01 -gardener-
古めかしい曲がり屋の佇まいで小高い丘にあり、緑の鮮やかな森を背負った旅館『相生館』。
初夏の葉擦れがさわさわと通る中、黒々と艶の出たその回廊を、いささかの早足で踏み進む者がいた。
その音を聞きつけるや、着物にたすきをかけ、玄関表の掃除をしていた少女――アイはとっさに土間に返し、やってきた黒いスーツの男を出迎える。
「ご退室でございますか?」
昨日宿泊していた唯一の客。初老の彼は、首からかけた絹地に白木の箱を大事そうに抱え、焦りを滲ませてこちらに歩み寄ってきた。
「ああ。それとすまないが、自動走行艇の予約内容を変更してくれないか。訳あって急遽帰国を早めなければならなくなったのでね」
「そうですか。承知いたしました」
アイは箒を引き戸に立てかけ、框を上がると彼の前に立った。
「では、ご予約番号をお申し付けください」
すると彼は、中空に指を這わせた。
「これだ」
目の前に展開された予約番号。字列を読み取り後、アイはまぶたを閉じてひと呼吸置くと、静かにシステムを起動させる。無数の電気信号のきらめきと共に、体内にひしめく部品が小刻みに振動し始め、緩やかに熱とデータが湧き出してきた。
「接続コード38.06.02-142.51.06」
空間を越えて星々をつなぐ、目には見えない電子の網にアクセスすると、脳内に瞬時に結果が照らし出された。
「個体番号**************様、ご予約内容を確認しました。では、ご希望をお申し付けください」
「使用時間を、本日午前10時から13時までに」
「当該機に係る変更の可否を照会……可能です。このまま登録なさいますか?」
「ああ、頼む」
「では承認申請に移行します。即時許可されました。管理コードJN-TH144618。本国のホストより、当該機の最寄り離発着ポートへの到着時間は、現在時刻より30分後の午前9時30分になる見込みとの伝達です。この情報は端末にも転送完了しました」
「ああよかった、ありがとう」
彼の顔にほっとした表情が浮かぶ。通信回線の切断後、アイは彼を常居の囲炉裏端へと案内した。
「急な話ですまなかった。本国と違ってこちらは色々不便だと聞いて覚悟していたのに……自分で何とかできるかと思ったんだが、どうにも接続できなくて冷や汗をかいたよ」
勧めた座布団に腰を下ろした彼に、一服の茶を淹れながらアイは苦笑した。
「申し訳ありません。お客様にご不便をおかけするということは重々承知しているのですが、建物も古く、環境要因もあるため、安定した通信が担保できないのです」
「そうか……なるほど、そうだろうな」
独り言のようにつぶやき、彼は燻された太い梁を見上げた。
「ところで、ご予定が早まったとのことですが」
先ほどの情報照会の際、ちらとかすめた地図情報にはあえて触れずに問う。彼は抱えていた箱を傍らに置き、それから盆で出された茶碗を手に一口啜った。
「父の、納骨にね」
「納骨?」
「それにしても、かの《大罪》以来、この星に住まうものはいないと教えられて育ったが」
両眼が捉えた身体査定情報から、回避と知的好奇心に由来する投げかけであると判断したアイは、返答の準備にとひそかに脳内データベースを呼び起こした。
かつて生命の息づくこの星のすべてを、一瞬にして飲み込んだ災禍。その後、四方を囲む汚染物質と著しい環境の変化に対し、人類はわずかな期間で目覚ましい技術発達を成し、夢とも謳われていた宇宙空間へ、生命の住処を速やかに移していた。
ゆえに、今この惑星に定住する人間は一人もいないと言われている。
「この場所は、あの日より以前から、特別保護対象区域だったのです」
「これほど広大な土地が?」
「はい。もう払い下げられて久しいですが……当時は国家プロジェクトの研究用地として、人が離れて久しかったこの里山を国がまるごと買い上げ、物理的に隔離したのだそうです。従事する何百という人が集められていたとも」
そうしてちらと外を見る。その視線の先――十数キロも先には分厚い壁がそびえ、それは天までをも完全に覆っている。
「お客様も、基幹空港から高速移動艇の駅を経由して宿にお入りになるまでの間に、クリーンルームを通られたと思いますが、それもその当時の名残だとのことです」
「ああ、何度となく身を清められたよ。いやはや、なんとも豪気な時代だったものだな。しかし、一度はそこまでの熱を注いでおきながら、星が価値を失った途端に、いとも簡単に放棄するとは」
「その判断は、災禍後の人類にとり必定だったのではないのですか?」
途端目を見開いた彼の反応に、アイは首を傾げた。
「なにか?」
「いや。事実だろうが……少し刺さるな」
行って傍らの白い箱を見つめる。
「価値がないと言いながら、どうして、君も、そして私も今ここにこうして居るのだろうね」
「え」
「今やこの星に降りる機会は、一生に一度もあるとは限らない。私はこの星の外で生まれ育ったからね、政府の高官だった父が『死した私の骨を星に埋めてほしい』と遺言を残したと知った時、自ら棄て、価値なしと断じ省みずにおきながら、なぜ今更そんなことをと正直思ったよ」
どこか戸惑いをにじませた彼は、アイの視線に気がつくとふと表情を柔らかに崩した。
「だがここに来て、少し考えが変わった気がするよ」
「え」
「妙な既視感だ。ここの風景が、とても懐かしくて愛おしいものに思えてね。見たことも触れたこともないのに、まったく非科学的な話だ」
笑ってくれ、と彼は言い、自らも声を立てて笑う。そうしてひとしきり気が収まると、一番太い柱の前に置かれた古い柱時計に目をやっておもむろに立ち上がった。
「無駄話が過ぎたか。そろそろ時間だな」
「あ、はい。では、精算を」
白木の箱を抱き上げて歩き出した背を追い、玄関まで出る間に手続きを済ます。
「離着陸ポートでは、防護服を着用してください。これは本国政府からの指示であり安全義務です」
「ああ、分かっているよ。遺書の実行のため星に下りることを申請した時、口うるさく注意されたからね」
革靴を履いて一歩外に出、一息つくと彼は続けた。
「すまないが、部屋の荷物を本国あてに送っておいてくれないか。事を済ませたら、私はそのまま帰国する」
「かしこまりました。手配いたします」
ありがとう、と彼は歩きだす。が、数歩先で再び立ち止まり振り返った。
「君たちは『命の代わりの命』なのだね」
アイも立ち止まる。
「もてなしをありがとう。またいつかここに……いや、きっと今生のうちにはあるまいな」
その言葉にアイは静かに返した。
「どうぞお気をつけていってらっしゃいませ」
それを聞くや、彼は苦笑を寄越し、そうして黒いスーツ姿は生垣の向こうに消えていった。
「いってらっしゃいませ」
客たる者への最後の言葉。接客の文句とプログラムされたそれだったが、自分を作った人は、その言葉は約束なのだとわざわざの補足をつけている。
再びここで見える、その望みを乗せたひとはしなのだと。
いつか叶える、その日まで。
だから。
「さ、お掃除しなくちゃ」
人の気配のなくなった里山で、アイは自らに記録された次のタスクへと移行した。