絡み合った世界の結末 前編
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王国には三人の王子がいる。
第一王子は武術は得意でも、謀は苦手である。
第二王子は武術は苦手だが謀は得意である。
第三王子は二人の王子ほど目立たないが交渉が得意で、他国からの評価が高い。
国王は王太子を指名せず犬猿の仲の公爵家出身の妃を母に持つ第一王子と第二王子が王位争いを繰り広げている。
三人の王子の中で婚約者を持つのは第一王子だけである。
第一王子の婚約者であるカローナは漆黒の髪と赤い瞳の異国の色を持つマグナ公爵令嬢である。
祖父は巨大な隣国の皇帝であり、カローナは異国出身の母の容姿を受け継いだ。
3歳で婚約が決まり、連日王宮に通い第一王子の生母第一妃による厳しい教育を受け育ったもうすぐ18歳になるカローナは妃教育もおえて、第一王子の婚約者として公務に追われる国で一番多忙な令嬢である。
いつも笑みを絶やさず、第一王子の一歩後ろを歩く黒髪で赤い瞳の美女のカローナは貴族や民と身分に関係なく有名だった。優秀なカローナの仕事の成果が第一王子の実績になると思い込む第一妃を筆頭に大量な執務を任されたカローナは王位争いに手を回す余裕はない。カローナは任された仕事を完璧にこなし、高慢で視野の狭い第一王子の評判が落ちないように手を回すのが精一杯である。
そんなカローナには4つの日課がある。
一つは第一妃による理不尽な叱責を殊勝な顔で聞き流すこと。
一つは婚約者の第一王子の世話をすること
一つは第一王子の取り巻きのご令嬢達の第一王子にいかに好かれているかの自慢話に付き合うこと。
最後は最愛の妹を抱きしめることである。
第一王子の名代として引き受けた外交から帰国するとカローナは第一妃の執務室に呼び出された。
道中にカローナが留守中の第一王子との思い出を令嬢達に披露されたが、王族をの命令が優先のため笑みを浮かべて受け流し立ち去る。令嬢に向けられる敵意の視線よりも待たせると機嫌を損ねかねない短気な第一妃のほうが厄介だった。
執務室の扉の前に立つと入室許可の声があり、カローナは椅子に座り扇を広げる第一妃の前に淑女の礼をする。
「妃殿下、ただいま帰りました。」
「カローナ、フィリップのためなら、どんなことでもできるわね?」
第一妃はパチンと閉じた扇をカローナの顎にあて、ゆっくりと顔を持ち上げた。
カローナは抵抗せずに、ゆっくりと目を開き微笑む。
「私の命は王家のためにあります。」
「何があっても、国王陛下の次に従うのは?」
「第一王子殿下の命令です」
第一妃は扇をサッと抜き取り、ゆっくりと広げ口元を隠す。
「そうよね。」
扇で隠しても切れ長の目を細め、血のように真っ赤な口唇が吊り上がり、国王を魅了した妖艶な微笑み、カローナにとっては厄介事を思いつく時の第一妃の顔が見えても眉一つ浮かべず穏やかな表情を浮かべる。
「フィリップに縁談の申し入れがあったの。条件は正妃で他の妃を持たない」
「かしこまりました。父に婚約破棄の申し入れを」
第一妃は息子を愛し、一心に尽くす自分好みに育てた大事なカローナが微笑む様子に扇で隠してさらに笑みを深める。
「カローナ、わかるわね?」
「申しわけありません。」
第一妃は察しの悪いカローナに気分を害し、扇をパチンと閉じてカローナの頬をパタパタと軽く叩く。
「マグナ公爵家は最大の後見よ。婚約破棄しても・・。ねぇ?」
カローナは珍しく静かな叱責よりも、不機嫌な第一妃の思惑にゾッとした。
第一妃に育てられたカローナにとって王族の命令は絶対である。そして国王と第一王子のために全てを捧げ、従順であり自身の意思を持ってはいけないことも教え込まれた。
どんな理不尽なものでも笑みを浮かべて、頷かなければいけない。そしてどんな結果をむかえても全てがカローナの責任で高評価だけは王家の物とも。
婚約者の第一王子のフィリップではなく、カローナに問題があり婚約破棄させ、その後もマグナ公爵家が後見を努めるよう手を回せという命令と認識した。
「かしこまりました。」
カローナは動揺は見せずに冷たい右手を胸にあて、左手でドレスの裾を持ち上げゆっくりと膝を折り頭を下げて礼をする。跪き、騎士が君主にする礼を取るカローナの態度に満足した第一妃は侍女に視線を送り、書類の束を渡させる。カローナは恭しい態度で受け取り、侍女が頷いたので、ゆっくりと立ち上がり、貴族の礼をして笑みを浮かべて立ち去る。
第一妃の侍女はカローナを見下し敬わない。第一妃が一番嫌うのは第二妃、次点はマグナ公爵夫人である。正妃でも王国よりも力のある隣国皇帝の愛娘であるマグナ公爵夫人への不敬は国王から禁止されている。マグナ公爵夫人は社交界でも丁重に扱われ、第一妃に恭順な態度を見せない。成長しマグナ公爵夫人によく似たカローナに絶対的に優位な立ち位置で振舞うのに第一妃の心を満たす。自分の侍女にさえ恭順の姿勢を貫くカローナをマグナ公爵夫人に置き換え想像するのは最近の第一妃の楽しみだった。特に第二妃とマグナ公爵夫人に苛立ちを覚えた日は。
第一妃の執務室では王族の第一妃が一番であり仕える侍女は第一妃の手足。王族の絶対的立ち位置を教え込まれるカローナは違和感を覚えても一切口にしない。第一王子の婚約者とマグナ公爵令嬢は立ち位置が違うと自分に言い聞かせるほどの反抗心さえもない。カローナはマグナ公爵家の第一妃のお気に入りは自分でありたかった。そのためなら手段を選ばない。
第一妃は高慢で常に自分の都合が一番である。幼い頃から第一妃から気まぐれの自称優しさという施しと理不尽な叱責を受け、無茶な教育や命令を与えられ続けたカローナは第一妃の無茶に慣れている。
突然呼び出され、期限の過ぎた執務の山を押し付けられるのは日常茶飯事である。王族の命令は絶対であり、カローナは執務が嫌いではなかったので何も感じず取り組んでいた。
王族の婚約者は誰かに頼り甘えや弱音を吐くことも許されないという第一妃の教えを3歳からずっと守っていた。
カローナにとっては執務室に泊まり、呼び出しがなければ一歩も出ずに数日過ごすのは珍しくない。自分の身の回りの世話も一人ででき、執務室には着替えも道具も常備している。
王族に与えられるものは光栄ですと微笑み受け取るしか許されないカローナは王族に持つ感情は無である。
昔は突然、見知らぬ国の外交に一人で送り出され戸惑うこともあった。
失敗やミスは許されないので多少の無理難題でも表面上は穏やかな顔をして必死に対応していたが今回は過去最大の難題である。
カローナは婚約破棄についての知識は持たないので書庫に向かい資料を探す。王家の歴史書を開いても、常識しか綴られていない。一方的に婚約破棄されるためには評判を落とすか犯罪を起こす、王族の婚約者に認められない何かをしなければならない。だが第一王子の婚約者であるカローナには使えない方法である。カローナの評判が落ちれば第一王子の評価も下がり、第二王子派に付け込まれる隙をつくるのは第一妃が決して許さないのをわかっていた。
「婚約破棄ってどうすれば・・・。」
失意に暮れるカローナは歴史書を片付け、貴族新聞を手に取り初めてページを捲る手を止める。
他国の公爵令嬢が力のある王国の王子に見初められ嫁いだ略奪の記事を二度ほど読み返す。王子の婚約者でも自国より力の強い国の王族に見初められれば差し出すしかない。婚約者同士に信頼関係があれば悲劇や揉め事が起きるが、第一王子はカローナを嫌っているので問題ないと思いながら、どこの国の王子に取り引きを持ちかけようか悩みはじめた。
ふと肌寒さを感じ、顔を上げたカローナは窓の外の暗さに気付き、慌てて第一妃から預かった書類に目を通しペンを走らせる。今日中に仕上げなければいけない書類ばかりであり、全てを終えて顔を上げると窓の外は真っ暗だった。
「遅れて申しわけありません」
「カローナ様、わざわざ届けていただきありがとうございます。そういえば殿下が、」
第一妃に任された執務を提出に訪問したカローナに大臣は笑顔で書類を受け取る。第一妃に不満はあっても、お使いを頼まれたカローナに苦言は言わない。久しぶりに王宮に顔を出したカローナに第一王子の話題をすると見惚れるような綺麗な笑みを浮かべる美女は大臣の目の保養である。
カローナは書類を提出し、第一王子の話題に帰国の挨拶をしていないことを思い出し、話を切り上げ、礼をして大臣と別れる。
婚約者という名のお世話係のカローナは第一王子の私室に自由に出入りを許されているので、先触れをせずに訪問すると騎士が扉を開ける。カローナは騎士に感謝を込めて微笑みかけ、第一王子の私室に足を踏み入れる。
書類を読んでいる第一王子にお茶を淹れて、カップを王子の左手の前に置き、未処理の書類を手に取り椅子に座ってカローナはペンを進める。集中している第一王子には声を掛けないのはカローナの常識である。第一王子に疎まれていると思い込んでいるカローナは用がなければ決して話しかけない。品位を損なわない限り第一王子の行動には口を挟まない。いつも第一王子を囲んでいる年上の豊満な体を持つ令嬢達が一人も部屋にいないことも気にしない。
第一王子は馴染みの香りに書類から顔をあげた。
「カローナか」
カローナは第一王子の声に立ち上がり礼をする。
「帰国の挨拶に参りました」
「頭をあげよ。もう戻ったか」
第一王子は予定より早く帰国したカローナに頬が緩むのを隠し、自分好みに婚約者が淹れたお茶に口をつける。
「はい。予定が早まりました。私は失礼いたします」
カローナは笑みを浮かべて、物足りなさそうに自身を見る第一王子に礼をして退室し、書類を抱え執務室に戻り書類にペンを走らせる。
第一王子が自分の予定の早まった帰国に消沈しても、いつも傍にいる豊満な体を持つ令嬢達がいずに物足りなく感じてもカローナは反応しない。第一王子がカローナの発育の悪い体に不満を持っているのは知っていた。幼い顔立ちは化粧で、低い身長はヒールの高い靴で、落ち着いた色のドレスで年上に見えるように装っても豊満な体だけは無理である。輝かしい金髪と黄金の瞳を持つ王子で一番美しいと言われている4歳年上の婚約者が年上の豊満な体の令嬢が好みと知っている。初めて会った時は絵本に出て来るような綺麗な王子様の婚約者になれたことに胸を躍らせた。素敵な王子様の話を妹を膝の上に乗せて話した頃の愚かな自分は気付かなかった。王子様の相手はカローナではない。たくさんの令嬢に視線を向け、優しい言葉をかけても、カローナに向けられるのは冷たい言葉だけで憧れは砕け散る。政略結婚であり自分の役割に気付いてから、カローナはいくらでも手を回すので、第一王子好みの令嬢を側室でも妾にでも迎え、お世話係を代わってほしいという許されない願いが今日も頭に浮かび首を横に振った。王子への不満を持つことは許さない。カローナはずっと何も感じない心が欲しくても、未だに手に入れられていない。
呼ばれなければ振り向かないカローナは自分の背中を見つめている婚約者の視線に気付かなかった。第一王子が予定より早いカローナの帰国に喜び、共に時間を過ごしたいと思っていた。すぐに立ち去ったカローナに不機嫌になったことにも。
カローナは2週間振りにマグナ公爵家に帰宅した。
最愛の姉の帰国の報せを聞いたカローナの妹のイナナが玄関で待っていた。
「お姉様、お帰りなさい」
「イナナ、殿下をありがとう。ただいま」
「お姉様、何か心配事が?」
イナナはいつもの優しい笑みではなく貴族の笑みを浮かべた姉に首を傾げる。姉の留守はイナナが頭の軽い第一王子がバカをしないように手を回しフォローしていた。
カローナは心配そうな顔をするイナナを優しく抱きしめる。許されなくても捨てられなかった唯一の願い。イナナだけは冷たい王家の箱庭に捕まらないようにと。
「いいえ。久しぶりに可愛い妹に会えて嬉しくて。」
王家の命令は絶対で、全てを王家に捧げないといけないカローナは家族、特に最愛の妹を大事にする心は捨てられなかった。どんなに辛くても理不尽な命を受けても、妹の笑顔を見て抱きしめれば前を向ける。
「もう遅いわね。待っててくれてありがとう。もう休まないと。」
カローナは微笑みながらイナナの真っ黒な髪を優しく撫で、そっと腕を解き自室に戻ると侍女のポプラが控えていた。ポプラは多忙なカローナを労わるように、服を脱がせお湯で濡らした布巾でカローナの華奢な体を優しく拭く。
「お嬢様、お食事は?」
カローナは食事を忘れたことに気付き、机の上に置いてある携帯食料の丸薬が大量に入った小瓶の蓋を開き、一粒取り出し飲み込んだ。
「お嬢様、軽食を用意します。」
日付が変わりかける時間に用意させるのは忍びなく、食欲もないカローナは杜撰な食事に顔を顰めるポプラに微笑む。
「ポプラ、明日の朝食は家で食べるわ。今日はもう休ませて」
「わかりました。明日の朝は必ずお召し上がりを。」
「ええ。明日は午後まで予定がないからイナナと過ごすわ」
「かしこまりました。今日はゆっくりお休みください」
ポプラの苦言も終わり夜着に袖を通し、一人になったカローナは幼い頃から大事にしている触り心地の良い白い鳥の人形を抱きしめる。
第一妃の命令の王子との婚約破棄は一歩間違えればマグナ公爵家に被害が出る。王家を一番に考えなけれないけないのはわかっている。第一王子の婚約者のカローナは個人で大事なものをもつことは許されない。カローナの全ては王家の物。そして心を向けるべきは王族で次点は民である。
ふとマグナ公爵家の後ろ盾もなく第一王子の婚約者である自分をもらってくれる奇怪な王族なんているだろうかと不安を覚えながら襲ってきた眠気に抗えずベッドに入り目を閉じる。
***
「お嬢様、起きてください」
カローナはポプラの声に目を開けゆっくり起き上がり、窓から覗く朝日を目に止めし、頬にかかる髪を耳にかけた。
「ポプラ、参内する用意を。後でイナナにお詫びのお菓子を用意して渡しておいて。駄目なお姉様だわ」
「お嬢様、さすがに」
「ポプラ、いけないわ。お会いできるのは有り難い事よ。」
ポプラは深夜に帰宅して早朝に呼び出されたのに笑みを浮かべる童顔の主が悲しかったが口に出せない。ポプラの手により少女から美女に変身したカローナは馬車に乗り、ポプラに絶対に口にするようにと渡されたサンドイッチを一切れだけ口に入れ、残りを御者に下げ渡す。
馬車を降り、昼間の賑やかさが嘘のような静けさの王宮を歩き、早朝に呼び出した人物の部屋の前で立ち止まり第一王子の護衛を任される騎士に礼をすると第一王子の私室の扉が騎士の手によって開かれる。
「来たか」
「おはようございます。殿下」
訓練着に着替えている第一王子の上着を手に取り、カローナは貴族の笑みを浮かべながら第一王子の支度を手伝う。カローナは自身を第一王子の婚約者という名のお世話係と認識している。第一王子は笑顔で支度を手伝うカローナに笑みを浮かべるがカローナの視界には映らない。
カローナは第一王子の服を整えおわると、椅子に腰掛けたのでお茶の用意を始める。第一王子はカローナの淹れたお茶を静かに口に含み、優しい笑みを浮かべ正面に座るカローナと朝の時間を共にするのを気に入っていた。華奢な体は抱きしめれば折れそうで、それでも自分の色に染めたい欲望と大事にしたい矛盾がいつも心にある。婚姻すればカローナと共に過ごせる朝を思い浮かべ、笑みを浮かべ他の令嬢以上に優しく触れれば壊れないだろうかと、カローナの頬に手を伸ばす。
「殿下、準備が整いました!!」
勢いよく扉が開き、第一王子の手はカローナに触れる前に止まる。第一王子の侍従が入室したので、カローナは鍛錬の準備が整い喜んでいるだろう第一王子にゆっくりと立ち上がる。第一王子は武術と鍛錬が好きであり、用意ができたならカローナのお役目は終わりと判断した。
「殿下、私はこれで失礼いたします。」
第一王子が口を開く前に微笑み礼をしてカローナは退室する。カローナが第一王子の支度を手伝うために早朝に呼ばれることはよくあることだった。また訓練の終わった後に呼び出させる気がしたので、カローナは自分の執務室に足を進める。第一王子と第一妃の気まぐれに付き合うのもカローナの王宮での日課である。
カローナの執務机には書類が重ねられていた。机の上に新たに置かれた書類に目を通し首を傾げる。視察の予定は一月前には組まれているため緊急時以外は当日に命じられることはほぼない。
今日の日付の視察について書類を読んでも緊急性を感じなかったが、また第一妃の思いつきかと思い直し、視察に向かう準備を整える。視察の場所が遠方なため午後参加する予定の第二妃主催のお茶会はイナナに代理を頼むように文を書き、王宮の警備をしている騎士に銀貨を渡して託し、夜勤の勤務明けに騎士により手紙がマグナ公爵家に届けられる手配は整えた。まだ早朝のため王宮に人が少なく、専属を与えられていないカローナには頼れる者はいない。王家の家臣は王家のものでありカローナは第一妃の慈悲で侍女を時々借りている。マグナ公爵家の付き人は王宮内でカローナが甘えを見せないために使ってはいけない、自分で使える駒を見つけ交渉するのも王子の婚約者に必要な資質と厳しく言われるカローナは対価を渡してお使いを頼んでいた。
第一妃が教える非常識な教育の内容を知るのはカローナと第一妃の侍女だけである。3歳の頃より王族の教えは絶対と教わるカローナは第一妃の教えを全て受け入れる。疑問も反論も許されない。カローナの王族の婚約者としての認識がおかしいことに気付いている者はほとんどいなかった。
荷物を持ち馬車の待機場にカローナは向かった。
「マグナ様、こちらにご用意が」
「ありがとうございます。」
御者に声を掛けられ、カローナは案内されるまま馬車に乗り込む。
辺縁の孤児院の視察に不思議に思いながらも、第一妃の思い付きに悩んでも無駄なことを思い出した。馬車が進んだので、新たに追加された書類に目を通す。カローナにとって馬車は第二の執務室である。第一王子と第一妃の執務の多くを代行するカローナには暇な移動時間はなかった。
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イナナは姉からの手紙を受け取り扇子で顔を隠して王宮を睨んだ。カローナにとって半年振りの休みだったので、午前中はイナナとお茶をする約束だった。
朝食の席にカローナの姿はなく、早朝に呼び出す迷惑な第一王子の顔を浮かべてイナナはトマトにフォークを勢いよく突き刺す。礼儀を咎める母の視線は気づかないフリをして行儀よく口に運ぶ。
イナナはカローナの代理で出席した第二妃主催のお茶会でカローナの不在を謝罪すると第二妃は笑みを浮かべて了承した。カローナの多忙は有名だった。イナナはカローナがいないため令嬢達の嫌味に笑顔で反撃する。
「カローナ様にお会いできずに、残念ですわ。多忙ですこと。本当に」
「姉に伝えておきますわ。」
「ええ。またお会いできるのを楽しみにしてますわ。妃殿下のお茶会よりも大事なご用事がどんなものか是非お聞きしたいわ」
イナナは公爵令嬢の敵意のこもった言葉に笑みを浮かべる。目の前の公爵令嬢は第一王子のファンであり一年前に見つかった公爵の私生児。第一王子の婚約者のカローナに会うたびに嫌みを言うイナナにとっての無礼の塊である。カローナに第一王子との仲をアピールして、婚約者として相応しくないと無礼な言葉をカローナは笑顔で流すだけで相手にしない。イナナも取り巻きも止めるカローナがいない場所では徹底的にやり返す。第一王子のお気に入りの取り巻きの令嬢の一人でもイナナ達には関係ない。カローナよりも豊満な胸を持つ以外は優れたところは一切ない。それにイナナは胸の大きさに優越感を抱く下品な思考は持っていない。第一王子を見つけ、イナナに礼もせず勝手に話を切り上げ駆け寄る公爵令嬢も、第一王子の回りにいる頭の軽い令嬢も中心にいる第一王子も大嫌いだった。カローナに仕事を押し付けず、自分でしろという言葉は姉のために飲み込み、笑みを浮かべ礼をして立ち去った。
***
「マグナ様」
馬車が止まり、カローナは書類から顔を上げる。馬車の扉が開きカローナは書類を両手で抱え、ゆっくりと立ち上がり馬車から降りた。
「馬車を置いてきます。こちらの道を進んでください」
「かしこまりました。ありがとうございます。」
カローナは従者は先に孤児院にいるのかと思い頷いた。専属を持たないカローナは現地で待ち合わせはよくあることだった。
御者に示された道を進んでも木しか見えず人の気配はなく、孤児院の気配も全くない。
「騎士様、いらっしゃいますか?」
公務にはいつも護衛騎士がつけられていた。忍んでいることも多かったが声を掛ければいつも姿を見せる。何度呼んでも騎士の姿はなく、カローナは一人だとようやく気づいた。
道を引き返すと馬車はなく、蹄の後から引き返したことがわかった。
カローナは手元の書類の束を見ながら悩んだ。提出期限が迫っている書類が手元にある。この書類だけは王宮に届けないといけない。太陽の位置を見て、移動時間を計算すると国内にいることがわかった。窓の外の風景を眺めていなかったカローナは現在地がわからなかった。
カローナは人を探すために足を進める。手元の書類だけはなんとしても、急いで王宮に届けないといけなかった。
***
イナナは姉に頼まれたお茶会が終わり、カローナの執務室で帰りを待っていた。国内の視察なら夕方には帰ってくるだろう姉と共に帰るために。いつもは綺麗に片付けられている執務机の上の書類の束に目を止めた。
「カローナ様、第一妃殿下がお呼びです」
第一妃付きの侍女はイナナをカローナと間違えて声を掛ける。第一妃は王宮でカローナに専属の侍女をつけず、監視役として自身の侍女を貸し出していた。そして侍女達にカローナへの礼儀は説かない。イナナは礼もなく勝手に入室した無礼な侍女に顔を顰め扇子を広げ口元を隠す。
「カローナ様、お急ぎください」
「王宮侍女は礼儀もわきまえませんのね。マグナよりも高位の方?」
侍女は振り向いたイナナに息を飲み慌てて頭を下げる。カローナはいつも笑みを浮かべて頷くだけだった。侍女にとってカローナは礼儀をわきまえなくても問題ない相手だったがイナナは違う。
「申し訳ありません」
「ねえ、お姉様にいつもそんな?黙秘するなら私も考えがありますよ。」
クスリと笑い扇で扇ぐイナナに侍女は顔を真っ青にして震え出す。
「申し訳ありません」
「謝罪はいらないわ。さて、」
「お許しください!!どうか」
膝をつき床に頭をつけて謝る侍女を、イナナは冷たく見据えた。無礼な者に容赦はいらない。そしてイナナは姉への無礼は許さない。守秘義務の徹底される後宮の情報はイナナでも手に入らず、口角を上げる。
「貴方の働き次第かしら。お姉様達に泣きつくなら命はないわ。貴方も一族も私にとっては・・・。ねぇ?簡単なのよ」
侍女はイナナに怯え、聞かれるままに情報を口にする。恐怖で自身が何を言っているかわからず、答えるたびに部屋の温度が下がりさらに恐怖を誘う。
イナナがカローナの後宮での立場や冷遇を聞いていると、扉が開く。
入室許可なく新たに足を踏み入れた侍女にイナナはニコリと邪気のない笑みを浮かべる。イナナによる尋問は日が落ちても終わらなかった。
***
第一王子は書類から顔を上げた。
「カローナは?」
「第二妃殿下のお茶会に。」
「もう終わっておろう。姿を見せぬか?」
「第一妃殿下とご一緒でしょう」
「そうか」
落胆した第一王子が書類に目を落としたので、侍従は無言で自身の役割に戻る。
侍従は第二王子派であり他の令嬢を呼んでいないのにカローナを招く状況は避けたい。第一王子とカローナのすれ違いを楽しむ第二王子の邪魔をするのは第二王子派内では禁忌である。第二王子の楽しみの邪魔をしないのは第二王子の腹心の常識である。
人の不幸が好きな第二王子の楽しみは妃同士の喧嘩と第一王子とカローナのすれ違いと王位争い。第一王子に側近を通して嘘のカローナの大事にする方法を教えて、実行するたびにカローナの心が離れていくのを母と愉快に眺めている。そしてカローナの心が第一王子にないと知った時の兄の反応も、母に踊らされる第一妃の反応も楽しみである。もう一人の弟が用意している長年かけた喜劇の終幕までもう少しと笑みを浮かべる第二王子の邪魔をするものは王宮にはいなかった。
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イナナが尋問を終えた頃には外は真っ暗だった。イナナがマグナ公爵邸に帰ってもカローナは帰っていない。視察を終えて、王宮で捕まっているだろう姉を思い浮かべ、王家は滅べばいいとイナナは呪詛を呟く。そして王家が滅ぶなら姉が嫁ぐ前に是非と願うのも忘れない。
しばらくして帰宅したマグナ公爵にイナナは侍女から聞いたカローナの冷遇を話した。カローナは王家に嫁ぐため、使用人は王家が用意すると言われていた。まさか、専属の侍女さえ付けられていないとは思っていなかった。国外の公務時のみマグナ公爵家のカローナ専属侍女のポプラを付けていた。幼い娘が国外に長期滞在するなら気の置ける者をとマグナ公爵がカローナの国外公務が始まる時に交渉した。
マグナ公爵はカローナが帰宅したら話を聞き、後日国王と話し合う予定を立てた。その晩カローナは帰宅しなかったが、王宮に泊まるのは珍しくないので不在は心配されていなかった。
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猟師の男は倒れている美女を見つけた。
森にはそぐわない明らかに高級そうな服に訳ありだとわかっても見捨てる選択肢はない。森では助け合いが大事である。
「姉ちゃん、起きべ、起きべかや」
何度呼びかけても反応はないので男は書類を両手で大事に抱え倒れているカローナを担いで自身の小屋に足を進めた。
男は冷たい体のカローナを布団に寝かせて食事の支度を始めた。
「姉ちゃん、起きべや」
体を揺さぶられ、カローナは目を覚ました。目の前にいる無精ひげの男に目を丸くして辺りを見ると枕元に書類が置いてあり、慌てて起き上がり書類を手に取り、枚数を確認してほっと息をつく。
目の前にはずっと探していた人がいた。風をしのげる部屋まで自分を運んでもらったことに気付き姿勢を正して頭を下げた。
「助けていただきありがとうございます。無理を承知でお願いがあります。どうか力を貸して下さいませ。持ち合わせは少ないですが、後日必ずご満足いただけるものをご用意します」
カローナは頭を下げたままポケットから金貨を5枚取り出し男の前に置いた。カローナは抜けている婚約者がやらかした時のために常にポケットに高額の口止め料を入れている。
「姉ちゃん、頭を上げるべ」
「どうかお力添えを。ずっと人を探していました。私はどうしても書類を届けないといけません。この書類を王宮に。無理でしたら領主に。極秘のものではございません。どうか」
男はカローナの必死の懇願に乱暴に頭を掻く。
「お偉いさんに渡すべか?」
「はい。どうかお願いします」
「兵に頼むべか。飯にするべ。」
「そこまでお世話に」
「出されたもんは食うもんべよ」
カローナは顔を上げて、渡されたお椀を受け取りゆっくりと口をつける。温かい汁に冷えた体が温まり笑みを溢す。
「おいしい」
「子供はたくさん食べなじゃいけんべや。」
「こんな温かいものがあるんですね・・・。」
最近のカローナの食事は会食かパーティの立食ばかりで温かいものはお茶以外は口にしていなかった。一人の時は騎士に支給される携帯食料が主食である。マグナ公爵家で温かい食事を食べたのはカローナにとっては遠い記憶であり、最後に家族で食事をしたのはいつかも思い出せなかった。
朝は王子に呼び出され、帰りは夜遅く眠るためだけに帰っていた。家族とは家で顔を合わせるよりも公務で顔を合わせる時間のほうが長かった。
男は美女が顔に似合わない子供のような笑みを浮かべるのを複雑な顔で眺めていた。
カローナは夜の森は危険と諭され、一晩男の家に宿を借り、桶一杯のお湯を分けてもらい、ハンカチを浸し体を拭き化粧を落とす。そして書類という悩みの種が消えたので目を閉じて眠りについた。