んだから、どうかして? お笑い種だこと。今も私がデネル様と寄りを戻さないか、不安でたまらないのね。そうよね、貴方は分かっている。私がちっとも貴方を愛していないと。むしろ嫌っていると。だからそんな貴方との間の子どもにも、愛情を抱いていないと。いつ私が事実を知り、デネル様の元へ走るのか、毎日心配でたまらないのでしょうね。でもそんな生活を手に入れたがったのは、貴方。良かったですわね、望みが叶って!」

「私は本気で君を愛して……! だからどうしても、私自身の手で、君を幸せにしたかったんだ! デネルなんかに渡したくなかった! 私ほど裕福で君を愛し、幸せにできる男は、この世にいない!」

「ご冗談を!」


 あまりの滑稽(こっけい)さに笑う。

 お金なんかで人の心は買えぬというのに。そんな単純なことを理解していないとは。


「私が貴方と婚約してから、少しでも幸せそうにしていましたか? デネル様と過ごしていた時のように、笑ったりしていましたか? ほら、心当たりがない。つまり貴方は、私を不幸にしかしていない。子どもを二人産んだ。しかもどちらも男の子。もう十分でしょう? 私の幸せを願うのなら、もう私を求めないで下さいな。本当、笑えますね。私を幸せにといいながら、貴方、少しの自信もお持ちでない。だから今でもデネル様の動向を気にかけている。貴方はずっと昔から、デネル様に負けたままなのよ!」


 言い終えると弁明するロンを無視し、書斎を出る。

 子ども達が寝ている部屋に行けば、あの男も追ってはこないはず。寝ている子どもの前で、騒ぐほど馬鹿ではないだろう。

 朝早く、デネル様のもとへ向かうため、まずは実家へ行きお母様に事情を話した。その上で馬車と御者をお借りする。


 彼に会ってどうするのか、決めてはいない。ただお父様の非礼を詫び、私自身疑っていたことを謝り、そして……。

 そして? 私はどうしたいのかしら。これからはデネル様と共に歩みたい? 昔、夢見ていたことを実現したい?


 答えが出ないまま、その村へ着いた。


 村の片隅で、デネル様が一人の少年と、楽しそうに過ごしている姿を見つける。

 不慣れながらも真面目に木刀を振る少年へ、どうやらデネル様が剣術を指導しているようだ。けれど二人の間に流れる空気は、師弟以上の仲だと伝わってきた。

 少年がなにか成功したのか、顔を輝かせ木刀を持ったまま万歳をすれば、デネル様は笑って少年の頭を撫でる。それを受け、少年の嬉しそうに、くすぐったそうに顔が綻び(ほころび)る。


 馬車の中で、震える両手を胸の前で握り、俯く。


「……どういうこと?」


 かすれた声が漏れる。


 デネル様はとても幸せそう。まるであの過去がなかったかのように。自由で、しがらみなく、人生を謳歌されているよう。

 ……ああ、なるほど。


「……ここへ、逃げてきたのね」


 吐き出した声には、自分でも驚くほど憎しみがこもっていた。

 戦うことを放棄し、奪い返すこともせず、誰にも釈明せずこの村へ逃げて幸せな日々を送っていると。そういうことなのね。私が嫌いな男と結婚し抱かれている間。貴方は一人、この村で幸せに暮らしていたと。そういうことなのね。


 ……来るのが間違いだった。


 この時になり、ようやく今もデネル様が私だけを思い、嘆き暮らしていることを望んでいたと気がつく。

 ああ、そうか……。私は、デネル様にさらってもらい、助けてくれることを、どこかで願っていたのか。疑ったのに、信用が薄れたのに、なんと私は……。


 身勝手なのか。


「……似た物夫婦ね」


 自虐的に笑い、御者へ指示を出す。

 結局デネル様に会わず帰宅すれば、使用人たちが慌てて出迎えてきた。


「夫と喧嘩し、旅に出ていただけです。何日も無断外泊し、心配をかけましたね。子ども達は大事ないかしら」

「は、はい、若奥様」

「それから不在の間、領から大事な連絡などなかった? 私が目を通すべき案件などないかしら。ご夫人方から、お誘いなどあって?」

「ございましたが、奥様が対応されました」

「そう、後でお礼と謝罪に伺うと伝えてちょうだい。先に着替えてきます」


 デネル様を信じず、妻の言葉に耳を傾けず、後悔の念を抱き亡くなったお父様。

 戦うことを止め、諦め、捨てて逃げて幸せになったデネル様。

 私の幸せと言いながら、結局は己の欲を優先させてばかりの夫。

 男って、どうして身勝手な生き物なのかしら。自分が可愛くて仕方のない、まるで子どもみたいで、自分のわがままばかり。少しは女のように、我慢を覚えたらどうかしら。


 私はもう、男に期待をしない。愛さない。


 だけど彼らと同じように、私も愚かな子どもだった。いつまでも昔にしがみつき、あの人も私と同じ思いで暮らしていると、身勝手に願っていた。だからあの人に、さらってほしかった。


 髪をきつく結ってもらい、背筋を伸ばし義母のもとへ向かう。


「長らく無断で留守にし、大変申し訳ございませんでした。改めて本日より、よろしくお願いいたします」


 義母に深く礼をし、詫びる。


「なにかあったのかしら、雰囲気が変わりましたね」

「人生の転換、でございましょうか」


 義母は深く追求してこなかった。きっと息子の行いを私が知ったと、気がついたのだろう。それとも息子から打ち明けられたのかしら。とにかく息子のわがままを止められなかった罪悪感を持っているからか、責めてこなかった。

 数日後、帰宅した夫は泣いて土下座し謝ってきたが、私は冷えた心でその頭を見下ろしていた。


「頭を上げて下さいな」


 涙と鼻水で濡れ、なんとみっともない顔なのかしら。直視に耐えないまま、無表情で告げる。


「これからも公爵家を盛り上げ、お国のため、領民のために頑張りましょう。それが私たち夫婦の役割です」


 私は一生、彼らを許さない。自分を許さない。

 男には期待しない。

 真実を見極めない。大事な場面で逃げる。そもそも本質が分からないような奴らに、どうして期待できよう。

 私は生まれ変わり、次の公爵家夫人とし、お国のため、領のため残りの人生を捧げる。

 男どもだけに任せていては、滅んでしまうから。



◇◇◇◇◇



 あれから何年かしら。

 結局私の心を手に入れられないと観念した夫は、愛人を作った。ほら、ご覧なさい。無理やり手に入れても、結局はこれ。どうせあの人のことだから、それを言えば、君が私を愛さないからだとか、向き合ってくれないからだとか、とにかく言い訳しかしないでしょう。そもそも自分の撒いた種の結果だというのに。

 私にしてみると、愛人を作ってくれて構わない。むしろ嫌いな夫の相手をしてくれる愛人には、感謝している。


 子ども達は乳母たちに任せ、成長している。二人とも顔が夫に似ており、その顔を見ていたら時々無性に腹がたち、ついきつい口調で接してしまうことが多い。

 母親として失格者だと自覚している。だけど、どうしても……。顔があの男と重なり、無理なのだ。いつかは声も似るだろうと考えると、寒気がする。


「あら」


 馬車を走らせている最中、窓の向こうに剣を下げた青年を見かけた。


「お母様、どうかなさいましたか」


 同車している長男が尋ねてくる。冷え切った夫婦の子どもだからか、この子は無表情で、なにを考えているのか分からない、感情に乏しい子に育った。


「どこか見覚えのある青年だと思って」


 窓の向こうを見たまま答える。これくらいの会話なら、子ども達とは交わしている。夫とは、事務的な会話しか交わさない。思えばあの外交から帰宅した晩だけが、唯一、夫婦として接した場面かもしれない。

 そして夫と子ども以外の前では、社交的に振舞えている。家族関係だけが、上手に回っていない。


「あそこは……。ギルドの拠点ですね。ギルドの一員でしょうか」

「ええ、あそこは我が公爵家とは無縁ですが、最近優秀な青年が入り、軍が引き抜こうとした者がいるとか……」

「聞いています。断ったとも」


 あのギルドの本部は、デネル様の実家の領内に設置されている。


 ふと、あの時デネル様と一緒にいた少年を思い出した。もう顔はおぼろげだけど、成長すればあの青年の年頃くらいかしら。

 窓から目を離し、そっと閉じる。


 ……デネル様、か。


 結局私はこんな人生を歩んでいるけれど、あの方は……。今ごろどうされているのかしら。幸せなのかしら。少しは私を思い出し、気にかけてくれる時があるのかしら。

 ……もしもあの時、私が馬車から飛び出し、連れて逃げてと言えば、どうしてくれたかしら。助けてくれた?

 憎んでいるのに、こうやって時たま、もしもを考えてしまう。考えても詮無いことなのに……。それでも長い期間、幸せになれると見ていた若い頃の夢を、捨てられない。結局私はいつまでも、大人ぶった子どものまま。

 あの青年が、なぜか余計に昔の私の心を甦らせた。捨てたい過去を、思いを。


「……母上がそのような顔とは、珍しいですね」


 瞼を開ける。


「どういう意味かしら」

「そんなにあの青年が気になりましたか?」


 珍しく、探るような目を向けてくる。

 息子とはいえ、その顔で向けられるそのような視線に、すっと心が冷える。


「忘れたい過去を思い出した。それだけのことよ」

「そうですか」


 息子はそれだけ言うと、窓の向こうへ視線を向ける。


 お母様のように、私は子どもたちのことを一番に考え、愛し、幸せにしてあげたいとは言えない。

 公爵家を安泰に守れれば。それを基準に、息子たちの婚約者は決めた。子ども達は受け入れてくれたが、結局私もお父様と同じで、子どもに詫びるような結婚を押しつただけなのかもしれない。


 娘だったら、違っていたのかしら……。


 ……この子はせめて婚約者の前でくらい、昔の私のように、感情豊かに動いているのかしら。


 間違えたのは夫だけではない。私も同じ。

 過ちには気がついている。けれどいつまでも子どもの気持ちが抜けず、この子たちと向き合えないまま、毎日を過ごしている。


「……こんな母親で、ごめんなさいね」

「え?」


 小さな声は届いたのか、分からない。

 ほんの少し笑みを浮かべ、ただの独り言だと伝えた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 屑王子と屑間男の勝ちで、ヒロインの一人負けかよ 胸糞悪いな
2021/09/28 21:58 退会済み
管理
[良い点] 前作からくる印象とはだいぶ違いましたね。 でも死亡エンドのほうが前の印象のままの被害者な綺麗なヒロインという感じになったでしょうが、泥臭くてこれはこれで普通の人間という感じで好きですね。 …
[一言] つまりは、王家(王子)の命令に従うと、婚約者が寝取られる事態になると言うことだな。確かに国の恥だわな。 王国としても必死に隠さざるを得ないけど、人の口に戸は建てられない。 公爵との友誼の結果…
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