第五話 いきなり襲撃を受ける不具合について
最初に目に入ったのは、古びた天井だった。
木造で、全体的に薄汚れている。天井の隅にはホコリを纏った蜘蛛の糸が張り巡らされていた。
首を動かして周囲を眺めてみる。どうやら、ここは小さな部屋の片隅に据えられたベッドのようだ。反対側の壁は一面を埋め尽くす巨大な本棚が嵌め込まれ、厖大な書物が所狭しと詰め込まれていた。
僕の足側が向いている壁には小さな窓が取り付けられていて、外は暗い。いつの間に夜に……? 窓辺には、かわいらしい赤い花が活けてあった。
そして、僕の頭側の壁にある扉に目を向けた時――不意に、扉が開いた。
「まあ、お目覚めになられたのですね?」
小川の流れのような研ぎ澄まされた声。声の主は少女だった。
流暢な日本語――ではない。よく聞いてみると、少女の言葉は聞いた事のない言語だった。
だが、異国語を聴いているハズなのに不思議とその内容がスルスル頭に入ってくる。まるで脳内に自動翻訳をインストールしてる感じだ……異世界も近年のグローバル化に対応しているって事か?
「大丈夫です、脚の負傷は治癒している最中ですから。
もうすぐ動けるようになりますよ」
少女は修道女のような紺色のベールを纏い、やっぱり修道服みたいな服に身を包んでいる。動くたび、首から提げた銀色のアクセサリーがちゃりちゃりと音を立てた。サイコロのような形のアクセサリーだ。
少女はそのままベッド脇の椅子に腰掛け、足側のふとんをめくった。いつの間にか、僕の身体は清潔な病衣に収まっている。
僕の右脚はは太ももから綺麗な包帯で巻かれていた。少女は僕の右脚に手を当てると、顔を寄せて何かを小声で呟く。
『∩∪∩∪⊂⊃⊚⊚⊘』
少女の呟きに応えるように右脚が淡く光を帯びる。
これは……いわゆる魔術、ってやつ、なのだろうか。どこまでもよくあるファンタジー世界って感じだ。しかし、それにしては独特な呪文に思えるけど……。
「……ふぅ、これでよし、と。
まだ少し痛むかもしれませんが、じき問題なく快復するでしょう」
「……すみません、ありがとうございます。
でもどうして僕を……」
「どうして、ですかって……? 倒れている人を助けるのは当然です、聖職者ですから。
ふふっ……神のご加護が、私を貴方のもとにお導きになったのでしょう」
少女はそう告げてにっこりと微笑む。
聖職者。
確かに、少女の服装は聖女のそれだった。それならここは、教会か何かだろうか。
「それにしても貴方、あんな処で武器も持たずに何をしていらっしゃったんですか?
あそこはトロルの棲息地の真ん中で、とっても危険な場所。その事はご存じのハズですけど……」
「とろる……」
ああ、そうだった……僕は異世界に飛ばされて、それで緑色の怪物を倒したんだった。
そう言えば、脳内のメッセージも「グレートトロルを倒した」と言っていた気がする。あいつがトロルというやつなのだろう……リアルにあの恐怖を味わうと、とても脳筋の雑魚モンスターなんて笑い飛ばせない。
しかも「グレート」なんて付く以上、トロルの中でも相当ヤバいやつだったんじゃないか。
そんなヤツといきなり遭遇するなんて、なんともツキが無い……。
「えーと……。
まだここに来て日が浅くて、あんまりこの辺の事が分かってなかったっていうか」
「なるほど……ふむふむ、旅の御方でしたか。
どちらからいらっしゃったのですか?」
「どちらから……えーっと、そうですね……」
非常にまずい。
まさか、別の世界から来た――なんて言うわけにはいかない。かと言って、この世界の新参者である僕には適当な地名を上げる事さえ困難だ。
今はこの娘も優しいが、こちらが名前も出身も語れない不審者と分かった場合……どんな処置を取られるか、わかったものではない。
僕は最終手段を使う事にした。
「えーっと……、あれ? おかしいな……
なんか、思い出せない……?
おかしいなーおかしいな……、頭を打ったのかな……」
「頭を打った」。僕の記憶する限り、異世界・異時代の転生作品においてシェア率6割を超える王道の言い訳だ。
そう、頭を打ったから仕方がないのだ。すこし演技力に欠けていたかもしれないが、相手は聖職者。そんなの嘘だろと突っかかる事もあるまい……。
だが。
「………………」
少女は黙っている。にこやかな笑みを崩す事こそないが、何か考えている様子だ。
しくじったか? 考えてみれば、もし僕ならこんな怪しげな男はすぐにでもベッドに縛り付け、素性が明らかになるまで確保するだろう。
僕は急ぎ頭をフル回転させ、次の言い訳を捻り出そうと努力を始めた。「ド忘れ」、「80分で記憶を失くしてしまう難病」、「外国人ナノデ言葉ワカーリマセン戦法」……。
少女が口を開く。
「……そうですよね。きっとトロルに襲われて、頭を殴られたに違いありません。彼らは小さな個体でも非常に強力ですから……! なんと痛ましい……。
そうだ、それなら記憶が回復するまではここに泊まるのがよいんじゃないでしょうか?そうです、そう思います。
頭を打ったのなら、一時的な健忘にすぎないハズです。残念ながら忘却を治癒する事は出来ませんが、きっとすぐに治ります」
女神か?
僕は呆気にとられた。果たしてこの娘は女神なのだろうか。いや、そうでないはずはない……。
……いや、待て待て過信は禁物だ。今はヘタな事を言わず、泳がせておこうという目算である可能性も十分にある。
ヤバそうな客の対応における鉄則は、とにかく相手の言葉を否定しない事だとバイト先のバイトリーダーも語っていた。
いずれにせよ、事情がどうであろうが僕に出来る事はない。今はそうだな……とにもかくにも、この世界についての情報収集が最優先だろう。
「ありがとうございます!
すみませんが、ここが何処かお尋ねしてもよいですか? それもあんまり憶えてなくって……」
「ここですか……? ここは教会です! この村では、救護所も兼ねているのですよ。
ですから、安心してお休みくださって結構です」
「やっぱり……。
それじゃ、この村は何と言う村なんですか」
「村?
……貴方、この村の名前すら、記憶していないんですか?」
少女は目を見開く。
「……え、ええとそうです、すみません。
どうして、どうやってここに来たのかも全然覚えてないんです」
「…………」
頼む、信じてくれ。この澄んだ瞳が見えるだろう?
僕は目を見開き返して少女を見つめた。
「……かわいそうに……、よほど酷い衝撃を頭に浴びたのでしょう。ああ、何と過酷な試練なんでしょう……。
しかしご安心ください……! 神は、乗り越えられる試練しかお与えにならないんです」
どこかで聞いたようなフレーズだ。
少女は言葉を切り、すっと椅子を立った。
「この村は、チュアッカ村。『帝国』の領邦の1つ、タパナ国の北東に位置してる村です。
ええとええと、確かこの辺りに世界図が……」
そう言って、少女は本棚の中から古びた本を取り出す。ページを開くと、そこには巨大な島の地図が載せられていた。
そしてその右上の隅のほうに、「タパナ」と記された一画がある。そのさらに北の縁に、「チュアッカ」と書かれた集落がぽつんと存在していた。さらにページの上の方には、他の島の南端がわずかに見切れている。
……なるほど、田舎だ。どうやらこのゲーム世界は、想像していた以上に大規模なものらしい。
「どうでしょう……? どこからいらっしゃったか、思い出せませんか」
「…………あー、そうだそうだ。確かこの辺りだった、ような気が……」
さすがにあれも忘れた、これも忘れたでは怪しさにも限度がある……僕は適当に地図の中央辺りを指差した。道が集まり、いちばん発展していそうな箇所だ。
ゲームなら、中盤で訪れる事になる場所だろう。無難だ……、とても無難だ。
だが。
「えっ……、て、帝都からですか?」
少女はまたしても驚きの表情を見せる。
……あれ。もしかしてこれ、やっちゃったヤツ?
「どうして、帝都の人間がタパナ国に来られたのですか……?
そんな事って……」
「え? いや、普通に旅で……。
えーっと、帝都が何か……?」
「……なんてこと。貴方、これも覚えていらっしゃらないのですか……?
だって今、帝都は……」
その時だった。
突如、鼓膜を破るような轟音が部屋を揺らす。
「きゃ、きゃああぁっ……!」
少女はバランスを崩し、あろう事か僕の右脚の上に倒れ込んだ。死にかけのカエルのような叫びが僕の喉から飛び出る。
次から次へと、今度はいったい何なんだ……?
僕が少女の重みから懸命に右脚をどかそうとしたその時、けたたましい勢いで部屋の扉が開け放たれた。
部屋に入ってきたのは、神父のような祭服を纏った初老の男だ。
「おお聖女よ、ここにいたか。
それと……君は先程の行き倒れか」
ふとんにめり込んでいた少女がとっさに姿勢を正す。
「きゅ……救導師さま。
いったいこれは、どうしたのですか……?」
「救導女よ。直ちに避難の準備、ならびに救護の準備をせよ……。
……魔族軍が、村に迫りつつある」
再びの揺れ。それと共に響き渡る、何かの野太い雄叫び。
僕は、右脚をさすりながら呆然と考えていた――
勘弁してくれ。